【ゆいまーるに入会して】     【機関誌第2号】     Top


                     正 岡 哲(まさおか さとし)

 私が「ゆいまーる」へ入会させていただいたのは平成23年5月のことです。「ゆいまーる」の会誌に載せるということですので、私の自己紹介をさせていただきます。

 私の年齢は65歳。大阪府池田市で精神科クリニックを開設してもう 既に30年になります。
 私は3男2女の3男で年齢の離れた末っ子として生まれました。父は身長150pと小さい人でしたが、池田市と大阪市の2カ所に内科医院を持ち、毎日精力的に診察、往診をしていました。母は身長170pの特別背の高い陽気な人でした。

 家の中は住み込みの看護婦さんやお手伝いさん、兄や姉やその友人やらいつもたくさんの人でいっぱいでした。食事の時はゆっくり食べていると誰かに取られてしまうので、とにかく早く食べ物を腹の中へ入れる習慣が付いてしまいました。ゆっくり食べていると「あんた、これいらんの」と、母親が取ってしまうのですから、油断もスキもありません。この早食いは、先日の「ゆいまーる忘年会」で守田先生にバレてしまいました。

 私の小さい頃の家族は、みんな勝負事が好きで、父も兄も姉も麻雀、囲碁、将棋、花札などをよくやっていました。正月などは何日も徹夜麻雀をすることは当たり前でした。そんな訳で、私も物心がついた頃から麻雀、囲碁、将棋に触れ、「指にペンだこがなくてもパイだこがついていない時はない」ようになっていました。私の勝負事が好きな楽観的な性格形成は、このような環境から生まれたのかもしれません。

 特に将棋は、小さい頃から仲間といつもやっていて、相当に自信がついてきていましたので、「プロの将棋指しになりたい」と兄に相談しますと、「お前、名人になれるんか?」と聞かれ、プロにはなれるだろうけれど名人は無理と自分で自分の能力を感じ、将棋は諦めました。最近は将棋の駒がよく見えなくなってしまいましたので、将棋のプロになるのを諦めて良かったと思っています。

 高校生の時には、どのような進路を取るかを決めなくてはなりません。私の周囲は医者ばかりでしたので、一応医学部に行くことにしました。奈良県立医大に進むことになりました。
 大学時代は囲碁部へ入りました。毎日、夕方から麻雀、夜遅くから碁会所へ行くのです。大学に入った頃は、大体4〜5級程度だったと思いますが、1年で初段、2年で3段、3年で5段、4年目頃からは大体県代表クラスになりました。これも最近は碁盤の向こう半分がよく見えなくて、石が混んでくるとミスだらけになりますので、随分弱くなってしまいました。しかし、今でも池田市医師会の囲碁部の世話人をしています。

 大学では囲碁部以外にバスケットボール部にも入りました。中学、高校とバスケットボールをしていたからです。当時の奈良県立医大はバスケットボールを中学、高校でやっていた人が多く、西日本医学生大会で2度優勝し、全日本でも2度優勝という良い成績を収めましたが、そのうち私の守備に問題が現れ、そのせいで負けるようになってしまいました。守っていた相手がフッと消えてしまうのです。自分の眼が悪くなったことも知らず、「老化かな」と思っていました。

 大学卒業の1年前に、眼科でお互いの視野測定をする実習があった時私の視野があまりにもおかしいので、私の眼に病気があることがわかってびっくりしました。眼科の教科書で調べると52〜53歳頃までは視力を保てるが、その後失明することが多いと書いてありました。このことがあって「眼が見えるうちに」と、不安と焦りの生き方になってしまいました。将来視力が低下するのですから、診療科も精神科を選びました。

 そして大学卒業後、大阪大学の精神科に入局しました。自分の眼のことだけを考え精神科に入ったので、精神科はどんなことをするか全く知りません。初めて精神科の医局へ行った時、たまたまその場にいた先輩が「君、私の研究室に入りなさい」「はい」ということで入った所が「睡眠・脳波研究室」でした。後で分かったことですが、私の入った「睡眠・脳波研究室」は、世界でも最先端の研究をしていて、世界の睡眠研究をリードしている所だったのです。

 大阪大学病院の精神科では、その年に入局したのは3名でしたが、まもなく2人は辞め新人は私だけになり、大阪大学病院の精神科に入院している患者の2分の1から3分の1は私が受け持ちをするということになりました。私の父の教えに、「自分の患者の病気は徹底的に調べて勉強しなさい」という言葉がありましたので、要領よく受け持つ患者の病気についてだけ詳しく調べることにしました。

 大阪大学病院の外来では、新人は教授、助教授、講師の先生方のシュライバー(カルテ書き)をしないといけません。新米の医師は殆どいないのですから、私が毎日先生方のシュライバーをしないといけないのです。しかし、多くの先生方の診察を横で見たことは、その後の私の外来診察で大変参考になる教えとなりました。

 精神科教室では週に1回の抄読会(英語の論文や本を読む会)、研究室では週に1回英語の論文勉強会、1回の早朝勉強会などがありました。そして、先輩の先生の研究のため、週2回の終夜脳波をしました。終夜脳波とは徹夜で脳波を記録することです。記録した脳波の分析などもしないといけません。昼間はレギュラーな仕事や勉強の上に、週2回徹夜ですから、遊ぶ暇もありません。また、私に研究テーマが与えられ、そのテーマの病気の患者探しや関係論文検索やら、まぁ本当にどっぷり医学の道につかり鍛え抜かれることになりました。

 将来、眼が見えなくなるので、できるだけ早く医学の力を身に付けようと思っていた私にとって非常にラッキーでした。そういう訳で私は、忙しいその状態を楽しんだ感があります。麻雀や囲碁に明け暮れていた以前の自分とは全く違う自分でした。
 2年間の初期トレーニングが終わると、私もそこそこの医者になったように思いました。その後幾つかの病院勤めをしている時に、私の父が亡くなりました。兄2人は、大学や大病院での研究の道に進んでいましたので、私が父の跡を継ぐことにしました。父とは全く異なる科なので、父の跡を継ぐといっても、建物を継いだだけで患者は全く違うのです。

 開業した後も、最新医学に後れないように毎朝7時半から診療の前に1論文を読むことを自分に義務づけました。また、月に1回の研究会もつくりました。その研究会は北摂精神医療研究会といい、今でも続いています。開業しながら、頼まれて介護福祉士の学校の講師やら、知的障害の子供の施設の顧問やら、老人ホームの嘱託やら産業医やら、いろいろなこともしました。これは、頼まれたら借金の保証人以外は断らないという父の遺伝のせいもあるでしょう。

 しかし、不安と焦りは絶えずつきまとっていました。眼が見えなくなった時の貯えをとの焦りから、株で大損をしたりしました。5年→10年→20年と段々年数が経ってきて、「ひょっとして死ぬまでもつかな」と思っていたある日、カルテの自分の文字の上に文字を書いているのに気づきました。「ついに来たるべき時が来た」と、昔の教科書を思い出し、クリニックを閉鎖することを考えました。ところが、これは白内障が悪化したためで、白内障の術後に再び字が読めるようになったのです。
 私は眼が見えなくなる前に「早くあの世へ行こう」と今まで身体の病気の検査は一切しませんでした。だから、高血圧、糖尿病が悪化し、そのせいで身体のあちこちにいろいろな異常を起こしていたのです。

 「ゆいまーる」に入会させていただいて私が驚いたのは、視力が私よりはるかに悪いのに精神的に安定して朗らかに生活しておられる姿です。これは、不安と焦りがあった自分にとって、どうしても見ておかないといけないものでした。私より若い方が多いのですが、これからは皆様をお手本に健診も受けて、残された日々を過ごしていきたいと思っています。