【ゆいまーる結成までの一つの胎動】  【機関誌】  Top


                        戸田 陽(とだ きよし)

  『熊本の下川医師との出会い』

 少なくとも十年以上前になると思われるが、ふとしたことから熊本の下川保夫医師と電話にて交信する仲となる。筆者が今は休眠状態にあるが日本盲人専門家協会という任意の団体があるのを、家族が新聞で見てから1年くらい経過してからのことである。この会は視覚障害者で弁護士であったり、経営者、学者などいろんな分野で活躍しておられる方々の集いで、亡くなられた日本点字図書館の創立者である本間先生も加入しておられた。

 ある日、会員のお一人で酒蔵の設計に詳しい方の記事が朝日新聞の「ひと」欄に掲載された。この記事を下川医師が見られて、会員の中に医師や弁護士らがいるとのことで、戸田との連絡が絆となって動き出したのである。下川医師とは熊本大の病理学の教授が戸田も三重大学医学部で教わったことのある方という浅からぬご縁もあり、親しく電話での交信の友となった次第である。この時点では、たった2人きりの仲間であった。彼と実際にお目にかかったのはずっと後の3年くらい前である。


  『守田稔兄との運命的な出会い』

 彼が再発した難病を克服して医科大学の5回生に復学してから1年後の平成14年の秋頃と記憶している。点字受験での第1号で弁護士となられた竹下義樹氏を介して在京のある弁護士から戸田宛に紹介があり、劇的な絆となる電話での交信となる。
 たまたま戸田が厚生省に奉職していた関係から多少の助言にはなったかもしれない。現役で活躍中の熊本の下川医師を紹介、こうして交信のみの3人の絆のきっかけとなる。

 彼との初対面は、彼が法律改正で国家資格の欠格条項の適正化の後の医師国家試験合格の第1号となり、免許取得の為の厳密な面接試験があったその日である。忘れもしない平成15年8月4日の猛暑の日であった。その三日後の7日に免許取得の朗報が彼の涙ぐましい努力の結果として嬉しい瞬間を共有したのである。国も初の例であり、より慎重であったようである。


  『小さな 3本の木が森となる』

 かくして下川、守田、戸田の3本の小さな木は、後に大きな動きとなる森となったのである。ゆいまーる結成の一つの胎動であったと確信する。実際に3人が一堂に会したのは、かなり後の平成20年の春のゆいまーる設立総会の日であった。私どもの他にもいくつかの胎動があり、数回の準備会を経て、今日の世間からも認められつつある集いに育ちつつある。これまでの初心を忘れることなく、今までにいただいた数々のご支援に感謝しつつ会の発展を祈りたい。

 最後に、私ども目の見えない者、見えにくい者にとって、ラジオ、テレビの音声、テレビの放映と同時の音声多重放送などは有益な方法だが、やはり記録にも残る新聞や雑誌などの活字媒体もより有効な手段でもある。身近な家族や多くの善意のボランティアの細心の気配りによる関連の記事などの音声化や直に伝えてくれる情報も貴重である。最近、ますます進展しつつあるパソコンなどの文明の利器の活用も大きな力となっている。

 長年培った医学に関する知識と技能などを駆使して、社会貢献をしたい希望に燃えるのである。患者さんの身体と心の痛みの分かる自らの不自由さと痛みを患者さんに還元し、一生涯にわたり共生の道を歩みたいと勇気、元気などが湧いてくる。
 視覚障害者に対する正しい認識と理解を大いにいただきたい。常日頃の善意に深謝したい。