【私が携わってきた仕事の話を聞いてください】     【機関誌第2号】     Top


                     本 多 伸 芳(ほんだ のぶよし)

 医師になって34年、ついに五里霧中の一本道をとぼとぼと歩いています。障害受容なんてできるものなのでしょうか。しかし、ゆいまーるの皆様にお会いして、皆さんが「仕事が忙しい」と、お元気そうに語られるのを聞いていると、受容はともかくとして、動き続けることが鍵なのだなと思いました。鍵穴さえあればいいんですよね。こうして、鍵穴探しの旅が始まりました。

 医師としての前半生は麻酔科、整形外科を歩き、山、海、街を駆けめぐり、溌剌とした躍動感のある日々でした。後半生、私は40代で某電機企業の産業医に転じました。当時、90年代の初め頃は、産業医といえば、病院を引退された老先輩医師が余生としておられ、事業場や工場の敷地内にある小さな診療所で、陽だまりの中でお茶をすすり、初老の看護師さんと世間話でもしながら、たまに訪れる従業員さんの鼻風邪を診たり、健康診断書にハンコを押したりするのが現状でした。社内での地位も、お医者様はあくまでも座布団一枚上のお客様、という形で珍重されていたものです。

 ところが95年を境に、産業医はその専門性を法的に定められ、意識変革を迫られることになります。まだ若かった僕には光栄なことでした。何が変わったかというと、社員の健康を「資産」と考え、健康のベクトルを下方(病気)に向かわせない工夫、さらには上方(健康増進)へと向かわせるような施策をせよ、というものでした。それは、お客様扱いの医者に対して出た命令ではなく、座布団一枚取り払って同じ目線で、医療を専門とするひとりの従業員として期待されたものだったのです。

 社内には白に緑十字で知られる安全課というものがあります。安全は事故が起きる前にリスクの芽を探して摘む、というミッションですから健康と発想が同じです。そういうわけで、安全と健康部隊とが合体し、医者も診療所から本建屋へと移動し、組織の安健部隊で活動するようになりました。こうした体制はWHOの思想にも沿うものであり、日本はフランスと並んで先進国なのです。

 「労働は人生そのものだ」と心理学者マズローは言いました。家族以上に長い時間を共にする職場、その場でこそ、人は順風満帆に生きられねばならない。大学や病院で、医局という小さい同業者集団に身を置くのとは異なり、実に様々な人々が、日本の産業の脊椎のような職場で働いていて、その笑顔や泣き顔を見ながら共に語り、共に飲み、共に暮らす。ああ、病院時代の私は赤血球や白血球でしかなかった、外の世界にはこんなにも太い組織があったのだ、と感じました。新聞もちゃんと読むようになりました(笑)

 偶然にもインターネット時代が到来し、自ら情報を発信するようにもなりました。メール文化はいい意味でも悪い意味でも産業医の敷居を低くしましたが、おかげで多種多様な相談が持ちこまれるようになり、医者人生しか知らなかった自分には、大いに勉強になりました。

 しかし、いかんせん無手勝流、自分のやり方に不安がないわけでもなかったのです。そんなある日、尊敬する三重大名誉教授、戦後労働衛生の始祖でもあられた故坂本弘先生と会食する機会があり、尋ねてみました。すると、先生は大きな手で僕の肩を叩きながら、「産業医はな、あんたの心ひとつや。ここにいるみんなとの生の付き合いっぷりが第一や。けどな、プロとして尊敬されとらなあかん。ここのみんなはあんたを好いとる。話すとき、みんな嬉しそうや。それがあんたの通信簿や」。
 そのお言葉で、私はその後も迷うことなく自分流で一時代を築きました。

 90年代も終わりに差し掛かると、我が国は「増え続ける自殺」という深刻な問題に直面します。臨床現場だけには任せていられない、と厚生労働省から職場のメンタルヘルスに向けて、次々と施策指針が発せられるようになりました。産業保健現場も、この頃から舵がメンタルヘルスへ向かって動き出しました。産業医は、精神医学に加え、経営学、マネジメント、心理学をミックスしたような知識も持たなければならなくなりました。ストレスの多くは、会社、労働、人間関係にあり、マズローの言った「人生そのもの」が発信地でした。産業保健部隊はその一番近いところにいるのですから、責任は重大です。

 こうして後半生を振り返ってみると、私は日本社会の胸板に聴診器を当てるように生きてきたように思います。ひとを、身体だけでなく、家庭環境、労働環境を含めて全人格的に見ることができるようになりました。結果、問題解決の糸口は複雑に絡み合い、却って苦慮することにもなりましたが、そういった経験から、私は自分自身が生かされている社会、友人、家族に感謝しなければならないということを学ばせてもらったのだと思います。

 以上で私のお話は終わりです。ここまで書いておきながら、この稿を書いている私は現場に復帰できていません。鍵穴はまだ見つかりません。本誌が皆様の手に渡る頃、私はどうなっていることでしょう。未来の自分への応援歌になればと思って書きました。
 今、ゆいまーるの皆様に申し上げられることは、私を孤独から救ってくださったことへの感謝、これに尽きます。ご笑読ありがとうございました。


 ◎ 参考文献
   日本医師会雑誌 第138巻11号2010年2月
   特集 働く人のうつ病「産業医の役割」 本多 伸芳 p2265〜2268