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  人生の途中で見えなくなった看護師のライフストーリー

   ― ありのままの自分で生きる覚悟を持つまでの軌跡 ―

       前北 奈津子


 ★ この論文は、2025年度 武庫川女子大学臨床教育学研究科修士学位請求論文として筆者が作成したものに加筆修正しました。


■目次

■第1章 はじめに 1
 第1節 研究の動機 1
 第2節 研究の目的と意義 3
 第3節 本論文の構成 4
 第4節 本章のまとめ 4

■第2章 先行研究 5
 第1節 用語の定義と説明 5
  第1項 視覚障害者 5
  第2項 中途視覚障害 7
  第3項 ロービジョン 8
  第4項 白杖 9
  第5項 視覚リハビリテーションとロービジョンケア 13
   1)視覚リハ
   2)ロービジョンケア
   3)機能訓練
   4)歩行訓練
   5)コミュニケーション訓練
   6)日常生活訓練
   7)歩行訓練士
  第6項 同行援護 20
  第7項 VISIONGRAM 21
 第2節 視覚障害の現状 22
  第1項 視覚障害者の現状 22
  第2項 視覚障害者の特徴 23
 第3節 先行研究の概観 27
  第1項 文献検索の結果から見えたこと 27
  第2項 中途視覚障害の障害受容についての先行研究 28
 第4節 本章のまとめ 29

■第3章 調査概要 30
 第1節 調査対象者と調査方法 30
 第2節 倫理的配慮 31
 第3節 本章のまとめ 32

■第4章 結果と考察 33
 第1節 A氏の紹介 33
  第1項 A氏のプロフィール 33
  第2項 A氏と私の関係 35
 第2節 目を背けてきた「見えない」という現実が身近なものとなり、逃げることができなくなった。 36
  第1項 「深刻には悩まなかった」 36
  第2項 「日常生活に支障がなかったらそれなりにいけちゃうんだよね」 39
  第3項 「見えないということがはじめて身近なものとなった」 40
 第3節 見えないという現実から自分をまもるために、今までの自分を捨て、新たなできない自分として生きることを決意 42
  第1項 「途方に暮れた」 42
  第2項 「子どものために笑顔でいようと決意」 44
  第3項 「今までの自分を捨てて、できない自分として生きる!」 45
 第4節 偽りの自分ではなく、見えないことも含めたありのままの自分として生きる 47
  第1項 「本当の私はこうじゃない! けど…」 47
  第2項 「私は看護師として働いているんだ!」 48
  第3項 「私は何も変わってなかったんだ」 50
  第4項 見えないということも含めたありのままの自分で生きる 52
 第5節 A氏にとって見えないということ 55
  第1項 見えないということは私の人生の条件のひとつ 55
  第2項 視覚障害者は嫌 57
 第6節 本章のまとめ 59

■第5章 総合考察 61
 第1節 見えない自分というアイデンティティ 61
  第1項 見えない自分と向き合ってきたA氏 61
  第2項 見えない自分と向き合ってきた私 64
  第3項 見えない自分と向き合ってきた過程を振り返って思うこと 70
 第2節 「見える」ということ「見えない」ということ 73
 第3節 本研究の限界と今後の課題 79
 第4節 本章のまとめ 82

■第6章 おわりに 83

■付表
 1 自己紹介
 2 インタビューガイドに対する自分自身の回答

引用文献 85

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■第1章 はじめに

 本章では、今回の研究を行う動機や背景、研究の目的や意義について述べる。また、本論文の構成についても紹介する。

□第1節 研究の動機

 失明すること、視覚障害者となることは、単に見るという機能を失うこと、見えている生活を失うということではなく、それまでの自分の存在そのものを失うことであり、普通の生活の死を意味する(Carrol,1961 樋口訳 1977)。視覚障害者となることは、それまでの人生を大きく変えてしまいうる衝撃の大きい出来事であるため、その障害の受容は決して容易なものではない。

 私は30代に病気で視力を失い、中途視覚障害となった。今まで当たり前のように見えていたものが何も見えなくなり、できていたことが何ひとつできなくなり、できないことだらけの自分にどんどん自信を失っていった。見えている世界から取り残されてしまった自分は、これからひとりでこの世界を生きていかなければならないという恐怖と孤独でいっぱいであった。

 視覚障害は、私の仕事、人間関係、社会とのつながり、安定した生活、自分への自信、夢、希望など、それまで得てきた大切なものを奪っていった。特に、私の生きる希望であった看護師の仕事を失ったことは、見えなくなったことよりもつらい経験であったといえる。唯一の希望を失い、見えないという現実に押しつぶされそうになった。そして、自分の人生に絶望した。人生の途中で視力を失うということは大きな転機であり、自分にとって強い苦痛を伴う経験であった。

 そのような自分と向き合うことがなかなかできず、否定的にしか考えられない自分は弱くてダメな存在だと感じ、ますます自分を否定するようになっていった。「今まで看護師として一生懸命患者と向き合って生きてきたのに、自分の何が悪かったのか、どうして自分なのか、どうしてこんなことになってしまったのか」、そのようなことばかりを考える絶望的な日々を過ごしていた。見えないということが自分のすべてであり、見えない自分を自分で認めることができなかった。この苦しみは今もなくなったわけではない。

 しかし、そこから8年が経ち、見えないことが自分のすべてではなく、ただ見えないという状態になっただけであり、見えなくなった自分の人生を自分らしく生きていけば良いと考えられるようになった。これは、たくさんの人と出会い、支えてもらったからこそである。とりわけ、比較的早期に自分の目標とする人に出会えたことが大きかった。

 中途視覚障害者の中には、このような支えになる人になかなか出会うことができず、ひとりで苦しむ人たちが多数いる。機能訓練施設で出会った仲間の中には、見えなくなってから10年以上も、どうしていいかわからず、だれにも助けを求めることができず家に引きこもっていたという人が何人もいた。その中には、自ら命を絶とうと考えた人、精神疾患を発症した人もたくさんいた。支援機関や機能訓練につながるまでに数年、十数年という時間が経過している人が多かった。「もっと早く知っていたら、もっと早く勇気を出して機能訓練に来ていたら、ひとりであんなに苦しまなくてよかったのに」という思いは、共通であったように感じる。

 もちろん私自身も同じであった。中途視覚障害者が、自分と同じような立場の人の話を聞きたい、思いを知りたいと思っても、それを叶えられる支援体制が整っていないからである。ひとりで悩み苦しんでいる人がまだまだたくさんいるということが、当事者として私が実感した現状である。だからこそ、私は、中途視覚障害の当事者としての自分や仲間の思い、経験を伝えていくことが必要なのではないかと感じた。

 見えなくなってからの8年間の自分の経験は、エベレストに登るくらいの険しい道のりでもあり、一方で、豊かな出会いや経験にあふれた私の宝物のような道のりでもあった。苦しいこと、つらいこと、悔しいことももちろんたくさんあったが、一方で、嬉しいこと、楽しいこと、人のあたたかさを感じられることといった、幸せを感じられる出来事もたくさん経験した。私はこの自分の経験と真摯に向き合い、この大切な経験に意味づけをしていきたい。そして、言葉として形に残し、多くの人に伝えていきたい。

□第2節 研究の目的と意義

 本研究は、人生の途中で見えなくなるという経験をした当事者が何を思い、何を感じながら、どのように「見えない」自分と向き合ってきたのか、その過程での心の動きについて明らかにすることを目的とする。その探求を通して、人生の途中で視力を失わなければならない人々が抱く思いや、その過程で必要とする支援についても考察する。また同時に、自分自身の人生について振り返り、その経験に意味づけできることを期待する。

 本研究の意義として、中途視覚障害となった人の思いに光を当てることで、同じような体験をした人の心の支えにつながり、今後の中途視覚障害支援の充実の一助となることが挙げられる。当事者だからこそ伝えることのできる生の声を届けていくことで、見えない生活を社会にもっと知ってもらうことを目指したい。

□第3節 本論文の構成

 本論文は、6つの章から構成する。第1章では研究の動機と目的、第2章では視覚障害を取り巻く現状と先行研究の概観について述べる。第3章では本研究の方法や倫理的配慮、第4章では対象者の語りから抽出されたトピックについて分析し、解釈について説明する。第5章では、総合考察を行い、見えない人生、見えない世界について考え、研究の限界について述べる。第6章では、本論文のまとめを行う。

□第4節 本章のまとめ

 本章では、私がなぜ今回このような研究を行うに至ったのか、自分の経験や思いを基にその動機や背景について述べた。そして、本研究の目的と本論文の構成や各章の概要について示した。


■第2章 先行研究

 本章では、本研究で使用する用語の定義や視覚障害支援で用いられる用語の説明を行う。また、様々な文献や資料を基に、視覚障害の現状と中途視覚障害に対する先行研究の概観について述べる。

□第1節 用語の定義と説明

 ○第1項 視覚障害者

 視覚障害は、医学、教育、福祉などの分野でそれぞれ定義が異なるが、本研究では、より多くの法律や制度で利用されている福祉における定義をもとに考える。福祉分野での視覚障害の定義は、身体障害者福祉法により定められている。身体障害者福祉法では、第4条において、「身体障害者」とは、別表に掲げる「身体上の障害がある18歳以上の者であって、都道府県知事から身体障害者手帳の交付を受けたものをいう」としており、そのうち視覚障害については第15条で規定されている(厚生労働省,1951)。また、表1のように身体障害程度等級表によって判定基準が細かく定められている。

 視覚障害は、視力の障害と視野の障害に分けられている。視力は物の見えやすさを示すもので、矯正視力0.6以下の場合に障害と認められ、程度によって1級から6級に分けられている。視野は物の見える範囲を示すものであり、ゴールドマン型視野計または自動視野計のどちらか一方を用い測定し、その結果から残存視野を計算し、2級から6級に分類される。

 令和4年4月より視覚障害の認定基準の一部が改正された。視力障害では、それまでは両目の視力の和で判定していたものを良い方の目の視力で判定するように変更され、視野障害では、自動視野計での判定基準が追加された。これは、WHOの判定基準に近づけた改正であり、この改正以前は、両目の視力の和で判定されていたため、生活視力と手帳判定視力に差が見られていたが、この改正により、より生活のしづらさに基づいた判定が行われるようになった。

 【表1】身体障害者障害程度等級表(身体障害者福祉法施行規則別表第5号)(視覚障害のみ抜粋)
 1級
  両眼の視力(万国式試視力表によって測ったものをいい、屈折異常のある者については、矯正視力について測ったものをいう。以下同じ)の和が0.01以下のもの
 2級
  1 両眼の視力の和が0.02以上0.04以下のもの
  2 両眼の視野がそれぞれ10度以内でかつ両眼による視野について視能率による損失率が95パーセント以上のもの
 3級
  1 両眼の視力の和が0.05以上0.08以下のもの
  2 両眼の視野がそれぞれ10度以内でかつ両眼による視野について視能率による損失率が90パーセント以上のもの
 4級
  1 両眼の視力の和が0.09以上0.12以下のもの
  2 両眼の視野がそれぞれ10度以内のもの
 5級
  1 両眼の視力の和が0.13以上0.2以下のもの
  2 両眼による視野の2分の1以上が欠けているもの
 6級
  一眼の視力が0.02以下、他眼の視力が0.6以下のもので、両眼の視力の和が0.2を超えるもの

 1)0.01以下の視力について
 0.01以下の視力については、図1で示した指数弁、手動弁、光覚弁に加えて、光を全く感じない光覚なしの4つに分類される。このうち手動弁以下の視力を盲と呼び、その中でも光覚なしを全盲と言う。指数弁以上の視力の人を弱視やロービジョンということもあるが、呼び方に対する明確な定義はされておらず、視覚障害の当事者や支援者の間でも、それぞれの用語に対する認識が一致していない場合も多く見られている。例えば、全盲を手動弁以下や光覚弁以下と捉えている人も多く、また、弱視は先天性でロービジョンは中途視覚障害による視力障害と考えている人もいる。このように、明確な用語の定義がなく、周知されていないのが現状である。
 図1 0.01以下の視力の見え方

 ○第2項 中途視覚障害

 中途視覚障害とは、もともとは晴眼者であった者が、病気や事故などの何らかの要因において人生の途中で視力や視野に障害を生じ、視覚障害となった状態である。五十嵐(2003)は、中途視覚障害について長期にわたって、普通の視覚的生活を経験したのちに、視覚に障害を負った者であるが、障害を負った時期の年齢的基準は曖昧であると述べており、法令や制度の中でも、明確な定義を示したものは見つけられなかった。本研究では、青年期以降に病気や事故などの何らかの理由により視覚に障害を負い、それにより生活に様々な支障を受ける状態となることを中途視覚障害と定義する。

 人間は外部からの情報の80%以上を視覚から得るといわれており、人生の途中で視覚に障害を負うということは、それまでの生活を一変する大きな出来事である。中途視覚障害になることは、活動に制限を与え、社会的・経済的・職業的な制約による生活の変化や、心理面への衝撃などがあり、とても深刻な影響を与える(高田,2012)。青年期以降に中途視覚障害となる場合、強い絶望感と無力感を味わうといわれる(社会福祉法人日本盲人福祉委員,2012)。中途視覚障害は、情報入手手段として視覚を使えず、一時的に何もできない状態に陥り、それまでの人生を一変してしまう衝撃の大きな出来事であり、深い絶望や苦しみを与えるものである。この絶望から立ち直るためには、様々な支援を要する。しかし、その支援は十分に行われているとは言い難い現状である。

 ○第3項 ロービジョン

 日常生活や社会生活などに何らかの支障をきたす程度の視機能のことであり、日本眼科医会では、視覚障害のために日常生活に不自由のある状態をロービジョンと定義している。一般的には、視覚障害をイメージする際に、「全く見えない全盲の人」をイメージすることが多いと思われるが、実際には、全盲よりもはるかにロービジョンの人の方が多く、ある程度の視機能を有し、残存視機能を活用しながら生活している。

 ロービジョンの人は、「見た目には視覚障害者とわかりにくい」(坂本,2007)という特徴があり、それ故に様々な誤解を受けることがある。例えば、視野狭窄があり足元や周囲の状況を把握することが難しく歩行には困難があるが、中心の視力は比較的残っており、文字や映像を見ることが可能であるという人もいる。このような場合、本を読むことや、ゲームをすることもできる。SNSなどでしばしば「白杖を持っているのに本を読んでいる、ゲームをしている。本当は見えており、視覚障害は嘘なのではないか」というような投稿を目にすることがあり、直接声を掛けられるケースもある。これは誤解から生じており、視覚障害の当事者を傷つけてしまうこともある。白杖を持っている人すべてが全盲の人ではないため、当たり前に生じうる状況である。

 ロービジョンの人は、見えている部分、見えにくい部分、見えない部分がひとりひとり異なっており、それによりできることできないことも異なっている。その日の体調や天候、周囲の環境などによっても見え方は変化する。そのため、自分の見え方を正確に伝えるということはとても難しい課題である。様々な見え方の人がいるため、ひとりひとりできることや困難なことが異なっている。

 ○第4項 白杖

 白杖は、「視覚障害者安全つえ」という名称であり、厚生労働省が定める視覚障害者用補装具のひとつである。視覚障害者が安全に歩行を行うために用いる道具であり、道路交通法第14条で視覚障害者は白杖の携行を義務付けられている。白杖は表2のようにサポートケーン、シンボルケーン、ロングケーンの3つに分けられ、また、ロングケーンは折り畳み式と直杖のふたつに分けられる。

 【表2】白杖の種類
 ・サポートケーン
 別名身体支持杖とも呼ばれており身体を支えるための白杖である。特徴としては頑丈で柔軟性のある材質で、グリップがT字になっている。主に足腰の弱い方や高齢の方が使う白杖。

 ・シンボルケーン
 主に周囲の人に自分が視覚障害であることを知らせるために使う白杖である。弱視の人など全盲の人に比べて歩行に支障がない人が使うことが多い。手引き歩行時にも使う。形式はロングケーンと比較すると短く細い形をしている。

 ・ロングケーン
 歩行の際に一歩先の障害物を把握するための白杖である。一般的に知られている白杖で、直杖と折りたたみ式の2種類があり、形状も長く、障害物や段差などの探索に向いている。

 白杖には大きく分けると「シンボル」と「探索」のふたつの機能がある。
 ひとつ目の「シンボル」とは、周囲の人や車両などに自分が視覚障害であるということを伝える機能であり、周囲の人によけてもらうなどの危険回避や介助を受けやすくなるといった効果がある。

 ふたつ目の「探索」の機能は、白杖を地面にスライドさせることや、突きながら歩行することによって、路面の状況を確認しながら情報を収集し、また、障害物などを見つけるという機能で、これによって段差や障害物、坂道などを把握し、安全に歩くことが可能となる。
 白杖を突きながら歩くことは、常に自分の1歩半から2歩前の路面や前方の状況を確認しながら歩くことにつながり、落ちる、ぶつかるなどの危険を回避することができる。このように、見えない状態で安全に歩くためには、白杖を正しく用いて歩行することがとても大切になる。しかし、白杖を持たない人、持っていても正しく使うことができていない人は多い。

 高田が2003年に行った中途視覚障害者の白杖携行に関する調査では、身体障害者手帳1、2級の重度障害者の40.8%、歩行訓練専門家が必要であると判断した者の33.3%が不携行という結果であった(高田,2003)。これには、ふたつの要因が大きく関わっていると考える。
 ひとつ目は、白杖に関する正しい知識や必要な訓練が十分に提供できていないことである。白杖支給時に福祉窓口で白杖の機能や歩行訓練についての情報提供を受けた人は5.4%という結果であり、ほとんどの人が説明を受けていなかった(高田,2003)。これは、今から約20年前の調査であり、少しずつは改善してきているかもしれないが、最近申請した人の中にも、説明を受けていない人が多くみられる。今もなお、情報提供が十分にされていない状態は続いていると推察される。

 白杖は電動車いすや補聴器、義手や義足などの他の補装具と比べると安価であり、また、構造も単純である。そのため、特に詳しい説明が必要でないと考えられてしまう傾向がある。しかし、正しい使い方や機能を説明されておらず、本人の状態に合わせた選定をされていない白杖は、ただの白い棒と同じであり、シンボルとしての機能は果たすかもしれないが、探索機能を活用し段差や障害物などの危険を回避するといった、本来の機能を果たすことはない。これでは、視機能の代替としての白杖とは言えず、安全な歩行を行うことはできない。白杖は、正しい使い方を知るための歩行訓練と合わせて提供されて初めて、本来の機能を果たすことができるのである。

 また、歩行訓練についての説明を受けていたとしても、歩行訓練の提供体制の不足により、歩行訓練を受けるまでに長期間の待機をしなければならない地域も多い。何年もの間、白杖の正しい使いかたや、白杖が自分に合っているのかもわからず、不安なまま危険な歩行をしている人もいる。

 2024年5月18日の山陰中央新報では、島根県内での視覚リハビリテーションの待機が続いている状態について、歩行訓練や点字訓練を申し込んでも待機期間が長く、白杖の正しい使い方がわからないまま、不安な状態で歩行している視覚障害者の現状が報告されている(山陰中央新報,2024)。これは、島根県だけでなく、その他の地域でも生じている問題と考えられる。白杖を正しく利用し安全に歩行できるようにするためには、身体障害者手帳や白杖の申請時に白杖や歩行訓練について情報提供し、必要な人が必要な時期に歩行訓練を受けられるような、提供体制を整備していくことが大切である。

 ふたつ目の要因は、白杖を持つことに対する心理的な抵抗が大きく、必要性は理解していても、心理的抵抗から持つことができないということである。白杖には、自分は視覚障害であるということを周りの人に伝えるためのシンボルとしての機能がある。この機能は、周りの人に視覚障害であることを知ってもらうことによって、安全の確保や介助を受けられるという大きなメリットがあるが、それは、自分の障害を開示するということでもある。これには大きな葛藤がある人も多い。

 白杖を持つと、良い意味でも悪い意味でも多くの人の注目を浴びてしまう。自分自身が見えないということへの抵抗が強く、現実が直視できていない時に、周囲の人から見えていないということ、視覚障害であるということを自覚させられる体験は、精神的に大きな負担である。そのため、特に知人の多いエリアを歩く時は、白杖を持たないという選択をしている当事者の話はよく耳にする。

 視覚障害の当事者にとって白杖は、周囲に自分のことを理解してもらうための大切なシンボルであると同時に、自分自身が視覚障害であるということを突き付けられるシンボルでもある。白杖を持つためには、大きな勇気が必要であるということを知ってほしい。そして、これから白杖を持つという当事者に関わる人は、白杖を持つことのメリットや必要性を知らせるとともに、白杖を持つことへの葛藤を和らげるような心理的支援を行ってほしい。

 ○第5項 視覚リハビリテーションとロービジョンケア

 視覚障害者に対するリハビリテーションにおいては、視覚リハビリテーション(以下、視覚リハとする)とロービジョンケアというふたつの用語が用いられることが多い。視覚リハは福祉分野で用いられており、ロービジョンケアは医療の分野で用いられている。ふたつの異なる言葉によって表現されているが、その内容は重なり合う部分も多く、明確な区別なく使われていることも多い。

 1)視覚リハ
 日本盲人会福祉連合(2017)は、視覚リハを「視覚障害があっても、自分らしく自立して社会で役割を持ち、生き生きとした生活ができるようになることを目的に、医療・福祉・教育等が連帯して行う活動である」と定義している。視覚障害となっても自立して自分らしく生きていくためには、できることを増やし生活の基盤を安定させることが必要である。そのため、視覚リハでは、歩行訓練や日常生活訓練などを通して、安定した生活を送るための力をつけていくサポートを行っている。また、視覚リハには職業訓練も含まれており、見えない状態であっても、社会の中で活躍できる力を身に付けていくサポートを行っている。

 視覚障害の職業訓練と言えば、視覚支援学校の理療科等で行われている「あんま、鍼、灸」の訓練が一般的にイメージされるが、近年では、スクリーンリーダーという画面の文字を読み上げるソフトを用いた、パソコン操作訓練なども行われている。
 視覚リハは、障害者総合支援法に基づく福祉サービスのひとつである機能訓練として、機能訓練事業所で行われることもあるが、機能訓練事業所はとても少なく、利用したくても遠方まで行かなければならず、長期間の待機を要する場合も多い。だれもが必要な時にすぐに利用できるという状態とは程遠い。

 一方で、地域支援事業や中途失明者緊急生活訓練事業等を基盤とした、自治体の独自のサービスとして提供されている事業では、事業名称や事業内容、利用方法、利用者の自己負担、事業予算などもそれぞれで異なっている。このような事業を全く、もしくは十分に行えていないという自治体もあり、地域によって受けられるサービスに大きな差があるのが現状である。また、こうした独自事業は、予算規模なども様々であり、厳しい予算での運営を余儀なくされている事業所も多い。

 認定NPO法人神戸アイライト協会のホームページでは、視覚リハ事業に対する神戸市からの委託費の大幅な減少により、赤字での事業運営を余儀なくされ、事業の継続が困難となっている現状が報告されている(認定NPO法人 神戸アイライト協会,2024)。これは、神戸市に限った問題ではなく、十分な予算を確保できず、厳しい予算の中で十分な活動ができないという現状は、様々な地域で見られている。
 地域の独自で行われている事業は、利用者の身近なところで行われており、訪問での事業も多く、利用者にとって利用しやすい形式となっているが、どこでもだれでも受けられるという状況ではなく、また、事業の継続性にも課題がある状態である。

 視覚障害の当事者にとって、安全に移動し、自分で身の回りのことができることは、大きな喜びであり、自分らしく生きていくために重要な役割を果たすことである。中途視覚障害では、今まで当たり前に行っていたことができなくなるということを数多く経験し、自分への自信を失ってしまう。できないことばかりにとらわれてしまう人も多い。しかし、視覚リハを通して、できないと思っていたことをひとつひとつできるに変えていくことで、自分への自信を取り戻すことができる。

 例えば、「見えない状態では、ATMでお金をおろすことはできないと思っていたが、音声とプッシュボタンで操作できる受話器のついたATMの存在を知り、ひとりでお金をおろせるようになった」「水を線まで入れることができなくてご飯を炊けないと思っていたが、お米の計量カップで簡単に量れることを教えてもらい、ひとりでご飯が炊けるようになった」など、工夫すればまだまだいろいろなことができるのだということを実感できるのが視覚リハである。ひとつひとつは些細なことであっても、できないことができるようになったという喜びは大きく、自信を取り戻すことができる。視覚リハは、視覚障害の当事者にとってなくてはならないものであり、視覚リハを必要とするすべての人に、視覚リハが届けられる未来を作っていくことが必要である。

 2)ロービジョンケア
 ロービジョンの人に対して行われる支援の総称で、医療的・教育的・職業的・社会的・福祉的・心理的な支援を包括的に表現したものである。日本眼科医会では、ロービジョンケアにおける眼科の役割を「ロービジョンケアへの窓口」であると述べており、患者の見え方を確認し、ひとりひとりの状態に合わせて、必要なサービスや支援機関に橋渡しを行っていくという役割を果たすとしている(公益社団法人日本眼科医会,2023)。

 また、補装具としての弱視眼鏡や遮光眼鏡等の処方、身体障害者手帳や障害年金等の申請のための診断書の作成なども眼科の役割である。眼科でのロービジョンケアは、相談や情報提供が中心であり、実際に訓練を行っている機関は少ない。ロービジョンケアに対しては、診療報酬としてロービジョン検査判断料250点/月を算定することができるが、これは、検査の結果をもとに補助具の選定を行うことや、他の視覚障害支援機関と連携を行うことへの報酬であり、その後の訓練に対しての診療報酬は定められていない。

 日本視覚障害者団体連合は、2019年に厚生労働省に対してロービジョンケアの診療報酬改定を求める要望書を提出しているが、この要望は未だ認められていない(社会福祉法人 日本視覚障害者団体連合,2019)。眼科における視覚障害に対するリハビリテーションへの診療報酬は、他の疾患や障害に対するリハビリテーションに対する診療報酬と比較してとても少ない現状である。そのため、ロービジョンケアにおける眼科の役割は、「窓口」や「橋渡し」に限られており、実際の訓練や支援については、福祉の分野で行われている視覚リハや教育機関での支援などに頼っている現状である。

 3)機能訓練
 障害者総合支援法に基づく福祉サービスであり、自立訓練の一種である。利用対象は、視覚障害の身体障害者手帳を所持している者である。国立障害者リハビリテーションセンターや社会福祉法人 日本ライトハウス等の機能訓練施設で行われており、機能訓練施設は、全国に18施設ある(社会福祉法人 日本ライトハウス養成部,2023)。

 国立障害者リハビリテーションセンターのホームページによると、機能訓練について「主に視覚に障害のある方を対象に、持てる力を最大限に活かし、地域や家庭、職場、学校などでより充実した生活を送ることができるよう訓練等を通じて支援します」と紹介されており、主な訓練内容としては、歩行訓練、パソコン訓練、点字訓練、録音再生機の訓練、日常生活訓練、ロービジョン訓練が紹介されている。
 機能訓練は大きく分けると、歩行訓練、コミュニケーション訓練、日常生活訓練に分けられ、訓練を通して見えない状態で生活していくための基本的な力を身に付け、安定した生活が送れるようにすることを目指す。

 4)歩行訓練
 白杖を用いて、見えない状態でも安全に歩くことのできる方法を訓練する。視覚リハの専門家である歩行訓練士等が行っている。白杖を使って足元の情報や前方の情報を探索する方法、周囲の音やにおい、風の方向など視覚以外の感覚から得られる情報から、周囲の環境や安全を確認する方法、頭の中で目的地までの地図を作る方法など、ひとりで白杖歩行をするために必要な技術や工夫を身に付けていくための訓練である。
 その他に、人に手引き誘導をしてもらう時の歩行の仕方や、屋内などでの白杖を用いない安全な歩行方法、歩行時の残存視力の活用方法など、それぞれの人に必要な歩行技術についても訓練を行う。盲導犬との歩行については、歩行訓練士ではなく、盲導犬訓練士が行っている。

 5)コミュニケーション訓練
 音声や拡大を用いたICT機器の操作方法や点字、墨字(紙に書かれた文字)などの文字を活用する方法を身に付ける訓練である。ICT機器の訓練では、拡大機能や色覚調整機能、スクリーンリーダー機能(画面に描かれている文字を音声として読み上げる機能)を用いてパソコンやスマートフォン、タブレット端末などをそれぞれの残存視力に合わせて利用できる方法を習得する。スクリーンリーダーや拡大などの様々な機能を用いて、ワードやエクセル、パワーポイントやOutlook、インターネットなどを利用できるように訓練を行っている。最近では、このような技術を身に付けて、元の職場に復職することを目指すケースも増えてきている。

 点字の訓練では、6つの点で文字を表している点字を触って読み取るための訓練と、自分で点を打って書くための訓練を行う。
 墨字の訓練では、見えない状態でも文字を書くための方法を訓練し、漢字を忘れないように学習することも行う。
 また、ロービジョンの人への訓練として、拡大読書器や単眼鏡、弱視眼鏡を用いて文字などを見るための訓練も行われている。

 6)日常生活訓練
 視覚障害者が、生活をするために必要な身の回りの動作についての技術や工夫を身に付ける訓練である。それぞれの生活スタイルなどによって必要な技術が違うため、ひとりひとりの生活に合わせた訓練内容となる。例えば、調理や掃除、洗濯、アイロンがけ、裁縫といった家事動作や、化粧の仕方、洋服の選び方、お金の見分け方、ATM音声操作やネットバンキングを用いた通帳の管理方法など、見えない状態でも生活に困らないように、生活に必要な様々な動作についてできる方法を考え、身に付けていく。

 7)歩行訓練士
 視覚障害者に対して、白杖を用いた歩行や日常生活動作などの指導を行うリハビリテーションの専門職である。作業療法士や言語聴覚士といった、他のリハビリテーション専門職と異なり公的な資格ではないが、厚生労働省の認定資格となっている。視覚障害者を対象とする機能訓練施設や視覚支援学校、点字図書館などの情報提供施設、自治体などに配置されていることが多い。歩行訓練士の養成は、厚生労働省からの委託で、社会福祉法人 日本ライトハウス養成部と、国立障害者リハビリテーションセンター学院視覚障害学科の2か所が行っており、年間に養成される歩行訓練士の数は30名程度である。これは、他のリハビリテーション専門職と比較すると極端に少ない。

 歩行訓練士は、国家資格ではなく、また、視覚障害に対するリハビリテーションの診療報酬がとても低く、病院への歩行訓練士の配置はほとんど進んでいない。そのため、他のリハビリテーション専門職と比較すると身分が安定していないことが多く、給与水準も低くなっている。国家資格ではないため、歩行訓練士というリハビリテーション専門職があるということを知らない人も多く、また、身分が不安定なこともあり、歩行訓練士を目指す人は少ない。歩行訓練士の配置基準が定められている施設があまりないことも、歩行訓練士が増えないことにつながっていると考えられる。他のリハビリテーション専門職のように、明確な配置基準を定め、身分を保証していくことが必要であると考える。

 ○第6項 同行援護

 障害者総合支援法に基づく障害福祉サービスのひとつであり、単独での外出が困難な視覚障害者に対して外出のための支援を行う。具体的には、誘導や安全確保などの移動の支援や外出中の視覚情報の提供、代読、代筆などの支援を行う。例えば、買い物に同行する場合は、目的地までの誘導や店内での誘導だけでなく、商品の説明や利用者の希望する情報の提供を行う。同行援護は、日常の外出のサポートだけでなく、余暇や社会参加のサポートも行っており、視覚障害者の生活を支える大切なサービスのひとつである。

 ○第7項 VISIONGRAM

 電通が開発した、視覚障害を可視化するためのビジュアルフィルターである。2023年12月に東京で開催された視覚障害者柔道の世界大会で発表され、日本選手団が採用した。検査データをもとに選手ひとりひとりの視力や感度をドットの大きさや密度を変化させることで表現している(電通,2024)。
 視覚障害の見え方は、視力や視野、色覚異常などいろいろな要素の影響を受けており、同じ病気、同じ障害等級であっても見え方は様々である。周囲の人に自分の見え方を正しく理解してもらうことは、適切な支援を受けるために大切なことであるが、とても難しい。しかし、このVISIONGRAMを用いれば、自分の見え方を簡単に周囲の人に知ってもらうことができる。

 VISIONGRAMの公式ホームページでは、「視覚障がいへの理解が深まり、障がい者も健常者も共に暮らしやすい世界を目指して」という理念が掲げられており、VISIONGRAMを通して、新しいコミュニケーションが生まれることが期待されている。VISIONGRAMは、新しいコミュニケーションツールになりうるだけでなく、視覚障害者の生活を豊かにすることにもつながると考える。VISIONGRAMを活用し、自分の見え方を簡単に正確に伝えることで、障害の状態や課題、必要なサポートなどを正しく理解してもらうことができ、自分らしく活躍できる環境作りにつながる。VISIONGRAMは、自分自身の検査データを入力することで作成することができ、だれでも利用することができる。VISIONGRAMは視覚障害の当事者の生活を支える、大切なツールになりうるものであると感じた。

□第2節 視覚障害の現状

 ○第1項 視覚障害者の現状

 厚生労働省(2022)が令和4年12月に実施した、「令和4年 生活のしづらさなどに関する調査(全国在宅障害児・者等実態調査)」によると、日本の視覚障害者数は27万3000人であり、そのうちの9割程度が中途視覚障害であると推定される。視覚障害者数は、身体障害者の6.54%、障害者全体の2.34%である。これは、身体障害の中で最も少ない人数である。また、前回平成28年度の調査では31万2000人であり、減少している。

 視覚障害に対する身体障害者手帳等級の内訳では、1級が11万3000人、2級が9万3000人であり、1、2級の重度障害者が全体の75.45%を占めている。聴覚障害や肢体不自由に比べ、圧倒的に重度障害者の割合が高くなっており、3級以下の手帳所持者数が極端に少ない結果となっている(厚生労働省,2022)。これらの結果だけを見ると、視覚障害者の数は少なく、また、減少していっているようにみえる。しかし、2007年に日本眼科医会が、国勢調査資料や各種疫学研究資料等を原資料に分析し推定した日本国内の視覚障害者数は、約164万人であり、「生活のしづらさ調査」の結果や、身体障害者手帳の保持者数よりもはるかに多くの視覚障害者が存在していると考えられている(日本眼科医会研究班報告, 2006;2007;2008)。

 日本視覚障害者団体連合の竹下会長は、現在の「生活のしづらさ調査」の結果をもとに障害者数を推定する方法では、視覚障害者からの有効回答数が少なく、視覚障害者の数が少なく推定されてしまっているのではないかと指摘している(CBホールディングス,2024)。視覚障害者にとって、墨字で多数のアンケート項目を書かれた調査に回答することは困難であり、回答していない視覚障害者が多数存在しているという可能性がある。

 また、視覚障害は高齢化との関係性が深く、白内障や緑内障、加齢黄斑変性、糖尿病性網膜症などでは、加齢とともに患者数も増えていく。このことから考えても、高齢化の進んでいく日本では、今後、中途で視覚障害となる人の割合は増えていく可能性が高いと考えられ、特に、高齢の中途視覚障害者の数が増えていくと推定される。視覚障害と加齢による身体機能の低下という二重の困難を負う人たちへの支援を、検討していくことが重要となると考えられている。

 ○第2項 視覚障害者の特徴

 視覚障害は、一般的に見えないことによる情報の障害と移動の障害が生じるといわれている。情報の障害は、見えないことで文字情報を収集することができないことや、スマートフォンやパソコンなどのICT機器の操作ができなくなり、情報へのアクセスが難しくなることで、必要な情報を得ることが困難となる。
 人間は外界からの情報収集の80%以上を視覚から得るといわれている。そのため、視覚に障害を負うということは、情報収集の手段の多くを失うことにつながる。見えなくなると文字での情報収集が難しくなるだけでなく、生活に様々な困難を生じる。視覚から得ている情報は多く、私たちの生活になくてはならないものなのである。そのため、視覚障害に対する支援の情報になかなかつながることができず、ひとりで悩んでしまう人が多い。

 移動の障害は、見えないことにより単独での歩行や外出が困難となることである。自由にいろいろなところへ行くことができなくなり、支援を得るために役所や支援機関に行くことも難しくなる。社会参加の機会の多くを失い、社会的に孤立してしまうことが多い。
 視覚障害となった人の中には、家から出ることが難しくなり、「閉じこもり」を経験する人が多いといわれている。高田ら(2012)が行った視覚障害者の外出状況についての調査では、視覚障害者の42.4%が、外出機会が月に3回未満の閉じこもり状態であり、また、そのうち59.5%は精神的健康が低下しているという結果であった。閉じこもりは社会とのつながりを希薄にし、さらに、情報とのつながりも希薄にしてしまう。
 情報の障害と移動の障害は、人や情報へのつながりにくさに影響し、これが、支援につながりにくいという状況を作り出している。この支援につながりにくいということが、視覚障害のひとつめの大きな特徴であると考える。

 もうひとつ、視覚障害の大きな特徴として、リハビリテーション(以下リハビリとする)体制がある。リハビリとは、ラテン語が語源であり、再びを意味する「Re」と適応を意味する「habilis」から作られた言葉である。直訳すると「再び適した状態にすること」となり、何らかの原因で体や心の機能に障害が生じ生活に適応できなくなった際に、訓練を通して失った機能を回復させ、代替手段を獲得し、再び生活に適応できる状態にしていくことである。例えば、脊髄損傷による下肢麻痺では、失った両下肢の機能を元通りに回復させることは難しいが、リハビリを通して、車いすで生活していく技術を身に付け、今の状態の自分で自分らしく生きる力を身に付けていくことを目指す。

 視覚障害でも、失った視覚機能を回復させることは難しいが、リハビリを通して、残存視力を有効に使って物を見る技術や、見えない状態でも歩行や日常生活を送るための技術を習得し、自分らしく生きていく力を身に付けることを目指す。視覚障害のリハビリである「視覚リハ」は、運動や言語、嚥下などのリハビリと同じように、とても大切な役割を果たすものである。

 見るという機能を失うことは、情報入手手段の多くを失うことであり、生活に与える影響はとても大きい。それは、脊髄損傷が生活に与える影響と比較しても、決して小さくはない。だからこそ、早期に視覚リハを受け、見えない状態での生活に適応する力を身に付けていくことが大切である。しかし、これらのリハビリの中で視覚リハだけが医学的な位置づけの中で取り組まれておらず、歩行訓練を含めてほとんどすべての訓練が、福祉の枠組みの中でのみ行われているのが現状である。
 脊髄損傷であれば、病院や施設でのリハビリ訓練が行われ、車いすでの生活の目途を立てた状態で地域に帰ることができる。一方で、視覚障害は、見えなくなりどのように生活していいかわからない状態のまま、地域に帰るしかないケースがほとんどである。戸惑いが大きいまま退院せざるを得なかったことで、病院から見捨てられたというように感じている人の話は、当事者の間ではしばしば耳にすることである。

 眼疾患で入院し視覚障害となっても、病院では歩行訓練や日常生活訓練などの視覚リハを受けることはできない。病院には、視覚リハを行うことのできる専門職が配置されていないからである。視能訓練士がロービジョン訓練を行っている施設もあるが、多くが外来のみであり、十分な訓練を受けられる体制ではない。
 日本眼科医会はロービジョンケアにおける眼科の役割を、「窓口」「橋渡し」としており、医療から福祉や教育の支援につなぐためのスマートサイトを作成し、47都道府県での導入を実現している。

 スマートサイトは、2005年にアメリカ眼科学会が提唱し、日本では、兵庫県眼科医会がスマートサイト「つばさ」として初めて作成した。現在では、日本眼科医会が支援し、都道府県ごとに作成を行い、眼科医療機関に配布している。リーフレットには、最寄りの地域での視覚障害の支援機関の連絡先などを記載できるようになっており、医療機関で必要と判断した人に配布し、医療からその他の支援機関への橋渡しをする手助けとなっている(公益社団法人 NEXT VISION,2021)。このスマートサイトが全国の医療機関に浸透すれば、病院に見捨てられたと感じる人を減らすことができるのではないかと思う。

 しかし、医療と福祉の間で支援が途切れてしまうことや、受ける側の福祉の体制が十分に整っていないなどの問題も多く、スマートサイト自体がしっかりと機能していないのが現状である。そのため、「窓口」としての機能にとどまらず、他の障害と同じように、医療の中でしっかりとしたリハビリを受けられるような体制についても、検討していくことが必要であると考える。他の障害に比べてリハビリにアクセスしづらい環境であることは、視覚障害の特徴であり、視覚障害者のその後の生活に大きな影響を与える問題であると考える。

□第3節 先行研究の概観

 ○第1項 文献検索の結果から見えたこと

 中途視覚障害に対する先行研究について検討するため、2024年6月にCiNii 国立情報学研究所 学術情報ナビゲータ[サイニィ]を用いて文献検索を行った。キーワードは「中途視覚障害」とした。その結果、総数は386件で、内訳は、研究データ0件、論文332件、本21件、博士論文4件、プロジェクト29件であった。そこから、重複したタイトルのものを削除していった結果、総数は290件となった。そのうち収集可能な論文は100件に満たなかった。その理由としては、多くが学術発表会のための抄録やポスターであったためであり、査読付きの研究雑誌に投稿された論文は、ごくわずかであった。

 今回収集した中途視覚障害に関する主な先行研究としては、先天性の視覚障害者に対する教育方法などを検討する教育分野の研究、音声を用いたアクセシビリティー技術などをテーマにした工学分野の研究、視覚障害者の支援体制などをテーマにした福祉分野の研究、視覚障害者の障害受容などをテーマにした心理分野の研究、眼科患者への支援方法を検討した医学や看護分野での研究があった。近年は、アクセシビリティー技術をテーマとした工学分野での研究が多く見られた。福祉分野の研究もタイトル数は多く見られたが、抄録までというものが多かった。

 文献検索の結果から、中途視覚障害に関する研究は、学会発表や抄録でとどまっているものが多く、査読論文は少ない状態であり、学術的な研究としては、これから研究が進められていく段階であるということが示されていた。
 現在報告されている論文のテーマとしては、当事者の生活や思いの実態、支援実践などを報告するような実践的論文は多く見られた。内容としては、個々の事例や地域での取り組みについて発表したようなものが多く、今後は、それらを取りまとめていくような研究が必要であると考えられた。中途視覚障害に対する研究では、学術的な研究よりも、当事者のQOLの向上を目指すような実践的研究が多く取り組まれており、重視されているということがわかった。また、発展途上であり、今後、当事者研究も含めて積極的に進めていかなければいけない分野だといえる。

 ○第2項 中途視覚障害の障害受容についての先行研究

 日本で初めて、障害受容の段階理論を紹介した上田(1980)は、障害受容とは障害に対する価値観の転換をすることであり、障害が自分の人間としての価値そのものを低下させるわけではないと認識し、積極的に自分の人生を生きていけるようになることであると述べている。上田(1980)の後、中途障害者の障害受容の過程については、心理学やリハビリテーション学の立場から研究がされており、当事者研究の必要性に関する議論もみられるが、脊髄損傷患者を対象としたものが多い(奥田ら,2014)。中途視覚障害者を対象としたものはごく少数であり、その障害受容過程についての研究は、障害をどう受け止めてきたのかという視点で述べられているもののみである。障害者である自分自身をどう捉えているのか、障害を持つことでそれがどう変化してきたのかという、障害者観ともいうべきより広い視点で述べた研究はない。

 中途視覚障害者にとって障害への適応は大きな課題であり、社会適応に向けた支援や心理的支援が必要である(上田,2004;大前,2009)。その必要性についてはこれまでも述べられてきたが、具体的に介入している例は少ない。今後、中途視覚障害者の障害適応を促進させる、より具体的な介入方法についての検討が必要である(上田,2004)。

□第4節 本章のまとめ

 本章では、本研究で用いる用語の定義や説明を行い、視覚障害者を取り巻く背景や現状について述べた。また、中途視覚障害に対する先行研究について、とりわけ「障害や自分自身と向き合う」というテーマを中心に概観した。その結果、中途視覚障害に対する研究は、発展途上であり、今後より一層の取り組みが必要であるということがわかった。また、中途視覚障害者の障害受容についての研究は少数ではあるが取り組まれており、中途視覚障害者の障害受容には、多くの困難があり、様々なサポートが必要であること、今後その支援方法を検討していくことが必要であるということが示されていた。
 一方で、より広い視点で自分自身とどう向き合ってきたのかということについて明らかにした研究は見つけることができなかった。そのため、中途視覚障害者に対する今後の支援の充実を目指して、中途視覚障害者が自分自身の障害や自分自身とどう向き合ってきたのかということを明らかにし、その過程で必要となる支援について検討していくことが求められているとわかった。


■第3章 調査概要

 本章では、調査対象者の概要と調査方法、分析方法ならびに倫理的配慮について述べる。

□第1節 調査対象者と調査方法

 調査対象者は、青年期以降に中途視覚障害となったA氏である。A氏は、視覚障害の身体障害者手帳を有しており、重度の視覚障害である。視覚障害を自覚する以前から看護師として勤務しており、現在は視覚障害者支援施設の相談員である。また、視覚障害を自覚してから20年以上が経過している。A氏は、私が中途視覚障害になって初めて出会った当事者であり、目標としている存在である。

 調査方法は、半構造化のインタビューを採用した。今回の研究では、研究者、調査対象者ともに視覚障害を有しており、移動に困難があるため、それぞれの慣れた環境である自宅にて、電話を用いたインタビューを行うこととした。インタビューは1回1時間から3時間程度で計8回実施し、全体で20時間程度であった。期間は5か月を要した。インタビューは対象者の了承を得てICレコーダーで録音し、逐語録を作成した。分析方法としては、当事者の生の声であるA氏の語りそのものを大切にし、人生のストーリーや生き様を知るために、ナラティブ分析の手法を採用した。語りの持つ意味や背景について、先行研究や関連報道などを用いて分析を行った。

□第2節 倫理的配慮

 今回の研究では、中途視覚障害となった当事者を調査対象としているため、墨字(書面)での情報提供では、必要な情報を十分に伝えることができず、署名や捺印についても困難を要することが想定された。そのため、研究の説明や同意書及び撤回書については、テキストデータでの情報提供を行った。署名、捺印の代替としては、肉声での同意文の読み上げを録音するという形で、視覚障害のある対象者への情報保障に十分な配慮を行った。
 インタビューにおいては、対象者の人生、とりわけ障害と向き合ってきた過程について振り返り、これまでの経験や思いについて語ってもらったため、当時のつらい感情を想起させてしまう危険性があった。インタビューが心理的負担とならないよう、本人の反応を丁寧に観察し、発言を無理に求めたり、話を強引に引き出したりしないよう十分に配慮した。

 また、研究参加は自由意志であり、断っても一切不利益を受けないこと、研究途中であっても同意を撤回できることについて、インタビュー開始前に毎回説明し、継続の意思を確認しながらインタビューを行った。得られたデータについては、必ず匿名性の確約を行い、個人が特定されるような内容(個人名、地名、施設名など)については、ランダムなアルファベットを用いるなど、プライバシーの保護に十分に配慮し、研究発表や研究成果物においても、同様の対応を約束した。
 本研究は、武庫川女子大学研究所倫理委員会の承認(承認番号2210-MWUIE-A-009)を得ている。

□第3節 本章のまとめ

 本章では、本研究の調査対象者、調査方法及び分析方法、倫理的配慮について、調査概要としてまとめた。研究者、調査対象者ともに視覚障害を有しているため、参加への同意の取り方やインタビューの実施方法について工夫した点を詳細に述べた。


■第4章 結果と考察

 本章では、第1節でA氏の紹介を行う。第2節以降では、主要な語りを以下の順で紹介し、その意味を分析することで、A氏が見えない自分とどう向き合ってきたかについて考察する。
 「深刻には悩まなかった」、「日常生活に支障がなかったらそれなりにいけちゃうんだよね」、「見えないということがはじめて身近なものとなった」、「途方に暮れた」、「子どものために笑顔でいようと決意」、「今までの自分を捨てて、できない自分として生きる!」、「本当の私はこうじゃない!けど…」、「私は看護師として働いているんだ!」、「私は何も変わってなかったんだ」、「見えないということも含めたありのままの自分で生きる」、「見えないということは私の人生の条件のひとつ」、「視覚障害者は嫌」

□第1節 A氏の紹介

 ○第1項 A氏のプロフィール

 A氏は、50歳代の女性で、一児の母親である。夫、息子の3人家族で、愛犬がいる。5人姉妹の次女である。幼少期から姉妹の面倒をみることが多かったこともあり、しっかりもので世話好きな性格である。私のA氏に対する印象は、一見穏やかだがとても芯が強い人というものである。趣味は愛犬との散歩やYouTube鑑賞、家庭菜園である。視覚障害が進行する前は、家で静かに過ごすよりも、ひとりでカフェや本屋に出かけること、体を動かすことなど、アクティブに過ごす方が好きであったという。

 表3は、A氏の主なライフイベントと視覚障害による生活の変化の変遷を示した年表である。20代に慢性進行性眼疾患と診断され、30代半ばごろより視野狭窄による視覚障害を自覚するようになった。40代から視覚障害支援を行う団体で相談員として働いており、視覚障害の当事者や家族の様々な相談を受け、病気や障害とともに自分らしく生きていくためのサポートをしている。視覚障害は現在も進行し続けており、見えにくさによる生活の困難も少しずつ増え続けている。A氏は、そのような現状を現実として淡々と受け止め、ありのままの自分で生きていくことを大切にしている。

 【表3】A氏の主なライフイベントと視覚障害による生活の変化の変遷

 図2は、A氏の現在の見え方を示したVISIONGRAMである。右眼の視力は手動弁(目の前で手を動かすと、何かが動いているということを判別できる程度)で、左眼は視力0.3、視野は90%以上喪失している。身体障害者手帳2級の重度視覚障害となっており、2級は視野障害では最重度の等級である。左眼の視力は比較的残っているが、視野が極端に狭く、人の顔や周囲の状況を識別することは難しい。一度に見える文字は2〜3文字程度であるため、視力を用いた読み書きが困難となってきている。文章を読むことはかなりの労力を必要とし、拡大読書器を用いて読むことから音声での情報収集に変化してきている。視野が狭いため、移動や日常生活に多くの困難が生じており、現在は、単独での歩行が困難となってきたことから、同行援護を利用して移動することが増えたという。
 図2 A氏のVISIONGRAM

 ○第2項 A氏と私の関係

 A氏と私が出会ったのは、私の左眼の視力が大きく低下し、1級の障害者手帳を取得した視覚障害となってすぐの頃であった。白杖を求めて、たまたま訪れた視覚障害支援の団体で、「同じように視覚障害の当事者で、看護師でもある職員がいるけど話をしてみないか」とA氏を紹介されたことがきっかけである。視覚障害が進行し、天職であると考えていた看護師の仕事まで失わなければならないという時期を、A氏は、私と共に悩み、苦しみ、寄り添ってくれた。A氏がいなければ、私はこの時期を乗り越えることはできなかったかもしれない。

 A氏との出会いは、看護師として、人として、完全に自信や目標を失っていた私に、新たな希望や目標を与えてくれた。私のことを一生懸命支えてくれるA氏の姿が、「見えなくてもまだやれることはある」、「だれかの支えになることはできる」、「対人援助職として立派に働ける」ことを教えてくれた。そして、「私も対人援助職としてだれかの支えになれるような仕事をもう一度見つけたい」と考えるようになった。その時からずっと、A氏は、私が目標としてきた存在である。

 A氏は私にとって、家族や親友と同じくらい大きく大切な存在であり、現在も変わっていない。出会ってから8年近くが経った今でも、A氏は私の目標である。そして、良き先輩、良き理解者であると同時に、見えない当事者としても、視覚障害支援の専門職としても、良き仲間となっている。今は少しずつ、私が支えられるだけでなく、支え合えるような関係になってきたのではないかと感じている。

□第2節 目を背けてきた「見えない」という現実が身近なものとなり、逃げることができなくなった。

 ○第1項 「深刻には悩まなかった」

 A氏は20代半ばに、勤務していた病院で検査を受け、慢性進行性眼疾患であり、将来視覚障害になると告げられた。この時の自覚症状は夜盲のみであり、看護師の仕事や日常生活にも不自由を感じていなかった。

 「20代で若かったし、そんなに日常の生活に支障がなかった分、だれかに相談してとか、落ち込んでとか、そういう感じではなかったけど、ひとりでショックを受けてたのは覚えてる。やっぱりショックだった。ショックだったのはショックだったな。うん、ショックだったんだと思う。でも、深刻には悩まなかったかな」

 ブライダルチェックとして軽い気持ちで受けた検査で、思いもしなかった病気の存在を知り、予期していなかった衝撃を受けた。A氏は、何度も「ショック」という言葉を用いて、この時の気持ちを表現していた。慢性進行性眼疾患については、「降ってわいてきた災いみたいなもの。決して受け取りたくはないものだった」と話しており、病気は災難であると捉えていた。看護師だからこそ、病名を告知されただけで、この病気のたどっていく経過や視覚障害の生活がどのようなものなのか、漠然と未来の自分を思い描くことができた。しかし、この衝撃に対して、「深刻には悩まなかった」と述べている。

 生活に支障がなかったA氏は、この頃の自覚症状について、「確かに暗いところや突然明るいところに行くと見えなくなって、なんでかなとは思ってたけど、それだけだったし…」と話している。「見えない」「将来見えなくなる」という実感は全くなかったという。山川(2020)は、見えている段階で将来の失明の可能性について告知を受けても、現実感を伴わないことが多いと述べている。A氏も同様であり、「将来見えなくなりますよ」と言われても、自分の現実として捉えることができず、見えないということは、自分とはかけ離れた遠い世界の出来事のように感じていたのではないだろうか。見えなくなるという現実から遠ざかることができるのは、慢性進行性眼疾患の特徴のひとつといえるのかもしれない。A氏は実際に、深く考えないという行動を選択していった。

 よく慢性進行性眼疾患の苦しみは、「真綿で首を絞めるような苦しみ」と表現される。じわじわと追い詰めてくるような、少しずつゆっくりとでも確実に襲ってくる苦しみであるといえる。症状の程度や出現の時期、進行の速さもひとりひとり異なるが、多くの患者は少しずつ症状が出現し、進行していくという経過をたどる。何十年もかけて症状が進行し、ゆっくり見えなくなっていくのである。そのため、診断時にはあまり自覚症状がなく、生活に支障を感じていない状態にもかかわらず、「将来見えなくなる」という深刻な宣告を受けなければならない。これが、この病気の大きな特徴である。慢性進行性眼疾患の患者は、告知を受けた時からずっと、「見えなくなる」という現実と向き合っていかなければならないのである。

 A氏の場合も、30年近くの時間をかけて徐々に症状が進行してきた。診断を受けてから自覚症状による生活の支障を感じるようになるまでに、10年近くの時間が経過している。治療法がなく、将来見えなくなるという一方で、今に目を向けると、見えないということは、自分の目の前にはまだ現れていない。特に生活に支障を与えるような自覚症状もない状態では、見えなくなるという宣告に実感がわかず、自分のこととして捉えることができないと推察される。ただ、この見えなくなるという現実は、目を背けることができるというだけのことであり、常に自分の意識の中にはあると考える。些細な変化を感じるたびに、見えなくなるという現実が目の前に現れ、不安や動揺を与える。そのような生活を余儀なくされるのである。

 また病名告知は、看護師の仕事がとても忙しく充実していた20代の頃に起きた出来事であり、「病気はもっと歳を重ねてからなるもの」と考えていたため、病気が自分に起きた現実であるという感覚を希薄にしていたのではないかと考える。仕事として患者の難病に向き合う仲間はいても、自分の問題として難病と向き合う仲間は、A氏の周囲にほとんどいなかったという。そして、看護師として働く毎日に目を向ければ、たくさん考えなければならないこと、やらなければならないことが、すぐ目の前にあった。目の前に見える現実が、見えなくなるという遠い未来の現実を、見えなくさせていたのかもしれない。

 ○第2項 「日常生活に支障がなかったらそれなりにいけちゃうんだよね」

 A氏は、妊娠中に左目の急激な視力低下を自覚したが、治療法のない病気で妊娠中に急いでも意味がないと考えたこともあり、すぐには病院に行かなかった。出産が終わり、少し落ち着いた時期に病院へ行き、そこで慢性進行性眼疾患であること、治療法がなく将来視覚障害になるということを再度宣告された。

 「もう1回病名告げられるよね、失明します、治らない、治療方針もないって、言われた時はショックだったな。最初の時よりも、ここが一番ショックだったかな。再認識させられるからね。でも、その時は落ち込んでいる時間がなかったから、子どももちいちゃかったし、で生活、ほらね、まだいろいろしないといけなかったから…。言われた帰り道はショックで帰ったような記憶がある。うーん、だけどもう、次の日に引きずっていたかっていうともう、そういう記憶はないから、生活に追われていたっていうのは、ある意味プラスに働いたのかもしれないね。逃げ込む場所があったんだと思う。うーん、逃げ込むというか、やっぱり、日常生活にそこまで支障をきたしていなかったんだとも思う。片方見えてたからね。結局、日常生活に支障がなかったらそれなりにね、いけちゃうんだよね」

 最初に慢性進行性眼疾患の診断を受けた後も、目の前にある生活に目を向けることで、それまでと変わりのない日常を送っていた。看護師の仕事を続け、結婚し、子どもを授かった。しかし、妊娠中の視力低下で、見えなくなるという現実が、日常生活に少しずつ現れてきた。そして、病院で再度慢性進行性眼疾患であること、将来視覚障害になることを告げられた。これまで目を背けてきた見えなくなるという現実に再び直面させられ、ショックを受けた。この時のショックは、一度目よりも大きなものであったという。

 なぜ、A氏にとってこの時のショックの方が大きかったのか。初回の診断では自覚症状はほとんどなかったが、今回は、左目の視力低下というエピソードを経験しており、見えなくなるという実感が増していた。そのため、以前のような現実味のない漠然としたものではなく、より具体的なものとして、自分の自覚症状を受けとめたのだと考える。

 今村ら(1997)は、パーキンソン病のような慢性進行性の疾患では、疾患の受容は、時間の経過に伴って進行していくだけではなく、その時々の症状などに大きく影響を受けるため、症状の進行とともに何度も揺り戻しを経験し、ショックを受けていると述べている。慢性進行性眼疾患もパーキンソン病と同様に慢性進行性疾患であり、徐々に症状が進行し、少しずつ自覚症状が出現していく。見え方の変化を感じるたびに、見えなくなるという現実への揺り戻しを経験し、そのショックを積み重ねていく中で、見えないということが現実的なものになっていったと考える。

 しかし、今回もA氏は「それなりにいけちゃう」と、変わりない日常生活を続けることができた。左眼の視力の大きな低下という目に見える形で症状が現れているが、実際には、片目の視力があれば、ほとんどの日常生活に大きな影響は受けないからである。また、子育ての真っ最中であり、日々の生活がとても多忙であったことも、A氏に考える時間を与えなかったのかもしれない。そのため、日々の生活をこなしていくことで、見えなくなるという少し現れてきた現実から、再び目を背けることができたのではないだろうか。

 ○第3項 「見えないということがはじめて身近なものとなった」

 A氏の見えづらさは少しずつ進行してきていたが、生活への大きな支障を感じることなく、母親として、主婦として、変わらない日常を送り、自分なりの子育てを楽しんでいた。しかし、30代半ばごろから徐々に視野狭窄の進行による自覚症状が出現し、物にぶつかる、落とす、転ぶということが増えていった。

 「やっぱり、ぶつかったりするたびに何でこんなことするんだろうってショックで…ショックで…うん、ショックよね、ショック。その時はまだ小さな、そう、失敗と思っていたから。やっぱりこう、失敗するたびに自分の気持ちが何でだろうって落ち込んで、悲しい思いにつながることになっていたんじゃないかって思う。(中略)だんだん、こう、失敗することが増えてきた時に、あっこれかなって感じた。見えなくなるっていう、失明しますよっていう言葉が表面に現れてきたのは。やっぱりその日常生活上でのやっぱり、その、失敗っていうか、今までと同じようにできていかないという状況が生まれて、初めて見えないっていうことが身近なものになってきたのかな」

 この語りの中で、特に印象的だった言葉がふたつある。ひとつは「ショック」である。A氏はショックという言葉を2回、3回、4回と重ねていく中で言い方を変えており、まるで自分自身に「そうだったよね」と語りかけるかのようであった。決して強い口調ではなく、自分と対話をしながら、当時のつらかった気持ちをしみじみと再確認しているかのようでもあった。そして、もうひとつは「失敗」である。この失敗という言葉も何度も出てきたが、A氏は必ず「そう」「こう」などの言葉を失敗という言葉の前に挟んでおり、考える時間を作っているようであった。この時間には、「なんで」「どうして」「こんなはずじゃない」「本当は失敗なんかじゃないんだけど」などの気持ちが、静かに表現されていたのではないかと感じた。

 A氏は、今までは決してしなかったような自身の行動に、「何でこんなことになるのだろう」という戸惑いを感じ、この変化を失敗と捉えていた。その失敗を何度も重ねていく中で、「これが見えないことによって起きているのだ」ということに気づき、初めて見えないということによる生活の支障を感じた。そして、「失明しますよ」という言葉が現実として目の前に現れ、「見えなくなる」から「見えない」へと変化したことを自覚した。それまでは、見えなくなるということを遠い世界の問題として考えてきたが、この時に初めて見えないということが、自分自身に起きている身近な問題であると捉えるようになったのである。

 今まで必死で逃れようとしていた見えなくなるという現実からついに逃れられなくなり、見えないという現実が常に突きつけられるようになった。この見えないという現実から逃れられないというショックは、例えば怒りにつながっていくような強いエネルギーを持ったショックではなく、むしろ、自分自身のエネルギーをすべて吸い取られてしまうような、深い落胆につながるショックであったのではないだろうか。そして、そのことが、A氏を静かに語らせていたのではないかと考える。


□第3節 見えないという現実から自分をまもるために、今までの自分を捨て、新たなできない自分として生きることを決意

 ○第1項 「途方に暮れた」

 A氏は、見えないという現実と向き合わざるを得なくなった。この現実が与える衝撃は、それまでの人生で経験したことがなく、簡単に向き合えるようなものではなかった。見えないという現実で頭も心もいっぱいになり、何も考えられない、何も手につかないという状況になっていった。寝込んで家事もできなくなり、日常生活にも大きな影響を受けた。「本当にショックな時は、こんなふうに何もできなくなるんだ」と実感したという。

 「今までの自分の生きてきた中でだいたいが何かあってもこう、乗り越えてこれるタイプやったけど、こればっかりはもうっていう体験でした、正直。うん、これほど自分が、あーどうしたらって、もうほんとに途方に、それこそみんなもそうだけど、途方に暮れ、もう体に力が入らず、涙も出ずって感じだった。あの、その、この状況を口にすることすらできなかった」

 深澤(2012)は、人生の中途で失明することは言葉に言い表すことのできないほどつらいことであり、失明による今後の生活への不安によって自殺願望を抱く人も多いと述べている。中途視覚障害者の56.2%が自殺を考えたことがあり、その理由としては、視覚障害のために生じる社会的、心理的、経済的、家庭的な打撃が挙げられる(山田ら,2012)。自ら命を絶つことを考えるほど、人生の途中で見えなくなるということの与える衝撃は大きい。戸惑いや混乱、恐怖や不安、落胆など様々な感情がわき、それらに支配され、心の余裕を失ってしまうことは想像に難くない。

 A氏は、本来、人に頼るというよりは頼られるタイプの人間であり、自身でも自覚していた。そして、大抵のことは自分自身の力で乗り越えてきたという自負があった。それまで、姉として、看護師として、母親として、しっかり者の頼られる存在であったA氏にとって、見えないという現実は、初めて経験する自分自身で乗り越えることのできない大きな挫折であり、どう対処してよいのかがわからず途方に暮れた。ぶつかる、落とす、転ぶという失敗を繰り返す自分は、今までの自分とは全く異なる自分であった。

 失敗を自覚することは、変わってしまった自分を実感させられることであり、見えないという現実を突きつけられることであったと考える。変わってしまった自分を認めるということは、見えない自分という現実を認めることであったのではないだろうか。この失敗を繰り返す見えない自分という姿が、本来の自分の姿とは大きくかけ離れていたからこそ、現実を直視することは、A氏にとってより一層大きなエネルギーを必要とすることであったのではないかと推察する。

 ○第2項 「子どものために笑顔でいようと決意」

 A氏は子ども好きであり、母親としての自分や子育てをとても大切にしてきた。見えにくさを抱えながらの子育ては難しかったが、子どもの「自ら育つ」を重視し、待つという姿勢で、愛情いっぱいに育ててきたという。子どもが保育園に通う頃には、視野の狭さから子どもを見失ってしまいそうになるため、子どものリュックを持ちながら、一緒に歩いていろいろなところへ出かけた。小学生になると、友だちをたくさん家に呼び、みんなで一緒に遊び、おやつを食べて過ごす時間を心掛けていた。そして、そのような母親の愛情をたくさん受けた子どもも、笑顔の絶えない明るい子どもであった。しかし、A氏は見えないという現実に直面したことで、母親としての役割が果たせなくなった。そして、大切にしてきた母親としての笑顔を失った。

 「自分がそん時、しんどかった時にやっぱり笑顔がなかったのよ。自分でもそん時に。ふっと見た時に子どもの笑顔が減ったなっていうことに気づいちゃったの。あっ、これ、私が笑顔になってないんだなって思ったんです、その時に。で、そこで…はー…ダメだぁ…って思って、うん、私、あの、何だろう…子どもにこんな思いさせちゃいけないって思って、で、笑顔でいようと思って」

 「…はー…」とA氏は深いため息をつき、静かにぼそっと「ダメだぁ…」とつぶやいた。それまでは、比較的淡々と、あまり詰まることなく話していたが、この部分の前後には数秒の沈黙があった。当時のことを思い出し、込み上げてくる自責の思いや苦しさを受け止めながら、言葉を絞り出すかのようであった。
 A氏は、子どもから笑顔がなくなっていることに気づき、子どもの姿は自分を映し出す鏡であり、自分が笑えていないことで、子どもの笑顔を奪ってしまっているのだと考えた。日常生活がままならなくなり、心の余裕を失ったことで、母親として大切にしていた笑顔を失っていったのかもしれない。

 大前(2009)は、家庭を支えなくてはならないという危機感は、障害と向き合うことに対して受容にもストレスにも大きな影響を与えるとしており、A氏にとっても、子どもの存在が大きなプレッシャーであり、また、大きな支えでもあったのではないかと考える。そして、「このままではいけない。子どもの笑顔を取り戻さなければ」と決意し、何とか母親としての役割を果たしていこうと考えるようになっていった。
 この時のA氏にとって、母親としての役割を果たせていないという現実は、見えないという現実に直面したショックよりも衝撃が大きかったのかもしれない。そのため、見えない自分ではなく、母親としての自分へと焦点を変えることができたのではないだろうか。見えないという現実に押しつぶされそうになっていたA氏を、極限のところで支えたのは、大切な子どもの存在と、母親としての自分自身だったのではないかと考える。

 ○第3項 「今までの自分を捨てて、できない自分として生きる!」

 「子どもの笑顔を守るために母親としての役割を果たさなければ」と強い決意をしたA氏は、このまま見えないという現実を直視し続けていると、自分自身を保つことができなくなり、母親としての役割を果たすことも、日常生活を続けることもできなくなると気づいた。今一番優先すべきことは、母親としての役割を果たすことであり、そのために現状を変えなければならないと考えるようになった。そして、見えないという現実に真正面から向き合っていた状態から、どうすればこの現実を直視することから逃れられるのかという姿勢へと変化していった。

 「そういうのもすごく嫌だったの、こんなの自分じゃないって。だから私は、このままでは自分がつぶれてしまうって、精神的に自分の、底ってわかるから、だから、このままいったら鬱になったら嫌だなって思って、これ以上 下げないっていうので、そのためにどうしようって思って、今までの自分を捨てる!って決めて捨てたの! 完璧に捨てたの。このできない自分から生きるって決めたのね」

 A氏は、見えないことによる失敗を見えないからではなく、「自分がドジであり、もともとどんくさいから失敗するんだ」と考え、「見えない自分だから」ではなく「できない自分だから失敗するんだ」と捉えるように、自分の意識を変えていった。自分は変わってしまったのではなく「もともとこういう人間だったんだ」と無理やり思い込ませ、「見えない自分」「変わってしまった自分」という現実を直視することから逃れることで、自分自身を必死で守ろうとしていたのではないだろうか。

 A氏は、「捨てる」という言葉を何度も繰り返していた。また、「完璧に」という言葉もとても印象的であった。そこには、「今までの自分、本来の自分を本当は捨てたくないしあきらめたくないけど、しょうがない」というA氏の思いが込められているのではないかと感じた。「本当は捨てたくないけど捨てないと自分を保てないから捨てるんだ!」という強い決意を表すためにあえて「完璧に捨てた」という表現を用いていたのではないかと考える。それまで大切にしてきた「自分」を捨てなければならないほど、「変わってしまった自分」と向き合うことは、苦しく、大きなエネルギーを必要とする作業だったのだと思う。

 「現実を直視して自分が壊れてしまうくらいなら、現実を直視せずに逃げる」という選択をA氏は行った。この「逃げる」という選択も、決して容易にできることではない。それを可能にしていたのは、自分より大切な子どもの存在があったからであり、子どもの笑顔を守りたいという母としての強い決意が、逃げるという勇気ある決断を後押ししたのではないだろうか。「今までの自分を捨て、新しい自分として生きる」というA氏の選択は、母親としての自分を守るために「現実を直視することから逃げる」という姿であったのだと考える。

□第4節 偽りの自分ではなく、見えないことも含めたありのままの自分として生きる

 ○第1項「本当の私はこうじゃない! けど…」

 A氏は、本来の自分の姿とはかけ離れた「ドジでできない自分」という自分を作り出し、失敗やできないことに直面するたびに、「ドジだからできないんだ」と周囲に伝え、自分自身にも言い聞かせていた。そうすることで見えないという現実から強引に目をそらし、自分を守っていた。その一方で、ドジな自分を演じるたびに、「本当の自分はドジじゃない…こんなのは自分の姿ではない」という大きな葛藤も抱いていた。

 「子どもの行事で出かけたりとか、外に出る、買い物に行くとか、お母さんたちと挨拶をするとか、ああいうのができなくなったり、みんなの中で失敗があったりすると、見えないことを言えなくて隠してた時は、ドジな自分を演じて、『こんな失敗してごめん、ドジなんだよね、ドジだよね』とか言って、うん、その場をごまかしたりするわけじゃない、うん…。その時って、そうやりながら…、うん…本当の私はドジじゃないって、ドジじゃない…って、はぁ…って、うん、思ったりしたことはあったし、できない自分を演じてることにすごく…うん、本当の私はこうじゃないのになっていう思いをもった時もあったね…うん…。うん。演じなくなってからはそれはなくなったけど…。でも、でも、大変ねって言われたら逆に自分もつらいし、そこにあんまりこう、自分自身触れたくなかったんだろうね。うん。受け入れられない自分だから…。悲しい部分だから…。これ以上そこに触れたら自分が気持ちが落ちちゃうから、周りにも触れられたくなかったし、自分もあまり触れたくなかったんだと思う……。うん…うん…」

 「本当の私はドジじゃない…」という言葉を重ねて使っていたように、A氏にとってドジなできない自分は、作り出した不本意な自分である。まるで何かを確認しているように何度も「うん」とうなずきながら、その度に少し間をおいて、本当の自分とは違う自分を演じなければならない状況の苦しさを伝えようとしていた。そのような自分を作り出したことを後悔する気持ちや、偽りの自分で周囲の人に接していることへの後ろめたさ、本来の自分として振る舞えない状況に憤りや悲しみなど、様々な気持ちを抱いていたのではないだろうか。

 見えない自分という現実に周囲の人も自分自身も気づかないように、必死で隠そうとしていた。少しでもその現実に触れてしまうと自分自身が保てなくなり、簡単に壊れてしまうと考えていたのかもしれない。この当時のA氏は、極限のところで自分を保っていたのではないだろうか。「でも…でも…」と言い淀み、何度も「うん」と繰り返し自分に確認しながら話すA氏の言葉の先には、「これは、自分を守るために必要だったんだ」「だからしょうがなかったんだよ…」「大丈夫。これでよかったんだよ…」という自分へのメッセージが込められていたように感じた。

 ○第2項 「私は看護師として働いているんだ!」

 偽りの自分で生きることで、A氏は母親としての役割、主婦としての役割を果たせるようになっていった。日中ひとりの時は寝込んでいたとしても、子どもの前では、「行ってらっしゃい」「お帰り」といった挨拶も笑顔でできるようになった。母親としての笑顔を取り戻し、少しずつ心の平静を取り戻していったのである。そして、少し心の余裕も持つことができるようになり、「もう一度看護師として働きたい」というずっと抱き続けていた思いに、目を向けられるようになった。そのような時に、P施設の理事長と出会い、「うち(視覚障害の支援団体)で、看護師として雇いたい。相談援助をしてほしい」という依頼を受け、再び看護師として働き始めた。しかし、実際に仕事に行ってみると、周囲の人からは、看護師のA氏ではなく、視覚障害の当事者であるA氏として見られ、扱われることに大きな戸惑いを感じた。

 「P施設に行ってみたら視覚障害者のAさんって見られているんだなっていうのを強く感じて、で、そこで、いや、そうじゃない!って、そこですでに反発していて、自分はそうじゃないっていうのを自分の心に持っていて(中略)私自身が看護師の仕事が好きで、看護師に戻りたいっていうのが、私の見えにくくなった生活を支えるものでもあったから、支える大きな柱でもあったから、だから、看護師として雇ってあげます、さらに相談援助業務もしてくださいって、患者さんと接することができるじゃないですか、そしたら私にしたら形は違うけど、看護師として働いているっていう意識があったんですね、ずっと、今もあるけど。だからこそ、それ以上もそれ以下もないっていうか(中略)みんなは視覚障害者の相談員さんって思ってるけど、私は常に看護師として相談にあたってるっていうところは、立ち位置がぶれなかったのかもしれない。」

 再び看護師として働けること、看護師として「患者さん」と接することができることに、A氏は大きな喜びと期待を抱いて働き始めた。ところが、看護師という専門職として「患者さん」と向き合っていても、周囲のスタッフからは、同じ視覚障害の当事者として、当事者に向き合っているとしか見てもらえなかった。支援を必要としている視覚障害者としての振る舞いが期待されていた環境で、A氏は「そうじゃない」と強く反発する心を持つことができたと話している。視覚障害者であることが肩書や名刺であるかのように、周囲が自分を見ていたとしても、自分だけは看護師である自分を強く持っていた。看護師として認めてもらえない中で、なぜこのような強い気持ちで、看護師である自分を持ち続けることができたのだろうか。

 A氏は、人と関わること、人の役に立つということが好きであり、看護師になることは、子どもの頃からの夢であった。看護師の仕事に、誇りとやりがいを持って働いていた。「患者さん」とともに病と向き合い、様々な困難に立ち向い、常に「患者さん」に寄り添える看護の仕事に、大きな魅力を感じていた。そして、子育てで仕事を離れてからも、「もう一度看護師の仕事に戻りたい」という気持ちをずっと抱き続けていた。「看護師としてもう一度働きたい」という思いは、見えない自分という現実の中で、何とか自分を保って生きていくための、ひとつの大切な支えとなっていた。

 一方で、見えない状態で看護師として働くことについて、「とうてい無理」とあきらめの気持ちがあったことを、A氏は述べている。「こんなぶつかったり失敗ばっかりする自分じゃ、看護師として患者さんの前に出ることはできないじゃないですか。だからもう無理なんだって思ってた」と話しており、「戻りたい」という強い気持ちと同時に、「今の状態では無理」という気持ちを抱いていた。しかし、希望をなくしていたわけではなく、「いつか治療法ができてまた見えるようになったら、その時は絶対にもう一度看護師として働きたい」という願いを持っていた。「看護師」であることは「母親」であることと同じ、もしくはそれ以上に、「大切な自分」だったからではないだろうか。戻りたいとずっと願い続けた自分だったからこそ、どんなに周囲から認めてもらえなくても、自分だけは看護師であろうとしていたのではないだろうか。A氏にとって看護師である自分は、偽りではない本来の自分の姿だからこそ、意地でも守り続けたいものだったと考える。

 ○第3項 「私は何も変わってなかったんだ」

 A氏は看護師として、日々、「患者さん」と向き合っていた。福祉の相談現場では、利用者、相談者と表現することが多いが、A氏は一貫して「患者さん」と表現している。そこにも、「自分は看護師」というA氏の強い思いが表れているのではないだろうか。「患者さん」と向き合っていく中で、ふと「見えている時も見えない今も、自分は変わってないのでは」と感じる瞬間を何度も経験した。

 「P施設で働いてても、看護師として働いていた自分のプロ意識というか、仕事をする時の意識とか、患者さんに向かう時の意識とか、物事を捉えていく時の様子とか、全く変わってなかったことに気づいたの、私、やりながら。だから1回は、私は、自分のね、その今の状況、見えなくなった状況、それを持って生きていくのは無理だと思って捨てたけど、結局、何かしてたら一緒じゃんって思って、変わってないって。だから結局、結果がそうだったの」

 普段のゆっくりと淡々とした口調とは全く異なり、A氏は、早口で一気に話した。張りのある声で、エネルギッシュに、言葉が駆け抜けたような口調は、A氏の喜び、嬉しさを表現していたのではないかと思う。子どもが親にその日の嬉しかったことを話すかのように、A氏は「聞いて聞いて」と込み上げてくる喜びを、私に伝えていたのではないかと感じた。このA氏の喜びは、「自分は何も変わってなかった」という安堵の気持ちだったのではないかと考える。

 「患者さん」や仕事に向き合う姿勢、物事の捉え方や考え方、大切にしていること、見えていても見えなくても、それらは何も変わっていなかった。そして、「変わっていない自分」という視点で自分を見てみると、母親として大切にしていること、子どもと向き合う姿勢、家族を大切に思う気持ち、できることはできるだけ自分でしたいという自立心の強さ、曲がったことが嫌いという正義感の強い性格、変わっていない自分がどんどん見えてきた。一度はあきらめて捨てたつもりであった本当の自分が、実は自分の中に存在しているということに気づかされたのである。

 A氏は、「変わってしまった自分」と向き合うことから逃避するため、「偽りの自分」で生きていくと決意し、偽りの自分を演じながら生活してきた。しかし、偽りの自分として生きなければならないことへの不本意さやうしろめたさ、悔しさ、悲しさなどの思いを抱いていた。そのため、「偽りの自分ではなくて本当の自分だったんだ」という気づきは、「私は偽りの自分で生きてきたわけじゃなかった」という思いにつながり、安堵感をもたらし、これまでの後ろめたさや悔しさなどの思いを取り除いてくれたのではないだろうか。そして、「これからも本当の自分で生きていけばいいんだ」という思いに至ったことで、見えない今の自分も見えていた時と同じ自分であり、見えないことも含めて、ありのままの自分で生きていけば良いと、思えるようになっていったのだと考える。

 ○第4項 見えないということも含めたありのままの自分で生きる

 A氏は、見えている自分も見えない自分も、同じ自分であると気づき、ありのままの自分で生きていけば良いと考えるようになった。そして見えない自分も自分であると認め、見えない自分と向き合いながら生きている。そのようなA氏の姿に、私は強さを感じ、改めてA氏が自分の目指すべき姿であることを再認識した。以下は、私とA氏の対話の一部である。

 私:Aさんはもう「あーっ」て思うことってあまりなくなりましたか? 日々の生活の中で「あーっ」て思うこと。
 A:そうだね。今はだいぶ少なくなったかな。なくはないけど、でも、そうだね「あーっ」て感じにはならないかな。前と比べなくなったからね。前の時はどうしてたんだろうって考えることはあるけど、前の自分と比較してどうだとか、こっちの方がよかったとか、そういうことはあまり考えなくなったかな、うん、もう「あーっ」て思うようなことは…
 私:「あーっ」て思うことまだまだいっぱいなんですよね。なんかちょっとうまくいかないこととか、思い通りにならないこととかがあるとまだやっぱり「あーっ」て思うんです。何で…とか、どうして…とか、こんなんじゃなかったのに…とかっていう気持ちが出てきて…。「あーっ」て思うことがまだまだいっぱいで、苦しくなってしまうことも多いですよね。そして、また、そんな自分が弱い自分でダメだなって思ってしまって。別にそんなことないって、ダメなんかじゃないって、弱くてもいいって頭ではわかってるんですけど、心がついていかないんですよね(中略)

 A:それでいいんだよ。それで普通。私は、少なくとも20年くらいはBさん(筆者)よりは長く向き合ってきているし、年齢とかもあるよね。どんな時期にそうなったかとか。だからそういうふうに思っても全然おかしくないし、ダメじゃないんだよ、うん、私だってずっとそう思ってきたし。強くなきゃダメとか、そんなこと考えたらだめとか、そういうのはないの。私も最初は、こうじゃなきゃみたいな気持ち、強い自分でいなきゃとか、何でも自分でできないとだめとか…そういうふうに思ってたけど、そんなことないんだよね。こうじゃなきゃダメって思っていると、自分に嘘をついて無理をしないといけない。そうやって無理をしていると自分の心にどんどん負担がかかって苦しくなってしまう。
 でも、こうじゃなきゃダメなんてないんだよね。無理する必要なんてないんだよね。ありのままの自分、ありのままの等身大の自分でいいんだよ。自分の心に素直にいればそれでいい。「あーっ」て思うのもダメなことなんかじゃない。悲しかったり悔しかったり怒ったり不安になったり、もちろん嬉しかったり楽しかったり、どの気持ちも自分の素直な気持ちなんだから、そういうふうに感じたらだめとか、弱いとか強いとか別にいいんだよ。

 この時のA氏は、私の支援者として、また見えない人生を歩いてきた先輩として、同士に語っているかのようであった。とてもあたたかい声で、ひと言ひと言語りかけるように、反応を確認しながら話していた。私の「あーってなる」という抽象的な言葉を、A氏もそのまま引用していた。私は、この「あーってなる」という言葉に、多くの意味を込めていた。
 例えば、今までできていたことができないと感じる瞬間に直面して落ち込んだ場面、視覚障害があるゆえにやりたいことがやらせてもらえなくて悔しい思いをした場面、見えないことによって日々の中で感じる不安や戸惑い、怒りや憤り、悲しみなどの様々なネガティブな気持ち、そしてそのようなことを考えてしまう自分への嫌悪感などである。いろいろな思いを込めて用いたのだが、この「あーってなる」という聴覚的な表現だけで、A氏とは十分に通じ合っているような気がした。むしろ、この「あーっ」という擬声語だからこそ、お互いに伝え合うことができていたような感覚が得られたのである。

 私は、話をしながら、はじめてA氏と出会った時のことを思い出していた。見えなくなったばかりの頃、何もかもが不安で、自分だけが見えない世界に取り残されたような気持ちでいた私に、「ひとりじゃないよ」と教えてくれたのがA氏であった。ひとりぼっちで何もかも失ってしまったと思っていた私に、「ひとりで悩まなくていいんだよ。いつでも頼っていいんだよ」と、ずっと寄り添ってくれた。
 A氏の存在は、暗闇の中にはじめて現れた優しくあたたかい光であった。私の一歩先を行く先輩として、進むべき道を照らしてくれる光であり、道しるべとなってくれた。そして今も「自分の心に素直にありのままの自分を認めて生きていけばいい」という、進むべき方向を示してくれている。「見えていても、見えなくても、自分は自分であり、何も変わっていない。無理に変える必要もない」、「見えないということに不安や絶望、怒り、悲しみを感じるのも自分であり、いろいろな自分がいて当然であり、どの自分も自分だから、良いとか悪いとかではない」。私は、これらの考えをA氏から教わった。苦しんでいた私を救ってくれたのである。

 A氏は、見えなくなり変わってしまった自分というものを直視できず、一度はそれまで築き上げてきた自分を捨て、別の自分として生きていくという覚悟を決めた。結局は、自分を捨てるということはできないと気づかされ、「見えている自分も見えない自分もつながっているひとりの同じ自分であり、何も変わってなかったし、変わらなくていい」と考えるようになった。今のA氏は、見えないという現実も含めて、ありのままの自分で生きていくという覚悟をしているのではないかと考える。それでも「時々、あーそうかぁって思う時もなくないわけじゃないけど」と語っているように、何かできないことや理不尽なこと、困難にぶつかった時には、見えなくて変わってしまった自分という現実を突きつけられ、戸惑うことはあるという。

 しかし、以前のように、過去の自分と今の自分を比較し、「見えなくなった自分は失敗ばかりするドジでできないダメな自分だ」と悲観するのではない。A氏はできなくなったことを現実として、ありのままに受け止められるようになったのである。この「あるがままに受け止めて、今の自分で良い」と自分を認められる心は、見えない自分と向き合い生きていくために、長い時間をかけ、多くの苦難を経て獲得した覚悟だったのではないかと考える。そして、これこそが、今の私が望んでいるものなのではないかと思った。

□第5節 A氏にとって見えないということ

 ○第1項 見えないということは私の人生の条件のひとつ

 今回のインタビューでは、「人生の途中で見えなくなる」ということについて、A氏の思いをたくさん聞いてきた。そして、インタビューの締めくくりとして、改めて「A氏にとって見えないというのはどんなことですか?」と尋ねた。

 「最初は、悲しかったり何で私が…とかそういう経過はあった。ショックだったもん。やっぱり、ショックだった。何で私が…って、私が何をしたの…って、なんでこんなことになったんだろう…って、そりゃぁそんなふうに思い悩んでた時期もあった。目を向けられない時期もあった。病気、見えなくなるっていうことは、突然降って湧いてきた災難みたいなもの。だから、もちろん受け取りたくもなかったし、捨てたいとか逃げ出したいとかそんな気持ちでいっぱいだった。

 でも、今は災難ではないけど条件になった。最初は災難だから振り払いたかったし、どうにかならないかとあがいていた。今は、ひとつの条件として、自分が生きていくうえでのひとつの条件として、その中で生きていく。それも含めて自分。日本に住んでますとか、何歳ですとかと同じようにひとつの条件。逃れられないもの、逃れるとかそういう発想はなくなっていて、ひとつの条件として受け入れて、その中で生きていこうと考えるようになっているっていう感じ。どうやっても逃れられないんだから、それならその環境の中で少しでも心穏やかに楽しく生きる方が良い。どうよりよく生きていくかを考える方がいいかなって思っている。これが今の気持ちかな。でも、こう思えるまでには、時間もかかったし、いろいろあったけどね」

 A氏は、見えないという現実が初めて自分の目の前にやってきた時は、突然降って湧いてきた災いであると捉え、その災いから必死に逃げようとしていた。しかし、見えていた過去の自分も、見えない今の自分も同じ自分であると気づき、見えないという現実は、とにかく逃れたいものではなく、常に自分とともにある、決して逃げられないものだと考えるようになった。見えないということは、常に自分の人生に付けられているひとつの条件であり、その条件の中で生きていくのが自分の人生なのだと考えるようになった。そして、見えないという条件の中で、精一杯「よりよく生きる」を追及していきたいと考えたのではないだろうか。

 上田(1980)は、障害が自分のすべてではなく、自分の全体としての価値を下げるものではないと捉えるようになることで、劣等感を克服し、積極的な生活態度に変容することが障害受容であると述べている。A氏も、見えないということが自分の価値を決めるものではなく、単なる人生の条件のひとつとして捉え直し、見えない自分という条件の中で「よりよく生きる」を追求できるように価値の転換を経験したのだと考える。それは、人間が本来持っている成長、発達しようとする姿であり、人としての本質なのではないだろうか。この本質を取り戻し、自分の障害を人生の条件のひとつとして受け止め、その条件の中で「よりよく生きる」を考えられるようになることが、「障害受容」という言葉で表現されるものなのかもしれない。A氏にとって見えないということは、単なる人生の条件のひとつになっており、決して特別なものではない。A氏は「見えないことは決して特別なことなんかじゃない」と、多くの人に伝えたいのではないかと感じた。

 ○第2項 視覚障害者は嫌

 A氏はインタビューの中で、何度となく視覚障害者という言葉とともに、「嫌だ」という表現を用いていた。普段あまりストレートに感情を言葉で表現するタイプではない。そのため、インタビューの中に何度となく出てくるこの「嫌だ」というストレートな言葉は、とても目立っていた。

 「あー、私、自分が視覚障害者だって思ってないの。目の病気になって、目が悪くなったとは思っているけど、呼び方によっては視覚障害者なんだけど(中略)
 障害者手帳、障害認定って別に障害者とかそれいらなくない?ってずっと思ってるから、だから、「あなたはこの病気ですよ」っていうのと同じように、障害認定っていうのを受けてるだけで、それを表に出す必要もないし、視覚障害者っていう言葉自体も、私はいらないんじゃないって思って。(中略)
 何でわざわざ視覚障害者という新たな括り、枠組みに当てはめて考えられないといけないのかって思う。
 ………。
 嫌だったから…。
 障害者手帳っていう言葉や視覚障害者っていう言葉を聞いた時に…嫌だったから…。
 だから、こんなふうに考えているんだと思う」

 「嫌だったから…」という言葉は、8秒の沈黙の後、私が次の質問に移ろうとしたタイミングで、静かにゆっくりとした口調で、つぶやくように出てきた。私はその時、沈黙が続いたので次の質問に移ろうと考えていたが、なんとなく話が続いているような、A氏が何かを語ろうとしているような雰囲気を感じ、次の質問に移ることをとどまった。その瞬間に出てきたのが、「嫌だったから…」という言葉であった。それまでの語りは、どちらかというとエネルギッシュに、少し早いペースで、張りのある声で話されていたが、それとは全く異なった空気感を「嫌だったから…」は作っていた。

 そして、その一言の後、また、数秒の沈黙が訪れ、次の言葉につながっていく。ひとつひとつの言葉の間にある沈黙が、表現された言葉以上にA氏の思いを語っているように、私には聞こえた。この沈黙の間に、A氏はこれまでの自身の様々な体験を思い出し、その時々の感情を反芻しているかのようであった。心の奥底から湧き出たような「嫌だったから…」は、A氏の本心であり、これまで闘ってきた軌跡を表していたのではないかと思う。

 A氏がこれまで何と闘ってきたのかを考えてみると、見えない状態になったことそのものに対してではなく、視覚障害者のA氏として扱われることに対してではないかと考える。見えないという自分の今の状態は、慢性進行性眼疾患が悪化した結果であり、それが生活に支障を与えるものであるために、障害という状況になっている。障害は、あくまでその人の置かれている状況を表すものであり、決して人のすべてを表すものではないと考えていた。自身を視覚障害者としてではなく、視覚障害という状況にあるひとりの患者であると捉えており、視覚障害者として見られることに違和感や抵抗感を抱いていた。
 しかし、実際には仕事の中で、視覚障害者のA氏としての振る舞いを強要され、周囲の人から視覚障害者のA氏として見られ、扱われるという場面を数多く経験してきた。「(視覚障害者なのに)こんなこともできてすごいね」「(視覚障害者なんだから)あなたはしなくていいよ」など、頭に「視覚障害者なのに…」という思いが見えるような扱いを、当たり前のように受け続けてきたのである。

 星加(2002)は、障害者は、「障害」に特別な意味を与えて「障害者」を規定するような社会的圧力を受けることで、自分の「障害」への態度を意識せざるを得ない場面を多く経験していると述べており、社会の中で求められることや、周囲の人からの働きかけを受けることなどにより、本来の「自分」の姿ではなく、周囲から求められる障害者としての「自分」を作り出さなければならないという場面を数多く経験してきていると考えていた。
 この星加の考えは、A氏の経験と同様のものである。「自分はみんなと同じ普通の人であり、ただ、見えないという状況にあるだけなのに、なぜ自分だけが障害者という何か別の生き物であるかのように扱われなければならないのか」。A氏のこの戸惑いや憤りはとても大きなものであり、ずっとこの思いと闘ってきたのではないだろうか。その思いのひとつひとつが、A氏の生きづらさにつながっており、この生きづらさが、「嫌だったから…」という一言に込められていたのではないかと考える。

□第6節 本章のまとめ

 本章では、A氏の語りの分析から、見えない自分と向き合ってきた過程について検討した。はじめは、見えないという現実から目を背け、逃避することで自分を守っていた。次は、できない自分という新しい自分を創り出すことで現実直視を避け、引き続き逃避することで自分を守った。そして、新しい自分としての人生を生きていく中で、元の自分と何も変わらない自分を見つけ、自分は自分のままだと気づき、見えない自分も含めたありのままの自分として生きる覚悟をしていた。A氏にとって見えないということは、人生に付けられた条件のひとつであり、決して特別なものではない。「視覚障害者」という何か特別な存在ではなく、A氏はA氏である。


■第5章 総合考察

 人間は外界からの情報の80%以上を視覚から得るといわれており、視覚に障害を負うということは、それまでの生活を一変させてしまうことである。「見えない」という現実は、それまで積み上げてきた自分の人生も、生活も、自分の存在意義も、何もかも変えてしまう。現実と向き合っていくということは、決して容易にできることではない。それにもかかわらず、中途視覚障害になった人たちへの支援体制は十分な状態とは言えない。受け入れがたい現実にひとりで悩み、苦しんでいる人たちがたくさんいるという現状が今もまだ続いている。そのような現状を少しでも改善するために、私たちの人生や生活、思いについて知ってほしいと考え、今回の研究を行った。

 本研究では、人生の途中で見えなくなるという宿命を負ったA氏が、見えない自分とどう向き合ってきたかということについて考えることで、中途視覚障害の当事者の人生や生活、思いについて光を当ててきた。その考察過程は、「見える」と「見えない」の持つ意味を問う過程でもあり、私はこの研究活動を通して多くのことを感じ、考えさせられた。
 本章では、A氏の語りから見えてきた見えない自分というアイデンティティについて、私の経験と合わせて総合的に考察する。そして、「見える」ということ「見えない」ということ、見えない人生や見えない世界について述べていく。

□第1節 見えない自分というアイデンティティ

 ○第1項 見えない自分と向き合ってきたA氏

 第4章では、A氏の語りから、見えない自分とどう向き合ってきたのか、A氏がたどってきた過程について考えてきた。この過程は、@見えないという現実を直視することを逃避する時期、A現実を直視することから逃げられなくなり、現実に押しつぶされそうになった時期、B現実を直視するのをやめるために、新しい自分で生きると決意した時期、C自分は何も変わってなかったということに気づき、見えないことも含めたありのままの自分で生きるという覚悟を決めた時期の4つに分けられるのではないかと考えた。A氏はこの過程を20年近くの時間をかけてたどっていた。

 A氏の慢性進行性眼疾患は現在も進行し続けており、見えづらさや、生活への支障も大きくなっている。人の顔が見えなくなり、文字を読むことが困難になり、ひとりで歩くことが困難になり、ひとつひとつできないことや難しいことが増えている。そのような変化に直面し、できないことを実感させられるたびに、見えないという現実が心に重くのしかかってくる。ありのままの自分で生きる覚悟を持ったA氏は、見えないことも含めた現実を、ありのままに受け止めている。「あーそうか」と悲しい気持ちを抱くことはあるが、「何で…どうして…」と強く悲観することはなくなっている。できないことによる不安はあるが、日々の小さな喜びや楽しみ、幸せにも目を向けて、見えないことも含めたありのままの自分の姿で、自分の心に素直に生きている。この「見えないことも含めたありのままの自分として生きる覚悟」こそが、「見えない自分というアイデンティティ」なのではないだろうか。

 アイデンティティとは、精神分析学者であるエリクソン(Erikson,E.H 1902-1994)によって提唱された概念であり、現在は、一般的な用語として用いられるようになっている。日本語では自我同一性と表現されることが多い。自分が何者であるか、自分が自分であること、自分らしさとは何か、自分の属性、他者から認められている自分とはどのような存在かなどを表す言葉として用いられている(Erikson,1959 小此木訳 1973)。そして、アイデンティティクライシスとは、「自分は何者であるか」ということに揺らぎが生じた状態であり、これまでの人生の中で作り上げてきた「自分」というものを根底から崩してしまう出来事である。アイデンティティクライシスは、まさに危機なのである。

 慢性進行性眼疾患という突然降って湧いてきた災いにより、A氏のアイデンティティは大きな衝撃を受けた。そして、病気のない見える人生を歩んでいくはずであった自分というアイデンティティは崩壊した。A氏が、「将来見えなくなる」という現実を突きつけられて感じたショックは、アイデンティティクライシスによるショックだったのだと思う。そこからの日々は、アイデンティティクライシスに立ち向かってきた日々だったのではないだろうか。A氏が20年の時をかけてたどってきた過程は、アイデンティティの再構築の過程だったのではないかと思う。その過程は、アイデンティティクライシスという危機に立ち向かってきたA氏の人生の軌跡でもある。

 船山(2011)は、がんに罹患した患者の多くが、がんになる前の自分を過去の自分と捉え、「がん患者」という新しい自己アイデンティティの再構築を強いられると述べている。これは、中途視覚障害となった人も同じであると考える。がんや慢性進行性眼疾患に罹患することは、それまでの元気だった頃の自分を喪失することであり、がん患者は常に再発や死への恐怖を、慢性進行性眼疾患患者は常に失明への恐怖を抱えながら生きていかなければならない。このような病気と向き合いながら生きていくという状況は、簡単に受け止められるものではないが、受け止めなければならないものである。そこに向き合うために、患者たちは、新しい自己アイデンティティを再構築していく必要があるのではないかと考える。

 A氏は、見えないという現実から逃避することで、必死に自分を守った。そして、少しずつ受け止めて自分を取り戻していこうとするが、また次の変化に大きく動揺していた。慢性進行性眼疾患のような進行性疾患では、変化による揺り戻しを、症状の進行とともに、何度も経験していかなければならない。心の休まる時のない日々を繰り返しながら、少しずつ見えない自分というアイデンティティを再構築していったのだと考える。

 見えない自分というアイデンティティが確立している今のA氏は、見えないという現実をありのままに受け止め、淡々と向き合うことができるようになっている。もちろん見えないという現実がもたらす心の負担はあるが、以前のような大きな動揺はなくなり、日々の生活を穏やかな心で過ごすことができているのではないだろうか。私がA氏に強さを感じ、A氏のようになりたいと考えていたのは、この見えない自分というアイデンティティの再構築をしていきたいという気持ちの表れだったのかもしれない。

 ○第2項 見えない自分と向き合ってきた私

 私は、約1年の間に急激に視力が低下した。そのため、A氏のように見えなくなるということが遠い将来のことと考えることはできなかった。それまでの生活が送れなくなるというはっきりとした問題として、向き合わざるを得ない状態から始まった。見えないということがどういうことなのかを考える時間もないうちに、生活の変化としてたくさんの問題を突きつけられた。転ぶ、ぶつかるということで症状を自覚するというよりも、どうやって歩くのかがわからないというところからのスタートであった。徐々に変化に慣れていくというような、時間的猶予は一切与えられなかった。見えていた時に当たり前にできていたことが、何もかもできなくなり、どうやって生活していくのか、どうやって生きていくのかがわからないという状態であった。自分の気持ちと向き合う余裕など全くなく、とにかく目の前にある生活をどうこなしていくのかで精一杯だった。

 この頃は、つらいとか苦しいと感じていたのかさえもよく覚えていない。何かを感じるということさえできていなかった。感情が全く湧いてこず、冷静に、淡々と生活をしようとしていたのかもしれない。それほど見えなくなったということが私に与えた衝撃は大きく、あまりに衝撃の大きな出来事に、頭や心が完全にフリーズしていたのだと思う。
 フロイト(Freud,A,1895-1982)は、自我の働きである防衛機制によって、人間は、自己にとって受け入れがたい感情に直面した際に、その感情を意識しないで済むようにし、自我を守っていると説明している(Freud,1936 外林訳1985)。この時の私の状態は、防衛機制のひとつである抑圧によって、受け入れがたい感情を無意識に抑え込み、気づかないようにしていたのではないだろうか。何も感じない、何も考えない状況を作ることで、必死に自分自身を守ろうとしていたのだと考える。これが、私の経験した見えない自分と向き合う第一段階であった。

 次の段階は、いろいろな感情が湧きだしてきた時期である。少し時間が経ってから、「自分の気持ちに出会った」という表現の方がしっくりくるような気がする。見えないという現実と、それまでの自分と全く変わってしまったという現実に対する混乱や戸惑いが続いていたが、その時の自分の置かれている状況を少しずつ俯瞰できるようになった。そして、本当に人生のどん底だと絶望した。「自分にはもう生きる価値がないのではないか」「社会の足手まといでしかない」というような、見えない自分に対して否定的な感情しか湧いてこず、「もう人生どうなってもよい、このまま消えてなくなってしまえたらいいのに」とさえ思っていた。

 しかし、「自分で命を絶つことだけは絶対にしない」という信念があった。それは、小児科の看護師として、生きたくても生きることのできなかったたくさんの子どもたちに出会ってきたからである。
 子どもたちがどんなに生きたいと願っていたか、家族がどんなに生きて欲しいと願っていたか、間近でその姿を見てきた。そして、命がどれだけ大切で尊いものなのかということを教えてもらった。だからこそ、自分の命を自分で終わりにするということだけは考えられなかった。苦しみでつぶれそうになる度に、「子どもたちも頑張っていたんだから、自分も頑張らないと。あの子たちはもっとつらい状況の中でも、懸命に生きようとしていたじゃないか。こんなことくらいで負けてはいけない。みんなが見ていてくれるんだから」と自分を鼓舞する考えが浮かんできた。

 また、苦しいことに直面するたびに、「きっとあの子もあの時こんな気持ちだったんだろうな」などと思いを馳せたように、私の心の中にはそれまでに出会ってきたたくさんの患者たちがいた。自分だけではなく、一緒にその苦しさを共有してくれる過去に出会った患者たちが私を支えてくれた。この支えがあったからこそ、見えないという現実に少しずつでも向き合っていこうとしていけたのではないかと思う。

 自分自身が困難に向き合う時、看護師として過去に出会った患者や、患者と一緒に困難に向き合ってきた経験が、大きな支えになったということは、A氏も同じように感じていた。そして、「看護師としての自分」が「見えない自分」を支えてくれていたのだと、A氏も考えていたのである。
 見えない自分と向き合っていく中で、A氏の大きな支えとなったのは、子どもの存在であり、母親としての自分であった。「母親としての役割を何としてでも果たさなければいけない」という決意が、自分を奮い立たせ、極限のところで自分自身を保ち、日常生活を送ることができる状態を取り戻していった。そして、看護師としての復職を果たした。
 一方で、私を支えたものは、看護師としての自分であった。「小児科の看護師として復職し、また子どもたちとともに過ごしたい。看護師としてだれかの支えになれる自分でいたい。だから、一日も早く看護師に戻るんだ」という思いで、必死に自分を保とうとしていた。

 角(2018)は、看護師であるというアイデンティティが確立している人ほど、自分が患者になったときに「私は支援する側ではなくなってしまった」というアイデンティティの喪失を抱えやすいと述べている。
 私自身も、「自分は支援をされる側ではなく、支援をする側なんだ」と強く願っていた。そのため、見えないという現実の自分ではなく、看護師である自分に目を向け、その姿で生きていこうとしていた。A氏は、偽りであるドジな自分を作り出し、偽りの自分を見ることで本来の自分の姿を見ないという選択をしていたが、私も同じようなことをしていたのだと思う。見えていた頃と同じように働く看護師としての自分という姿を創り出し、その空想の自分の姿に目を向けることで、今の見えない現実の自分を「見ない」という選択をしていたのではないかと考える。看護師に戻りさえすれば、本来の自分に戻れると信じていた。看護師に戻るという強い決意が、自分を奮い立たせるものであった。
 しかし、その姿は空想でしかなかったため、簡単に壊れてしまった。そして、看護師としての職を辞めさせられるという経験をしたことで、「見えない」という現実よりもさらに大きな衝撃を受けることとなった。

 角(2018)は、退職することやもともとの仕事から外れたりするということは、単に働く場を失うというだけでなく、看護師としてのアイデンティティを失うことであり、大きな喪失感を与えると述べている。
 私は、見えなくなった時が人生のどん底だと思っていたが、本当のどん底は、看護師でなくなった時であった。それほど私にとって看護師であるということは大切なことであり、自分を示すアイデンティティであった。見えていた自分をなくしたことで一度目のアイデンティティの崩壊を感じ、看護師でなくなったことで、唯一の希望として残っていた本来の自分という姿も失い、さらなるアイデンティティの崩壊を経験したのである。

 そこから現在に至るまで、私は、いろいろな思いを感じながら生活してきた。人生のどん底で、涙も出ない日々を経験し、その後は、涙しか出ない日々も経験した。たくさん泣き、たくさん怒り、たくさん落ち込み、それでも生きることをあきらめることはなく、何とか毎日を生きてきた。
 そして、8年経った今は、再び笑うことができるようになっている。日々の小さな喜びに幸せを感じることもできている。「自分の人生、そんなに悪くないんじゃないか」と考えられるようにもなった。ただ、ここまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。見えなくなって、看護師でなくなった時、それまで当たり前のように「この道を歩いていく」と考えていた人生の道を失った。それまで目の前にあったはずの道が、粉々に壊れ、消えてなくなってしまった。これからどこに向かって進んでいけばよいのか、全くわからなくなり、自分自身も、自分の人生も完全に見失ってしまった。この絶望は本当に大きく、そこからの日々は恐怖や不安でいっぱいであった。

 しかし、そのような日々を一緒に支えてくれる人が私の周りにはいてくれた。A氏やP施設の人たち、家族、視覚障害の仲間たち、友人、盲導犬のジェルダ、歩行訓練士、ヘルパー、学校の先生、学生仲間、職場の人たち…本当にたくさんの人たちが私の人生を支えてくれている。どっちに進んでいいかわからない、どこに道があるのかもわからない私に、「こっちに来たら大丈夫だよ」と声をかけ、手を引き、一歩ずつ一歩ずつ、前に向かって再び歩けるように導いてくれた。ひとりで悩まなくてよかったということ、一緒に痛みや苦しみを共有してくれた人たちがいたということは、とても大きな支えであった。この支えがなければ、見えなくなった自分と向き合うことをあきらめてしまっていたと思う。

 現在も、前向きに捉えられる時ばかりではない。三歩進んで二歩下がるという状態で、心が揺り動かされることの多い毎日である。それでも、一歩ずつ前に進むことができているという実感はある。この実感が、「自分の人生を大切に生きている」という自信と安心につながっている。
 進んだ先に何か大切なものがあると、ずっと感じてはいたが、それが何かはわからなかった。しかし、今回の研究で、A氏の見えない自分と向き合ってきた過程を振り返ってきたことで、その答えが見えてきたような気がする。この答えこそが、きっと、見えないありのままの自分として生きる覚悟であり、見えない自分というアイデンティティの再構築なのではないかと思う。

 アイデンティティとは、「私は私」という確固たる自分を持つことであり、「今のありのままの自分でよいんだ」と思えることなのではないかと考えることができるようになった。そして、見えない自分というアイデンティティは、「見えない私も大切な私」、「見えないことに対してどのような気持ちを抱く自分も大切な自分」と感じ、「これでいいんだ」と自分を認めて生きていけることなのではないかと考える。

 ○第3項 見えない自分と向き合ってきた過程を振り返って思うこと

 A氏の見えない自分と向き合ってきた過程について考えてきたことで、私は、今回の研究で何をしたかったのかということについて、改めて考えることができた。本当にやりたかったことは、自分自身が見えない自分と向き合ってきた過程を振り返り、それを捉え直していくことで、A氏がたどってきたアイデンティティの再構築の過程を、私自身もたどっていきたかったのではないかと思えた。

 見えない自分という現実に直面し、見えないことで悔しい経験やできないという経験をした時に、「何で…どうして…」と未だに見えなくなった自分を嘆くことが多い。そして、「まだ見えないことを受け入れていないのか」「まだ見えないことに向き合えていないのか」など、自分を否定するような思いを抱いてしまい、自分が嫌になるということを繰り返している。見えなくなって約8年、その時間の間に少しずつ見えない自分を認め、見えない自分として生きる覚悟を持つことができるようになってきたと感じていたが、まだまだ、心が揺り動かされる日々を過ごしているのだと改めて実感した。

 インタビューを通して、A氏の人生の節目やいろいろなエピソードを聞きながら、自分自身の体験についても思い出し、その当時の自分を見つめるという作業を行ってきた。この作業は、決して楽なものではなく、本当につらかった時期のリアルな思いが呼び覚まされ、それを追体験し、苦しくなることもあった。感情に支配されて涙が止まらなくなり、何も書けなくなるという経験を何度もした。一番つらかった時期のリアルな感情は、今まで見ないように、自分自身で蓋をしてきた部分だったのかもしれない。その蓋を開けることで苦しくなることがわかっていたからこそ、ずっと心の奥底にしまっていたものだったのではないかと思う。

 見えなくなってすぐの頃のエピソードは、これまで何度となく人前で話してきており、もう落ち着いて話せるようになったと思っていた。しかし、これは、本当の意味で当時の自分と向き合ったものではなく、表面的なものだったのだと今回の研究を通して気づかされた。それほど、見えなくなった当時の自分と向き合うということは、私にとって大きな勇気と覚悟を必要とした。当時は、苦しすぎて十分に泣くこともできず、ただ考えることをやめ、蓋をして、心の奥底に閉じ込めていた気持ちにしっかりと向き合い、心を動かすことができた。その時、発散することのできなかった様々な気持ちを出せたことで、とても心が軽くなった気がした。苦しかったが、この作業を行うことができてよかったと、今は心から思っている。

 ひとつひとつの感情と向き合っていくことが、見えない自分というアイデンティティを再構築し、見えないありのままの自分で生きる覚悟を持つために必要な作業であり、A氏も通ってきた道なのだと思った。A氏と同じ道をたどっていくことができているということに、とても安心した。
 A氏は、「看護師としてこれは、この自分の経験を開示した方が患者が楽になるなと感じる場面があって、そういう時にちょっと無理やりにでも蓋をあけて、気持ちを出してきた。自分を傷つけながら支援をしていた部分もあるのかもしれない。でも、そうやって自分の気持ちの整理をしていった」と述べており、看護師として同じ視覚障害の患者と向き合いながらこの作業を行っていた。
 たくさんの患者のつらさ、苦しさに一緒に向き合いながら自分自身の感情とも向き合い、気持ちの整理をしていったのだと思う。そして、見えない自分というアイデンティティを再構築し、見えないことも含めたありのままの自分で生きる覚悟を持つことができたのではないだろうか。

 A氏が、インタビューの最初の頃に、「今回のインタビューの話を聞いた時に、きっとBさん(筆者)は、この作業をしたいんだろうなと思ったんだよね。そして、その作業を一緒にしたいと思ってもらえたんだなと思って嬉しかったんだよ」と話していた。その時は、「この作業」というのが何を表しているのか、あまり深く考えておらず、十分理解していなかった。今思うと、「この作業」とは心の奥底にしまっている感情と向き合い整理していく過程であり、アイデンティティの再構築を示していたのである。

 岡本(2007)は、同じような体験をした者同士が語り合うことは肯定的な意味づけを促進するものであり、体験に対して肯定的な意味づけができることは自分らしさの再構築につながると述べている。私は今回のA氏との対話を通して、自分の体験を肯定的に捉えることにつながったと同時に、私への支援のひとつとしてインタビューに応じてくれたA氏を、やはり「支援者なんだ」と改めて思った。

 私は、今もまだ、このアイデンティティの再構築の途中にいる。これからも心が揺り動かされ、その度に自分というものの意味や存在に疑問が生じ、苦しくなるのかもしれない。しかし、今回のように、苦しくてもひとつひとつの気持ちと向き合い、整理していくことができれば、心が軽くなり、少し強い自分になれるのではないかと思った。強いということは、許せる、認められるということなのだと考える。ネガティブな感情も含めていろいろな感情を抱く自分、できないことのたくさんある自分、できることもたくさんある自分、思い通りに認めてもらうことのできない自分、生きづらさを抱えた自分、自分だけでなく自分の周りの環境なども含めて、いろいろなことをありのままに受け止めて、許していける心、「まぁいいか」と思える心、これが強い心なのではないだろうか。

 この強い心を持つことが、私の目指している姿であり、すなわちA氏が持っている魅力なのではないかと考える。今回の研究を通して、見えない自分と向き合っていく勇気や覚悟を少しだけ持つことができた。私は、これからも一歩一歩、見えない自分というアイデンティティの再構築を目指して、しっかり自分と向き合いながら生きていきたい。

□第2節 「見える」ということ「見えない」ということ

 本論文では、何度も「見える」「見えなくなる」「見えない」などの言葉を用いている。一般的に「見えない」とは、光も何も感じることのできない全盲の状態、もしくは全盲ではなくても、文字や周りの景色などの情報を視覚から得ることのできない盲の状態が想像されるのではないだろうか。
 実は、中途視覚障害となった当事者の間では「視覚障害=全盲」ではないということを、広く社会に周知しようとする活動がある。なぜなら、「視覚障害=全盲、見えない人=全盲」という考えによる様々なトラブルが生じているからである。実際には、視覚障害の人の多くが全盲や盲ではなく、ロービジョンと呼ばれる状態である。視力の低さや視野の狭さによる見えづらさを抱えているが、残存視力を用いて見ることもできるのである。そのため、白杖を使っていても、本を読むことやゲームをすることもある。その実態に、「嘘つき」「本当は見えているじゃないか」というような、心無い言葉をかけられ、傷ついてしまうという経験をすることがある。このような誤解からくる現状は、今でも少なくない。

 この「白杖=全盲」ではないという考えのように、当事者が「見えない」という言葉に込めている意味は、全盲や盲などの「全く見えない」「ほとんど見えない」という状態だけではないことが多い。そのように捉えている当事者もいるかもしれないが、「見えない」という言葉は、程度はどうであれ「見えづらさを抱えながら生きている」という、もっと広い状態を指して用いていることが多いのではないかと思う。少なくとも、A氏と私はこのように捉えていた。「見えない」という状態は、「はっきり見える」と「全く見えない」の0か100みたいなものではなく、0から100の間にたくさんの数字が含まれているように幅のあるものである。そのため、「見えない」といっても、その見え方、見えづらさの程度は、ひとりひとり大きく異なり、できることもできないことも、どのように情報を入手しているのかということも、すべて違うのである。

 「見える」という状態は、A氏と私でも大きく異なり、そのため言葉の持つ意味や使い方などにも違いがある。現在の私の見え方である盲の状態では、文字や映像などを視覚的に捉えることはできない。そのため、視力を使って何かを見るという作業をすることはほとんどなく、情報入手の手段は視覚以外の感覚がほぼすべてである。一方で、A氏は、見えづらさはかなり強いが、視力を用いて見ることが可能である。文字も目で見て、視覚を使って認識することができる。決して鮮明ではないが、映像も目で見て捉えることができる。情報入手の多くを聴覚や触覚に変更してはいるが、視覚も用いている状態である。このような違いがあるため、私とA氏でも「見える」ということや「見る」ということの持つ意味が異なっているのである。

 見え方に違いのある私たち当事者が会話をすると、面白い状態が生じる。私は、視力を使って見るということはもうほとんどないため、情報入手の手段を細かく分けて捉えるということはない。そのため、テレビやYouTubeなど、もともと目で見て楽しんでいたものについて、中途視覚障害となった今でも特に抵抗なく「見る」という動詞を用いる。実際には、映像を見ているわけではなく、流れてくる音を聞いて楽しんでいるのだが、私はこれを「テレビやYouTubeを見る」と表現する。一方で、A氏は、テレビやYouTubeに対しては「聞く」という動詞を用いる。実際に視力を用いて情報を入手する時と、それ以外の時を区別して「見る」と「聞く」を使い分けているのである。実際には、A氏はテレビやYouTubeの情報を視覚からも得ているはずであるが、A氏は「聞く」、私は「見る」という表現になるのである。

 これは、「見る」という言葉に対する思いや捉え方に違いがあるため、生じているのではないかと思う。現在のA氏は、目で見て情報を入手することが困難ではあるが、実際に「見える」ということが可能な状態であり、「見える」ことを実感することができる。この「見える」ことは、A氏にとってまだ見えているという安心を与えてくれることであり、心のよりどころになっているのではないかと思う。だからこそ、「目で見る」ということは、A氏にとって特別なことであり、「まだ見えている」ということを確認するためにも、「見る」と「聞く」を区別しているのではないだろうか。実際に、他の視覚障害仲間の言葉を思い出してみても、「テレビを聞く」と表現するのは、盲の人ではなく、ロービジョンの人であることが多い。実際に「見る」と「聞く」の両方が可能だからこそ、「見る」と「聞く」を区別して表現しているのではないかと感じた。

 一方で、私のような盲の人たちが「テレビを見る」と表現するのはなぜなのか。もちろん、もともと見えていた頃から、一般的に「テレビを見る」という表現を用いていたからである。見えなくなった私も、「見える」という言葉や「見る」という行為に、A氏と同じくらい思い入れがあるはずである。そうであれば「テレビを聞く」と表現してもよいような気がするのだが、私を含めて盲の人が「テレビを聞く」と表現している記憶はない。これは、聴覚を用いることが、自分にとって当たり前の情報入手手段として視覚と入れ代わっており、「見る」と「聞く」という行為が置き換わっているからではないかと推察する。

 もともと私たち人間は、外界からの情報収集の80%以上を、視覚を用いて行っている。この情報入手が「見る」という行為である。一方で、今の私は、もちろん聴覚以外にも触覚や嗅覚といった様々な感覚を用いるが、最頻度で活用している情報入手手段は聴覚であり、外界からの情報の多くを「聞く」ことから得ている。一番の情報入手手段が「見る」から「聞く」に置き換わっているのである。そのため、この「見る」と「聞く」の境界線がとてもあいまいになっているのかもしれないと感じる。

 これに加えて、私はテレビを見る時に、テレビから聞こえている音から情報を入手し、その情報をもとに見えていた頃の記憶を用いて映像を頭の中で創り出している。例えば、可愛い子犬を紹介しているシーンでは、頭の中に子犬の映像を思い浮かべながらテレビの音を聞いている。実際の映像とは異なっているかもしれないが、私の頭の中にも映像は見えている。だからこそ、「見る」なのかもしれない。

 「見る」「見える」ということは、視覚を用いて外界からの情報を入手することである。「見えない」ということは、その情報を視覚からは入手できないということである。「見えない」「見えなくなる」ということは、それまで当たり前に得ていた情報の獲得が困難になるということなのである。「見えなくなる」ということは、この80%もの情報を失うということである。もちろん、人間とはとても優れていて、視覚からの情報が得られないのであれば、他の感覚を用いて情報を収集しようとする。しかし、80%以上もの情報を簡単に補うことはできない。そして、代替の手段は容易に身に付けられるわけではない。そのために混乱が生じるのである。情報が十分に入手できないことで、あらゆる困難に直面する。見えていれば簡単にできることが、とても困難になる。見えていればしなくて済んだ苦労をしなければならない。

 例えば、何かを見て周りのみんなが笑っていても、みんなが笑っているということは周囲の音から情報を得て理解できるが、なぜみんなが笑っているのかという情報が得られず理解できない。テレビのニュース速報が流れても、シグナル音でニュース速報が流れたということはわかるが、字幕表示が見えないので、いったい何のニュース速報なのかがわからない。見えないために情報を得られないことで、自分だけが取り残されたような状態になってしまうのである。このように、視覚からの情報が十分に得られないことで、様々な問題に直面する。この視覚からの情報がうまく得られないことでいろいろな困難があるということが「見えない」ということであり、この見えないことによる生きづらさを感じながら日々の生活を送っている人たちが、私やA氏が考える「見えない私たち」なのである。

 「見えない」ということは、得られる情報が極端に少なくなるということであるため、やはり不便であり、不自由である。見えていればたくさんの情報を基にいろいろな判断、選択ができるが、視覚障害がある場合は、その基となる情報がとても少なくなる。そのため、適切な判断ができない、選択肢がとても少ないなどの困難に直面する。それを補うために周囲の人のサポートやテクノロジーを活用して、視覚情報を音や触感のような、視覚障害があっても理解できる形の情報に変換し、得られる情報を増やそうとしている。そうすることで、不便や不自由を減らし「見えない」ということによる生きづらさ、障害を解消しようとしているのである。もし、すべての視覚情報がその他の情報に置き換えられ、容易に取得することができれば、「見えない」ということによる生きづらさはなくなり、障害という状態にはならないのかもしれない。目で見ているというわけではないが、視覚情報を取得できるという意味での見えるという世界が、今は見えない私たちにも訪れるのである。

 現在は、かなり多くの情報を視覚以外で得ることができるようになった。情報のアクセシビリティー化が必要であるということが浸透してきており、視覚情報を音声などの聴覚情報に変換するような配慮を受けられる場面が増えている。そのためのツールも格段に進歩している。「見えない」ことによる生きづらさを感じる場面を、少しずつであるが、確実に減らすことができているのだと思う。写真の画像を言葉で説明してくれるアプリケーションやデバイス、映画やテレビの音声解説、緊急地震速報のような音声での案内、振動を使って目的地までの道案内をしてくれるデバイスなど、いろいろな形で「見える」の実現化が進んでいる。「見えない」という情報をうまく入手できない状態から、情報をうまく入手できる「見える」という状態に、少しずつ社会が近づいているのだと思う。

 「見えない」ということは不便であり、不自由である。しかし、決して「不幸」というわけではない。この不便、不自由を一緒に解消しようとしてくれる人々が周りにはたくさんいて、一生懸命「見えない」を「見える」に近づけようとしてくれている。「信号青になりましたよ」「前に車が止まっているからもう少し左を歩いたら大丈夫ですよ」「電車が少し遅れているみたいです」というような声掛けで、「見えない」は「見える」に近づいていけるのだと日々実感できている。そして、その度に人の優しさを感じることができ、あたたかい気持ちや嬉しい気持ちになれる。これだけでも、十分に幸せなのではないかと思う。

 もちろん、もう一度視力が元に戻るのであれば、私は元に戻りたい。その気持ちは絶対になくならないと思う。これは、A氏も同じように考えていた。それほど「見えない」ということは不便であり、不自由である。しかし、今の私は決して不幸だとは思っていない。どんなに不便や不自由があっても、決してそれだけではないからである。「見えない」という不自由な状態の中でも、嬉しいこと、楽しいこともたくさんあり、見えないからこそ感じられる人の優しさや、あたたかさもたくさんある。このような人のあたたかさを感じられる世界は、見えないからこそ見える世界なのかもしれない。「見える」というのは、視力を使って目で見るというだけでなく、「心の目」を使ってみるという「見える」もきっとあるのではないか。視力を失った今の私は、この心の目で見る「見える世界」を生きているのではないかと思っている。

□第3節 本研究の限界と今後の課題

 本研究では、A氏と私というふたりの中途視覚障害当事者の人生をもとに、「見えない私たち」について考えてきた。しかし、これは「見えない私たち」の中の、ごく一部の人生でしかなく、さらにその人生のある一面にすぎない。「見えない私たち」という中には、ひとりひとり全く異なった人生を歩んでいる人たちが含まれており、一括りにしてよいのかわからないほど、それぞれの生きている人生は多様である。そのため、「見えない私たちの人生」を考えていくためには、病気や見え方、どのような時期から見えないのか、どのように見えなくなったのか、どんな生活を送っているのか、家族は、仕事は、住んでいる地域はなどといった、様々な背景や要因を考慮に入れて検討していくことが必要になる。今後、対象を多くの人たちに広げていくことで、より多様な人生から「見えない私たちの人生」ということの本質について考える取り組みが必要ではないかと考える。

 また、今回は中途視覚障害をテーマとしていたため、中途視覚障害の視点からのみ「見えない私たち」について考えてきた。しかし、「見えない私たち」の中には、生まれながらにして「見えない」という先天性の視覚障害の人たちもいる。見えていたものが見えなくなったという中途視覚障害と、見えるという経験をしたことのない先天性の視覚障害では、「見える」ということと「見えない」ということに対する考えや、見えない自分とどう向き合ってきたのかということも、大きく異なっているのではないかと考える。
 「見えない私たちの人生」を考えていくうえで、先天性の視覚障害の人たちが見えない自分の人生、見えない自分をどう捉えているのかという視点を外すことはできない。今後、先天性視覚障害の人々の人生についても、調査を進めていく必要があると考える。

 本研究では、当事者の視点から当事者の人生や中途視覚障害となった人への支援について考えてきたが、支援を行っている人たちが、何を感じ、何を考えているのかということについては調べることができていない。支援者の人たちが、現状についてどのように考えているのかについても知る必要があると考える。今後は、支援者側から見た、見えない自分と向き合う過程で必要とする支援、視覚リハの現状と中途視覚障害支援に対する思いや課題についても明らかにしていきたい。当事者、支援者両方の視点から考えることで、中途視覚障害支援の充実につなげていくことができるのではないかと思う。
 さらに、現在の中途視覚障害支援は、明確な法整備や制度設計が十分にはできておらず、住んでいる地域によって受けられる支援が大きく異なっている。必要な支援がすべての人に行き届くような体制には決してなっていない。そして、たとえ十分な支援体制が整備されていたとしても、その支援にたどり着くことが難しいという問題もある。

 視覚障害は、情報と移動の障害であり、自らつながることが難しいという特徴を持つ。それにもかかわらず、自らアクセスしなければ支援につながることができない現状であり、そのことが視覚障害支援の糸につながることができず、ひとりで悩み苦しむ人々を生んでいる。この最初のつながりをどう作っていくかということが、視覚障害支援の大きな課題である。
 そのためにも、医療から福祉への連携を進めていくとともに、医療の枠組みにおいても、治療だけでなく、ひとりの人として向き合い、支えていくトータルサポートの視点で、支援体制の充実を考えていく必要があるのではないだろうか。例えば、脊髄損傷のリハビリのように、視覚障害に対しても早期から医療の中でしっかりとしたリハビリを受けられることが必要であり、今は窓口や橋渡しとしての機能にとどまっているロービジョンケアを、十分な訓練を行える支援体制へと強化させていくことが望ましい。そのうえで、医療のロービジョンケアから福祉の視覚リハへと、より生活に根差した地域での訓練に切れ目なくつないでいくことが必要なのではないかと考える。

 このロービジョンケアや視覚リハには、単なる訓練としての側面だけではなく、視覚障害となった人たちが見えない自分と向き合うことを支える、心理的なサポートが欠かせない。見えない自分と向き合うという大きな困難に立ち向かう人たちを、決してひとりで悩み、苦しませないための支援が必要である。見えなくなって暗闇に迷い込んだ私たちを、いつもそこにいて見守ってくれ、ひとりじゃないよというメッセージを届けてくれる。暗闇を照らす灯台のように、大きな安心を与えてくれるサポートが必要なのではないだろうか。どこでもだれでも必要な人にしっかりと支援の手が差し伸べられるように、十分な支援体制の整備を進めていくことが、今後の視覚障害支援の大きな課題である。

□第4節 本章のまとめ

 本章では、先行研究や第4章で明らかとなったA氏のライフストーリー、および自分自身の体験をもとに、見えない私たちの人生や世界について考察を行った。
 第1節では、見えない自分と向き合ってきたA氏、私、それぞれの過程について考察した。A氏は見えないことも含めたありのままの自分で生きる覚悟をしていたが、この覚悟は、見えない自分というアイデンティティの再構築であり、見えない自分と向き合ってきた過程は、見えなくなるということで崩壊したアイデンティティを再構築していく過程だと考えられた。見えなくなった自分が感じてきた様々な感情と正面から向き合い、それを認めていくことが、アイデンティティの再構築には欠かせない作業であり、今回の研究を通して、私自身が行ってきたことであった。

 第2節では、見えるということ見えないということについて、自分自身の考えをまとめた。見えないということは情報を入手できないということであり、視覚以外の形であっても、情報を入手することができれば、見えるということに近づけるのではないかと考えた。
 第3節では、本研究の限界と課題について、今後、先天性の視覚障害も含めて、「見えない私たちの人生」について、より多様な側面から研究を進めていくことが、必要であると考えられた。


■第6章 おわりに

 最後に、どうしても届けたい思いがある。それは、人生を投げ出さずに生きていてよかったということである。
 多くの中途視覚障害の当事者が、見えない自分という現実に直面し、人生に絶望するように、私自身も自分の人生に絶望し、もう消えてなくなってしまいたいと考えていた。見えなくなった自分には、もう何の価値もない、夢も希望も楽しいことも何もない、そのような思いでいっぱいであった。今でも、ふとその気持ちが湧いてきて、苦しくなることがある。そして、今も、これからも、見えなくなったことであきらめること、苦しくなることは、たくさん出てくるのだと思う。

 しかし、今の私の毎日は、決してつらいことばかりではない。見えなくても楽しいと思える瞬間、幸せと思える瞬間はたくさんある。美味しいものを食べた時、温かいお風呂に入った時、好きな音楽を聴いている時、友達と楽しく話している時、大切なパートナーのジェルダの耳を撫でている時、できなかったことができるようになった時、だれかに必要とされていると感じられた時、人の優しさに触れた時など、私の周りには幸せを感じられることがあふれている。見えなくなったからこそ見えるようになったもの、できるようになったこと、出会えた人、得られた経験もたくさんある。見えなくても幸せはたくさんあることを、この8年間で考えられるようになった。

 見えなくなった自分の人生、一度は絶望し、もうどうなってもよいと投げ出した人生だったが、今の私は、それなりに幸せな人生を送ることができているのではないかと思っている。見えなくなる前に描いていた理想の人生とは、少し違うかもしれないが、今のこの人生も、たくさんの人や犬の愛を感じられる、自分らしく活躍できる場も与えられている、そんな良い人生なのではないかと思えるようになった。「あの時、人生を投げ出してしまわなくて本当に良かった」、これだけは絶対に言える。苦しくてもがいても、何をしてもどうにもならなかったあの頃、こんなふうにまた笑いながら、泣きながら、「自分の人生悪くない」と言える日が来るなんて全く思えなかった。でも、ちゃんとそんな日は来ている。

 だから、決してあきらめないでほしい。ひとりで悩まないでほしい。自分のことを見守ってくれ、手を差し伸べてくれる人は、きっとどこかにいる。苦しいだけじゃないことも、自分の周りにはちゃんとたくさんあるはずである。今は見つけられていないかもしれないが、必ずまた見つけられる日が来る。

 この論文を通して、私たちの人生や思いについて知ってもらうことで、今まさにひとりで悩んでいる人たちが、少しでも、「苦しいのは自分だけじゃない」、「ひとりで悩まなくていい」と思ってもらえることを願っている。そして、私がA氏と出会い救われたように、中途視覚障害となって苦しんでいるみんなに支援の糸がつながり、あたたかい光が照らされ、ひとりで悩み苦しむ仲間がいなくなってほしい。そのための支援の糸を、次は私もつないでいける人になりたい。この論文がその手助けのひとつとなってほしいと考えている。そんな未来を願って、この論文を書き終えたいと思う。

 *引用文献は付表の後に掲載しました。


■付表

□1 自己紹介

 私は、30代後半女性で、夫と盲導犬との3人暮らし。ふたり姉妹の長女。幼いころから人と関わることが好きで、世話好きな性格。自由奔放でじっとしていることが苦手。周囲の人からは正義感が強く曲がったことが嫌いと言われることが多い。趣味は、盲導犬とのお出かけや旅行、合唱、和太鼓、ネットショッピング、YouTube鑑賞、料理や家庭菜園と多趣味である。

 現在の見え方は、右目は光覚なし、左目の視力は手動弁、視野は90%以上喪失である。普段は盲導犬歩行であり、時折 白杖も利用している。文字や人の顔などを見ることは難しく情報入手は音声に頼っている。左眼の病気を発症してから1年の間に現在の見え方となっており、その後は見え方には大きな変化は見られていない。

 幼いころから人と関わることが好きで、小さいころから将来の夢は小児科の看護師か特別支援学校の教員になることであり、病気や障害を持ちながら一生懸命生きている子どもたちの支えになる仕事がしたいというのが子どもの頃からの目標であった。

 大学の看護学科を卒業し、小児専門病院や大学病院の小児病棟で看護師として勤務していた。現在は、福祉事業所で相談支援専門員として勤務している。視覚障害だけでなく、様々な障害のある利用者さんの相談を受け、ご本人らしい生活を送るためのお手伝いをしている。私は、小児看護の仕事が大好きで、自分の天職であると思っていた。
 現在は、相談支援専門員の仕事にもとてもやりがいを感じており、新しい天職に出会えたと思っている。A氏と同様に、私にとっても看護師であることは自分を示す大切なアイデンティティである。看護師として再び働くことが、視覚障害となった自分と向き合う支えになっていた。

 【表4】私の主なライフイベントと視覚障害による生活の変化の変遷


□2 インタビューガイドに対する自分自身の回答

 Q1:初めて見え方が今までと違うと感じたのは、どんな時でしたか。

 A:緑内障の手術を受けるようになって、手術直後はほとんど見えなくなって、そこから1週間とかをかけて見えるようになっていって、そのうち手術前とあまり変わらないように見えるように回復していたのが、手術を繰り返すうちに、だんだん術後の見え方の回復が悪くなっていった。回を重ねるごとに少しずつ見えづらくなっていって、気づいたころには、細かい文字が見えなくなっていて、時計が見えなくなっていて、人の顔が見えなくなっていて、階段や段差がわからなくなって…見える範囲もどんどん狭くなっていって…というように、ふとした時に、あれ、前は見えていたのにと気づかされる瞬間がたくさんあった。

 Q1-1:その時どう思いましたか。

 A:このまま見えなくなったらどうしようという不安、これだけ手術を繰り返したら元通りには戻れないのではないかという不安はとても大きかったけど、その不安を必死で心のすみに追いやって、また手術をすれば元通りに戻れる、だから大丈夫と自分に言い聞かせようとしていた。自分の目が見えなくなることなんて絶対ない。先生(主治医)が大丈夫と言ってくれたんだから、それを信じようと思っていた。

 Q2:初めて視覚障害になると病院で言われた時、どう思いましたか。

 A:10回目くらいの手術をして、なかなか術後の炎症が落ち着かなかったところから少しずつ回復した時に、目の症状が落ち着いていっても見え方はぜんぜん元通りにはならなくて、自分でもこれ以上は戻らないかもしれないと感じたとき、主治医から、今より見えるように戻るのは難しいかもしれないと言われた。

 どこまで回復するかはわからないけど、今までと同じように文字を読んだり、ひとりで自由に歩いたりということは難しくなると思うということ、見えにくい状態での生活を考えていかないといけないことを伝えられた。その時に強く感じたことは、これからどうなるんだろうという漠然とした不安、なんでこんなことになってしまったのか、何が悪かったのかという思い、そんなはずはない、自分なら絶対に元通りに戻れる、戻ってやるという思い、周囲の人に(特に家族、もともとの自分の姿を知っている人たち)に知られたくない、知られたらどうしよう、どうやって隠そうという思い、他にもいろいろな思いがあったけど、特に強かったのは、これらの思いだったかなと思う。

 視覚障害者になったことに対して、障害者になりたくないという思いはあったのか、なかったのか自分でもよくわからない。視覚障害者になることへの抵抗というよりは、誰かの助けを借りないと生きられなくなってしまったということに対する抵抗が大きかったような気がする。

 Q3:身体障害者手帳を取ったきっかけについて教えてください。

 A:見え方が元通りには戻らないということを言われて、視覚障害者として生きていくんだなと思ったときに、すぐに手帳を取ればいろいろな支援を受けられる、白杖を買うためにも、音声のいろいろな機器を買うためにも手帳が必要だと考え、すぐに手帳を取りに行こうと素直に思うことができ、自分からすぐに役所へ取りに行った。手帳を取ることに対する抵抗はあまりなかったように感じる。
 ただ、これが、今の住所(○市)ではなく、地元にいるときに見えなくなっていたら、こんなにスムーズに手帳を取りに行こうとは思えなかったかもしれない。○市に来てすぐに目が悪くなっていき、知り合いは、目の病気を持った私、見えにくくなった私しか知らなかったので、手帳を持つことも、白杖を持つことも、あまり周りの目を気にせずにできたのかもしれない。

 Q4:外出についてお聞きします。

 Q4-1:白杖を持ったきっかけは何でしたか?

 A:友達に白杖を持たないなら危ないからもう外出には連れて行かないと言われてしぶしぶ持つようになった。最初は、白杖を持つと周りの人からどう見られるんだろうという思いが強く、歩くのが怖いなと感じても、なかなか白杖を持てないでいた。電信柱にぶつかっても、人とぶつかっても、段差につまづいて転んでも、駅の階段から転落しても、今後気をつければ何とかなると考え、白杖を持てないでいた。入院中も白杖なしで過ごしていたが、友人と外出する際に手引きをしてもらって出かけていたが、そのころは白杖を持っていなかったので、よく人にぶつかってしまっていた。

 友人から、「白杖を持ちなさい。そうしないともう外出に連れて行かない」と言われ、それは困ると思い白杖を持つことにした。ただ、どうやったら白杖を手に入れることができるのかわからなかったので、Amazonで検索してみたらあったので、初代の白杖はAmazonで買ったただの金属の白い棒という感じの白杖だった。使い方を教えてくれる人もいなかったので、適当に見よう見まねで使っていた。

 Q4-2:ひとりで出かけることはありましたか。

 A:基本的に、ひとり暮らしだったのでひとりで出かけていた。ただ、入院中は危ないからひとりで出かけるのは駄目と言われていたので、そして家族には入院していることを隠していたので、同じ職場の友人に一緒に外出に連れて行ってもらっていた。退院後はまたひとりで出かけるようになったが、知らない場所などは一切出かけられなくなった。さらに視力が低下してからは、自由に出かけられるのは点字ブロックがある家の周囲と病院、訓練をしてもらった場所だけになってしまった。

 Q4-2-2:その中で何か印象的なエピソードはありましたか?

 A:白杖を持つ前は人にぶつかってばかりだったけど、白杖を持つようになってからはぶつかることがとても少なくなった。自分では気づかないうちに、周りの人が見守ってくれて、そっとよけてくれていたのだと思う。声をかけてくださる人も多くなった。
 ただ、白杖を持った当初の私は、人に助けられるということへの抵抗、周囲の人から助けないといけない存在だと見られることへの抵抗がとても強く、声をかけられたことに感謝ではなく、放っておいてほしいという思いを持ってしまうことが多かったように思う。今思うと、とてもひどい対応をしてしまっていたなと感じる。でも、そのころの自分は、そうやって強がらないと自分を保つことができなかったのも事実で、そういう時もあると、しょうがないと思ってくれたらありがたいなと思う。

 Q4-3:同行援護は使っていますか?

 A:使っている。


 Q4-3-2:いつから使い始めましたか。

 A:仕事をやめた後くらいから使い始めたと思う。


 Q4-3-3:どんな時に使っていますか?

 A:初めて行く場所や慣れていない場所に行くとき。行った先でサポートしてほしいとき(買い物、レジャーなど)
 現在は、週に2回定期で日常の買い物に同行してもらっている+不定期で遊びに行くときなど、ジェルダを遊ばせたい時などに使っている

 Q4-3-4:同行援護を使うことについてどう感じますか?

 A:はじめは、誰かに手伝ってもらうということに対して抵抗があったが、ひとりではどこへも行けなかったので使わざるを得なくて使っていた。今は、手伝ってもらうことに対する抵抗感はだいぶ減ってはいるけどゼロになっているわけではなく、できることならひとりで、自分たちだけで出かけたいという思いは残っている。ただ、その抵抗と手伝ってもらうことで得られるメリットを天秤にかけて、メリットの方が大きいなと思うときは、積極的にお願いしている。自分で必要な支援をお願いし、手引きをしてもらって目的地へ行く、目的を達成するということは、自分にとって大切な能力であると考えるようになった。

 Q5:では、家での生活についてお尋ねします。

 Q5-1:今は、誰かと一緒に生活していますか。

 A:はい。


 Q5-1-2:それはいつごろからですか。

 A:7年前くらいから。


 Q5-1-3:それ以前はどうでしたか。

 A:それ以前はひとり暮らしだった。それよりもっと前は、実家で家族と暮らしていた。


 Q5-2:家での生活で、特に印象的なエピソードはありますか。いくつか教えてください。
 (例:自分自身が驚いたこと、周りから驚かれたこと、嬉しかったこと、悲しかったことなど)。

 A:家でのエピソードでとても強く残っていることは、見えにくくなって退院したばかりのころのことが特に強く残っている。
 ひとりで生活するのはもう難しいと思うから、家族に話をして援助を求めようと病院から提案されたけど、その当時の自分は、どうしても家族に今の状態を伝えることに抵抗があり、ひとりで大丈夫と言い張ってひとり暮らしの生活に戻った。自分では、きっと大丈夫、何とかなると思っていた。でも、そのころにはかなり見えにくくなっていたので、何とかはならなかった。

 食事を作ることができなかったので、家のすぐ下にあったコンビニで買ってきたが、レンジで温めようと思ったら、ずっと使っていたはずのレンジなのに、どのボタンを押せばよいのかわからなかった。適当にいろいろなボタンを押していたらとりあえず動き始めたので安心したら、危険な匂いがしてきて、どうやらトーストボタンを押してしまったみたいで、おそばが大変なことになってしまった。どうなっているのかもわからなかったから友達に助けを求めて来てもらったが、インターホンを押されても、オートロックを開錠するボタンがわからず、中に入ってもらうこともできなかった。テレビのリモコンのボタンも、洗濯機のスイッチもわからなかった。

 何とか入ってきてくれた友人がいろいろなボタンに触ってわかるシールを貼って、ひとつひとつ説明してくれて、何とかレンジや洗濯機は使えるようになった。でも、まだまだできないことだらけで、ご飯を炊こうと思ったけど、お水の量がわからない、包丁は持つのも怖い、できないことだらけで、どんどん自信を喪失していく毎日だった。ご飯は作れない、お金も自分でおろせない、自由に出かけられない…今思うとどうやって生活をしていたんだろうと思うけど、何とか毎日をやり過ごしているという感じだった。

 そこから、訓練を受けるようになって、ご飯を炊くお水はお米を量るカップで簡単に量れるということを教えてもらったり、ATMを音声で操作する方法を教えてもらったり…工夫すれば見えなくてもできるんだという小さな成功体験をひとつひとつ積み重ねていくうちに、できないならできる方法を考えればよいと思えるようになっていったのが、自分の生活を取り戻していくうえでとても大切な、大きな変化だったと思う。
 久しぶりに自分でカレーを作れた時は、本当に嬉しかった。今まで当たり前にやっていたことができなくなって、一度はあきらめたけど、まだまだできることはたくさんあるんだと実感できた。

 今では、調理は、卵焼きは難しいけど、オムライスもできるし、揚げ物もできるし、お弁当も作れるし、お菓子作りもパン作りも…いろいろなことができるようになって、見えないからできないことって、もしかしたらないのかもしれないとも思えるようになった。家庭菜園をしたり、ミシンも使ってみたり、いろいろなことを楽しんでいる。

 Q6:つぎに、人との関わりについて教えてください。

 Q6-1:家族との関わりで、特に印象的なエピソードはありましたか。

 A:家族との関係で一番印象に残っているのは、視覚障害になった当初の関係で、家族との関係が悪くて伝えられなかったわけではなく、家族とはとても仲が良いのですが、心配をかけたくないという思いと、それ以上にかわいそうとか、助けてあげないといけないとか、今までと違う自分として見られることへの不安がとても強く、ずっと隠しておきたいという思いがとても強かった。隠さないといけない分、苦しいこともたくさんあって、そのせいで家族に会えなかったり、助けてもらえなかったり、嘘をつかないといけなかったり…今思うと何でそんなふうにしていたんだろうと思うけど、とにかく知られるのが怖かった。

 でも、ずっと隠していられるわけでもなく、言わないといけないとずっと葛藤していた。入院していることも、視覚障害となったことも、結局は自分から言ったのではなくばれるという形で家族に知られてしまった。でも、今思うと知られて本当によかったと思う。視覚障害を知られた後も、家族は今までと何も変わらないように接してくれた。私が隠していたことを責められることもなかった。家族との関係を取り戻した後、家族のことを信じられていなかった自分がすごく嫌になったし、それと同時に家族のありがたさを本当に感じた。

 そして、そこからは家族の協力を得られるようになって、精神的にも生活的にもとても楽になった。今でも家族とはとても良い関係を続けられていると思う。視覚障害になる以前の自分は、もちろん家族とは仲良くしていたが、頼るということはとても苦手だったと思う。今の私は、頼ったり頼られたりしながら、以前よりさらに深い関係で、家族と結びつくことができているのではないかと思う。これは、視覚障害になって嫌でも家族の力を借りないといけなくなったからこそ得られた関係かなと思う。

 Q6-2:見えていた頃の友達との関わりでは、どうですか。

 A:見えていたころの友達には、ほとんど見えなくなったことをカミングアウトしていない。唯一ひとりふたりの看護師友達だけが知っている状態で、その人たちにも詳しいことは話していない。そのふたりとだけは、時々会ってご飯を食べに行ったり、前の職場の現在の様子を聞いたりしている。そのふたりの私への反応は、特に変わったことはなく、今までと同じように関わってくれている。それ以外の友達とは会わなくなった。同窓会なども行けなくなった。Facebookは、過去の友達とのつながりが多いので、更新することができなくなった。

 地元にいる友達の多くは、もしかしたらまだ私は病院で普通に看護師として働いていると思っているのかもしれない。友達に会いたい気持ちはもちろん大きいが、それ以上に、変わってしまった自分を友達がどうとらえるのか、見えている友達のことを自分がどう感じるのか、その不安が強すぎて見えなくなって何年も経った今でも、地元にいる友達には隠し続けている。友達だけでなく親戚にも隠している。近所の人にも気づかれたくなくて、実家に帰ったときは白杖も使わないし、ジェルダを盲導犬として歩かせることもない。きっと話しても家族がそうだったようにみんなは変わらずに受け入れてくれるんだろうなと思う気持ちもあるけど、まだまだ言えないなという気持ちの方が勝っている。

 Q6-3:所属先はどうですか。

 A:見えにくくなった状態で退院してすぐに前の職場に復帰をしたが、その際には隠すことができるような状態ではなくなっていたので、自分の見え方について同じ病棟のスタッフには知らせていた。ただ、それ以外の病院のスタッフには知られたくないという思いがあり、職場近くの駅までは白杖を使っていたが、途中で白杖をしまって隠していた。そのせいで、転倒したこともあったが、白杖を出す勇気はなかった。
 そして、同じ病棟のスタッフに見えにくくなったことは伝えていたが、できなくなった自分というのを知られることには強い抵抗があり、見えているふり、できているふりというのはとてもしていたと思う。
 すごく無理をして、背伸びをして、何とか見えにくいことをカバーして取り繕っていたように思う。できないことを認めて助けてもらうということに大きな抵抗があったし、できない自分と向き合い認めることができなくて、とても苦しい毎日だった。

 その職場を退職し、機能訓練のために視覚障害者のリハビリ施設に入ったあたりからは、所属先に見えないことを隠すことはなくなった。そのころには、さらに見えなくなって、もう見えるふりができなくなっていたということも大きいが、見えないたくさんの仲間ができ、自分だけではないと思えたこと、見えないことは決して恥ずかしいことではないと少し思えるようになったことが要因だと思う。
 大学にも、大学院にも、今の職場にも、見えない自分として見えないことを告知したうえで入っている。だから、もう隠すことはないので、難しいこと、手伝ってほしいことなどはしっかりと伝えることができるようになった。でも、今でも見えている人と同じようにできるようになりたいという思いはとても強い。何で自分は見えないんだろう、何で自分はできないんだろうと思い、周囲の人と比べてしまうことはよくある。自分はみんなとは違うんだなと感じる瞬間は、悔しいなと思う。

 Q6-4:視覚障害者との関わりについてはどうですか。

 A:視覚障害者との関わりは、はじめは視覚障害の仲間がほしいという気持ちがとても強かった。入院していた病院でも、周りの人はみんな手術が終わったら見えるようになっていき、見えにくくて困っている人に会うことはなかった。職場にもそんな人はいなかった。だから、視覚障害になった自分が、どう生活していったらよいのか、どう働いたらよいのかということがわからず、自分だけが視覚障害者という環境に強い孤独を感じていた。
 視覚障害支援をしている団体を通して、同じ視覚障害を持つ看護師、医療従事者に出会い、ひとりじゃないと知り、また、視覚障害があっても立派に人の支えになっている人たちの存在を知り、自分もそうなりたいと希望を抱くことができた。

 でも、視覚障害者のリハビリ施設に入った当時は、同じ利用者さんのことを認めることができず、自分はこの人たちとは違う、一緒に思われたくない、向上心のない人たち、社会の役に立たない人たちなどと、とてもひどいことを思い、一緒にされたくないという強い拒絶を感じ、一日も早くここから抜けて社会の役に立てる存在になるということを目標にしていた。福祉のまったりゆったりした空気感に全くなじむことができず、ひとり焦り、ひとりとがっていたなと、今では思う。
 でも、その中に身を置き、利用者さんたちと関わる中で、私が勝手に向上心のない変化のない毎日を過ごしている人と決めつけていた人たちが、日々、何か小さな目標に向かって頑張っている人たちなんだと気づくことができ、社会の中で頑張って生きている存在だと気づくことができ、大切な仲間だと感じられるようになり、私に視覚障害者として生きるためのたくさんのスキルを教えてくれる大切な先生になっていった。

 みんなが、周囲の人に上手に助けを求めている姿を知り、自分に必要な支援を自分で求め、必要な援助を受けて何かを達成するということは、私たちにとってとても大切な能力なんだと教えられた。無理してひとりでやって「できる」も、誰かに難しい部分を手伝ってもらって「できる」も同じ「できる」であり、同じように価値のあるものだと考えられるようになった。助けてもらうことは、決して恥ずかしいことではないんだと教えてもらった。

 視覚障害当事者との関わりは、はじめは自分も同じ視覚障害者だと思われたくないという抵抗から始まり、良き仲間・先生となり、今では、視覚障害であるとかないとか関係なく付き合える大切な友達、仲間になっていると思う。

 Q6-5:世間の人とはどうですか。

 A:世間の人に対しては、はじめは自分がどう見られているのかがとても気になる存在で、それは今でももちろん残っているが、はじめは特に、助けないといけない存在だと見下されていると捉えており、支援を受けることへの抵抗がとても強かった。道に迷っているときなど明らかに困っているときでも、「何かお困りですか」とせっかく声をかけてくださっても、「大丈夫です(放っておいてください)」と冷たく返してしまっていたり、素直に受け取ることができないでいた。

 今は素直に受けられるようになったかというと、100%素直に受けとめられているわけではないが、声をかけてもらえることはありがたいことであり、他の視覚障害者のためにも、きちんと感謝の気持ちを伝えるようにしようと考えている。ただ、できれば誰の手も借りずに生活したいという自分のポリシーはあるので、自分でできるところはなるべく自分でしたい。以前よりは、視覚障害者として見られることにも慣れてきたし、周囲の人は、自分が思っているほどそんなに気にしていないということもわかってきたし、私よりもジェルダに注目している人の方がはるかに多いので、今は前ほどは気にならなくなったかなと思う。もちろん、傷つくことも悔しいと感じることも、うらやましいと感じることもいっぱいあるけど、自分は自分、人は人、人と比べるよりも、自分の人生を楽しんで生きる方が良いと思えるようになった。

 Q7:では、リハビリについてお聞きします。

 Q7-1:リハビリはどうされましたか。

 A:まず、はじめに通勤のための歩行訓練を受け、家の周囲の訓練などもやっていただいた。その後、本格的な訓練を受けるために約1年間、機能訓練施設に入所+通所した。職業訓練も受けた。そこで、歩行、音声パソコン、ICT機器、点字、墨字、動作、日常生活のための訓練(調理、掃除、手芸など)など様々な訓練を受けた。

 Q7-2:リハビリの中で印象的なエピソードはありますか。

 A:リハビリを始める頃は、できなくなったことだらけで、口癖が「無理、できない」になっていたが、リハビリを通してご飯が炊けるようになった、お札の見分け方がわかった、化粧ができるようになった、ボタンが付けられるようになった、宛名が書けるようになった、点字が読めた、ブラインドタッチができるようになった、インターネットができるようになった、ひとりで駅まで行けるようになったなど、小さなひとつひとつの成功体験を積み重ねていき、できないからできるに変えていくことで、自分に自信を取り戻していくことができた。

 初めて点字が読めるようになり、また、文字が自分の力で読めるようになったということがとても嬉しかったのを鮮明に覚えている。ひとりでお風呂屋さんまで行けるようになった時も、訓練士さんと一緒にとても喜んだのを覚えている。そうやって自分に自信を取り戻すことで、前向きに考えられるようになり、周りにも目を向けられるようになり、新たな目標を持てるようにもなった。また、一緒に励まし合いながら訓練を頑張った仲間たちの存在は、今でもとても大切な仲間となっている。ひとりじゃなかったから頑張ることができたのではないかと思う。

 Q7-3:視覚リハ(視覚障害のリハビリ)について、どう思いますか。

 A:視覚リハは、他の身体障害(肢体や聴覚)のリハビリと比較して、とても後れており、また、諸外国と比較してもとても後れており、十分なリハビリをすべての視覚障害者が受けられるという環境にはほど遠いと思う。系統立てたリハビリプログラムや、リハビリを提供するための制度が十分に整っていないこと、視覚リハを行うことのできる人材の不足など、様々な問題がある。

 視覚リハという言葉は、看護師をしていた私でも、当事者になるまで知らなかった。自分自身が見えにくくなった時、入院していた私に視覚障害者のためのリハビリをしてくれる人はいなかったし、視覚障害者のための生活用具や補装具を教えてくれる人もいなかった。例えば脊髄損傷であれば、急性期から系統だったリハビリプログラムがあり、病院でしっかりとしたリハビリを受けることができる。PTやOTといった専門職種も整備されている。OT、PTは病院にも配置されている。聴覚障害の訓練を行うSTも配置されている病院は多い。

 では、視覚障害者のリハビリは誰がするのか? 病院に視覚リハを行うことのできる職種はいない。ごく一部の病院で、ごく一部の視能訓練士が、ほんの僅かだけやっているという感じである。見えなくなるということは、それまでの生活スタイルを大きく変える必要があり、歩けなくなることと同じくらい、むしろもっと生活に与える影響は大きいと思う。それなのに、私たちは見えなくなってそのまま、見えないなりの生活の仕方を何も教えられることなく退院させられてしまう。

 病院でしっかりとした視覚リハを行うことは難しいかもしれないが、せめてどこに行けば訓練を受けられるのか、そのための環境を整える手伝いをしてほしかった。機能訓練施設でリハビリを受けられると教えてもらっても、そこは半年とか1年経たないと空きがない。私も1年待ちと言われ、この1年どうやって暮らせばよいのか途方に暮れた。適切な情報につながることが難しいうえに、つながっても、尚、十分な提供体制がないことで待たされてしまう。それが、今の視覚リハの現状である。

 見えなくなった不安、どんどん見えにくくなっていく不安をひとり抱えて、どうしていいかわからずに引きこもってしまう。何年も適切な支援につながることができずに生活が破綻してしまう。このような視覚障害者はまだまだ多い。きちんとした視覚リハを受け、見えなくても自分に合った方法を見つけることができれば、視覚障害があってもできることはたくさんある。いろいろなことを楽しむこともできる。仕事や勉強だってできる。
 視覚リハを必要とする人が、適切な時期に、気軽にアクセスできるような視覚リハの体制を作っていくことが大切であると思う。そのためにも他の障害のリハビリのように、視覚リハを担う専門職や視覚リハを提供する体制についてのきちんとした制度体系を作ることが必要だと思う。

 Q8:学校や仕事について、お聞かせください。

 Q8-1:今、学校や仕事には行っていますか。

 A:はい。現在は、日中相談支援の仕事をし、夜間や休日に大学院に通っている。


 Q8-2:以前はどうでしたか。

 A:大学院に来る前は、大学の社会福祉学科で学生をしていた。もともとは大学の看護学科を卒業し、小児科の看護師として10年余り勤務していた。その過程で視覚障害となり、就労の継続が困難となり離職した。離職後、視覚障害のリハビリを行う機関で1年間、入所と通所で様々な訓練を受けた。職業訓練にも通った。その間に、大学に編入学することを決め、受験をし社会福祉学科に編入学した。

 Q8-3:学校(もしくは仕事)についてどう思いますか。

 A:学校については、まずは編入学した大学にとても感謝している。大学に編入学をすると決めたときは、本当に見えない状態で受け入れてもらえるのか、授業についていくことができるのか、そもそもちゃんと通えるのか不安だらけだった。そのまま大学には行かずに就職を目指すという道も考えたが、視覚障害者の就労は本当に困難であり、また対人援助の仕事に戻りたいという強い希望もあったため、ちょっと遠回りになるかもしれないけど、対人援助を学び直すことと、社会福祉の勉強をし、資格を取得すること、その資格を活かして将来的な就職を目指そうと考えて、大学に行く道を選んだ。というのが表向きの理由で、本当の理由は就職するのは難しいから、進学ならできるのではという逃げ腰な理由で大学を選んだという方が大きかったと思う。手っ取り早く所属を得て、働けていない言い訳をつくりたかったのかなと思う。

 そんな気持ちで入った大学だったが、結果的には行って本当に良かったと思っている。受け入れのところから、とても好意的に迎えてくださり、できないことではなく、どうやったらできるのかを一緒に考えるという姿勢で、3年間ずっと付き合ってくださったと思う。この3年間で、みんなと同じようにいろいろな経験をし、視覚障害があっても、本当にできるんだという自信をつけてもらうことができた。海外研修にも一緒に行かせていただき、デンマークの視覚障害者と交流する貴重な経験をさせていただくこともできた。

 実習では、実際に利用者さん、患者さんと触れ、自分にもできる援助があるんだということを実感することができた。3年間をかけて、自分なりの勉強のスタイルや生活のスタイルを見つけられたこと、そして、自分自身の障害や人生と向き合う時間をもらえたことも大きかった。部活やボランティア活動にも参加し、とても若い友達もたくさんでき、素敵な先生たちとも出会い、自分のことを支えてくれるたくさんの存在を肌で感じることができ、とても楽しく、充実した学生生活を送ることができた。この3年間で、私は視覚障害者としての私ではなく、視覚障害も含めた自分として自分を捉えられるようになったと思う。
 学生生活は本当に楽しかったし、誰よりも充実した学生生活を送ったのではないかと思えるくらい学生生活を満喫したが、就職活動はやはりとても苦労した。というか、苦労することから、また逃げてしまったような気がする。

 就活には取り組んでいたが、やはり自分自身で視覚障害者の就労は難しいと決めつけて、受験をする前にあきらめていることがとても多かったと思う。それでも、難しくてもチャレンジしたいと思ってひとつだけでも、自分の行きたい施設をしっかりと受けたことは、自分にとって大切な経験になったと思う。私の思いや考え、経験、いろいろな部分で評価してもらうことができても、見えないということは、どんなに頑張って他で補おうとしても、なかなか補うことのできないくらい大きなハンデなんだということを改めて考えさせられた。そして、また逃げ腰で大学の先生が作られた施設に、とりあえず就職することにし、また満足な就職ができていないから、もっと自分の強みを作らないといけないと思い、大学院にも進学した。

 就職した施設では…先生と十分に話し合うことなく就職が決まったこともあり、すれ違う部分がとても多く、実際には仕事がない、行っても何も任せてもらえることがないという、とてもしんどい状態となった。以前の看護師を辞めたときのような、自分に自信が持てない状態になってしまっていた。ただ、その時と違ったのは、学校があったことと、助けてくれる存在がたくさんいたことで、そのうち何とかなる、仕事はまた探せばいいと心の余裕を持つことができたことである。障害年金をもらっていたのと、結婚して夫の収入もあったので、必ずしもすぐに仕事をしなくても何とか生活できる状態だったということも余裕を持てる要因だったと思う。とにかく仕事につながらなくてもいいから、社会の中で自分にできる役割を見つけたいと思い、少しずつできることから挑戦していく中で、今の相談援助の仕事に出会うことができた。

 現在の仕事は、見えなくなった当時の自分が、一番最初にこれなら自分にもできるかもしれない、そして、今までの自分のキャリアや経験を活かせるかもしれないと考えていた仕事である。金銭的には、とても安定した仕事であるとは言えないかもしれないけど、毎日やりがいを感じ、楽しく働くことができている。今の職場においても、最初はお互いに何ができるかわからず、できることはほとんどない状態からスタートしたが、少しずつできることを見つけて、今では資格も取り、いろいろなことを任せてもらえるようになった。人から頼られるということが本当に嬉しくて、自分に自信を持たせてくれるのだということを、久々に思い出すことができた。仕事は、自分の存在意義を感じさせてくれる、自分にとってとても大切なものになっている。

 Q8-4:視覚障害者が学ぶ(もしくは働く)ということに対する、ご自身の思いや考えをお聞かせください。

 A:視覚障害者に対する世間のイメージは、今でも「何もできない」とか「視覚障害者の支援はとても大変」というようなイメージなんだろうなと思う。そのために、仕事においても、学校においても、最初から無理と決めつけられてしまっていることが本当に多いと思う。オープンキャンパスで、第一声が「無理だと思うんです」だったということも何度かあった。きっとこのイメージからなのかなと思った。

 その後、そんなに特別な支援はたくさんいらないということ、こんな感じで大学生活を過ごしてきたということを説明して理解してもらうことができたからこそ、受け入れてもらうことができ、今、こうやってここで勉強することができている。でも、私は比較的気が強いので、そこで「いえ、無理じゃないと思うんです」と言い返すことができたけど、多くの視覚障害者が、私と同じように言葉を返すことができたのかと考えると、受け入れてもらえるだろうかという不安でいっぱいの視覚障害者が、そこを乗り越えるのは本当に難しいのではないかと思う。

 今の就学や就労、特に就労では、私たちの話を聞いてもらえる前に、視覚障害というだけで、うちは無理ですと言われてしまうことが本当に多い。障害者の合同面接でも、1級の視覚障害は面接しないという企業も多い。そのくらい視覚障害者が就労をするということは難しい。私自身もたくさんそう言われてきた。今でも、例えば就労継続支援A型の事業所に訪問した時に、「視覚障害の人も受け入れられますか?」と質問すると、ほとんどの事業所が、うちではできることがないので無理ですと言われる。そこで、「この仕事なら、こう工夫すれば視覚障害者でもできますよ」とひとつひとつ説明していってようやく、「じゃあ体験だけなら検討します」という感じになる。

 障害者を雇用することを目的としている事業所ですらそのような状態なので、一般就労は本当に厳しい。大学を出ても、大学院を出ても、国家資格を取得しても、それでもなお働くことのできていない視覚障害者がたくさんいる。
 私たちは、そんなに何もできない存在ではない。訓練を受ければ、ひとりで通勤できるようになる場所も多い。今は通勤をサポートする制度もできてきた。パソコンだって、私たちに合ったソフトを使うことができれば、可能な作業もたくさんある。私は、職業訓練をしっかり受けてはいないので無理だが、視覚障害者の中にはプログラミングをしたり、表計算をしたりしている人たちもたくさんいる。働きたいのに働けないということは、本当にしんどいことである。

 すべての人が、同じようにできるを求められると、確かに私たちにはできないこと、無理なことはある。でも、できることもたくさんある。できないことではなく、できることに目を向けて、視覚障害があっても、他の障害があっても、障害がなくても、誰もが何らかの形で活躍できるような社会になってほしいと思う。就学も就労も、私たちのチャンスを奪わないでほしい。視覚障害者が、見えなくても見えにくくても、自分らしく生きていける社会にしていきたいと思う。

 Q9:最後に、視覚障害者として生きてきたご自身のこれまでとこれからについて教えてください。

 Q9-1:視覚障害者として生きてきた自分の人生についてどう思いますか?

 A:そもそも視覚障害者として生きてきたという感覚はあまりないというか、持ちたくないと思っている。視覚障害になった当初は、視覚障害が自分のすべてであるように感じ、視覚障害になった自分はもう何もできない、何の価値もない、社会のお荷物にしかならないと考え、自分の人生に絶望していた。もう、自分の人生はどうなってもいい、生きている価値がないとさえ考えていた。
 でも、たくさんの人に支えてもらい、また多くの仲間に勇気をもらう中で、自分の中で視覚障害というものが占める割合がだんだん減ってきたように思う。視覚障害は自分の一部であって、自分のひとつの特性なだけであり、決してすべてではない。

 私は視覚障害の私である前に、ただの私であり、私という存在が、たまたま人生の途中で視覚障害という特性を持ったのだと考えるようになっていったと思う。なので、視覚障害者としての人生ではなく、私は、私の人生を視覚障害になる前も視覚障害になった後も変わらずに歩んでいるのだと思う。どちらかというと視覚障害になって、視覚障害ということに強くとらわれるようになったせいで一度、自分の人生を見失いそうになったけど、視覚障害へのとらわれが減っていくことで、変わらない元の自分の人生を、再び歩き始めた感じだと思う。

 視覚障害になってからの自分の人生に対しては、すごくよかったとは思わないけど、悪くはないと思っているというか、思いたい。視覚障害になって不幸のどん底で絶望しかない人生を送っているわけではなく、毎日それなりに楽しく、幸せを感じながら生きている。だから、不幸だとか、かわいそうとか決めつけられるのは、そのこと自体が不幸だと思う。だけど、じゃあ心から幸せか、この人生で良かった、この人生をもう一度生きたいと思うかと聞かれると、やっぱり見える人生の方がもちろん良いと私は思う。

 ただ、どんなに願っても、どんなに嘆いても、うじうじしても、怒っても、見える自分はもう戻ってこないので、見えない自分で生きていくしかない。その状況の中で生きていくなら、悲しみや怒り、苦しみだけにとらわれて生きるよりは、楽しいこと、生きがいなどに目を向けて生きていく方がずっと良いと思う。だから、視覚障害になってからの自分の人生は、心から望んでいたものでは決してないけど、それなりに悪くないものだと思っている(思いたい)。視覚障害になったからこそ得られた経験や人間関係もたくさんあるし、見えなくなったからこそ見えたもの、感じられたものもたくさんある。それらは視覚障害になったからこそ得られたかけがえのないものだと思う。

 Q9-2:あなたは、ご自身の視覚障害を受容していますか?

 A:障害受容という言葉は、晴眼の時の自分も含めて障害を持っていない人間が勝手に言っていることだと思っていたけど、この研究をするにあたり、受容という言葉をもう一度考えていくうちに、受容=受け入れるというだけではなく受け止めるとか、向き合うというニュアンスもあるのだと知って、そういう意味では自分は受容をしているときもあるのかなと思うようになった。でも、視覚障害になったことを受け入れる→別に視覚障害のままでよいとなることは、今のところは絶対にないのではないかなと思っている。でも、視覚障害になったことと向き合えるようにはなっていると思う。

 視覚障害になった当初は、何でこんなことになったんだろうとか、自分は他の視覚障害者とは違う、あの人たちとは一緒に考えられたくないというように考えており、視覚障害から目をそらし、向き合おうとしていなかった。そこから考えると、今は視覚障害があったとしても、それも含めて自分であり、うまく付き合いながら生きていくしかないと思っている。

 そういう意味では、受け止めている、向き合おうとしているということにはなるかもしれない。ただ、いつでもそういう心でいられるわけではなくて、何か壁にぶつかったり、失敗したり、嫌な体験をしたりするとすぐに、どうしてこんなことになったんだろうとか、見える自分に戻りたいとか、見える人をねたんだりとか、すぐに向き合えない自分になってしまう。だから、障害受容はできた、完成したというようなものではないのかもしれない。気持ちの揺らぎの波が、最初は大きく、頻度も激しく、嵐のような状態だったのが、時間の経過とともにだんだん小さく、回数も少なく、凪に近くなっていくけど、何らかの要因が加われば、また大きくなるみたいな感じなのかもしれないと思う。

 Q9-3:これからの自分の人生をどう生きていきたいですか。

 A:視覚障害であるということにとらわれ過ぎず、自分らしく、楽しい毎日を送りたい。そして、社会の中で自分の役割を持ち、周囲の人から支えられるだけでなく、自分自身も誰かの支えになれるような存在になりたい。


■引用文献

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