【震災体験記】     【機関誌第2号】     Top


     3.11 ー 最期の30分 ばあちゃん、ありがとう

                             R.S

 私の実家は宮城県気仙沼市にある。あの日、私は偶然にも用事があり宮城に戻っていた。
 実家は海から500メートルほど離れた住宅街の中で、マンションや家々で海を見ることは、まず不可能だった。海が近いという意識もなく、ましてあれほどの大津波が来るなど、全く考えられなかった。

 朝から雪が舞い、空一面の曇り空。母は市内の病院へ、そして家には私と92歳の祖母がいた。祖母は介助があれば自分のことは自分で行なっていたが、数カ月前より狭心症の発作を起こし、私もずっと気にかけていた。

 午後2時46分。最初ゆっくりとした揺れが次第に大きくなり、2階の自室にいた私は、急いで祖母のいる1階の居間へ駆け下りた。壁紙が落ちる音、家が大きく軋む音がした。居間に入ると、祖母は座っているソファーに、必死にしがみついていた。
 「ばあちゃん! 大丈夫だからね!」
 すぐ祖母を抱え込んだ。直後、2回目の大きな揺れがあり、脇のサイドボードの上から人形ケースが落下。ガラスが飛び散ったが、不思議と当たらなかった。揺れは5分近く続いたが、家自体は倒れなかった。

 地震後、外では大津波警報のサイレンが鳴り始めた。歩くのが不自由な祖母を、おぶって逃げようか迷った。経験したことのない揺れだったが、津波が来ても1階が浸水する程度だろうという甘い考えがよぎった。
 “ばあちゃんだけは、2階に上げよう”
 そう自分に言い聞かせた。
 「ばあちゃん、今ね、津波が来るって。だから、取りあえず2階に行こう。」

 私にしがみつく祖母を抱きかかえて、階段を一段一段、這うように上った。
 停電の中、2階の自室も寒かった。毛布を出して、椅子に座る祖母に掛けた。ラジオをつけると、釜石に海水が溢れていると伝えていた。ちょうどその頃、母が帰宅。幹線道路は渋滞し、車は動かず、危険を承知で海沿いの道路を南下し戻って来たという。
 母が1階で片付けを始めていたので、すぐ2階に上がるよう怒鳴った。私は祖母を毛布の上から抱えて暖めようとし、母は窓の外を心配そうに眺めていた。地震から30分が経とうとしていた。

 外からカモメの鳴き声がし始めた。気仙沼と言っても周囲は住宅街で、普段はまず聞かなかった。違和感を覚え、母が外を見て叫んだ。
 「道路に水が流れて来た!」
 道路の海水が急に増え、海側から家や車を巻き込みながら、バキバキという音を上げて我が家に迫り、ぶつかり始めた。2階の窓が割れ、自室にも海水が流れ込んだ次の瞬間、家が傾き始め、2階の床が抜け落ちた。
 祖母の体を抱え込んで、離れないように必死だった。海水の中に投げ出され、塩辛い味がした。床が落ちる瞬間、「良亮(りょうすけ)じいちゃん!」と叫んだ(私が生まれる前に他界した祖父)。床が抜け落ちる瞬間までは、祖母を抱きかかえていた記憶があるが、あとは覚えていない。

 足や膝の痛さで気が付いた時、私はガレキの間に挟まれていた。外の景色は見えなかった。助かったのかなぁ、と思ったが、“このままじっとしていたら死ねるかなぁ”ふと、そう思った。眼の病気、進路、自分自身や大学のこと、正直もう疲れてどうでもよかった。
 しばらくじっとしていたが、足先の痛みが強くなり、じっとしていられなかった。もがいていると不思議と足先に空間ができた。そこから膝、腰と空間が広がり、ガレキを一つ一つ取っていった。海水で濡れたガレキの上に這い上がると、空は暗くなりかけていた。

 最初は、ずぶ濡れで声が出なかった。何度か母、祖母の名を叫ぶと、母の声がした。すぐそばだった。母の上にあるガレキを取り、引っ張り上げた。そこは元の場所から北に400〜500メートルほど離れた丘陵地帯だった。雪が強く降り出す中、山に飛び移るしかなかったが、不思議と漁具用マットが横たわっていた。それに乗り、母と私は山に飛び移り、その後約1時間ほど山中を歩いていたところを消防団に救助していただいた。病院へ運ばれ、翌日、内陸部の叔母宅に避難した。

 山に移る時、母はガレキの下に祖母の手があるのを見ていた。祖母がそこにいることが分かったおかげで、4月5日、自衛隊により発見された。
 海外の父と連絡が取れたのは震災1週間後、私も無事4月には茨城に戻ることができた。

 なぜ祖父の名前を叫んだのか、今でも理由は分からない。昔から時折 祖父に心の中で頼っていたからかもしれない。この時も祖父がきっと、私や母を助けてくれたと思う。
 祖母はいつも私を見守り、励ましてくれた。祖母が生きている間に立派になりたいとずっと願っていたし、つらいことがあっても祖母や両親を喜ばせたいと思い、それを励みにしていた。もし1階にいたままなら、助からなかったかもしれない。きっと祖父、祖母が私を助けてくれたと信じている。

 震災を通して、色々なことを振り返り考えた時、何が自分を支えてくれたか、正解はないかもしれないが、私は大きく二つあると思う。一つは「人とのつながり」、そしてもう一つは「生きがい、働きがい、やりがい」ではないかと。誰かに必要とされる、頼りにされる、仕事を頼まれる。一見面倒なことのようだが、人はそうしたことが生きる糧になると身をもって感じた。
 たとえ視覚に障害があっても、仕事を頼まれそれにやりがいを感じ、社会や人の役に立ちたいと感じる。人間本来の生きる意味は人それぞれだが、私はそれが大きく含まれると思う。

 社会が大きく変わろうとする今、私にできることは何か常に考え、そして常に“社会に必要とされる人”になれるよう、一日一日を大切にしていきたい。
 「亮がいてくれると助かる。一緒に暮らせて幸せだよ。」
 祖母がそう言ってくれていたように。

 最後に、この場をお借りして、震災後にご支援、励ましをいただきました「ゆいまーる」の皆様に心より御礼申し上げます。
 本当にありがとうございました。