【有光 勲】  【会員のつぶやき】  Top


(2020年1月6日)

     「まさかこの私までもが高齢者の自動車事故に出くわそうとは!」

 高齢者による自動車事故は、なんと多いことか。このところ毎日のように報道されている。先日も、女子高校生が85才の男の車にはねられて亡くなった。余命いくばくもない人間に、事故とはいえ、人生これからという若者が命を奪われようとは、なんというつらいことか。遺族ではない私にしてもどうしようもない怒りを禁じ得ない。

 しかし、こうした悲惨な事故も所詮は人ごと、私には無縁のものと思っていた。ところが さにあらず、私もその例外ではなかったのである。
 ある日曜の午後、私は用があって息子の車に乗せてもらって出かけた。しばらく走って交差点を通り抜けようとした時である。私たちの乗っている車の後ろにドスンという大きな衝撃が起こった。私は車の後ろが道路上の何かにぶつかったのではないかと思った。

 「おい、止まれ。後ろを見てこい」
 息子が路肩に車を止めて降りていった。
 「いかん、車にぶつけられた。バンパーが壊れている。しかし、その車はもういない」という。

 辺りを見回していると、それとおぼしき車が赤信号にひっかかって止まっていた。息子がそこに駆け寄り、
 「あなた今、私の車にぶつかりましたね」と言うと、
 「いや、知らない。私は気がつかなかった」と言った。
 「そんなことないでしょう。あなたの車の前のバンパーにこんな傷がついているじゃありませんか。とにかくこちらに来てください」

 仕方なさそうにその男は現場に引き返してきた。そこに着くなり、その男は
 「ここには一時停止のラインがある。そこで止まらなかったそっちが悪いではないか」と言う。
 私は頭にきた。
 「何を言うか、おまえが人の車にぶつかってきておいて、先に謝れ」と言った。
 そのとたん、息子が私の耳元に口を寄せてきて
 「こりゃあ いかん、かなりの年寄りだ。もうそんなこと言ってもいかんぞ」
 とささやくように言った。歯も抜けてみすぼらしい服装をしているという。

 「とにかく、ここで言い争っていても仕方ないので、警察に来てもらいましょう」
 と私が言うと、その男はかなり不服そうであったが、ついには渋々承諾した。

 こんな時にも携帯電話は便利である。やがて警察がやって来た。その警察官は、車の破損状況や衝突した場所をチェックし、記録していた。事故の様子を話しても、どちらがいいとか悪いとかについては何も言わない。我々の住所、氏名、生年月日、電話番号などをただ聞くだけである。

 「事故証明はできますので、保険会社に連絡して事後処理をしてもらってください」と言って警察官はさっさと帰っていった。
 例の男は、何も言わずに逃げるようにして立ち去って行った。

 車は左側からぶつかってきたので、もう一瞬速ければ助手席の私が怪我していたかもしれない。そう思うとぞっとした。
 直ちに保険会社に連絡し、経過報告した。
 「それでは、先方の加入している保険会社と相談の上、事後処理をするようにします」とのこと。

 あくる日、その保険会社から電話がかかってきて、
 「逃げようとしたはずです。なんと先方は、保険に入っていませんでしたよ。『俺は悪くない。一切保証はしないぞ』と息巻いていましたよ。実は、このケースだけでなく、年寄りの加害者にはこういう人間が多いので困りますよ。全く罪の意識がないですから」と、こぼしていた。

 息子はこれまで事故を起こしていないので、保険の掛け金は当初の半額以下になっている。バンパーの修理代はたいした額ではなかったので、自費で直した。保険の世話になるかどうかは保険料のことも念頭に置いたうえで判断する必要がある。もし保険を使えば掛け金が元に戻ってしまうからである。

 人間だれしも過ちは犯す。しかしそんな時、対処の仕方でその人物の人間性が知れるというものであろう。この車をぶつけてきた老人、残念ながら決して褒められた人格ではなさそうである。
 車をぶつけた相手が私たちだったから よかった。これが、もし厄介な難しい人間だったとしたらどうなっていたか。
 「新車にしてくれ。当て逃げしようとしたそんな卑怯なおまえは絶対にゆるさん。むち打ち症になった。入院するからな。医療費はもちろん、その間の休業補償もしてもらうぞ。このままですむと思うなよ」などと脅迫されだしたらどうするのか。

 今回の事故を教訓に、この老人には、取り返しのつかないような大事にならないうちに免許を返上してもらいたいものである。


(2019年8月2日)

     「それからの蜘蛛(くも)の糸」

 芥川龍之介の短編『蜘蛛(くも)の糸』はほとんどの方がご存じだと思う。しかし、まだ読まれていない人には、この話の皮肉、おかしさがわからないと思うので、まずそのあらすじを書いておきたい。

 ある日、釈迦が天国(小説では極楽)の蓮池のほとりを散歩していて、ふと地獄の方を見下ろした。底の血の池地獄では、多くの罪人たちがもだえ苦しんでいた。その中にカンダタという大泥棒がいた。カンダタは悪いことばかりしていたが、たった一つだけいいことをした。

 ある日のこと、カンダタが討手に追われて林の中を逃げていたとき、足下に1匹のクモが這い出してきた。一気に踏みつぶしてやろうと思ったが、「いや待て、一寸の虫にも五分の魂ということもある。ここであえて殺すこともないだろう」と思い、そのクモを助けてやった。

 釈迦はそのことを思い出したのである。そこでクモの糸を地獄に向かって下ろしてやった。真っ先にそれを見つけたカンダタは、大喜びでそれにかきついて天国に向かって上り始めた。このようなことには慣れているカンダタも、さすがに疲れて一休み、何気なく下を見て驚いた。大勢の罪人たちがぞろぞろと上がってくるではないか。
 「こら、これは俺のものだ。みんな降りろ」
と大声で叫んだ。そのとたんクモの糸が切れて再びカンダタは地獄へ落ちていったのである。

 これは、自分本位の考えをしていたのでは、せっかくのチャンスも逃してしまう。他人を思いやる心がなければ、結局は自分までもが不幸になってしまうという教訓を説いた、イソップ物語のような寓話である。

 もう60年以上も昔になるが、この話には続きがあるという。NHKラジオの朗読の時間に放送されていた。それが、「それからの蜘蛛(くも)の糸」である。大変おかしかったので、今でもその内容は、はっきり覚えている。しかし、その作者については思い出せない。だれでも知っているような有名な作家ではなかった。その話というのはこうである。

 カンダタがクモの糸をよじ登っていて疲れたので一休み、下を見ると大勢の罪人たちが上がってくるのを見て驚いた。そこまでは同じであるが、それから先が違う。カンダタは考えた。
 「とにかく俺が先頭を行っている。真っ先に天国に着くのはこの俺だ。ここで大声を出したりして、この糸が切れてしまったのでは元も子もない」と思い、ゆっくりとますます慎重に上り始めた。

 一方、天国の釈迦は、どうなっていることかと思い、地獄の方をのぞき込んだ。そのときである。ちょうどそこにたどり着いたカンダタは、片方の手を天国のへりにかけ、もう片方の手で釈迦の首にかきついたからたまらない。釈迦はもんどりを打って地獄へ落ちていった。カンダタは、そのはずみでまんまと天国に上がることができたのである。

 天国は大変環境のいいところである。大泥棒のカンダタもいつしか慈悲深い人間になっていた。
 ある日、カンダタが蓮池のほとりを散歩していて、ふと地獄の方を見下ろした。底の血の池地獄でもだえ苦しんでいる罪人たちの中に釈迦がいた。
 「あ、これはいけない。一刻も早く引き上げてやらなければ」と思い、地獄に向かってクモの糸を下ろしてやった。

 それを真っ先に見つけた釈迦は、大喜びでそのクモの糸にかきついて上り始めた。途中で疲れて一休み、何気なく下を見た釈迦は驚いた。大勢の罪人たちがぞろぞろと上がってくるではないか。そこで釈迦は思わず
 「これこれ、者ども上がってきてはならん」
と言った。そのとたん、ぷつんと大きな音を立てて釈迦のすぐ上でクモの糸が切れて、釈迦は再びまっしぐらに地獄へ落ちていったのである。

 私は、無神論者であるが、釈迦についてどうこう言うつもりはない。平穏無事なときには、人間だれしも口先だけでなんとでもきれい事は言える。しかし、いざ自分の命が助かるか助からないかというような極限状態に立たされたとき、その人間の醜い本性が現れるものだということであろう。

 しかし、中にはあの悪魔のなせる生き地獄のアウシュビッツで命乞いをする若者の身代わりになって、自らの命を差し出したコルベ神父のような立派な人がいるのも確かである。
 「そういうおまえは、どうなのだ」
 残念ながら私は、人格者でないので、いざというとき、おそらく大変にひどい醜態をさらすに違いない。果たして皆さんはいかが? …


(2018年8月1日)

      夢の中で 〜 同じ人生は繰り返したくない 〜

 「ああ、この俺もすっかり年老いてしまったものだ。若い時は良かった。もう一度あの頃に帰りたいものだ。」
とつぶやいた時です。突然、私の前に神様が現れました。

 「おい、おまえ、そんなに昔に帰りたいのか?」
 「あ、神様、そりゃ そうですよ。私だけでなく、誰だってそう思っていますよ。」
 「そうか、よしよし、そんならおまえを若い頃に帰してやろうじゃないか。」
と言うのです。

 「え! ほんとですか。ぜひお願いしますよ。」
 「しかしな、ひとつだけ条件があるぞ。おまえを昔に帰すのはたやすいことだ。だが、おまえの過去まで変えることはできない。全く同じ人生の繰り返しだ。しかも、その時点ではおまえが今のような境遇になるとはわからない。録音テープを初めて聞くのとまったく同じだ。どうだ、それでも良かったら昔に帰してやろうじゃないか。」

 私は考えました。楽しいこともいろいろとありましたが、大変につらい思いをしたこともあります。

 「いや、それは困ります。全てでなくてもいいのです。ほんのちょっとだけやり直したいのですが。」
 「だめだ。そうしてやりたいのはやまやまだがな、おまえの過去を変えることはこの神の俺にもできないのだ。さあ、どうする? それでも良かったら昔に帰してやろうじゃないか。」

 私は即座に答えました。

 「いえ、それなら結構です。もう昔に帰りたくありません。」
 「そうか、これまでおまえもいろいろとつらいことがあったみたいだな。そんならおまえはこれからどうする?」
 「はい、若い時に帰りたいなどといったばかげたことは考えないで、残された人生を大切に生きていきたいと思います。そして少しは人様のお役にも立ちたい…。」

 「そうか、よしよし、幸いおまえはいいところに気がついたようだな。もう俺は二度とおまえの前に姿を現さないからな。今、言ったことを忘れず、まあ、しっかりやれ。」
と言ったかと思うと、ふうっと煙のように消えてしまいました。

 「あ! あの小説にでてくる話だな。」
と思い出された方も多いのではないでしょうか。そう、芥川龍之介の短編『杜子春(とししゅん)』です。あの小説の最後で、杜子春と仙人がやりとりする場面です。その内容については触れることができませんので、まだの方はぜひ一度お読みになってみてください。

 現在、地位と名声を得ている人でも、そこにまでたどり着くには薄氷を踏むような、時には寿命の縮むような思いをしたかもしれません。私も神様に言ったようにずいぶん楽しい思いもしましたが、大変につらいこともいろいろとありました。今から思い出してみても、顔から火の出るような恥ずかしい思いをしたこともあります。もう絶対に同じ人生は繰り返したくありません。同じ人生を繰り返すぐらいならこのまま終焉(しゅうえん)を迎えた方がはるかにましです。

 これは、決して負け惜しみではありません。私は長い人生の中で今が一番幸せだと思っています。ただ残りの時間が少ないのが残念ですが、これは年をとれば誰しも同じですから、仕方ないですね。
 仕事から解放されていますので、夜通し読書にふけることもできますし、また、この年になっても趣味の習い事をすることもできます。息子夫婦も親切にいろいろとサポートしてくれますし、日常生活で困ることは何もありません。贅沢をいえばきりがありません。
 人間「足るを知る」ということが大切なことではないでしょうか。

 ところで、皆さんはこれまでの同じ人生を二度でも三度でも繰り返したいと思われますか。


(2008年9月8日)

 今回入会させていただきました高知の有光です。私は長年 高知県立盲学校に理療科教員として勤務し5年前に定年退職となりました。しかし、その後も後任が見つからないため引き続き期限付講師として在職させて貰っております。私の歳相応に40年ほど昔のことを書かせていただきたいと思います。

 盲学校の卒業生で唯一安定した給与所得者となれるのはマッサージ師として病院に就職することでした。40年ほど前までは理学療法士といった身分制度もなく、専ら盲学校の卒業生が整形外科を中心とした いわゆる物療といわれる部門で重要な役を果たしておりました。マッサージだけでなく電気・温熱療法や機能訓練なども行なっていたわけです。

 病院からの求人も多く、国公立病院へも容易に就職できておりました。現在のような非正規雇用などは全くなく、まさに売り手市場、本来なら雇用主に給付されるはずの助成金までも給料に上乗せして貰うというようなケースもありました。

 ところが、昭和40年8月の「理学療法士及び作業療法士法」施行により理学療法士が配置されるようになってからは病院マッサージ師の地位は一変してしまいました。国公立病院への就職はPT以外の者は認められず、また保険点数でも10倍ほどの差が付けられておりましたから個人病院でもマッサージ師を敬遠するようになっていきました。

 意図的に医師がマッサージの指示を出さず仕事をどんどん減らし、職場にいづらくさせられたため退職せざるを得なかったといった事例もあったようです。

 晴眼者のあはき師養成施設が新設されるような場合には必ずといっていいほど反対運動が起こりますが、この理学療法士制度の導入についてはそのような動きはほとんど見られませんでした。時代の流れとしてPT法の成立を阻止することは不可能であったでしょう。しかし今となっては所詮結果論に過ぎませんが、病院マッサージ師としての既得権を保障し、将来的にも身分を安定させるための運動は必要であったのではないかと思われます。

 それではなぜこのような運動が起こらなかったのでしょうか。それは病院マッサージ師の間に大きな誤算があったこと、というよりは反対運動を阻止するために意図的に誤解させられていたようです。

 ではその大きな誤算とは何か?「PT法施行に際しては経過措置が設けられており、おそらく現在、マッサージ師として働いている者には既得権もあるはずなので、簡単な講習や形式的な試験程度でほぼ全員にPTの資格が与えられるであろう」というものだったようです。

 そして昭和41年から6年間の期限付きで特例試験が始まりました。ところが、いざ蓋を開けてみると、「これは大変」受験した者はもちろん、関係者の間に大きな動揺と衝撃が走りました。怒りの声すら聞かれました。ほとんどの者が不合格、というよりは意図的に落とされたといったほうが正確かもしれません。おそらく合格率は数%ではなかったでしょうか。

 特例試験を受けるためには、まず240時間の講習を受ける必要がありました。そして、その後の筆記試験と実技試験に合格した者にPT免許が与えられました。
 先ほども書きましたように、この特例試験は既得権者を救うという意図は全くなく、まさに落とすための試験であったとしか言いようがありません。問題なのは実技試験です。

 試験官は全て医師で3つの関門がありました。
(1)測定や評価について
(2)義肢や装具、電気、温熱などの物理療法について
(3)機能訓練の実際について
です。台の上に山積みされた義肢や装具の中から指定された物を取り出せとか、よほど視力がなければできないようなテストをされたようです。そして問題なのは受験者によっては第4関門の面接に回されたということです。西日本の場合、実技試験は大阪で行われましたが、この第4関門の面接官はその当時整形外科の分野では有名であったM先生でした。

 残念ながらこのM先生は視覚障害者が医療に携わることについては、かなり否定的なお考えを持っておられたようです。彼の面接を受けた者はほとんど不合格にされたと聞いております。

 あまりに合格者が少なかったため、もう3年間(昭和49年まで)特例試験を延長させることはできましたが、この9年間で果たして何人が救われたでしょうか。念のためにと思い、厚労省に電話して訊いてみました。不思議なことに特例試験についての資料は見当たらないということでした。

 それでもしつこく、あれやこれやと訊いているうちに特例試験最後の2回分の資料が出てきたようです。それによると8回目の特例受験者は874人で合格率4.9%、最後の9回目は849人で10.8%ということでした。10%を超えたのはおそらくこの最後の試験だけではなかったのではないかと思われます。おそらく毎回数%の合格率ではなかったでしょうか。医療関連の資格試験でこのように低い合格率の例が他にあるでしょうか。全く冷酷な話です。

 ちなみにこのPT法施行と同時に、高知でもいち早く既存の学校にPT養成課程が設けられました。そのため幾つかの関係団体が県に陳情を行い、特例試験のための講習会が開催されることになりました。昭和44年の7月から12月までで、土曜は午後の3時間、日・祝祭日は6時間という結構ハードなものでした。開講時には100名ほどの受講者がいたと思います。私もこの講習会に参加しましたが、義肢や装具、ファシリテーションに関する理論と実技など、それまであまり見聞きしたことのないものも多く、大変勉強になりました。

 そして翌昭和45年、四国では1次試験が高松で、その合格者には大阪で2次の実技試験が行われました。
 私の受けた実技試験では第1関門は前脛骨筋の筋力テストと試験官の足部を触れながら足根骨の位置的関係を説明するもの。第2はKBM下腿義足とクレンザック式の短下肢装具を見せられて、それについての特徴などについて説明したり、ホットパックやパラフィンバスの使い方について説明したりするもの。第3は脊髄損傷(対麻痺)の平行棒内での歩行訓練や車椅子←→ベッド間の移動を、試験官を患者に見立てて訓練するというものでした。

 決して自慢するわけではありませんが、たまたま理解していた所が出題されたため合格することができました。私もM先生の面接に回されていたら、おそらく合格することはなかったと思います。その年の高知県でPT試験に合格したのは、私と養護施設に勤務していた女性の方(晴眼者)の2名でした。このことからも、いかにひどい試験であったかということがおわかりいただけるのではないでしょうか。これは全く根拠のない数字ですが、筆記試験だけであればおそらく6、70%の合格率ではなかったでしょうか。特例期間が終わって間もなく実技試験は廃止されました。

 現在、視覚障害者を対象としたPT養成施設は3箇所ありますが、重度の視覚障害者は実習の受け入れ先や就職に大変苦労していると聞いております。月並みなことを言いますが、晴眼者のシステムに視覚障害者がいくら努力して対応しようとしても、そこにはおのずと限界があるのは当然です。障害者雇用の促進という観点から障害者に応じたシステム作りが必要なのは当然です。障害者の能力が充分に発揮できるよう、政治的な解決が望まれます。そういう意味においても、この「ゆいまーる」の発足の意義は大変大きなものではないでしょうか。