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(2015年12月26日)

    「絹さやのおもひで」

 私は絹さやエンドウが嫌いです。
 あのシャリシャリとしたさやの食感がなんとも言えず不快というのもありますが、同時にある思い出がよみがえってくるのです。

 初めて絹さやを食べた時。小学校に入るかどうかの頃だったと思います。あまりの食感の不快さに、私は母に「これマズイ!」とズバリ言い放ちました。それを聞いた母は、般若のような形相で、私の目の前に大皿一杯の絹さやを差し出し、食べないと許さない、と宣告したのでした。泣きながら、何度も吐きそうになりながら絹さやを食べ終えたあの夜以来、私は絹さやに特別な陰性の感情を持つようになったのです。

 絹さやエンドウを料理の中に発見するたびに、しゃりしゃりとしたあの食感を体験するたびに、あの日、あの時の体験がよみがえり、嫌な気分になるのでした。絹さやだけを捨てたり、先に絹さやだけを食べ尽くしたりしながら、なんとも言えない不全感・不条理・罪悪感を感じていました。

 40歳を過ぎて帰省したある日のこと。年老いた母に、私は思い切ってあの日のことを打ち明けてみたのです。実はあの日以来、絹さやが嫌いになった。絹さやが出てくるたびに嫌な気持ちになる。あの時、もう少し寛容に接して欲しかった。いずれ食べるようになるだろう、と見守って欲しかった…いろいろ訴えた気がします。

 母は厳格な教師で、食べ物の好き嫌いなんて想像もつかないような人だったし、努力で何でも克服してきた人だったので、きっと私にも自分のようになって欲しくて厳しく接したのだろう。期待通り振る舞えない私のことが許せなかったんだろう…と思っていました。

 母は少し沈黙して、ゆっくりと話し始めました。
 実は私、すごい偏食なんやで。肉も食べられへんし、野菜も全部嫌いや。生の魚も嫌いや。今でも食べられへんものばかりや。努力したけど、まだ直らん。お前には何でも食べて欲しかった。好き嫌い言わん、何でも美味しく食べる子になって欲しかったんや。

 愕然としました。何で気づかなかったんだろう。そういえば、母はいつも一人で後から晩飯食ってた。ご飯と塩昆布ばっかりだった。肉を食べてる姿なんて、見たこともない。お刺身を食べない母を「好き嫌いして?」と揶揄した時、ムキになって怒っていた。そうか、母は自分自身の偏食が劣等コンプレックスで、ずっと傷ついていたんだ。それを今まで私に知られないように、ずっと隠して苦しんできたんだ…

 お母さん、ごめんな。ずっと恨みごとみたいに思って。お母さんも苦労したんだよな。俺には、何でも食べられる喜びを手に入れて欲しかったんだよな。
 今、気づいたよ。俺、お母さんのおかげで、ほとんど好き嫌いないわ。何でも食うわ。苦手になったの絹さやだけや。たった一つの苦手な食材に、俺こそ何でこだわってたんだろう。お母さんのおかげで他の全部の食べ物好きになったのに…

 ありがとう、お母さん…
 私の中の絹さや像が、がくん、がくんと音を立てて変形していきました。
 絹さやは、私にとってはもはや避けるべきトラウマではなく、乗り越えるための単なる課題でしかなくなりました。相変わらずあの食感は得意ではないけれど、得意じゃないことなんて他にも山ほどあります。気が向いた時だけ、気が向いた分だけ食べたらいいと思えば、絹さやが出てくるのも妙に楽しみになりました。

 そして何より、母の弱さを教えてくれたのも、母の愛情をこの歳で感じさせてくれたのも絹さやエンドウだったのだと思うと、最近では何かこいつが愛おしくさえなってきたのでした。



(2014年12月30日)

     「ツンデレ夫婦」

 ツンデレとは、特定の人間関係において敵対的な態度(ツンツン)と過度に好意的な態度(デレデレ)の両面を持つ様子、又はそうした人物を指す。(ウィキペディアより)

 年末の忙しい時期に急な法事への召集がありまして、忘年会明けの二日酔いの頭を抱えながら、新幹線に乗り込んだのであります。お勤めを終えまして、私の両親を含めた極めて平均年齢の高い集団の中で、3時間ほど少々居心地の悪い思いをしたわけです。

 ザリガニの釣り方を教えて一緒に食ったとか、お前は必ず風呂でオシッコするとか、まあどうでもよろしい話が続きまして、そろそろトイレに行くふりでもして逃げようかなと思い始めていた頃でした。話が父と母の若い頃に至りまして、何を思ったか、親父がこんなことを口走り出したのでした。

 父と母は、元々同じ中学の、同じ学年の、英語と国語の担当教師だったのです。父が申すに、当時の母はそれはそれは高慢ちきな嫌な女であったそうで、父は母のことが大嫌いであったとか。要は、父は何をやっても母に勝てず、いつも悶々としていたらしいのですな。

 そんな時、クラス対抗のソフトボール大会がありまして、父は「あの高慢ちきな女(母)の鼻を180度にへし折ってやるがや」と伊勢弁で誓ったのでした。その後の話を15分くらい省略しまして、結果的には父のクラスは母のクラスに惨敗し、準優勝に終わったのだそうです。その時、悔しさに唇を噛む父のもとに、優勝旗を手にした母がそっと近づいて参りまして、何をするのかと思いきや、母はその優勝旗のポールのお尻で父の頭をコンコン、と叩いて、アッカンベーをして去っていったのだそうです。

 父の頭に猛烈に血液が逆流しました。
 「あの女、いつか目にもの見せたるがや!」(伊勢弁)
 その日から、父は母から一瞬たりとも目を離すことができず、その一挙手一投足を追い続けたのだそうです。で、気がついたら、紋付袴を身にまとって文金高島田の母の横に立っていたのだそうです。

 私はトイレに逃げるのも忘れ、目の前のお爺のツンデレ話に耳を奪われておりました。
 血の気の多すぎた父は、癇癪だけでは飽き足らず、後に私にも受け継がれることになる黄斑変性も患い、母に大きな苦悩と、それなりの幸せをもたらします。
 母は、嬉しそうとも、悲しげとも言えそうな表情で、「しゃあないわ。この人は私がおらんとあかんから。昔からな」とつぶやき、孫つまり私の子供たちの話題に切り替えたのでした。

 帰りの新幹線の車中、私は何度もこの話を思い出してはニヤニヤしておりました。
 堅物夫婦と思っていた両親の馴れ初めが、まさかのツンデレエピソードであったこと。そして、ツンデレを演出した母のキャラクターこそが父を支えたのであろうこと。あまりにも私好みのオタク的ストーリーでありました。

 かつて、両親の生き方への反発もあって郷里を離れ大阪に出た私ではございましたが、この話を聞いて、「こんな夫婦のあり方でもいいんさ(伊勢弁)」と思ったのでありました。

 [追記]
 ちなみに我が家では、こんな高度なツンデレ技の応酬は無理です。