【宮内木箱】   【会員のつぶやき】  Top


(2022年2月5日)

     「最終講義」

  若き日に吾が勤めし病院の閉院の日がついに来たれり

  コロナ患者受け入れたりし病棟に人影はなくベッドが並ぶ

  眼を病みていること話すこともなく背筋を伸ばす元副院長

  院内の温泉プールに湯水なく清掃済みの床面光る

  七人の教え子母校に帰り来て最終講義の吾を支える

  アフリカの任地で果たす役割を語りくれたり身振り交えて

  教授職辞する最後に伝えたり Think Globally and act Locally!

  還暦を迎える日には父母はなく遺影の前で頭を垂れる


     「DPATは災害支援精神科チーム」

  被災せし人らのこころに寄り添わむDPATナース出動を待つ


     「故郷(ふるさと)」

  故郷の天候今朝も確かめる朝刊一面右下を見て

  父母の建てたる家を売却す庭の井戸にも別れを告げて

  所有権移転を決めるその日にも桜島より朝日は昇る

  城山の宿より見えるご来光 礼拝終えて故郷を去る

  午前二時眠れぬわれは起き出して父母の遺影の前に佇む

  黒帯を締めて空手の演舞する若きナースの眼差し鋭し


(2022年2月1日)

     「Seven Fair Ladies」

 私は、還暦を迎えたのを機に、17年余り勤務した佐賀大学を3月末に退職することにした。難病の網膜症による弱視の進行により、仕事がやりにくくなったのが原因の1つであるが、後進に道を譲りたいという気持ちもあった。通常、退任する教授の場合は、年度末の3月にセレモニーとして、教職員を対象とした最終講義が行われるが、私はそれを丁重に辞退して、11月22日の4年生の対面での最終講義の日に、学生と関係教職員のみを対象に、最後の講義をさせていただくことにした。

 私は、国際保健看護学領域の担当であるため、私が指導した卒業生で、海外で活躍中、あるいは過去に活躍した経験のある看護師7名を招聘して、15分ずつ講義をしてもらい、最後に私が1時間の総括講義をする計画を立てた。
 当日は、アフリカのザンビアやベトナムなどから卒業生が駆けつけてくれた。海外で活躍する人材を育成するという目的で創設された分野の担当教員である私は、彼らの講義を聴きながら任務が達成できた安堵感と感動を覚えていた。

 私にとって、Seven fair ladies と言うべき存在である、彼女らを下記に紹介する。

 1)Mさんは、現在大学教員をしている。学生時代は、私が顧問を務める国際医療研究会の部長をするとともに、海外での医療支援活動に参加していた。講演のタイトルは、「海外での医療支援活動および学生時代の海外研修からの学び」である。

 2)Nさんは、大学病院の高度救命救急センターに勤務する看護師である。新型コロナウイルス感染症の患者さんの看護などの多忙な勤務の中から駆けつけてくれた。タイトルは、「スリランカにおける官民合同の医療支援活動」であった。

 3)Yさんは、ベトナムの看護師養成教育機関から駆けつけてくれた。タイトルは、「ベトナムの病院における老人ケアプログラムの定着と人材育成」であった。

 4)Sさんは、大学教員で私と同じ講座に勤務している。タイトルは、「米国での看護留学および海外医療支援活動について」である。

 5)Iさんは、総合病院の手術室に勤務しながら、客員研究員として、私の研究や教育のサポートをしてくれている。タイトルは、「ブラジルの総合病院における看護師としての2年間の勤務から」である。

 6)Tさんは、アフリカのJICAザンビア事務所に勤務している助産師である。今回は、新型コロナウイルスによる感染防止のための国内での2週間の隔離期間を含めると約3週間かけて、佐賀まで駆けつけてくれた。タイトルは、「ODA(政府開発援助)の保健セクターで働くということ」である。

 7)Mさんは、大学の研究所勤務で、放射線被ばく医療の研究や実務のため、長崎と福島を頻回に往復して仕事をしている看護師である。タイトルは、「海外における放射線被ばく医療の研修と災害看護について」であった。

 彼らの講義を聴講しながら、大学に勤務した17年間のことを思い出していた。
 彼らの人材育成が私の任務であったが、仕事のやりがいでもあり、楽しみでもあった。そして、私が弱視になった後は、様々な形で私の仕事をサポートしてくれた。そのおかげで還暦まで無事に大学教員を務めることができた。ありがたいことである。少し余力を残して退職し、その後、自由な立場から後進をサポートしたいと考えた。

 大学を退職した後は、しばらくの間、非常勤講師として国際保健や災害医療、および保健医療福祉行政論、看護英語などを教え続ける予定である。

 今後は、マイペースで教育と研究を続けて、余生を送りたいと考えている。


(2021年6月26日)

     「木箱のつぶやき」(私と短歌)

 令和3年度から、「ゆいまーる」の正会員に加えていただいた新地浩一です。佐賀大学医学部の教員として、勤務しております。どうぞよろしくお願いいたします。今回は、趣味についてお話ししたいと思います。気楽にお読みください。

 私が難病の網膜症に罹患していることが判明してから、10年近くになります。現在、弱視の状態ですが、何とかまだ見えているという状態です。

 私は、20年ほど前から、短歌を趣味とするようになり、熊本在住の歌人であった石田比呂志に師事しました。まだ、網膜症に罹患する前のことです。10年ほど前に、第一歌集『戦(いくさ)なき国』を出版したころに、宮内木箱(みやうちきばこ)という雅号を使うようになりました。
 宮内は、母の旧姓で、木箱は、以前に参加していた短歌結社「牙(きば)」の弟子という意味の牙子と同音の文字から取りました。私のささやかなこだわりです。石田氏の死後は、「牙」が解散したため、短歌結社「八雁(やかり)」に参加して、短歌を詠み続けています。

 石川啄木は、短歌を「悲しみの器」と表現しました。人間は、悲しみや苦悩を何らかの趣味や芸術に昇華させることにより、乗り越えることができるのかもしれません。
 私も短歌を詠むことにより、救われているような気がしてなりません。以下に、以前に詠んだ短歌や最近の作品を少し紹介します。いずれも歌集『戦なき国』や『八雁(やかり)』令和3年1-3月号に発表したものです。

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  戦なき国に生まれて軍用のヘリコプターで急患運ぶ

  内視鏡 手に取ることもなくなりて光源ひとつわが胸におく

  若きらに国際保健を教えむと四十路のわれは肥前に向かう

  届きたる白杖組み立て伸ばしおり使い勝手のよき長さへと

  夜が来てもの見ることの難(かた)ければ午後八時には就寝とする

  見えねども声と気配で見分けおり相手の声を引き出しながら

  心眼で見るとう言葉かみしめて見えざる顔を想像しおり

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 自分の病状や日常生活、季節のうつろい、仕事のことなど、短歌の対象となることには事欠きません。また、奥が深く、同好の人たちと歌会に参加しながら、批評を受けて交流するというメリットもあります。年齢、性別、職業、来歴などまったく異なる短歌会の方々との交流は、楽しいものです。皆さんにも、同好の友人を持つことをお勧めします。