【佐藤 正純】  【会員のつぶやき】  Top


(2022年2月21日)

     「五輪」

 賑やかな冬季五輪がやっと終わってほっとしています。
 以前からお付き合いいただいている方はご存じだと思いますが、私は今から26年前の2月25日に北海道のニセコスキー場で、スキーの応用編くらいの軽い気持ちでスノーボードに挑戦して転倒、脳挫傷となり失明、歩行困難の重度障害者となりました。

 ですから今月は毎日、テレビのどこのチャンネルをつけてもスノーボード選手が転倒するシーンが放映されて、絶叫するアナウンサーの声を聞いただけで、私は自分の転倒するシーンがフラッシュバックされてアドレナリンが噴出され、せっかくアムロジピンで下げている血圧が上がってしまっていました。

 それどころか最近のスノーボードは、26年前と比べて信じられないようなアクロバティックな4回転、8回転、12回転の技があたりまえのように行われているようで困ってしまいます。

 実は先週、四谷の日本視覚障害者職能開発センターで初めて知り合った訓練生さんに私の失明の原因を話したところ、びっくりして目を丸くしているのが想像できるような声で言われました。
 「スノーボードをやっていらしたんですか? すごいですね。何回転して転倒したんですか?」
と言われて困ってしまい、
 「いいえ、1回転もせずに真っすぐ転んだと思うのですが、その後1か月間、昏睡状態だったので、覚えていません」
と、笑いながら答えるのがやっとでした。

 まあ、誇り高い菅原道真の命日に北海道でお星さまにならず、その後、ゆいまーるの皆様と知り合ってヘラヘラ笑い話ができているのは幸いなことです。
 でも、4年に1度の冬季五輪はやはり私にとっては辛いひと月で、終わってほっとしているのが私のつぶやきでした。


(2021年7月19日)

     「運動神経のいい人とは、そして親友からの教え」

 私はスポーツの事故による脳挫傷で失明したというお恥ずかしい経歴の人間なので、運動神経の悪い人間の典型例ですが、今週7月16日金曜日 夜のNHKテレビ「チコちゃんに叱られる」では、運動神経がいい、ってどういうこと?というのが話題になっていました。

 私は脳神経外科医としてすぐに大脳・脳幹・小脳・脊髄・末梢神経から筋までを連合する運動神経回路の働きで、それには多少の家族歴もあると思い描いていましたが、チコちゃんの正解は、運動神経がいいというのは生まれつきの才能ではなくて、成功体験の反復を積み重ねてきた努力の結果だと結論付けていて、これは正しい考え方だと納得できるものでした。

 つまり、今場所綱捕りを目指している大関照ノ富士も、外傷からの復活優勝を目指している横綱白鵬も、来週からのオリンピックに出場する選手の皆さんも、みんな運動神経を磨くために血のにじむような努力をしてきたことは間違いないので、それは、発明王エジソンの「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」という名言に通じるのではないかと思いました。

 私はこの季節になると、今から38年前の医学部の最終学年を上毛三山に囲まれて昼間は40度にもなる群馬県前橋市で過ごした暑い夏を思い出します。
 大学3年生で父が早世した私が学費免除と特別奨学金を受けたものの、週2日の家庭教師と週1日のジャズピアノのアルバイトで生活費を補いながら、おかげ様で1度も再試験を受けずに期末試験と国家試験を突破して卒業できたのは、同級生のK君という秀才の親友がいたからだったのです。

 ある時、私が彼に「君は頭が良いからね」と言ったところ、彼は急に厳しい顔をして、「僕は頭が良いのではなくて、君と同じように実家に母親一人を残して大学に通わせてもらっているから必死に努力してるんだよ」と言われてしまい、改めて気持ちを引き締めたのが忘れられない思い出です。
 私が中途失明から挫けることなく曲りなりの社会復帰ができたのは、こうした親友からの教えがあったからかもしれないと思っています。

 先日、文教大学で今年度10週間の講義を終えて、学生に質問や感想を求めました。
 毎週学生に配布した数千文字にわたる資料に従って、何も見ないで90分話し続けてきた私を見て、とても不思議に思っていた学生が、「もしかすると先生はものすごく頭が良いのか? ものすごく努力をしているのか? あるいはドラえもんの道具のような何か秘密兵器を使っているのか?と同級生で話していたのですがどうなのですか?」と質問してくれました。

 「私はもともと凡人である上に、脳挫傷と還暦過ぎの高齢で、現役のころのような記憶力や頭の切れはありません。また、努力家ではないので、障害者としてもう健常者と同じことをしようとして無駄な努力はしたくないと思っていますし、アイフォーンなどにはまだ手がつけられずにいる怠け者です。おかげ様でパソコンとICレコーダーを使いこなして仕事をしていますが、それ以上の秘密兵器は持っていないので、残念ながら君たちの予想は三つとも外れています。
 ただ、幸い常に新しいことを知っておきたいという知的好奇心と、少し背伸びをすれば手が届くと思ったことは絶対にあきらめないという意欲は捨てないようにしているので、どうしたら自分の障害を補って努力しないで目的が達せられるかという工夫を毎日考えて積み重ねています」
と答えたところ、「それが才能であり努力というのではないですか?」と学生は言ってくれました。

 しかし、普通に医学部を卒業して医師免許を取ってから中途失明した私は、失明してから医師免許を獲得した『ゆいまーる』の先生方の大変な努力には遠く及びません。私は大学の講義でも講演会でも大まかな話のプログラムを立てて録音してあるだけで、時間配分は腹時計と音声時計でなんとなく進めているので、よく最終的な時間配分に失敗することがあるのです。

 先日、守田先生がタートルのズーム上で講演会をされた時に、見事にピッタリ時間内にお話を終えられて、その後の質問コーナーで、前もって綿密に時間配分をして計算したものを作成されていたからだという秘密を伺い、自分がいかに努力も工夫も足りない怠け者であるかを思い知らされました。

 これから何年仕事が続けられるかわかりませんが、今後も青春時代の親友からの教えを忘れずに進んでゆきたいと思っています。
 今月はご縁があって大東文化大学看護学科で講演をさせていただきましたので、またご報告いたします。


(2021年2月6日)

     「因果は巡る」

 お正月が過ぎて間もなく、歯科医の指導で、総義歯の装着についての生活習慣を大きく変更したことをきっかけにして同居している私の母が認知症に陥ってしまいました。

 比較的急速な発症だったため、脳梗塞など器質的疾患の可能性も疑って、まず私自身が専門医として神経学的診察で高次脳機能障害などを確認してから脳神経内科での画像診断などを進めているところですが、一昨年大腸癌手術で入院、昨年90歳となって、年齢相応の老人性物忘れは徐々に進行はしていました。
 今年に入って新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言によって情報の渦に巻き込まれたことや、前述のような自身の生活習慣の変化で認知機能の低下が進んでしまったのかもしれません。

 しかし、つい先月まで90歳とはいっても大変知的で、ほとんど問題なく自立した生活を送っていた母が、突然食事や排せつ、義歯の着脱といった普段の簡単な生活習慣もすっかり忘れてしまった上に、作業の意味が理解できなくなってコントロールが不可能になったために介護が必要な状態になりました。食事も排せつも視覚障害者の私が負担しなければならないことになって、大変困った状況に陥っています。

 一昨年まで12年間、私は有料老人ホームの医療相談員として認知症の高齢者本人やそのご家族の悩みに正面から向き合って、その対策に取り組んできたので、認知症高齢者の介護にはそれなりの見識を持っているつもりでいたのですが、いざその相手が自分の母親となるとどうしてよいのか全くわからなくなってしまいました。
 本当の高齢者自身やご家族の気持ちは全くわかっていなかったという自身の浅学菲才を思い知らされています。

 思えば卒後12年間、脳神経外科医として術後に重度の障害を負ってから退院するまでの患者さんに向き合ってきた私が、いざ自分自身が重度障害者になってみると、まず自分の生活習慣を取り戻したり、次に職業に結び付く機能訓練、すなわち職業リハビリに取り組もうとしても医療従事者は具体的に何もアドバイスしてくれず、自分で切り開いていくしかないことを知りました。

 結局、福祉のスタッフも自分の家族が認知症にならないと当事者や家族の気持ちはわからず、医療従事者も自分が患者や障害者になるまでは患者や家族の気持ちはわからなかったのだと思い知らされました。

 これをいわゆる「因果応報」というのかと、後悔もしています。しかし、仏教ではこの言葉をプラス思考に解釈していて、私はせっかく臨床医と重度障害者の二つの経験をしましたので、そのことを医療を目指す学生の教育に生かしてきました。今後は介護現場の家族と老人ホームでの経験を生かして理学療法士や管理栄養士の教育を担当していこうと思っています。
 経験豊富な皆様から何かアドバイスをいただければ幸いです。


(2020年8月28日)

   ■ 2020年7月28日発刊 月刊『武道』8月号 ■

     充実した人生を送るために 後輩に伝えたいこと【第43回】


    「障がいを負った医師の生き方」


       医師 佐藤 正純(さとう・まさずみ)


 ◎ プロフィール

 昭和33年6月 横浜市神奈川区生まれ
 昭和52年   開成高校卒
 昭和59年   群馬大学医学部医学科卒。その後、横浜市立大学医学部附属病院研修医を経て、脳神経外科に入局
 平成4年   横浜市立大学附属市民総合医療センター・高度救命救急センター医局長から横浜市消防局救命指導医
 平成8年   スノーボード事故により失明を含む重度障がい者となって臨床から引退
 平成14年   横浜市内の医療専門学校で非常勤講師として社会復帰。その後、大学や医療専門学校の講師、講演活動、有料老人ホームの医療相談員を歴任

 〈現在〉
 筑波大学附属視覚特別支援学校理学療法科非常勤講師、文教大学健康栄養学部管理栄養士学科非常勤講師


 私は中学1年生から医学部在学中の23歳まで剣道を学びました。卒業後は脳神経外科医として救急医療でメスを握ることに明け暮れ、剣道とは全く離れた生活を過ごした末に、24年前に事故で失明を伴う重度障がい者となり、現在に至っております。
 今までの人生を振り返ると、若いころに武道を学んだことが仕事や趣味、そして障がいを負ってからの人生における一つの道しるべとなってきたことは間違いありません。私の経験談が、皆さんに何らかのヒントになればと思って筆を執ります。


   はじめに

 私は今から24年前にスポーツの事故で失明を伴う重度障がいを負った脳神経外科医で、現在は大学や大学付属の医療専門課程で若い学生さんに医学の講義を続けている教育者です。
 中学1年生の13歳から群馬大学医学部在学中の23歳まで通算10年間、剣道部員として武道を学びました。段位は大学3年生の三段までで、常にレギュラーには届かない平部員でした。卒業後12年間は脳神経外科医として救急医療の最前線でメスを握ることに明け暮れ、剣道とは全く離れた生活を過ごした末に、道半ばで脳挫傷を負って視覚と歩行に障がいを持つ重度障がい者となり、白い杖を握って体を支えて歩く生活となって現在に至っております。

 その私が、このたび日本武道館発行の月刊誌への寄稿のご依頼をいただいたことに驚き、自らに武道を語る資格があるのかずいぶん迷いました。
 しかし、高齢化社会の中ではまだまだ若輩ながら、今までの人生を振り返ると、若いころに武道を学んだことが仕事や趣味、そして障がいを負ってからの人生における一つの道しるべとなってきたことは間違いありません。私の経験談が、これからのわが国を背負う皆さんに、何らかのヒントになればと思って筆を執る決心をいたしました。
 写真:横浜市立大学附属病院脳神経外科医時代の筆者(大熊由紀子氏提供)


   剣道で鍛えられた心身

 まず、質実剛健の校風が残る中高一貫の男子校である開成中学校・高等学校の剣道部では、猛暑の夏合宿での毎朝のランニングや道場での稽古、真冬の寒稽古などを通じて厳しい先輩に鍛えられました。また、群馬大学医学部前半の3年間は、猛暑と空っ風で知られる北関東の前橋市の大学の道場で稽古したことが、非常に心身の鍛錬となったと思われます。
 これらの経験は、様々な場面で役立ちました。例えば、大学の後半で父を亡くし、学費を奨学金とアルバイトで補いながら卒業試験と医師国家試験を乗り切ったこと。卒業後は脳神経外科医として、近年の働き方改革とは無縁の救急医療の現場で週100時間の勤務を苦労とも思わずに、多くの恩師のご指導に支えられながら乗り切ったこと。

 そして何よりも、働き盛りの37歳で不慮の事故による瀕死の重傷から生還したのと引き換えに、失明と歩行障がいを負って脳外科医としての将来を閉ざされてからも、それを天から生かされ、与えられた試練と受け入れて自らを「the challenged (挑戦する使命や資格を与えられた人)」と信じられる死生観と精神力を保って挫けることなくリハビリテーション(失われた権利の回復)に向けた職能訓練を続け、6年後の社会復帰に結びつけたことです。


   剣道から学んだ間の取り方

 私が剣道を学ぶ上で特に注目して大切にしてきたのは、刀を交えて互いに生死を争いながらも相手を重んじる武士道精神です。若いころから、自らと相手が共に生かされている意味を問い直す機会を重んじてきたのはもちろんですが、さらに、稽古で向き合った相手との距離的、時間的な空間、つまり間の取り方を学んで腕を磨くことが何より重要で、特に試合では、この間の取り方が一番大切であると考えていました。

 大学時代の後半では、運動部から文化部へと転向して、ジャズピアノを学んで、多くのジャズメンとのセッションを楽しみながら腕を磨く機会を得ました。その場面でも共演者を重んじ、他の楽器との間の取り方がアドリブの展開には必要だという点で、共通点が多いことを学びました。
 写真:若き頃、ジャズピアノを演奏していた筆者は、失明してからも演奏を続けている(大熊由紀子氏提供)

 脳神経外科医になると、16世紀のフランスで従軍医として活動し「外科医の父」とよばれたアンブロワーズ・パレの名言「私が手当をし、神がこれを癒し給うた」に従い、時には生死を分ける厳しい立場に置かれている重症の患者さんや、そのご家族を敬って自分の家族のように寄り添って治療に当たることが、武士道にも通じる一つの死生観として身に付きました。
 また、手術顕微鏡を用いながら、ピンセットや吸引管などの手術器具を駆使した頭蓋骨内の細かい手術を進めて行く時には、時々刻々変化してゆく脳の手術部位と自分が使う手術器具との距離的、時間的な空間、つまり間の取り方が外科医にとって何より大切であることを学びました。

 そして、自らが失明を含む重度障がい者となって医療の臨床を離れてからは、スクリーンも見えず、マウスも使えないパソコンに向かって、音声読み上げソフトの音声だけを頼りに操作をして、パソコン内での空間で間の取り方を確かめながら大学の講義や講演の資料を作成してきました。
 また、実際の講義では、様々な工夫で視覚に頼らずに90分の講義内容を記憶して授業を進めました。教壇の上からは、表情を見ることができない学生の反応をその息遣いやペンの音から読み取って、講義の時間配分や順序の間の取り方を研究してきました。
 写真:筑波大学附属視覚特別支援学校で神経内科の講義をする筆者

 通勤では、白杖を握っての単独歩行で信号機や標識などの視覚情報が得られなくても、他の感覚に意識を集中して町の道路や駅のホームなど、見えない空間での間の取り方を追求して、安全な通勤を続けてきました。
 それでも視覚障がい者にとって、情報が得られないことによる不利益や不安は計り知れず、普段の生活でも不自由があることは否めません。時には障がい者の人権を否定するような待遇を受けて臍を噛むこともなかったとは言えません。

 しかし、自分が健常者と比べて不幸だと思わないでいられるのは、今まで私の立場を理解して支援してくださった多くの恩師や知人に支えられてきたためです。そして若いころに武道によって相手を敬い、共に生かされていることを重んじ、間の取り方を学んできたことも大いに役立ったのではないかと思っております。


   武道の教えを日常に生かす

 江戸の昔から他人と間の取り方がうまくできない人は「間が悪い」と言って嫌われたようです。
 平成生まれの若い人たちの間で、その場の雰囲気が読めない人を、空気が読めない「KY」と呼ぶそうです。昭和の私たちには馴染めない言葉ですが、これは正に「間が悪い」ことを表していて、古い言葉の意味合いが現代にも引き継がれているのかもしれません。
 多くがインターネットで繋がっている現代社会でも、人と人とのコミュニケーションはますます必要とされており、それには、相手を敬い、見えない空間でも相手との間の取り方を身につけることが大切であると思います。
 それは、広い意味では外国との協調にも通じることだと思いますが、武道を学ぶことは、そのために非常に役立つと私は考えます。
 写真:2019年3月、筆者思い出の稽古場であった開成学園小体育館が建替のために取り壊されることになり、多数のOBも参加して行われたお別れ稽古会(開成学園剣道部顧問・小竹禎氏提供)



(2018年8月25日)

     「厄年の連鎖と、人生折り返しの新しい仕事」


 残暑お見舞い申し上げます。

 若輩の私も今年で卒後34年、いつのまにか還暦を迎えました。
 今年の私の目標は、2002年に皆様のお力添えで受傷後6年目の社会復帰を果たし、その後15年間足場となってきた専門学校の講義が昨年打ち切りになった穴を埋めるための就職活動でした。

 その結果、母校群馬大医学部の同窓生で、文教大学健康栄養学部教授の都筑馨介先生から非常勤講師としてお招きいただき、また、教室の恩師と多くの同級生、知人にも支えられて今年度は、茅ヶ崎の山の上に計4000名の学生が在籍する文教大学湘南キャンパスで、健康栄養学部管理栄養学科の2年生3クラス計109名に、前期15回の医療概論のうち10回、計30コマを教えてきました。

 当初から教授会の先生方は、私の講師としての実績や恩師からの推薦状を評価して、私のような障害者が学生に新しい風を吹き込むことを期待してくださったようなのですが、慎重な事務局の皆さんは、視覚障害者の講師が講義を担当した前例がない不安感から、昨年末ぎりぎりまで約半年、講師として迎えるか議論が続けられました。

 しかし、蓋を開けてみると、一昨年に施行された改正障害者雇用促進法が多少は味方になったのか、大学教務委員会や情報システム管理部が全面的に支援をしてくださることになって、学生の出席確認や講義資料の配布、期末試験解答のマークシートリーダーでの判定など、すべてに合理的配慮をいただいてスムーズに進みました。

 私はただ毎週の講義資料作成と湘南台駅からバスで20分、自宅から往復5時間の大学で3クラス、計4時間半の講義、60問の期末試験問題のうち40問を作成、それにメールで送られた109人のレポートを読んで評価結果を名簿に書き込むという作業をしただけで、心配されたようなトラブルもなく、無事に8月の期末試験までを終えることができました。

 ただし、今回私が担当した医療概論は、将来 病院や施設で働く管理栄養士が医療と連携するために必要な医学知識を学んで国家試験にも備えるための講義で、もちろん今まで私が教えてきた臨床医学の基礎や医学史も含まれますが、どちらかと言えば医療行政や医療経済など、勤務医の経験しかない私には初めての多方面にわたる課題ばかりでした。
 社会保険の仕組みや現在の問題点、保険医療と医療従事者の現状、人口動態統計の現状と将来像など、音声読み上げソフトで晴眼者の10倍の時間をかけて分厚い教科書を読破するのはなかなか困難を極める仕事でしたが、人生の折り返しでまた新しいことを学べる期待と、我が子よりも年の離れた若者から新しい空気をもらって、楽しくやりがいを持って講義を進めることができました。

 学生優位の少子化時代の私立大学の風潮なのか、文教大学では学期末の学生アンケートで信任を得られなかった講師には翌年の推薦がないという規定があるようですが、私にはまだアンケート結果の集計が完了する前に、大学教務委員会から来年度のプログラムについての打診をいただき、お陰様で大学初年度の講義で信任を得られたものと考え、来年度に向けて一層、内容の充実を深めていこうと考えております。

 一方、今年で8年となる筑波大学付属視覚特別支援学校理学療法科での神経内科の講義では、長らく教科書としてきた恩師平井俊策先生の教科書が再版打ち切りとなり、代わりに今年度から採択したNavigate神経疾患という、今までとはかなり形式の異なった神経内科の教科書を、医療概論と同時進行で読破してきました。前期は毎週末、講義資料提出の締め切りに追われて睡眠不足に悩まされましたが、後期は神経内科のみの講義なので、少し余裕を持って準備を進めてゆけると思います。

 また、11年前から常勤の医療相談員として勤務している新横浜の有料老人ホームでは、医師の経験を活かして職場に貢献できる機会はあまりないのですが、定年を迎えた6月の誕生日の翌週に人事部長の面接があり、今後も同じ待遇で契約社員としての継続雇用が認められ、更にホームの増床予定に伴って医療面での貢献を期待するという嬉しいお話がありました。

 そんな中で、誕生日前後の6月に私は会社の検診後の大腸ファイバーで発見された上行結腸癌と、仕事帰りの転倒による右中手骨骨折という男の厄年の連鎖に見舞われましたが、幸い大腸癌は高分化腺癌、深達度mという進行の遅い早期癌で、消化器外科専門医の同級生が大腸ファイバーで取り切れたと言ってくれました。

 また、右手の骨折も同級生の整形外科医に画像を送ったところ、完全に折れてはいるが、傾斜せずに骨形成が始まっているというアドバイスをもらって、1か月シーネ固定をして、後は経過観察という保存的治療を選択したので、学校の仕事に穴を空けずに済んで、12週間経過した今週でほぼ完治となりました。

 今回のことで、右の薬指が数ミリメートル短くなってしまった上に、右手で杖を突いたりパソコンのキーボード操作でもまだ痛みが抜けないので、伊勢佐木長者町のグランドピアノでアドリブを展開するジャズピアニストとしての復帰にはまだ時間がかかりそうですが、大腸内視鏡手術後の食事制限はもう1か月以上過ぎてほとんど普通の食生活に戻ってきたので、猛暑の中を白杖携帯で元気に通勤しております。

 リハビリ講演の依頼は、近年はだいぶ少なくなりましたが、今年は2月に有明のビッグサイトでIMSグループ学会の特別講演、3月に秋葉原で経済団体での講演、7月18日には磯子地域ケアプラザで、NPO法人 中途障害者地域活動センター主催での講演を終えました。来年2月には横須賀で神奈川県立保健福祉大学の玉垣努教授との共演予定など、細々と続けております。

 今後ともどうぞ皆様のご指導をいただきますよう、よろしくお願いいたします。



(2017年6月30日)

      「感謝状」

 2007年3月18日の第1回 ゆいまーる設立準備会に出席させていただいた翌月の4月16日に、私はそれまで5年間勤めた横浜の医療専門学校から兼任の形で現在の職場である新横浜の老人ホームに常勤の医療相談員として赴任しました。

 専門学校にも救急科の出張講師としての仕事は残されたものの、老人ホームでは医療従事者としての仕事はあまり任されることなく月日が過ぎて、会社の定年まであと1年となった今年にはその専門学校の仕事も経営上の理由で切り捨てとなり、立場の弱さを不安に感じているところでした。

 誕生日が過ぎた先月、職場の上司から急に呼ばれていよいよ退職勧告かと身構えたところ、先生に感謝状が届いています、との意外な言葉。
 そして、社長から私に届いた手紙を上司が読み上げてくれました。

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     感謝状

           佐藤正純殿

 貴殿は10年間勤務して職務に精励し、社業の発展に寄与されたところ大であります。
 よって心より感謝の意を込めて、ここに記念品を贈呈し表彰いたします。

 平成29年6月25日

           株式会社 ゆうあい
                代表取締役
                何のなにがし

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 医療人にとっては全く知らない世界で、時には医師が恨まれることもある福祉の世界に、それも障害を背負った身で飛び込んで、プライドを傷つけられて悔しい思いをしながらも我慢してきた10年が少しは報われた思いがしました。

 記念品は私には使いにくい商品券だったので、持ち帰って苦労をかけた家族に贈呈しました。
 次は来年6月で私も還暦となり、会社の規定では定年となるので、最近になって多少職場の上司やナースとの雪解けが見えてきたのを活かして、継続雇用をどこまで繋いでいけるか、あるいは教育現場でどこかへ転進の道があるか、50代最後のこの1年が勝負どころだと思っています。


(2015年7月31日)

     「空中阿波踊りの旅」

 6年前の2009年3月に、私は障害者となってから初めて一人で飛行機に乗って、徳島県視聴覚障害者支援センターのお招きで講演旅行をしてきたのですが、今年も3月1日 日曜日に今度は徳島県高次脳機能障害者の会「サンガリハビリプラザとくしま」のお招きで2回目の徳島講演をしてきました。

 元々 鉄道少年、いわゆる鉄ちゃんの私は遠距離でもなるべく鉄道を使いたいという気持ちが強くて、2010年11月にゆいまーるの高知交流会で講演をさせていただいた時も、往路は岡山に眠る父の墓参りを兼ねて岡山から土讃線の旅を楽しみながら高知に到着したのですが、日帰り講演ではやはり1時間で目的地に到着できる空路は無理がないので、その後、2012年の山口講演、香川講演と飛行機を利用してきました。

 今回、徳島からのお招きがあった時も特急「うずしお」に少し心が動いたのですが、片道6時間の日帰りは少し無理があると思って飛行機の旅を選択しました。

 今回のご報告は講演内容よりも、その後の珍しい経験についてです。当日は太平洋側に低気圧が通過して徳島県でも朝から雨と比較的強い風が吹いていましたが、往路の飛行機は多少揺れたくらいで無事に徳島空港に到着し、講演会も雨が降ったわりには60人程度の方が出席してくださって、地域のケーブルテレビも入って賑やかに行われました。

 17時に講演とその後の質疑応答などを終えて徳島阿波おどり空港内で夕食をいただき、19時にはJAL1442便徳島発羽田行きの搭乗手続きを完了、折り返しとなる羽田からの便の到着が遅れたため15分遅れの出発となり、途中、天候により揺れてベルト着用のサインがしばらく消えない可能性があるので搭乗前にトイレを済ませておくようにという指示はあったが運航には問題ないので出発するとのことでした。

 JAL1442便 徳島発羽田東京国際空港行きは予定より15分遅れで19時40分に阿波おどり空港を離陸、しかし、羽田到着予定の20時50分を過ぎても飛行機は不安定に揺れながら旋回を続けており、機長より、現在羽田空港周辺の気流が非常に悪く着陸できない飛行機が続出しているため、当機も着陸許可が下りるまで空中で旋回を続けるとのアナウンスあり。

 21時50分、1時間を過ぎてもまだ30機近くが着陸できずにおり、当機は燃料が残り少なくなってきたため羽田への着陸を断念し、中部国際空港、関西国際空港、徳島空港のいずれに緊急避難するか指令管制の指示を待つとのアナウンスがキャプテンよりあり。

 22時、指令管制の指示で行く先は関西国際空港に決まる。再び関西ゆいまーるの皆さんの上を通過して22時40分、関西国際空港に着陸し、3時間ぶりに電話やパソコンなどの通信機器、トイレの使用が可能となる。
 しかし、給油待ちの飛行機が10機ほどあり、機長の経験上給油の完了には2、3時間が必要となる見込みとのアナウンスがある。

 23時50分、予想より早めに給油が開始されるが、乗客を機内に残しながらの給油となるため、念のためシートベルトは解放の指示がある。
 0時5分、給油が完了し、改めて羽田東京国際空港に向けて離陸。

 1時10分、羽田東京国際空港に着陸し5時間半ぶりに機外に脱出すると、空港内は北海道、九州、沖縄など全国から帰京を終えた乗客で溢れていました。既に公共交通機関の運行は終了していたため、乗客のほとんどは空港周辺のホテルが手配されたが、障害者一人でホテルを利用した経験がなく、東西の端とはいえ羽田と同じ大田区内在住でタクシーに乗ればホテル代金と同じ金額で十分帰宅できる私は、タクシーチケットの支給を検討して もらったところ、タクシー待ちにかかる時間を待てるならば、後日タクシーの領収書から1万円を限度に車代が支給される券をいただけるとのことで了解。

 1時50分にはタクシーに乗車できて、2時20分に無事帰宅できました。
 結局陸路で6時間かけて帰った場合と同じくらいの時間がかかってしまってさすがに疲れましたが、貴重な経験でしたし、飛行機や空港の皆さんがハンディのある私にとても親切にしてくださいました。
 機内で客室乗務員さんが私の疲労を心配してくれましたが、私は逆に深夜勤務で人の命を預かっているキャプテンの疲労を心配する余裕がありました。

 25年前には36時間勤務で人の命を預かって、人の頭を開けていたことを思い出しながら、思いがけぬロングフライトを楽しむことができた1日でした。

 この体験を飛行機に詳しい知人に話したところ、羽田に着陸できない飛行機が太平洋を旋回する時は伊豆の大島あたりを回っているんだと聞いたので、これは阿波踊りではなくて、「さまよえる伊豆の踊子」だったかなと思いましたが、徳島県に敬意を表してこの演題のまま発表させていただきます。

 (3月2日発表原稿を一部加筆)



(2014年12月30日)

     「親父の会」

 今年の個人的なニュースの一つは親父の会への出席でした。
 これは私の母校、開成高校剣道部の同級生で東大卒後に今は大銀行の取締役をしているY君が10年前から新橋でサラリーマン親父の居酒屋に母校の同級生を集めて開いている会で、東大経済学部の教授や日銀の理事、官僚や弁護士など文科系のトップクラスが集まっているようなので、私などには理解できない会話が飛び交うのだろうなどとは思いながら、虎穴に入らずんば未知の世界の知識は得られないという好奇心も手伝って、お誘いに乗って飛び込んできました。

 出席してびっくりしたのは、日銀理事がホームページリーダーの開発者の名前、経済評論の弁護士が日本で初めての視覚障害者の司法試験合格者の名前などを知っていたことでした。おそらく私が出席するということで既に予習をしていたようで、やはり東大現役組は一段上だと思い知らされました。

 更にその日は経済の話より視覚障害についての私への質問が主になって、新しい知識を吸い取ろうと思っていた私は逆に吸い取られてしまいました。回復不可能な障害を自覚した時に、それまで人と競争しながら歩いてきた人生をこれからは自分と競争する人生に転換しようと誓ったのですが、また改めてそれを確認させられた1日でした。


(2014年1月14日)

     「灯台下(もと)暗し」

 昭和46年に開成中学に進学してからもう40年以上、私と中学、高校、群馬大学医学部、横浜市立大学病院まで付かず離れず、ずっと歩みを共にしてきた同級生の消化器外科医 長堀 優(ながほり ゆたか)先生が、現在、横浜船員保険病院の副院長として勤務しているので、一昨年11月1日には彼の病院に招いていただいて講演をしてきました。
 昨年11月、その彼が卒後30年の臨床経験から西洋医学の限界打破を量子論と東洋の哲学的思想に求めるという興味ある本「見えない世界の科学が医療を変える ― がんの神様ありがとう」を出版し、そこに彼の思想と類似点も多い私の講演内容の一部も紹介してもらいました。

 既にその話を聞いた視覚障害者の複数の知人からもこれを読みたいという希望が寄せられているので、ゆいまーるの藤原さん、事務局の皆さんにもアドバイスをいただいて、書籍の点訳音訳の着手依頼の最短方法を探していたのですが、まず申し込みの打診をした日本点字図書館では、残念ながら新刊図書の申請がもう半年先まで埋まっていて、その先にスタートできたとしても完成は1年ほど先になってしまうという現状がわかりました。
 次に同じ高田馬場のヘレンケラー協会にはどうしても電話が繋がらず、ゆいまーるにも講演に来てくださった読書工房は有料の仕事だという制約があったので、次の手段を探していました。

 すると、もう私が視覚障害者になってから18年もお世話になっていて、その間に私の最終学歴とも言える大田区点字教室と併設しており、昨年のプレクストーク講習などでスタッフの皆さんとも面識がある地元・大田区立新蒲田福祉センター、声の図書室でも点訳音訳を行なっていることに気づいて打診をしてみたところ、これが「灯台下(もと)暗し」で、点訳音訳2冊分の本を入手して、直接本を持ち込めば、特別会計を組んで年末すぐにでも着手、サピエに登録をしてくださるということになり、点字本の方は早ければ年度内に完成するかもしれない見込みとなりました。

 いずれ、サピエにタイトルが出るようになりましたら、ご紹介させていただきたいと思います。
 以上、親しい身内の紹介となりますが、新刊図書の点訳音訳の話題で失礼いたしました。


(2013年7月5日)

     「ダイエット生活を楽しみながら生きる」

 早いもので先月は亡父の33回忌だったので、母と弟と3人で岡山に眠る父の墓参りに行ってきました。
 京大公衆衛生卒の産業医で石川島播磨重工業(現IHI)豊洲診療所長だった父が、昭和56年に56歳で早世した時には、それでも四捨五入すれば還暦なのだからと変な理屈をつけて諦めをつけたのですが、その私も先月10日で55歳、四捨五入で還暦になって、亡父の亡くなった年まであと1年となってしまいました。

 そんなことを思い出して自身の健康にも不安を感じ始めていた昨年末に、医者の不養生がたたってか勤務先の社員健診で血糖値に再検査が必要と言われ、多少は糖分や体重を気にしながらしぶしぶ受けた今年2月の検査でHbA1cが8.7という恐ろしい結果を突きつけられて、糖尿病で苦労した亡父のDNA(野球ではありません)を私も確実に受け継いでいることが明らかになりました。

 すぐにでもインスリンと言う診療所のドクターに、とりあえず3カ月は食事療法を続けるから待ってくださいと言って、食事療法を開始しました。その食事療法というのが、やるとなったら外科医らしく即断即決の徹底的なもので、すべての糖分をカットするのはもちろん、家族や職場の厨房の方にも協力していただいて、消化すればグルコースとなる炭水化物を朝半分、昼半分、夕食はおかずだけに制限して今までやったこともないカロリー計算で1日1200kcalという極端なカロリー制限を始めたところ、3カ月で体重が14s減少し、5月にはHbA1cは5.4と正常値になって糖尿病を克服することができました。

 せっかく獲得した健康を維持するために、毎週1sのペースで続いている減量達成を楽しみながら食事療法を続け、一方毎日の通勤と毎週の講義や障害者バンドへの出張で合計週20キロのウォーキングも続けてきたので、今では会社の健診があった半年前と比べると以下のように体重が20s近く減って20歳代の体重に戻った結果、BMIや体脂が正常値になったばかりか91pあったウエストも84pになってメタボも解消した上に昔の服がすべて着られるようになったり、昔の友人に久しぶりに会ったら私を見間違えて通り過ぎてしまうほどになりました。

 2012年12月2日 84.3s BMI 26.0 体脂 24.5%
 2013年 7月1日 65.7s BMI 20.3 体脂 13.6%

 診療所の先生も私のようなダイエットはなかなか真似ができないと驚いてくださるのですが、私にとっては今まで障害を克服するために目の前の小さな目標を達成することに喜びを感じて、それを楽しみながら生きてきた人生をそのままそっくり応用しただけのことなのです。

 今年もこれから2回、首都圏内での講演を依頼されていて、それは今までと同じように「重度障害を負った脳外科医、心のリハビリを楽しみながら生きる」というテーマですが、今後は今回のダイエット体験をどこかに発表して、「糖尿病を負った身体障害者、ダイエット生活を楽しみながら生きる」というテーマを掲げれば、世間の反響はより大きいのではないかなどと思っています。

 [追伸]
 今後、私が依頼されている講演のうち、2013年7月17日水曜日13時に明治記念館で開催されるアステラス製薬アジア事業部ミーティングは製薬会社の社内ミーティングですが、2013年10月27日日曜日13時30分から横浜ラポールシアターで開催されるNPO法人「横浜市視覚障害者福祉協会」「女性部研修大会」は、一般市民講演です。


(2011年4月30日)

     「毎年ゴールデンウィークが来ると思い出すまぐろの話」

 昨日から世間では大型連休というものが始まったようですが、連休とは全く縁のない年中無休の老人ホーム勤務の私はそれをすっかり忘れていて、いつものように4時半に起床して仕事を始め、6時半には学校に遅れるぞと叫んで家族全員をたたき起こして怒られてしまいました。

 思えば大学病院脳神経外科勤務時代はほぼ年中無休のセブンイレブン(朝7時のカンファレンスから残務整理や研究が終わって帰宅する23時まで)の生活を続けていた私はその前の学生時代から、在学中に父を亡くしたこともあって毎週2件の家庭教師のアルバイト、前橋市内のジャズ喫茶でのピアノ演奏のアルバイト、群馬大学医学部モダンジャズ研究会、桐生の工学部ビックバンド、高崎経済大学モダンジャズ研と3件掛け持ちのバンド練習、当時の彼女とのデート、その間に図書館にこもっての勉強というように手帳を真っ黒にしていて、同級生には、佐藤はまぐろ(常に泳ぎ続けていないと死んでしまう魚)だなと言われていました。

 それが15年前に脳挫傷で1年半の入院を含む6年の療養生活でほぼ死んだまぐろ状態、なんとか非常勤講師として復職したものの、週2日の講義で春、夏、冬の休みやゴールデンウィークもしっかりある生活はやはり物足りない気持ちが否めず、手帳を真っ黒にして働けることがいかにすばらしいかを思い知らされました。

 11年後に念願の常勤職員となって、まだ内容には満足できないながら職場と出向先、バンド活動、講演などで休みがほとんど埋まり、今年の大型連休も休みは、本日30日土曜日と5月4日水曜日だけという充実した日程になったことに感謝しています。

 昨年度の私の講演は4月と6月の横浜、10月の山形県、11月の高知県、2月の新潟県と五つを数え、ワンパターン講演は、もうそろそろ打ち止めになるかと思っていたのですが、今年度も6月の横浜に始まり、8月の新潟県、10月の奈良県、11月の横浜、来年1月の山口県と既に5件のご依頼をいただいており、2校、3クラスで年間180コマの講義と合わせて今年も充実したまぐろ生活が楽しめそうであることを感謝して、この季節を迎えています。


(2010年1月30日)

 ご報告が大変遅くなりましたが、昨年秋の王子での交流会の1週間前 11月14日土曜日に北鎌倉の臨済宗大本山 建長寺で開かれた「建長寺 学びの会」という座禅の会に講師としてお招きいただいてお話をしてきました。

 その前、7月に私の恩師である横浜市大脳外科教授が退官後に赴任された脳血管医療センターの看護研修会で「障害受容について」というテーマの講演をさせていただき、その時 研修に参加された地域の訪問看護ステーションを運営しておられる看護師さんから声をかけていただいたのがきっかけでした。

 これは、看護師を中心として医療や福祉をはじめとする多彩な人が集まって、座禅と講演の中から、ストレスの多い現代社会で心を病んでいる人々へのケアについて見つめ直そうというのがその目的です。
 私が講演の演題として最近好んで使ってきた「心のリハビリ」という言葉に共感をもっていただいたようで有難いお招きでした。

 詳しく聞いてみると、私が会の設立以来4回目の講師で、第1回はあの著名な解剖学者で脳科学者の養老孟司先生だとのことでしたし、交流会の食事も含んで会費制の講演とのことで、珍しく責任が重く緊張を覚える講演でした。

 会はまず15時30分から建長寺 教学部長の永井宗直様から30分ほどの説法があり、その後15分ほど座禅の時間がありました。
 説法の内容は改めて自身の邪念を問いただされるような心に残るものでした。

 それから椅子の部屋に場所を移して、私が「心のリハビリを楽しみながら生きる」といういつものテーマで60分の講演をしました。
 仏様の前でもいつものマイペースでキリスト教、仏教、神道を織り交ぜた得意の神様論議でお客様を煙に巻いてしまったかもしれません。

 その後、建長寺名物のけんちん汁(けんちん汁の元祖で語源になっているのがこの建長寺なのですね。)を中心とした精進料理をいただきながらの交流会では、共感を得ていただいた感想や質問が尽きることがなくて かなりの延長となりました。
 帰宅後には教学部長様から感謝のメールをいただいたり、お話を聞いてくださった看護師長さんが勤める病院から来年度の新しい講演依頼が入ってきたりして、まずまず成功だったのではと思っています。


 さて、昨年の交流会の席で、大里先生が講師として通っておられる護国寺の筑波大学附属視覚特別支援学校(以前の筑波大学附属盲学校)の理学療法科で来年度の講師を探しているので、私にその担当を考えてもらえないかという個人的な打診がありました。

 通年で合計60コマというボリュームの講義を私がこなせる時間が取れるかという問題では、不定期にしか取れない私の職場の公休に学校が合わせてくださるということと、今のところ月に最低2日は取れている火曜日の公休の午後は杉並の障害者バンドの指導に当てて、唯一残っている火曜日午前の休みを早朝からこの講義に当てることでどうにかできそうだということになりました。

 既に来年度に決まっている専門学校の2クラスの講義に加えて、脳外科医にとっては未経験の疾患も多い学科を担当する能力と体力があるかというのが問題です。
 どうしても弱い立場だから、頼まれた仕事は決して断らずにやってきた私もさすがに今回はあまりの条件の厳しさに躊躇しました。

 でも、紹介者である大里先生から、PTの学生の講義には教科書のすべてを教える必要はなくて、臨床体験に沿って教えれば良いのだから、脳外科の経験のある私には やりやすい学科なのではないかというアドバイスで背中を押していただきました。

 また、昨年 NHK土曜ドラマ『Challenged(つまり、挑戦するよう神から運命づけられた人)』を聞いて、改めて神から与えられた自分の責任を再認識していました。

 そして最後に、学校で配布されている関連教科の教科書から、平井俊策 岡本幸市[Professor Emeritus; Department of Neurology, Gunma University School of Medicine]という28年前に習った教授のお名前と懐かしい母校の名前が聞こえてきて、これは母校を通じて神様から届いたメッセージで、どんなに困難な道でも私に与えられた仕事だと確信せざるをえませんでした。
 それで、正式にこの仕事をお引き受けすることになりました。

 私の好きな言葉に「馬は乗ってみよ」という言葉がありますが、今はそんな心境です。


 今年 私にはもう一つ懸案事項が残っています。
 それは今月から始まった月刊誌の連載で、三輪書店から発刊されている『地域リハビリテーション』に 今年1月から6月まで6回の連載が予定されています。
 「重度障害を負った脳外科医―心のリハビリを楽しみながら生きる」という大げさなタイトルがついています。

 既に1月号(第1回「受傷から低体温療法と急性期リハビリテーション」)は 今週書店に並び、2月号(第2回「徐々に明らかになった障害を自覚しながらリハビリの中に楽しみを探して」)と 3月号(第3回「医療に頼るのを捨ててセルフメイドリハビリへ」)の原稿は 出版社に送ってあるので、あと3回 4800字分の原稿をなんとか年度内に仕上げてから学校の新年度に突入できればと思っています。

 また、来月には護国寺の学校への歩行訓練を2回受けて、大学病院への定期受診も終わらせてから ゆいまーるの原稿も書かなければなりません。
 年度内は1日が36時間あっても足りないと言いながら、障害者バンドの今年の新曲アレンジを計画したり、明日出席が締め切りとなる3月13日の群大医学部59年卒の26年ぶりの同窓会には高崎単独旅行で出席の計画をしたり、かなり限界ぎりぎりの状況に追いまくられながら、遊ぶことも忘れてはいない この頃の私です。


(2009年3月17日)

  2009年3月8日 徳島講演報告
 朝5時に自宅を出て田園調布駅までは家内に送ってもらい、5時12分の三田線直通目黒線始発で三田駅へ。そこから都営浅草線、京浜急行と乗り継いで6時06分に羽田空港駅に到着。

 第1空港ターミナルビルに繋がる西側の改札を出て、京急職員からJALスマイルサポートセンターに連絡してもらい、スムーズに搭乗手続きを済ませることができました。7時20分発のJAL1431便 徳島行きに搭乗して予定通り出発。

 障害を負ってから初めての空路一人旅となりました。
 前夜、職場からの帰りに新横浜駅で買って、朝食用に持参した崎陽軒のチャーハン弁当を開いて食べ始めると、飲み物を配っていたスチュワーデスさんが気をきかせて、包みを開いてくれたりシュウマイに醤油をかけてくれたり親切にしてくれました。

 離陸時に機長から予告された乱気流による揺れもわずかで、530キロを飛んで8時40分に徳島空港に到着。
 私が瀕死の重傷で重度障害者となる1年半前の1994年(平成6年)10月に、徳島大学医学部脳神経外科主催で開かれた第53回日本脳神経外科学会総会に出席して以来、15年ぶりの徳島来訪となりました。

 空港ターミナルには主催者である障害者交流プラザ職員で今回の講演会では実務責任者の清重さんがお迎えに出ていてくださり、公用車で30分ほど走ると会場に到着。
 すぐに視聴覚障害者支援センターの西城所長からセンターの設備や実施されているリハビリテーションの概要について説明がありました。

 センターは、広いスポーツ施設を持つ立派なもので、歩行訓練、点字訓練、パソコン訓練から就職指導まで、広く通所訓練生の障害者リハビリに対応しているとのことでした。

 その後、今回の講演を援助してくださった団体の皆様に紹介していただき、徳島県眼科医会 山根会長、徳島県視覚障害者連合会 久米会長、JPRS徳島支部・NPO法人タートル 野尻さんに、センターの西城所長を加えた皆様と11時30分から昼食を取りながらの歓談ということになりました。

 話題はセンター設立時の思い出や障害者に対する政府や厚労省に対する注文、障害認定の更新手続きについてでした。
 ゆいまーるの活動についても質問をいただいて説明をいたしましたが、県内で中途視覚障害となった医師や看護師は何人かおられるようですが、皆、仕事は辞めてしまっておられるとのことでした。

 講演の前に私に面会を求めてきたのは、私が2000年5月から2001年9月まで大田区の点字教室に通っていた時、全盲の講師の先生の片腕として実際の指導をしてくださったボランティアの方でした。昨年、家族の都合で徳島に転居しておられたのですが、当日は徳島新聞に私の名前を見つけて駆けつけてきてくださったということで、8年ぶりに思いがけない再会となりました。

 定刻の13時より講演開始となりましたが、会場では主催者のご努力と地元新聞の宣伝、それに私の誇大広告だったかもしれないキャッチコピーも役立ってか、準備していた150の席が満席となり、いつかこのホールを満席にしたいというセンター設立時からのスタッフの悲願がかなったと喜んでいただきました。

 私は事前に発表して、当日出席の皆さんにも配っていただいたプログラムに従って、私が重複障害を負った経過から、入院中急性期のOT、PT、ST、退院後は自らのプログラムに従って生活訓練、テープ図書や音楽による高次脳機能の再生、パソコンと点字の訓練、歩行訓練という段階を踏んで社会復帰に近づいたリハビリ体験を語りました。

 その中でリハビリには、まず 第一に人生哲学と目的意識が必要で、その経過では過去の経験や趣味なども結びつけて楽しみと喜びを感じながら取り組んで、少しの進歩を意欲に結びつけながら進むという、心のリハビリ論を提供しました。

 テープ録音と新聞取材が入って少し言葉を選びながらも適当な冗談を交えながら、ほぼ時間いっぱいの90分にわたってお話しました。

 その後15時からの交流会には最初の受付で10人だった希望者が、蓋を開けるとその3倍の30人になっており、急遽、椅子の数を増やしてすし詰めになった別室で開かれました。
 声を出しやすい環境になって多くの意見や質問を出していただいたために、私もホールで言い残したことを補足できました。

 帰りも公用車で徳島空港まで送っていただいた清重さんには申し訳ないと思いながら、勧められるままに空港内の店で生ビール1杯の打ち上げをさせていただいてから、19時00分発のJAL1442便羽田行き最終便に搭乗して、羽田からは行きと折り返しの路線で予定通り21時30分に田園調布駅に無事到着となりました。

 帰宅してすぐにパソコンを開くと約束通り徳島新聞社会部の巽記者から、翌朝掲載予定の新聞の原稿が送られてきており、22時の締め切りに追い立てられるように 大急ぎでチェックして携帯でOKの連絡をしました。

 後で落ち着いて読み直してみると、私を医師としては過去形で紹介してあるのが少し気になりましたが、現実には私は臨床の現場からは手を引いて後方支援の仕事をしているのですから、とりあえずは これで納得することにしました。


(2008年9月5日)

 1958年 6月10日 神奈川県生まれ。
 1984年 群馬大学医学部医学科卒、横浜市立大学医学部で2年間の臨床研修後に脳神経外科入局。
 1996年 横浜市立大学病院在職中に転倒による脳挫傷で視覚障害に高次脳機能障害、歩行障害を含む重度障害を負って99年に退職。

 2002年より横浜市内の医療福祉専門学校をはじめ首都圏内の大学の非常勤講師などとして社会復帰。
 2004年より自身のリハビリ体験を題材とした講演活動を開始し、新聞、ラジオなどのメディア取材も積極的に受ける。
 2007年 横浜市内の介護付有料老人ホーム「はなことば新横浜2号館」で、福祉の現場を後方支援する医療相談員として常勤復帰。

 その他、依頼に応じて大学の講義や講演活動、メディアの取材協力などの社会活動も続けているが、最近は活動の場が減少し、特に講義や講演の機会を求めている。

 趣味として東京都杉並区内で活動する障害者バンド「ハローミュージック」のバンドマスターとして指導に当たり、一方 横浜市内では20年以上前から参加しているジャズバンド「ネクスト」のピアニストとして演奏を続ける。

 仕事も趣味も社会の逆風に揉まれて風前の灯火ですが、神様を信じ、神様に生かされている自分を信じて歩みを止めずに進みたいと思っています。
 東京都大田区在住。
 連絡先アドレス masazumisato@b01.itscom.net