【震災体験記】     【機関誌第2号】     Top


     手 3.11

                     八 巻 真 哉(やまき しんや)

 幸せに思う。朝、目が覚めると温かい布団の中に包まれ、あの日を思う。台所から包丁の音が聞こえ、犬がエサ箱をカランと転がす。何気ない日常を幸せに思う。震災から間もなく1年、ここに私の記録を残す。

 3月11日、翌日の入試に備えて美容院にいた。面接もあり、何を聞かれるか考えていた。これまで臨床検査センターで働いてきたが、目の病と将来を考え、医学部再入学を決めたのだ。散髪を終え母を待っていたが、なかなか来なかった。母は、私が頼んでいた物を急に思い出し、買い物に行っていた。頼んでいたのは、1リットルの飲料と氷砂糖。何故か今渡さなければならないと思ったらしい。

 13時台の新幹線に乗れず、仙台駅に向かう車で小言を言っていた。
 「こんな重い水を持っていくの? 氷砂糖1袋も要らないだろ」と言いながら車を降りた。駅に入ろうとした時、何故かここには暫く来れないような感情がよぎった。
 そして、すぐに母の車に笑って手を振り、駅舎へと入った。怒ったまま離れてはいけないと強く思ったことは、今でも鮮明に覚えている。

 私は、遅い昼飯に駅弁を買い、新幹線に乗り込んだ。14時26分、定刻に仙台を出発した。席は、6号車1番C席でドアの目の前だった。その頃母は、右手を振った私の姿が気になり、出発を駅ビルから見届けていた。私は牛タン弁当を食べながら、隣で忙しそうにパソコンを開く男性を見ていた。後席は、ディズニーランドに行く親子、右は就活に向かう学生。食べ終わり、速度は300キロに迫ったその時、車内照明が消え急制動を始めた。

 何が起きたかわからない中、緊急地震速報が鳴り響く。地震速報を聞いた時、私の頭の中には脱線がよぎった。急制動中に耳が聞こえなくなり、今までの記憶が一気に浮かんだ。走馬灯というものだろうか。止まるまでどのくらい時間を要したかは覚えていない。止まった場所すらわからず、まるで列車が擦れ違う際の衝撃が高速で左右からやってくる。

 車内はその時、悲鳴ではなく「何が起こったんだ? 地震なのか?」と言う声が上がった。アナウンスすら、状況を直ぐには伝えられなかった。その時、左の男性が「ここはトンネルの中だ」と、ひと声。そして、私はインターネットでマグニチュード7.9、震度7と知った。この時から数十時間の心と体の闘いが始まった。運転士から、「この大きな困難を、皆さまと力を合わせて乗り越えていきたいと考えております」と1時間に1度、新しい情報と共に語られた。

 私たちは、ひとつになっていった。残り少ない駅弁や食糧を分け合い、2日以上食べられるように考えた。家族と連絡がつかず泣いている方がいれば、「生きて帰ろう。生きて帰れば必ず会える」と声を掛け合う。車内の温度は上昇し、トイレのタンクが満杯になっていく。手に袋を被せ、直に便を取り袋に入れる。赤ちゃんのミルクが足りないと知れば、粉ミルクを渡す母親がいる。紙が不足する中、私は自分の分厚い参考書を破り、汚れた床に敷きつめていった。劣悪な環境とトンネル崩落の恐れがあったが、人の優しさと協力し合う姿が、恐怖と闘う力になってゆく。

 22時になり、最後の電力を残すために全電源が切れる。疲れ切った人からはイビキが聞こえ、眠れない人はデッキでラジオを聞きながら話していた。静かなトンネルだが、余震の度に遠くから列車が来るような音がし、上からはパラパラと砂の音が聞こえた。この頃から恐怖が更に募っていった。過換気症や低血糖になっていく人も出始める。中には、遺書を書く人もいた。私も、両親や兄弟、友人に言葉を残そうとしたが、あえてこれからの目標や夢を書くことにした。これからを生きようとする思いを書いた方が叶うかもしれない、万が一のことがあっても私が最後まで元気だったと伝えたかった。

 12日早朝、レールを叩く音が遠くから聞こえてきた。「助けが来たぞ」と歓喜の声が上がる。特殊な信号のように金属音が鳴り響いた。全長10キロのトンネル、レールを叩きながら近付いてくる。6時頃になり、トロッコに乗った人が食糧と水を運んで来てくれた。おにぎり1個と飲料1本を手分けし、1600人に配分した。そしてこの頃、トンネルから脱出する方法が伝えられた。

 大宮行きと仙台行きのバスを用意していると伝えられた。北に行くか南に行くか随分迷ったが、仙台への道が閉ざされている気がし、大宮へ向かうことにした。10時を過ぎた頃、脱出が始まった。語り合った仲間と、「がんばろうな、何があっても生きるんだぞ」と手を握りしめ別れた。ハシゴを降り、レールの上を歩き非常口へと向かった。暗所が見にくい私は肩に手を置き、誘導していただいた。非常口は長い長い登り坂だった。針の穴のような光が見えた時、心が照らされるように感じた。やっと地上に出た時、長時間暗闇にいたためか、真っ白にしか見えなかった。

 11時、バスが出発する。この場所は福島の小高い山の上。その時運転手に「絶対に東に行くな! より西へ行け! とにかく早く南へ行け!」と伝えられる。バスの車内ではラジオが流れ「となりのトトロ」や坂本九の「上を向いて歩こう」が流れ、目頭が熱くなった。道路は崩落しており、回り道しながら南へ向かった。不思議なことに、東から車が溢れるように国道に流れてくる。ほとんどバスは動かない。トイレも断水し使うことができない。

 15時を過ぎた頃に、ラジオから原発が爆発したと伝わる。原発から近い場所にいたのだ。「より早く南へ行け」という意味がわかった。日本がどうなっていくのか寒気がした。栃木県に入るまでは、停まることなく南へ向かって行った。最悪のことを考え、レインコートと帽子を用意した。そして大宮駅に着いた頃、13日になろうとしていた。京浜東北線に飛び乗り、都内のホテルに向かった。部屋でカレーをむさぼるように食べ、ペットボトル1本を飲み干す。家族の無事を知り、テレビを付けた時、私は気を失いうつ伏せに倒れた。眠気ではなく、気が薄れて遠くなっていった。


 19日、羽田空港から山形へ飛んだ。計画停電する中、暗い店内でありったけの食糧を購入した。山形県酒田市に泊まり、高速バスで仙台へ向かった。高速道は波を打ち、仙台に近づくほどにひどくなっていった。20日夕方、仙台駅に着いた。駅前は壁やガラスが散乱し、食糧を求める人が長く続いていた。そんな駅前で両親と再会した。何年も会っていないように感じた。

 両親は妹の家に避難していた。灯油、ガスが手に入らない生活が続いたが、家族といられる幸せで十分だった。多くの温かい支援や声をいただき、人の優しさは困難を越える力となっていった。名も知らぬ人と会えば声を掛け合い、足りないものがあれば分け合う姿があった。一つひとつの幸せを見つける度に、好意を分けてくれた方の顔が浮かんできた。


 友を捜しに仲間と津波が襲来した場所に入った。棒を突きながら歩いた。思い出一杯の浜は形を変え、仙台平野はセピア色だった。そんな中、右手を大きく振ったまま亡くなられた遺体と出会った。そのような遺体は、数多く存在した。その時、彼等の最後を見ていた人に出会った。亡くなられた方は、より内陸にいる人に向け、「もっと、もっと高い所に行けっ!」と最後まで手を振り叫んでいたという。私は、眼球がなく衣服すら身につけていない彼らに、「最後まで人の為に生きた貴方を忘れない」と強く思った。

 今、私は自分は生きているのではなく、生かされていると思っている。手のひらを見ると、多くの方の思いや光景が見える。きっとこれからの私の心の杖になるだろう。現在、祖父母の墓前には、放射線量が高く入ることができない。山中のため、今の技術では除染ができない。いつの日か祖父母に、自分が目標を遂げた姿で礼を言いたい。そのためには人との繋がりを大切にし、様々な考え方を学び、自分にしかできないことを懸命にやっていきたいと思う。誰かのために、手を差し伸べられる人になりたい。
 皆さん、ありがとう。