【大里】  【会員のつぶやき】  Top


(2015年1月17日)

     「頭の中に穴があいているよ」

 長男は2歳と9ヶ月になる。わがままで、やんちゃで、きかん坊で、大変だなあと心の中で思いながら彼と接しています。
 1月の上旬に、彼もインフルエンザにかかって高熱を出し、薬を少し飲んで、少しずつ体力を回復していた頃の話です。

 いつもイスに座って、えらそうな態度で、「これ、おいしいよ」と言ったり、「これ、ママが食べていいよ」と食べたくないオカズを返そうとしています。
 そして、「食べなさい」と言うと、本人は不満となり、怒り始めます。そして、食卓の上にあるコップや皿などをたたき落とし始めます。

 僕は彼が落とした所が水でぬれてしまったので、イスの周りを雑巾でふいていました。すると、彼は僕の頭の上の方から、「パパ、頭の中に穴があいているよ」と叫ぶではないですか。

 僕はすぐに気づきました。彼の目の前にある僕の頭頂部、その中央の毛が少ないのです。彼は、感じたままに、それを「穴」と表現してみせたのでした。


(2011年6月26日)

     「梅の実」

 梅雨の時季。本日6月26日は、時に霧雨が降りながらも、傘なしで過ごすことができた。長袖でも暑くない一日だった。
 我家の玄関前にある梅の木の枝の実が、日に日に大きくなってきた。10日ほど前には妻の千恵子が、脚立に登って、青く硬い実を収穫していた。同じ職場仲間から頼まれたという。梅干にする人もいれば、梅酒、あるいは梅ジュースを作るらしい。仕事から帰ってきてもまだ明るさの残る短い時間に、汗をかきながら手元のザルが重くなるのを喜んでいた。

 でも、と思う。3月11日の大震災以来、毎日のように放射能を含む風が吹き、雨が梅の木を絶えず襲ってきた。丁度、梅の花が咲きほころんでいた頃だ。彼女と僕は、開いたばかりの花の甘い香りを楽しんでいた。しかし地震によって事情は一変した。そして3ヵ月以上経って、梅の実は何事もなかったかのように育っている。

 実をもぎりながら、そして硬い皮を触わりながら、僕は放射能の影響があるか、推測している。毎日のように、インターネットで県内のモニタリングポストの数値を見ている。毎日、自分の住む町の大気がもつ放射線量が、県のホームページに掲載されている。0.12μSv程度だが、果たして梅の実にはどれほどの量が蓄積されているのだろう。

 彼女の同僚も、ある程度汚染されているのを知っていて、それでも、いつもと変わらずに梅干を漬け、梅酒を作る。不安との闘いはないのだろうか。なぜ、そうも割り切れるのだろうか? 僕には、その納得ができない。自分を強引に納得させようとしても、不安が残っているのを感じる。


(2010年2月2日)

     「患者さんのため」

 病院で仕事をしていると、誰もが、「患者さんのために」という枕詞を使っています。私も、ついつい意識しないままに使ってきました。しかし、やっている内容が本当に患者さんのためになるのかどうか、また、その証明がだれができるのか。疑問ばかりです。

 親が子のために色々と考え、世話をやきます。「子供のため」と言い、「お前のため」と話しかけます。でも、たいていは親の一方的な考え方であり、時に独りよがりになり、逆効果になることもあります。「おためごかし」という表現が与えられることもあります。

 外来にしろ病棟にしろ、患者さんに接する度に、自分のやっている行為が患者さんのためになるのか?と自問自答します。でも、その思考はなかなか先に進みません。外来では、患者さんから処方の内容や検査について希望を言われることがあります。病気の種類によっても対応が異なりますが、場合によってはその希望に沿って薬の内容を変更することもあります。逆に、希望を断わることもあります。断わった場合に、その理由を説明しますが、患者さんは不満のまま帰っていくこともあります。

 こんなこともありました。外来の患者さんで、頚や肩が痛むので、筋肉の緊張をほぐす薬を希望してきたことがありました。最初は断わったのですが、どうしてもという熱意に負けて、該当する薬を出したのですが、元々出していた薬と併用注意となっていて、次回に中止しました。こうしたことは度々ありますが、希望に沿うことが良いこととは限らないわけです。

 外来でも病棟でも、患者さんは希望や要求を出してきます。病気そのものを治療するのが目的だとしても、その目的地に辿り着く道はたくさんあります。どの方法がいいか、どんな手段がいいのか、考えながら選択するしかないのですが、本人の意に沿わないことも多々あります。病状が改善して入院を継続する必要がないのに退院ができないという社会的入院の患者さんも少なからずいます。

 家族に問題があるためにそうなってしまうのですが、治療者だけの力量では解決できません。患者さんのことを考えると強引に退院させても構わないのですが、家族は家族の立場を主張して譲らず利害が対立したままで、退院させられない。患者さんの気持を優先させるあまり、家族が病気になってしまうこともあります。入院で起こる問題は、家族の比重がとても大きいことを毎日のように痛感しています。



(2009年3月28日)

     「マスコミと薬」

 現在、国内外を問わず、うつ病の治療の中心は抗うつ薬であり、抗うつ薬の中心はSSRIである。一方、この10年の間に、うつ病や自殺が社会問題として国民だれにでも耳慣れたものになっており、さらに今のマスコミはその内容に一歩踏み込んで、その治療内容や抗うつ薬の問題が注目されるようになっている。

 例えば、「SSRIが副作用として興奮や暴力を引き起こすのではないか?」「日本では何でも薬中心になってしまい、しかも大量投薬によって症状を悪化させている」という内容である。

 私は先日、外来の新患を診察した。診断はうつ病である。本人と家族に対して、「薬とカウンセリングを平行して治療しましょう」と話したのだが、家族が怒ったように、こんな話を始めた。

 「うつ病でSSRIは感情を鈍くするだけであって、うつ病の改善には ならないと聞いてます。薬を飲むというのは簡単だけど、身体には悪いだけでしょう。うつ病を治すのは、カウンセリングから始めるのが大切だと考えて来ました」とおっしゃる。

 ウーン、これはマスコミの影響か? 家族がそこまで極論するとは。これは誤解では なかろうか?と感じた。2月下旬のNHK総合の番組の影響かもしれない。
 その後も話し合ったが、本人と家族の希望を優先させて、カウンセリングに回ってもらった。今回の処方は出さなかった。

 NHKの番組が伝えたかったことを曲解しているように思う。番組の中で、イギリスでの事情が紹介され、そこでは、うつ病の治療は最初に認知行動療法を受けてもらい、その後 必要に応じて薬物療法に移るとのこと。

 3月22日、私は東京で開かれたうつ病の学術講演会に出席した。ここでも、各国の治療内容の詳細な紹介があった。イギリスでは、軽症うつ病の場合のみ、認知行動療法から始めるとあり、中等度うつ病では薬物から始まるとのこと。これが実態らしい。



(2008年12月7日)

 ★ 2006年11月に、ひたちなか社会福祉協議会のボランティア連絡会主催の講演会で、私の今までの軌跡を話しました。その講演の後、地元の点訳グルーブ「ともしび」の会員の方が、墨字におこしてくれました。以下、その内容を転載します。


 私の視力は大学の途中で下がり始めました。1977年の頃です。左眼は網膜剥離で、手術のために入院しましたが、結局、視力は戻りませんでした。一方、右眼はその頃から段々と視力が下がり始めました。

 大学にいる頃は弱視の状態ですね。視力が若干残っていて、けれども、たとえば黒板の字なんかは見えないし、だんだん視力が下がってくると、教科書の字もだんだん読めなくなってきて…。そういう中でいろいろと 同級生の人からサポートをしてもらって、教科書をテープで読んでもらったり…。

 医学部というのは、実習の非常に多いところなんですが、実習の時にも仲間というか同級生からいろいろサポートしてもらって、それで実習を何とかかんとかこなしてきました。それでようやく卒業ができたわけですけれども、卒業する頃には、もう 大分 視力が下がっていて…。

 弱視のことに詳しい方であればご存知なんですが、テレビ式の拡大読書機があります。試験を受ける場合にも、そういう機械を使って試験を受けたり、あるいは自分で文字を書く時、そういう道具を使って書いたりしました。
 普通の字を我々は点字に対して墨字といいます。墨字を使う場合にも、大学にいる頃はまあまあ何とかできました。

 卒業した時に、通常ですと医学部の場合は国家試験を受けます。国家試験に合格すると医師免許というのを申請して、それをもらいます。その時点から医師としての活動ができるわけです。

 僕の場合は、卒業した時 そういった読書機を使わなければならないという状態でしたし、それを使って試験が実際受けられるかと厚生省と話をしまして、1回だけ試験を受けたことがあります。

 でも時間の延長とか無かったし、普通に他の人たちと同じように試験を受けて、その拡大読書機を使ってやっていくわけですけれども、とっても能率が悪いんですよね。
 他の人が全部回答できるような時間が経っても、僕の場合は半分も終わらなかったですね。マークシートに回答を書き込むという作業も、その読書機を使っても なかなかうまくいかなかったし、ほとんど回答できなかったという記憶があります。

 そういうことでいくら勉強しても、これでは試験は通らないなということで、その時点で僕は医者になる道を完全に断念しました。
 それ以降は、横浜とか東京の方でお勤めをしたりしたんですね。

 卒業してから5、6年で完全に見えない全盲状態になったんですが、そういう状態でもつまり点字でいいから、こういう仕事があるよっていうことで いくつか公的な施設とか、あるいは会社のほうで仕事をさせてもらいました。

 ただ そういう仕事も何箇所かやったんですが、あまり長続きしないで、それで これじゃしょうがないなということで 先ほど紹介のあったように鍼灸マッサージの資格をとることにしたんです。それが今から13、4年前ですか、1992年に盲学校に入っていますから、今から14年前になるんですよね。

 それで鍼灸マッサージの資格を取って、そのあと簡単な研修を受けたり、水戸で開業したりとそんな経過なんです。
 それで医師免許をもっていれば、わざわざ鍼灸マッサージの資格を取り直さなくても、鍼灸マッサージの業を行うことは法律上 できます。僕の場合 当然免許も何も無かったわけですから、わざわざ盲学校に入り直して それで免許を取るしかなかったわけです、当時は…。

 そんな感じでこの20数年間 大学を出てからやってきたわけなんですが、僕自身の力でというのではなくて、社会の方が変ってくれた、そのお陰で、僕は再び試験に挑戦することができたわけです。

 法律が変わったのが今から5年前、レジメの最初の方にも書いてありますけれども、2001年に法律が変わりました。
 もちろんその日に突然変わったわけではなくて、いろいろな障害者団体の運動があったり、あるいは世界的にも障害者に対する権利をなんとかしようじゃないかという動きがあったり、いろんな社会的な背景があるかと思います。

 その中で日本の法律関係も医師法だけではありません。いろんな法律がこの時期に変わりました。国の法律だけで60項目以上あるといわれています。
 医師とか医療関係が多いですけれど、医師とか看護婦とか、歯科医師とか、調理師とか、いろんな資格免許に関する法律があって、その中で目が見えない者とか、耳が聞こえない者とか、そうした障害を理由に免許を与えないという法律がありました。それを欠格条項と言っています。

 今日のレジメでは大きな1番の(1)に書いてありますので、関心のある方は終わった後にでもゆっくり読んでいただきたいと思います。

 医師法が変わって それに伴なって実際に医師の国家試験を目の見えない人にどういうふうに出したらいいんだろうかということで、厚生省で検討して、実際には2003年の3月に実施された試験から視覚障害者へ配慮した形になっています。
 僕は制度が変わってから3回受けています。2003年、2004年、2005年と…。
 去年 2005年の時にようやく合格できました。

 正直いって20数年間 ブランクがありましたから久しぶりに勉強する、勉強自体から頭が離れていました。再び試験を受けようかなと思ってから勉強に慣れるまでちょっと時間がかかりました。
 本を読んでもらって新しい言葉を覚えていく、新しい考え方を身に付けていくという…。
 なかなか新しいことを覚えていくということは、年をとればとるほど難しいですね。これは多分みなさんもよくご存知かなと思うんですけれども…。

 僕自身も20代に比べて、この勉強を再挑戦したのが40代後半、47、8歳になってからですから、他の20代の若者と同じような勉強をするというのは、なかなかしんどいなというのが正直な感想でした。しかも他の人と同じように勉強をすぐできるわけじゃなくて…。

 僕たちのように視覚障害、目が見えないときに困るのが新しい勉強をするということ、その時に教材がないのです。
 点字の教科書にしても、あるいはテープに録音された教科書にしてもないのですよね。ですから自分でその教材を作るということから始めなくちゃいけない。それが時間がかかるのですよね。だから勉強を始めようという時には、まず教材作りから始める。ですからすぐにスタートラインに立てないです。

 それがハンディなんですね。だから障害者なんだなとつくづく実感しました。
 何をするにしても、必ず感じることなんですけども、今回も本当にそうでした。
 しかも、今回 僕自身とった勉強は、いろんなグループの人とか個人のボランティアの人とかにお願いして、対面朗読をしてもらい…。

 対面朗読とは朗読のボランティアですね。音訳ボランティアの人に読んでもらって、その場で中味をザーッと聞いていくときもあるし、その場で録音してテープにして、それを家に帰ってから また聞き直すということもあります。そうした対面朗読というかたちをとりました。

 いろんな人、いろんな団体にお願いしました。勝田にある「声の友」というグループの方にもずいぶんお世話になりましたし、それから公的な機関では水戸にある県立図書館ですね。

 県立の図書館は障害者サービスというのをやっておりますけれども、(そういう対面朗読をこちらのニーズにどれだけ応えてくれるかどうかは別として、一応 対面朗読サービスをやっております。)それもずいぶん利用させてもらいました。

 時には東京に出かけるようなこともあったし、いろいろな場を利用して、そういうサービスを利用したりして、少しずつ教科書を作っていったんです。
 教科書ができるまで自分の勉強を待っていたら何年もかかってしまいますから、教材を作りながら自分も平行して勉強していく、そういうふうにして進めました。

 法律が改正された後の最初の国家試験、これが2003年の3月に受験したんですね。
 今から3年前、それが改正後の初の国家試験だったんですが、確かに視覚障害者に配慮してました。半分は点字で出題してもらって、半分は朗読というかたちだったんですけど…。

 ただ問題は、自分の勉強が必要な分の大体2割から3割ぐらいだったんですね。本が読めたのは、その程度の量しか最初のときは読めていなくて…。
 ですから実際に試験を受けても知らない単語とか、知らない病気とか、そんなものばっかりですよ。
 これじゃほんとに試験に合格するまでに何年かかるかなと、そういう暗い思いで 試験会場で受験したことを覚えています。そんなこともありました。

 そうは いってもやるしかないので、しかも10年も20年もこういう試験勉強ばかりやっているわけにもいかないので、とにかく3年間だけは勉強しようと思ったんです。
 そうすれば一通り必要な範囲は読めるだろうし、あるいは自分自身の頭の方もだいぶ医学のことに慣れるだろうと思って、とにかく3年だけは やろうと思いました。

 その時は、那珂湊の実家のほうに居たんですけれども…。
 たとえばマッサージの依頼があっても必要最低限だけ引き受けて、それから定期的に毎週1回マッサージをする人の仕事はそのまま続けるとか、そんな感じにして生活のかなりの時間を勉強の方に割いていました。

 一番困ったのは写真とか画像の問題なんです。
 実は、今 医学の世界とはそういう部分がとっても多いんですよね。X線写真とか、CTとか、国家試験でもそういう問題がたくさん出てくるんですね。
 CTでもそうですし、今 MRIという機械がありますよね、超音波とか いろんな検査がすすみました。

 僕が大学にいる頃は、MRIという機械は無かったんですよ。ですからそういう知識はありませんので、そういうのは最初から基本的なところを勉強し直して、やっていくということになるんですが、本を読んでもらうボランティアの方も、そういうことをあまり知らないわけですよね。

 写真とか あるいは心電図のようなグラフが出てきても、なかなか僕の方に伝えるのがすごく難しいわけです。
 これ当たり前の話ですよね。音訳ボランティアの方は、当然医学の中味そのものは素人のわけですし、説明できなくて当たり前なんです。
 だけれども問題のかなりの部分は、写真とかそういったものを使う、そういう問題がとっても多かったですね。

 だから そういうとこをどうするかということで、ずいぶん悩みました。
 音訳してくれているボランティアの方とお互いに興奮して、ここはどうなの、ああなのと言い合いになったり、喧嘩の一歩手前になったり、そういうこともずいぶん経験しました。とにかく結果的にはわかる範囲内で写真とか説明してもらって…。

 あと医学に詳しいボランティアの方がたまにいるんですよね。そういう方になるべく多く写真とか説明してもらうことにしたり、あるいは実際の現役のお医者さんとか、かつての友人とか、そういう人にお願いして、基本的な写真の読み方を教わったり、そんなふうにいろいろ工夫して勉強しました。


(2008年9月7日)

 1955年、茨城県那珂湊市(現、ひたちなか市)に生まれる。
 東京医科歯科大学医学部在学中、1977年、左眼の網膜剥離で入院手術するも回復せず、その後、右眼も徐々に視力が低下。大学を卒業する頃は強度の弱視状態、テレビ式拡大読書器を使って読み書きをしていた。

 卒業後は、所沢にある国立身体障害者リハビリテーションセンターにて、点字や歩行訓練などの生活訓練を受け、さらに職業リハビリテーションセンターでコンピュータ等の訓練を受けた。

 1983年7月、神奈川県ライトセンター(横浜市)に入社。約6年間在籍した。業務内容は、視覚障害に関する啓発活動、ボランティアの養成事業等であった。その後、東京の外資系会社 ヒュエルテック・ジャパンに入社、約1年半で退社した。

 視覚障害をもっていても一般的な職業に就く流れができ始めていた時代。私も引き続き模索したができず、三療(あはき業)の道に転換することにした。その資格を取るために、茨城県立盲学校(水戸市)に3年間在籍し、1995年3月に免許を取得した。

 以後、筑波技術短大(現、筑波技術大学)の附属鍼灸診療所で研修を受けながら治療に当たった。また水戸で開業し、鍼灸やマッサージを施術した。この間、横浜市にある治療院に勤めたこともある。

 1990年代は、障害者運動が高揚した時期だった。その背景には、1981年の国連障害者年、1982年から国連障害者10年行動が始まり、日本も官民一体となって障害者問題に取り組むことになったことがある。そしてその結実として、1993年の障害者基本法の制定があり、形の上では障害者への差別が禁じられるようになった。

 その流れの延長上、障害者団体の働きかけも大きかったが、国の法律において差別の条項を見直しする動きが徐々に始まった。欠格条項(資格や免許を取得する際に、条件によってそれを制限する条項)が問題となり、「障害をもつ」故に免許取得を制限する法律が60以上あることが明らかとなった。

 そして その改正が政府レベルで進み、2001年には医師法を含めて厚生省関連の多くの法律が改正された。厳密には、医師法においては視覚障害・聴覚障害をもつ者が国家試験を受ける際、法改正前は「絶対的欠格条項」として門前払い状態だったのが、法改正後は、「相対的欠格条項」として一定範囲で許容されるようになった。
(続く)