【臨床医としての25年】  【機関誌】  Top


                    下川 保夫(しもかわ やすお)

 医学部卒業まで視力が低下するたびにレンズを交換することでその場を乗り越えてきたためか、さほど見えにくくなっても気にせずに過ごしてきました。しかし、30代半ばで近い将来失明するかもしれないという不安に襲われてからは、それを打ち消すためか、まだ見える時に知識や技術を多く吸収しようという意志と、落ち込んだ時はやっぱりだめだという感情が日々交錯したものでした。以下にこれまでの経過と現在の状況を記してみます。

 私は医学部卒業後10年間基礎医学(病理学)を専攻しましたが、その後半において見えにくさを自覚し、いくつかの病院を受診しました。はっきりとは診断されませんでしたが、進行性の難病の一つだろうということで処理されてきました。見える状態がいつまで続くかわからないが、できるだけ早く臨床医にならねば生活できない、というあせりと不安の中で、1984年から神経内科へ転向しました。
 こういう状態で新人の研修医と共に研修するのは大変でした。一般内科医としての種々の画像の読影・診断、筋電図、脳波などの理解・判断など、また、注射、腰椎穿刺、血管確保、気管挿管など臨床医であれば当たり前の習得すべき技術も多く、これではいつまで勤められるか不安で、どんよりした日々を過ごしていました。

 そうこうしているうち、対麻痺の患者を担当することになり、その治療の一環としてリハビリテーション診療科に依頼するため患者を連れて行きました。その時、こういうチーム医療は続けられるかもしれないと、漠然と感じました。その後現在までその分野に関わり続けていますので、この患者との出会いは私にとって忘れられない出来事になっています。

 運良く1986年から公立病院のリハビリテーション診療科・神経内科で勤務することになりました。当時の院長は私がどの程度見えにくいのかご存知なかったのかもしれませんが、寛大に対応されていました。また、理学療法士に弱視の方もおられたし、現在と異なり、病院全体がゆったりした雰囲気の職場環境でした。また医学書、学術論文などを読むのが徐々につらくなっていましたが、不明な点はそれぞれ専門の医師に尋ねたり、あるいは講演会や学会に参加したりして問題を解決してきました。

 そういう環境でしたので目の不自由さについて時々は心配していましたが、さほど気にならずに仕事に勤しむことができました。この約10年間の経験で、神経内科疾患を中心としたリハビリテーション診療医としての土台ができたと思っています。
 1994年(当時45歳)から当直業務が免除されることになりました。嬉しい半面、医師としての辞めどきかな、といった何とも言えない気分でした。当時、正確ではありませんが中心は見えづらく、上下、耳・鼻側が少し見え、何とかJRでの通勤ができていた状態でした。それでも支援してくれる同僚もいて、それほど気にせず業務をこなしていました。

 その後、2000年に現在の病院に勤務するまではいろいろなことがありました。今 思い起こせば、自分なりに医師としての仕事はしているし、患者やそのご家族の心情は誰よりもよくわかるといった変なプライドがあって無理に勤めていた感があります。
 当時、医師法の改正の動きを感じてはいましたが、医師の欠格事由の件ではどうしようもないことでした。おそらく個人的に支援してもらっても公的に支援がなければ、何らかのはずみで除外されることはよくあることで、私の場合もその例外ではありませんでした。
 その頃、戸田先生のことを知り、電話で相談したと記憶しています。その後、先生が医師法の改正にご尽力されている様子も伺うことができ感謝の念でいっぱいでした。また守田君からも連絡があり、すごい後輩がいるものだと感心しながら自分自身を奮い立たせたものでした。

 さて2000年から現在の病院へ勤務したのですが、見えない状態を理解して迎えられたので、気分がかなり楽になりました。おそらく自分自身及び他人が、自分を見えない医師として認めた出発点だったと思っています。
 勤務した当初は介護病棟、現在は回復期リハビリテーション病棟の専任医として勤めてきました。業務の多忙さは別として日々の診療スタイルは同じです。勤務した当初はお互いに何らかの戸惑いがありましたが、こちらからいろいろ尋ねたり、お願いしたりすることで問題を一つ一つ処理してきたように思っています。

 そこで現在の業務内容とその支援環境を簡単に述べてみます。
 新しく入院される患者を診察する場合、入院申込み時の情報を院内ランで予め大まかに把握した後、診察することにしています。入院患者は、私が診察する前に外来担当医が内科的に診察されていますが、さらにもう一度、麻痺・筋力・失調症・感覚障害・失語症・嚥下障害・認知症などの有無・程度、座位・立位保持、歩行の状態などを中心に診察(問診・触診で判断、不明な点は同席の看護師に尋ねたりする)でしています。

 患者の診察を終えた後、ある程度の予後を予測し、その状態で家庭での療養生活が無理なく続けられるかどうかなどを、ご家族と一緒に話し合うことにしています。そのため、居住環境、家族構成、趣味、今後もしたいこと、して欲しいこと、家計状況などを詳細に尋ね、今後のリハビリテーションプログラム(機能改善・生活向上訓練)の資料としています。

 入院後の経過は病棟看護師長・主任やリハスタッフからの報告、種々のカンファレンスなどを通じて、また適宜に診察することで把握しています。そのとき気をつけていますのは、できるだけ患者に声をかけ何でもないことも話し、少しでも気持ちを楽にしてもらい、またがんばろうというような気持ちになられるようにと思っています。
 どの患者もどの程度改善するのだろうか、家族と一緒に生活できるのだろうか、今後の仕事は、また再発するのではなど多くの不安を持っておられます。この不安感を少しでも減らし、ほんのちょっとした希望を感じていただければもうけものと思って対応しています。

 リハビリテーションは社会復帰と訳されていますが、語源からすれば人間復権とも解釈されています。このことを知った当時は、まさに自分自身のことではないかと感心したものです。患者、ご家族ともできることは何か、何らかの支援があればしたいことができるのでは、などと随時話し合っています。

 尚、カルテの記載、入退院時に必要な多数の書類への記載、カンファレンスに必要な資料などは全てパソコンを使用して処理しています。最近は入退院が多く、毎日これらの処理に時間を費やしているのが現状です。これらの患者の病状変化に対しては、看護師長あるいは主任が他の医師にも連絡され、適切に対応されています。このように私にとって現在の病院は働き易い環境となっています。

 還暦を過ぎ、臨床医になって25年経過しました。こうして医師としての仕事を続けることができたのは、日々の家族の支援、その時その時において友人・恩師・医療スタッフといった多くの方々の支援があったからこそと感謝しています。少なくとも医師法改正後の現在において、病気・事故などで失明しても、医師としてできる業務は多々あると思います。

 以前NHKの取材を受けた時、「見えなくなっても仕事を続けられる理由は」と聞かれ、戸惑いましたが「まだ生かされたい」というようなことを話しました。今後も体力・気力を維持しながら無理せず、もうしばらく多くのスタッフと共にリハビリテーション診療を担い、患者の心情に触れ、患者それぞれが「したい行為」をみつけ、少しでも「している行為」となった時の喜びを共に味わいたいと思っています。
 また、ゆいまーるの会員の一人として、自分ができる行為を少しでも広げ、それを伝えることができればと思っています。