【日々の診療に学ぶこと】    【機関誌第5号】     Top


                        下 川 保 夫(しもかわ やすお)(熊 本)


 T はじめに

 リハビリテーション(以下、リハと略す)は「全人間的復権」を意味し、医学的リハ・職業的リハ・社会的リハ・教育的リハを含むことを、この分野を選んだ頃知った。私はこの10年、回復期リハ病棟の専任医、専従医として内科医とともに急性期病院から紹介されてくる対象患者を診療してきた。

 私の役割は、まず入院時にリハ科医として大まかに診察し、身体的改善度を予測し、どの程度の期間でどのような行為が可能となるか、などを入院時治療計画書に記載し、患者本人・ご家族に説明することから始まる。
 その時、突然発病した患者・ご家族の心情を汲み取り、少しでも不安感が消えるように冗談を入れながら説明し、今後のリハがスムーズに実施でき、この病院を選んでよかった、この医療チームでよかった、と少しでも安心していただければ良しとしている。ただ、予想される退院時の状態を率直に話す場合、喜ぶ家族、落胆する家族もあれば、自宅では看れません、と最初から言う家族もある。

 入院後は、随時患者を診察しながら、内科医・リハスタッフ・看護スタッフ・ソーシャルワーカーなどの医療チームと患者の状態を共有し、どういう行為ができれば住み慣れた自宅で生活できるか、あるいは復職できるかなどを多方面から検討している。

 例えば、居住環境を整えることで可能かどうか、勤務先の部署を変わることで可能か、どの程度の社会的支援があれば可能かなど、その人に合った生活が少しでも続けられるように検討を繰り返し、これらの情報を退院後の医療・介護チームに繋ぐようにしている。

 ただ、ここまでくるには、私なりに悩みは多かった。まず、患者・医療スタッフが「見えない医師で大丈夫なのだろうか」といった漠然とした不安感を抱いているのでは、と思ったり、また私の心の中で、見えない私に向かって「あなたで大丈夫なのですか」と問いかけることもあった。
 最近、見えない私を、見えていた頃の私がひとりの人間として認めるようになり、この問題から徐々に解放されてきたような気がする。このような過程を数人の患者を通して述べてみたい。


 U 患者より学ぶ

 5、6年前、Aさんのご家族と偶然会った。
 「いかがお過ごしですか」
と尋ねると、
 「近くの公園を散歩したり、母親と一緒に料理を作ったり、先日はある会合で自分の体験談を発表したこともありました」
と、日々の様子を喜んで話された。

 Aさんは退職したばかりだったが、約8年前、アテローム血栓性梗塞を発病し急性期病院で治療後、リハ目的で転院されてきた。私はいつものように大まかに診察し、記銘障害、失語症、空間無視などはなく、やや重度の右片麻痺、感覚障害を認めるも、起立・立位保持は何かを握れば可能だったので「きっと杖を使って歩けるようになりますよ」と結んだ。

 ただ、上肢は随意性に乏しくほぼ廃用手に近い状態であったため、1ヵ月程度経過した時、「右手を治療しながら左手も使えるようにしましょう」と励ました。納得されなかったかもしれないが、自主的に書字訓練をされる日々だった。
 退院時には、左手で麺類も箸で食べることができ、画数の多い漢字も書け、固定した食材を調理することもできるようになられた。Aさんは、家族から「頑張り屋さん」であることを聞いていたので、当時の励ましでよかったのかもしれない。

 また、私は見えない状態であること、そして「できることをしているだけです」と話すと、驚いた様子だったが、私の姿を見ることで一段と利き手交換に精を出したとのことだった。私もAさんから「見えない医師でも大丈夫ですよ」と励まされた気がした。


 Wさんは50代の男性で、糖尿病、高血圧症などに罹患後、治療も不規則であった。ある日、突然のめまい、嘔吐をきたし急性期病院へ搬送後、小脳出血の診断で保存的治療を受け、リハ目的で転院されてきた。主に四肢、体幹の運動失調を認め、2ヵ月後、歩行器使用でどうにか室内移動ができるようになった。

 Wさんは自宅での生活を望み、病弱の妻の代わりにどうしても近くまで買い物に行かねばならないことを頑固に言い続けた。そこで患者同伴のもと、居住環境を調査した。自宅は狭いため、壁などを伝って移動することができ、玄関の上がりかまちから廊下への移動も下駄箱などを利用して可能であることがわかった。

 支障があるのは屋外移動だけであったので、試験的に歩行器を使って近くの道路を歩いてもらったが時間もかかり、危険との報告を受けた。そこでいろいろ検討し、Wさんの状態であれば介護保険を活用し、電動車椅子をレンタルできることがわかった。特に、知的障害もないことから安全に操作できると予想し、退院後に利用する機種を借り、病院内・屋外の運転練習を行った。

 その時のWさんの声は生き生きとして、新しい彼自身を見つけたような雰囲気がした。その練習の甲斐あって数週間でマスターし、無事退院した。そうして、家庭医に受診する際にも使っているとのことだった。電動車椅子利用を提案した私としては、「よかった、よかった」という気持ちだった。

 医学的リハにおいては、障害部位の機能そのものを回復させることが困難な場合、その他を使って目的をどうにか達成しようと試みることが多い。例えば、健全な身体の部分を活用する方法(Aさんに実施した利き手交換)と補助用具を使用して目的を達成する方法(Wさんの例)がある。
 私の場合、文字情報の入手に欠かせないスクリーンリーダーを使ってのパソコン操作もその一つだろう。


 Iさんは60代の男性で、突然の左片麻痺、感覚障害を生じ急性期病院へ搬送され、脳出血の診断で保存的治療を受けた後、リハ目的で転院されてきた。麻痺は軽度で左手を挙げたり、握手することもでき、ボタン操作もやや拙劣ではあるができた。また立位バランスも比較的良好で、ゆっくり歩くこともできた。ただ、上肢のしびれ感、疼痛、左半身の感覚鈍麻を認めていた。

 そのIさんが入院まもない頃、3階の病室から身を投げようとしたことがあった。たまたまスタッフが気づき、無事だったことが翌朝報告され、血が引くような気がした。その後、すぐに各病室の窓が少ししか開かないように工夫された。まだ見えていた頃、似た経験をしたことがあった。その経験がありながら患者の精神状態を推測することができなかった自分が情けなく思えた。

 Iさんには
 「突然こういう病気になると、誰でもそういう気になりますよ。時間をかけて少しずつ治しましょう」
と、声をかけた。また、私が失明に近い状態の頃、悪魔が『こちらにおいで、楽になるよ』と、耳元でそっとささやいたことなども話した。今思えばぞっとするが、こういう時、我に返させる光は何であろうか。私の場合、家族の存在だったのかもしれない。Iさんに対して私ができたことは
 「ボチボチしましょう」
と、毎日、声をかけることだった。

 対照的な症例を提示したが、リハカンファレンスでは、よく 「Cさんは、もうプラトーになっていますが、なかなか障害を受容できていません。先生からCさんによく説明してください」と、言われることがある。

 この問題には、いつも苦笑するばかりである。なぜなら、そう簡単に短期間で障害を受容できることはないと思っているからである。私自身が受容できているのか、新しい治療と聞けば、すぐに飛びつこうとしているではないか、少なくとも私が見えない私を認め、今の私になるまでに10年以上費やしたではないか、その間、家族をはじめ、多くの人に心配をかけてきたではないか。そんな私に答える資格があるのか…。
 しかし、Aさんの例もあるではないか、と私を押す声がある。そこで
 「まあ、一応話してみましょう」
と、リハスタッフに返事をする。


 V おわりに

 2001年医師法の一部が改正され、視覚障害者も法的に診療行為が可能となった。これで胸張って患者を診ることができると思ったが、「見えない私は医師として、あるいは人間として失格で無用の存在だ」という価値観をもった私自身が、時々、現れては消えたりしていた。

 そのため、医師法改正後も自信をもって診療することができていなかった。私は近い将来、失明するであろうと予想して、神経内科・リハ科を選択してきた。そして、これまで突然、脳卒中などを発病し、障害をもつこととなった多くの患者を診てきた。そこで多くを学び、長い時間を要したが、私自身が視覚障害を受容することができたように感じる。

 最近では、障害をもった患者・ご家族の喜怒哀楽を共有できる医師の一人として、患者の「したい行為」を「できる行為」になるよう、多方面から一緒に考え「できた行為」を一緒に喜ぶようにしている。リハ科医は基本的に患者の障害受容と真正面から見つめねばならない職種であるため、この分野にこそ障害をもった医師の役割が期待されているのではないかと、日々の診療を通じて思っている。