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(2018年8月1日)

      「続・メガネの話」

 前回のつぶやき欄で、「私はメガネをやめた」と報告した。その3ヵ月後のこと、外来で、「メガネがないと貫録がないですね」と、ぽつりと言う患者さんがいた。私の耳は、その声を聞き逃さなかった。
 その翌日から、私はまたメガネをかけはじめた。

 このメガネは、昨年11月末の関西ゆいまーる勉強会の帰り道、プチ忘年会のほろ酔い気分で買ったものだ。純粋の伊達メガネで、かつて愛用していた100円ショップの老眼鏡とは違う。
 「いいメガネですね」と言ってくれる人がひとりいたが、他の人は知らぬ顔だ。

 さて、私はこの2ヵ月の間に、2種類の特殊な電子メガネを試す機会に恵まれた。
 ひとつは、「オトングラス」だ。
 これは、目の前にある文章を読み上げてくれる。それが日本語だけでなく、英語でもフランス語でも読んでくれる。また、日本語にでも英語にでも翻訳してくれる。
 ゆいまーる神戸総会、アイセンター見学の時である。その時の様子は、NHKラジオ第2「視覚障害ナビ」で紹介された。

 もうひとつは、「暗所視支援メガネ」だ。
 メガネに付けた小型ハイビジョンカメラの映像がメガネのレンズに映し出される。暗いところでも明るく見えるというのだ。
 残念ながら、私のような全盲者には使うすべがない。しかし、その仕組みには興味があった。

 7月初め、三重県松阪市での講演会の時のことである。
 松阪からの帰途、私はこのメガネの開発者Uさんと近鉄特急で同席することになった。自分には使えない装置であるが、その仕組みについていろいろ立ち入った質問をした。Uさんは、丁寧に説明してくれた。

 私は小学生のころから、暗いところは見えなかった。明るいところで前を歩いていても、夕方になると、後から必死になってついていくのだ。その頃、これがあったらなあ。
 このメガネが、暗いところが見えにくい人たちの仕事や遊びの幅を広げる貴重な手段となってほしい。


(2017年12月20日)

      「メガネの話」

 2017年12月の初め、私はやっとメガネから解放された。68歳であった。
 私は中学1年生の時、近視のメガネをかけ始めた。視力低下は小学高学年の頃から始まってはいたが、メガネなしに何とか乗り切っていた。

 若い頃の近視は進行が早い。毎年のようにメガネの新調が必要だ。当時のレンズは今のようなプラスチックではなく、ガラスであった。近視が進むにつれてレンズの厚みは増し、メガネはどんどん重たくなっていった。いわゆる瓶の底のようなメガネになるには、何年もかからなかった。

 私には近視の他にもう一つ眼の障害があった。小学生の頃、夕方になると急に見えにくくなることに気がついた。暗いところは、他の人には見えていても私には見えないという現象である。いわゆる夜盲であった。
 中学生の頃になると、動くものが見えにくい、落としたものが見つけられないという現象が目立ってきた。見える範囲が極端に狭くなってきたのだ。視野の狭窄である。

 高校生になると、それらに加えて、メガネを新しく作っても視力が出ないということがわかってきた。当時、高校生になると軽自動車の免許が取れたので、16歳になるのを待って免許を取りに行く。その時、視力検査を受けるのだが、必要な視力が出ない。学校では、メガネをかけても黒板の字が読みにくいのだ。視力の低下である。

 大学に入学した年の初夏、19歳の時にそれらの眼の症状は、進行する眼の病気の結果であることを知った。その後いろいろあって、仕事や生活は次々と変わってきたが、乱視混じりの近視のメガネはずっとかけ続けていた。
 重たいガラスのレンズはプラスチックに変わり、時にはふちなしのしゃれたメガネに変えたこともあるが、どちらにしても重たくて、そのため、汗をかくとすぐにずり落ちてくるという結果は同じであった。メガネだけのせいではなくて、私の鼻の低さも関係していることはわかっている。

 60歳の時、重たいけれどもなじんでいるメガネと決別する時がきた。役に立たなくなったメガネなら、薄くて軽いメガネに変えようと思いついた。軽くて安価なメガネなら100円ショップのメガネがいい。私は早速購入し、それをかけ始めた。私たちはよくぶつかる。特に顔や頭をぶつけることが多い。メガネはすぐに曲がってしまう。
 しかし、顔や眼を守ってくれる。私はこの100円メガネを「ゴーグル」と呼んで愛用した。安いので、これはいいと思うものを次々とかけ替えてきた。

 今では私の眼は明るさも見えない本物の全盲になっている。それでも100円メガネはかけ続けていた。
 ある時、メガネをかけ忘れていたが、私は気づかない。家内も気づかない。一日一緒にいてくれる医療秘書も気づかない、という状況が生じた。
 家内は「顔なんか誰も見ていない」と言うし、医療秘書もこちらがそのことを話した時に初めて気づき「そういえばメガネがないですね」と全く関心がない。

 私は、その日をもって100円メガネをかけることをやめた。その後、まだ顔や眼をぶつけたり傷つけたりはしていない。
 「ゴーグル」は必要だったのか。私のこころの「バリア」ではなかったか。


(2017年7月4日)

      「同窓会の話」

 先日、工学部の同級生からメールが届いた。
 「同窓会の連絡が来たか?」という内容だ。
 そんなもの、来ていません。
 そこには案内状のコピーも貼り付けられていた。

 読み終えた後しばらく、
 「もう 半世紀が経ったか」と感慨に浸った。
 私は、その大学1年生の時、自分の眼の病気のことを知った。
 そのためというと言い訳になるが、落第もした。
 だから入学した時の同級生と、卒業した時の同級生が違う。

 こういう場合の同窓会は複雑だ。
 どちらに行けばいいのだろうか。
 悩んでしまう。
 結局、どちらからも連絡が来ない、来ても、なかなか腰が重い。

 今回の幹事は、何を思ったか、
 「入学年度か卒業年度が同じ者、8月に集まれ」と、声をかけてくれたのだ。
 お陰で私も申し込みがしやすくなった。

 早速、申し込むことにした。
 2人目だったようだ。
 名前を聞いても、なにもイメージが浮かんでこない人もいる。
 予習しようにも方法がない。

 全く会っていなかった人たち、どんな生活を送っていたのだろうか。
 複雑な気持ちでその日を待っている。



(2016年12月28日)

      「温泉の話」

 今日、和歌山市のマリーナシティにある「黒潮温泉」に行ってきました。
 泉質は少し塩っぽいですが、肌がすべすべして何か得をした気分になれる温泉です。人も多くなくて、ゆっくり楽しめます。特に今日のように、気温が低く風のある日は露天風呂が最高です。打ち寄せる波の音が何とも心地よく響きます。

 私が近郊の温泉を楽しむようになったのは、つい 2、3カ月前からです。
 温泉に行く時は、原則私一人で行きます。バスに乗ったり、稀にタクシーを利用します。それで、浴室に入る時には必ず白杖を持って行きます。初めてのところは、あらかじめ電話でその旨を伝えておきます。少し渋ったような返事をするところもありますが、それで断られたことはありません。

 入浴前に、白杖もしっかり洗っておきます。もちろん湯の中には浸けず、湯殿のふちの邪魔にならないところに置いておき、湯殿を移動する時に使用します。

 白杖の使い方ですが、普段とは少し異なります。
 他の人の体に当たらないように、鉛筆持ちをしてそっと動かすようにします。
 私は正式な歩行訓練を受けたことがありません。その我流の使い方は、相当荒っぽいらしく、
 「杖を振り回して大きな音を立てて歩いているね」
と、やんわり注意されることさえあります。

 私としては、白杖が立てる音が反射して返ってくる音で、周囲の様子が解るので、今のところそれを改める気にはなれません。

 温泉を出て、いつものバス停で帰りのバスを待つのですが、いつまで待ってもやって来ません。
 予定の時刻を10分も過ぎたころ、人の足音がしました。その足音に向かって
 「すみません。バスの時刻表を見ていただけますか?」
と、声をかけました。

 その人は親切に時刻表を眺めているらしいのですが、なかなか返事がありません。
 やっと「今日は臨時停留所にバス停が変わっているらしいですよ」と。
 その後、いろいろあったのですが、家に帰りついたのは予定より1時間遅れて午後の6時半でした。
 無事に帰れただけでもありがたいと思うようにしました。



(2016年7月25日)

      「キーボードパソコンの話」

 2015年12月、あるメーリングリストで「キーボードパソコン」が発売されるとの投稿を見つけた。妙に気になって関連ホームページを見ると、キーボードの中にパソコン本体が組み込まれているという。ディスプレイ画面を外部接続すれば普通のパソコンのように使えるらしい。価格は2万円くらいだとのこと。

 「これこそ、私がほしかったパソコンだ」と思った。

 音声でパソコンを使う私にとって、ディスプレイ画面は「重たくて、電力を消費するだけのもの」なので、キーボードと本体だけが一体化した軽いものがほしかった。仕様を見ると、重さは300g以下である。何とか手に入れたいものだと思った。

 職場でその話をすると、ある人が「予約販売をしているネット通販がある」と教えてくれた。私は代金引換で購入を予約した。2月中旬、待ちに待ったそのパソコンが送られてきた。
 早速、スクリーンリーダー(パソコン画面を音声で読み上げてくれるソフト)をインストールすることにした。画面がないので、ファミコンのようにテレビをつなぐ。家族の目を借りながら、なんとか音声が出るところまで設定できた。後はテレビを外し、キーボードだけのパソコンに戻した。

 Windows10である。安価な製品なので、動きはゆっくりとしている。それでも、私たちが使う範囲ではそれなりに動いてくれる。何よりも軽くて持ち運びに便利だ。最近、このパソコンを使う機会が増えた。

 ところが職場で使おうとすると不便なことに気が付いた。私が職場でパソコンを使うときは、自分で打ち込んだ文章を医療秘書の方に校正してもらう。会議のときなども私が打ち込む文章や変換がおかしい時、画面を見ながらその場で訂正や加筆を行なってもらう。そのためには、どうしても見てもらうための画面が必要となってくる。

 結局、職場では今までのWindows7の10インチレッツノートを使っている。これは3年前買った中古品である。故障することもなく毎日鞄に入れて職場に持っていく。電源アダプターを含めて1.2kgくらいはあり、キーボードパソコンよりはるかに重たい。

 私自身にとって画面は一見必要のないものだが、仕事や作業は一人でするものではない。特に私たち視覚障害者にとって介助者は必須の存在である。一緒に仕事をしてもらうためには、私と介助者をつなぐインターフェイス(双方をつなぐもの)が必要となる。それがディスプレイ画面なのだ。

 キーボードパソコンは、私の趣味の範囲にとどめておくのがいいと思った。



(2015年12月26日)

      「ウクレレを始めました」

 2015年夏、ある日曜日、私はいつものようにバスに乗ってふれ愛センターに出かけました。窓口で、会場の部屋を尋ねると「その会は来週ですよ」と言われました。
 「あっ! また、やってしまった」
 1週間、間違えていたのです。
 ふれ愛センターは、和歌山市にある市民学習センターのようなところです。障害者は無料で利用できるため、いろいろな研修会に利用されます。

 50年前、この建物と同じ場所に和歌山東警察署がありました。私は16歳で軽自動車の免許を取ったのですが、ここで申込みや視力検査がありました。暗い建物で、窓際に視力検査表が掛けてあったのですが、なかなか必要な視力が出ません。今から思えば、自分の視力障害を思い知らされた一瞬です。

 私は眼科に相談に行ったのですが、はっきりと病名を告げられることなく、メガネの調整でなんとか視力だけはパスすることができ、免許も取れました。しかし、その後、実質的に運転することはほとんどありませんでした。

 さて、研修会が来週だと知った私は、このまま自宅に戻るのも悔しいのでどうしようかなあと思案した揚句、「ウクレレを買いに行ってみよう」と思いつきました。
 実は半年ほど前、学生時代に買ったギターを落として壊してしまっていました。この年ですから、今度は何か手軽なものをやってみたいと思っていたところでした。
 バスと電車を乗り継ぎ、いろんな人に助けられながら、あるショッピングモールの楽器売り場にたどり着き、手ごろなウクレレを手に入れることができました。

 今、ポロンポロンとやっているのは「北帰行」です。とにかく昔の記憶をたどりながら適当なコードをつけて歌っています。そのほか、2、3曲やっています。なぜか3拍子の曲が多いようです。
 ありがたいことに、ウクレレは小さい音で弾けます。家内から苦情も出ることなく地味にポロンポロンとやれるのが一番です。
 同じ曲を毎日弾くのですが、飽きがこないのが不思議なことです。



(2015年7月3日)

      「タイムカード」

 65歳で定年退職した後、この4月から新しい職場で働き始めました。
 出勤すると、まずタイムカードを押します。私は早速、自分でカードが押せるようにと、カードの片隅を切り落としてもらいました。
 これなら、他人のカードと間違えずに押せそうです。

 これに気を良くした私は、次に病院内の配置を覚えるために、線が盛り上がるペンを使って、各階の配置図を作ってもらいました。これで病院の全体像が、なんとなくわかってきました。
 一番の難題は、患者さんや職員の名前を覚えることです。何度名前を聞いてもすぐに忘れて、なんだか初めて聞く名前のように思えることがあるのです。
 これをどう克服するか、大問題です。

 私は若いころから、固有名詞を覚えることが大の苦手で、学生時代は地理や歴史には悩まされました。ところが、何がどうしたとかは、覚えなくてもいいものまで覚えているのです。この傾向が、年をとってさらに加速されているのです。
 これは、認知症によくみられる症状です。

 そんなことを考えている時、42年前のことを思い出しました。大学を出て、はじめて就職した電機会社のタイムカードのことです。その会社では、入り口の門を入るとタイムカード専用の小屋のような建物がありました。毎日、出社と退社の時にそこを通るのですが、私には関所のように感じられ、なんとなく重たい気分になりました。
 当時、視覚障害で何かと悩むことが多かったからかもしれません。

 私は今、同じように毎朝毎夕、タイムカードを押すのですが、とてもリラックスした気分で押すことができます。当時、一番悩んでいた「目が見えなくなった」にもかかわらずです。
 こんな日々が、1日でも長く続いてほしいものです。



(2014年12月29日)

      「高校演劇をライブ音声解説付で観る」

 平成26年11月のある日曜日、私は大阪へ出かけ、京阪古川橋駅を下車、ひとりで門真市民文化会館に向かって歩き始めた。点字ブロックが切れたところで迷っていると、そばを歩いていた高校生が会場までサポートしてくれた。

 そこでは大阪府高校演劇研究大会が開催されていた。予選を勝ち上がった10数校が2日間にわたり上演する。そのすべてに、高校生による音声解説が付く。私は2日目の午前中の3つの劇を鑑賞させてもらった。会場では、5年前から音声解説の御世話をしてくれているというKさん夫婦のほか視覚障害者数名が来られていた。

 1つ目は、K高校「クロムウェルの涙」。
 学校内カーストをテーマに、ディベイト、学内裁判など、むずかしい話が進んでいく。
 音声解説は、役者の舞台への出入りを説明するくらいでシンプル、作品はセリフ中心であるのでそれくらいがいいと思った。

 2つ目は、S高校「約束」。
 戦争末期を舞台にした映画の出演者が、2014年の現代から69年前の当時にタイムスリップ、今は老女となった原作者の当時の出来事と重ね合わせられる。
 音声解説は演者の動き、照明の変化、舞台道具など、十分に説明されていると感じた。

 3つ目は、Y工科高校「風に吹かれて」。
 出演者が男子生徒ばかりの迫力ある舞台。笑いあり、涙あり、ギターの背景音楽と、はじめとおわりの、オリジナル「風に吹かれて」のコーラスもすばらしい。1か所だけ、ボブ・ディランの「風に吹かれて」が挿入されていた。
 音声解説は、出演者たちの動きを伝える、目線の動きを伝える、照明の微妙な色合いや変化を伝える、その場の雰囲気まで伝える。
 舞台を見つめる解説者のこころの光景が、言葉に変わって私たちの耳に届けられてくる。

 帰りは、2つ目の演劇の音声解説をしてくれていたという高校生のHさんが駅まで送ってくれた。彼女によれば、劇そのものは本番まで見ていないのだという。おそらく事前に台本を十分読みこなしての音声解説であったのだろう。

 この日は本当に貴重な体験をさせていただいた。


(2014年1月)

      「盲人囲碁を始めました」

 囲碁って知っていますか?縦横19本の線が、文字通り「碁盤の目のように」刻まれた盤上の交点に白と黒の石を並べていきます。これを「19路盤」といい、標準のタイプです。ところが私たち視覚障害者は、「9路盤」というオセロゲームのような小さな盤上でこのゲームを楽しんでいます。

 月に一度、和歌山市のふれあいセンターで「盲人囲碁の会」が開かれます。世話人のT先生が指導してくれます。4、5人の視覚障害をもつ愛好者が集まります。
 平成25年の11月、大阪市で日本視覚障害囲碁普及会主催の囲碁大会が開かれました。私は初めての参加です。100人くらいが来られていました。私は5級という初心者クラスで参加しました。和歌山からは今年は私一人の参加ということで寂しかったですが、2勝2敗の結果でした。

 私は20歳代のころ囲碁が好きでよく打っていました。それほど強くはありませんでした。強くなれない理由を自分なりに「眼が悪いから」とばかり思っていました。しかし、盲人囲碁を始めて、視力より「センスの問題」ということがわかりました。
 これから先も、強くはなれそうにはありません。せめて楽しんで打っていきたいと思います。


(2013年6月)

      「点字を始めました」

 今年の6月のある日、ふと3年前に買った点字板のことを思い出しました。大阪の日本ライトハウス情報文化センターで、点字板と点字用紙、点字の打てるテープなどを買っていたのです。
 その時は、切符やジュースの自動販売機の点字を読めるようになりたいなあとか、持ち物に点字のテープを貼っておくと便利だなあとか思っていました。が、そのままになっていました。 それを思い出したのです。

 私は28歳の時、自分の視力がいずれはなくなるだろうと思って、盲学校で鍼灸あん摩を習い始めました。その時は、視力は残っていましたので、いわゆる墨字で勉強しました。私たちのクラスは、全盲で点字使用者が2人、弱視で墨字の使用者が2人という4人の構成でした。

 あれから35年、私も全盲になりました。今は音声パソコンがあるので、日常的な情報交換はこれで十分なのかもしれません。でも、ふと思いついて点字を始めてみると、これがなかなか楽しいものなのです。
 朝夕の通勤電車の中でたどたどしく点字を読んでいると、スムーズに読めた時など、なんとも言えない満足感に浸ったりしています。いつになれば実用の域に達するのでしょうか?

 点字の超初心者、生駒からの報告でした。


(2013年1月)

 私たちの病院では、20年ほど前から「ふれあい新聞」と称して、年に数回新聞を発行しています。私はこれまで何回か投稿しているのですが、一番評判が良かったのは「ムカデが5匹」という文章でした。それは、病院の宿舎で暮らしていた頃、春になると桜公園のそばにある宿舎にはムカデが日常茶飯事のように現れるのです。それを退治するのが私の家内の仕事でした。そのことを書いたらなぜか皆さんがとても喜んでくれました。その後、何回か投稿したのですが、どれもこれもそれほど評判はよくなかったと思います。

 この度、久しぶりに「ふれあい新聞」に書く機会を与えてもらいました。内容から考えて、相当硬い文章ですが、この機会に皆さまにもご紹介いたします。

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    ◆ふれあい原稿 2012年
                       生駒 芳久

     『精神とこころ』

 私の仕事先は、和歌山県立こころの医療センターです。当センターは、平成15年4月、改築を契機に県立五稜病院から現在の名称に改められました。実は10数年前から全国の都道府県立の精神科病院は次々と改築されていますが、その際にほとんどの病院は名称を改称しています。大まかに分けて「〜精神医療センター」派と「〜こころの医療センター」派に分かれます。

 例えば、宮城県立精神医療センターとか三重県立こころの医療センターなどです。これにはおもしろい傾向があって、東日本では「精神」、西日本では「こころ」という言葉を使う傾向にあるのです。もちろん例外はあります。例えば、大阪精神科医療センターや茨城県立こころの医療センターなどですが、どうやら都会は「精神」、地方は「こころ」という、もうひとつの傾向もあるようです。我が和歌山県立こころの医療センターは、この2つの傾向のどちらにも当てはまりそうです。

 さて、「精神」という言葉と「こころ」という言葉は、同じような意味を表しながら、精神は「精神分析」や「精神鑑定」など西洋的な理性や思考といった硬い響きがあり、「こころ」は「思いやりのこころ」や「温かいこころ」など、東洋的な情緒や感情といった柔らかいニュアンスがあります。そんなこともあって精神疾患を「こころの病」と呼ぶことがあります。私もつい使ってしまう表現です。

 しかし、果してそうすることで表現が柔らかくなったり、偏見が少しでも避けられるのだろうか?と心配になることがあります。
 と言いますのは、「あなたはこころの病です」と言われたとしますと、私なら納得できず「何もこころ疚しいことをしていないし、人間のこころを失ったわけではありません」と主張するのではないか?と感じるからです。私たちにとっては、こころは精神よりも大切なものかもしれません。

 私たちの仕事のことを、「精神科医」と呼ぶことは多いのですが、ある本のなかで「こころ医者」という表現を見つけました。なんと人間味あふれる呼び方だろうかと驚きました。そこに至る道のりは、はるかに遠く、山の向こうのそのまた向こうにあるとしても「こころの医療センター」の名前にふさわしい仕事をしていきたいものです。

 尚、この中に書かせていただいた「三重県立こころの医療センター」は、今から30数年前に『ゆいまーる』の戸田先生が院長をされたことがあるのです。当時、戸田先生は三重県の衛生部長をされていましたが、当時は「高茶屋病院」と言われていた県立病院の院長を兼務されていたのでした。

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(2011年10月24日)

      「音声解説付き映画のこと」

 先日、和歌山市のふれあいセンターで音声解説付き映画「春との旅」を観ました。音声解説付き映画については、これまで神戸で1回、大阪で2回観に行ったことがあるだけでした。
 そのとき知人が、「今はほとんどの日本のDVDには音声解説が付いているよ」といって「武士の一分」を貸してくれました。

 早速その夜、音声解説付きDVDの上映会を自宅で行いました。観客は、最初は子供2人、大人2人の4人でした。
 子供らは、「キムタクは、顔はハンサムやし声までハンサムや」とか「お父さんは、この声で様子がわかるんやな」とか言っていましたが、そのうち別のテレビを観にどこかへ行ってしまい、最後は大人2人が残されました。
 実は、私は藤沢周平の時代小説が好きなので「原作 藤沢周平、監督 山田洋次」と聞いただけでうずうずしてきました。解説の音声は、情景を想像するのにちょうどよい程度でした。

 自宅での映画の上映会が終わったあと、永い間忘れていたことを思い出しました。
 私は43年前、19歳のとき自分の目の障害を知りました。大学1年生のときでしたので、大変なショックでした。
 鬱々としていたころ、テレビから長谷川きよしの「別れのサンバ」が聞こえてきました。彼は19歳の全盲の歌うギタリストでした。その年の夏休みに、東京のシンコーミュージックの会社に彼を訪ねて行きました。
 ちょうど雑誌のインタビューの席に同席させてもらったのですが、私がびっくりしたのは「映画を観に行くし、海水浴にも行くんだ」ということでした。 本当にびっくりしました。「目が見えなくても映画を観る」というのです。

 私は数年前まで、目はわずかにせよ見えていたのに、暗いところは見えないので映画とはまったく無縁でした。 それが目がまったく見えなくなってはじめて、映画を観るようになったのは不思議なことです。音声解説付き映画を観る機会ができたからでした。


(2011年6月27日)

      「これはつぶやきというより、お誘いです」

 今年(平成23年)10月9日(日)、10日(祝日)の秋の連休に『ゆいまーる交流会 in 高野山&華岡青洲の里』を準備中です。すでに16人の申込みを受けています。参加人数を20名以上で計画していますので、まだの方はぜひお早めに申込みをお願いいたします。

 1日目(10月9日)は、世界遺産となっている高野山の現地集合です。到着時刻に合わせて、午後1時からのコースと、その後合流して、午後3時からのコースを計画しています。尚、午前中に「町石道」に挑戦する方のためには、現地では登山サポートの専門ボランティアに依頼する予定です。  宿泊は宿坊といってお寺の宿泊施設に泊まります。ここでは高野山の生き字引・永坂先生によるミニ講演会や懇親会を予定しています。

 2日目(10月10日)、住職のお話を聴いたり、大伽藍(当時の大学のキャンパスみたいな場所)を散策した後、バスで紀ノ川に沿って下り、紀ノ川市にある「華岡青洲の里」の見学に向かいます。ここでも職員の平井先生によるミニ講演会が予定されています。

 最後は関西空港で午後3時頃解散の予定です。費用は現地までの往復の交通費は別として、17,000円程度です。  遠方の方々には、こんな機会でもないと和歌山に来ていただくことはまずないでしょう。重ねて、ご参加のお誘いを申し上げます。


(2010年12月18日)

      「忘年会シーズン」

 たしか去年の今頃のことでした。和歌山での忘年会と大阪でのそれとがかちあってしまいました。幸いというかお昼と夜の時間差があったため、宴会好きの私は和歌山から大阪へと忘年会をはしごしてしまいました。

 実は今年も和歌山での忘年会と大阪での勉強会が12月19日に重なってしまったのです。それも少しの時間差しかありません。電車で移動している間に終わってしまいそうです。

 そこで、大阪の勉強会には「スカイプで参加」することにしました。先日、大阪会場担当のゆいまーる協力会員の湯川さんとゆいまーる事務局の正田さん、私の3人で無事試験会議通話を終えました。

 さて、明日12月19日(日)午前10時から12時の本番は成功するのでしょうか? 私は和歌山市の国民休暇村のロビーのソファーに座って、「フリースポット」という無料無線LANを使ってスカイプから会議に参加します。結果は神のみぞ知るです。


(2010年6月6日)

      「私が買った代々のパソコン」

 ゆいまーる第3回総会in大阪が終わって家に帰宅すると、娘が「パソコンが壊れたから買ってほしい」という。
 話を聞くと、「電源が突然切れたり、画面に何本もの筋が入っている」と訴える。
 どんなパソコンがいいのだろうか?と考えつつ受信メールをあけていると、事務局からの「つぶやき募集」というメールが入ってきた。

 「これだ」と思い、これまで自分が使ってきたものを思い出してみた。
 15、6年前、初めて買ったパソコンは30万くらいのデスクトップだった。
 10年前の2台目もデスクトップで15万円だった。
 5年前の3台目はノートで10万円だった。
 3年前の4台目はミニノートで6万円だった。
 1年前の5台目はウェブノートで3万円だった。これは今日の大阪総会にも持って行って、セッション進行のためのカンニングペーパー代わりに使ったり、メモ用紙がわりに使った。

 さて、娘に買ってやるパソコンはいくらくらい出せるのだろうか、と思わず考えこんだ。
 ここらあたりで、そろそろまともなパソコンを買った方がいいのではないだろうか?


(2009年12月17日)

      「遅くてもええんやで」

 今年の9月和歌山で開催した勉強会の残務整理が終わりました。
 12月にはいってやっと、後援や協賛をいただいた各種団体へのお礼のあいさつ回りをすることができました。

 3ヶ月もたって、いまさら伺うのはばつがわるいなあ〜と感じていると、「お礼や報告はいくら遅くなってもかまわない。お願いするときだけ頭を下げて、後はしらんふりが一番悪い。」という年配の世話役の言葉に勇気付けられました。


(2009年6月24日)

 この9月に、和歌山である会を開催することになっています。
 私は、世話人の一人としてこんなことを勉強させてもらっています。
 それは、ものごとをお願いするときの心得です。

 私のおばあちゃんは、頼みごとをするときは、「なにはともあれ、あしをもっていけ」と言ったのです。
 はじめは なんのことやらわかりませんでした。
 「出向いていけ」という意味でした。今、その意味がやっとわかりかけています。


(2009年3月6日)

 今日、私たちの県立こころの医療センターに「ふれあいバス」がやってきました。
 1年に何回か、婦人会とか町内会の30人程の団体さんがバスに乗って施設見学に来てくれるのです。

 このときの私の役割は、「こころの健康ミニ講座」と称して15分くらいのお話をさせていただくことです。
 いつも「ストレスと上手におつきあい」と題して、ストレス度チェックなどを行います。

 つい、笑いをとりにいってしまうのが情けない…と思う今日この頃です。


(2008年11月23日)

 私の通勤時間は1時間30分ほどです。電車、バス、妻の車を乗り継ぎます。
 先日 夜中に、病院から呼び出されて 妻の車で高速道路を使って駆けつけたところ30分でつきました。交通手段を使っていくと遠回りをしていくことになるからです。

 でも、この毎日の遠回りはさほど苦になりません。電車やバスは結構楽しいものです。田舎ですので、バスの運転手さんと話をしたり、電車でラジオを聞いたり、たまには駅でビールを一杯飲めるからです。
 これからも、このパターンで通勤します。


(2008年8月27日)

 昭和24年生まれの59歳です。現在、県立こころの医療センターで精神科医をしています。
 ラジオや無線機作りが好きで、工学部電気科に入学しました。そのころに進行性の目の病気だということを知りました。といっても、自転車にも乗れるし黒板の字も読みにくいけれども見えないわけではありませんでした。

 しかし、ショックは大きく 今から思えばうつ状態になったと思います。半年間ほど、昼夜逆転の引きこもりの生活を送りました。おかげで1年留年しました。
 卒業後は、電気会社に勤めたのですが、使い物にならず、また市役所職員もしたのですが、行き詰まり、28歳で盲学校の専攻科ではり灸を学び始めました。このとき障害者手帳は4級でした。しかしこれも中退しました。
 30歳の時に、県立医科大学に入学し、36歳(昭和61年)卒業、2年間精神科で研修しました。

 その後、こころの医療センターで20年がたちました。この間に、障害者手帳は2級になり、そして現在1級になりました。
 診察にはサポーターがつき、書類作成は口述筆記ですが、病気の性質上、進行は実にゆっくりとしていたので、いよいよここまで来たかという感じです。
 日常業務では、実にいろいろと問題に突き当たりますので、ぜひ皆様と情報を交換しながら道を切り開いていきたいと思います。
 どうかよろしくお願いいたします。