【或る「木偶の坊(でくのぼう)」の反省記】   【機関誌第5号】     Top


                         田 中 康 文(たなか やすふみ)(栃 木)


 私は今年69歳になる。残り少ない人生なので少し過去を振り返ってみたい。

 私の人生は波瀾万丈。
 昔、よく「木偶の坊」と言われた。何となく馬鹿にされたようで、あまり好きな言葉ではなかった。最近、辞書で「木偶の坊」を調べると、"役に立たない人、気の利かない人、人のいいなりになっている人を罵って言う言葉"と書かれている。その類似した言葉には、バカ丸出し・ノータリン・間抜け・うつけ者・ぼんくら・未熟者などがある。
 この言葉の意味を知った時、私は本当に「木偶の坊」だと思った。

 私は、人によく頼る癖がある。自分でできることも面倒くさがって人に甘えてお願いすることもよくある。その癖が間違った人生を歩むことになった。
 私は大学4年生、22歳の時に網膜色素変性症という不治の病にかかっていることを告げられ、その後は苦難の人生であった。悩みや将来に対しての不安を、心配させてはいけないと思い、両親にも兄弟にも言えなかった。

 そして29歳の時、妹の友人の女性と結婚した。しかし、眼の病気についてはほとんど話をせず、夜、少し見えづらいことだけを話した。これが大きな間違いであった。正直に眼の病気について話をして理解を求めるべきであった。しかし、本当のことを言って結婚を断られてしまったら…自分が傷つくのが怖かった。

 ある日、家内に何かを手伝ってもらおうとお願いしたところ、「手伝えない」と断られた。理由を聞くと「他人ではないから」と言われた。その意味がずっとわからなかったが、後から「他人だと1回きりの親切で終わるが身内だとそうはいかない」という意味であったことがわかった。きっと、私の悪い癖が出て家内に甘え、お願いすることが次第に増えて重荷になったのだろう。

 また、私は不安を消すために自宅に帰らず、病院で寝泊まりをして、一心不乱によく英語で論文を書いた。これもよくなかった。不安を家内に正直に話すべきであった。イライラして、家内に暴言を吐くことも多くなった。きっと家内はこれらのことを苦しみ悩み、相当つらかったのではないだろうか。今は家内にも娘二人にも申し訳なく思っている。
 結局、私は48歳の時に離婚した。

 その後は人生を立て直すために、白杖の使い方や鍼灸の勉強をするため、週に1度、3時間かけて筑波まで3年半通った。そして54歳の時、外来診療患者に付き添っていた子連れの女性と知り合い、再婚したが8ヵ月後には別れてしまった。これも寂しさとともに、人に頼ろうという気持ちが強すぎたのではないかと思う。
 その女性の父親の勧めで55歳で自治医大を退職し、介護施設を開設することになった。しかし、私の悪い癖がまた出て、それを利用され横領に何度か遭い、経営は火の車状態、結局、施設を乗っ取られて借金だけが残ってしまった。

 それからも、どうしても医療を継続したくて隣町に移り、『ふれあい漢方内科』を立ち上げ漢方診療を開始した。しかし、借金の取り立てが怖くて、財産の残りのすべてをある人にお願いして預かってもらうことにした。これが最大の誤りであった。

 私はその後、一人で生活することに寂しさを覚えるようになり、67歳の時、ふれあい漢方内科のスタッフの協力を得て、今の妻と知り合うことになった。彼女とはしばらくの間、メールでのやり取りをしていたが、私は目が見えないことをいつ話そうかと悩んでいた。スタッフに相談したところ、彼女のためにも早めに話をした方がいい、断られたら、それまでの人だからと忠告された。

 そして思い切って、以前、ゆいまーるの機関誌に載せた『我が輩は盲導犬オニキスでござる』の記事を添付ファイルで送った。それを読んで彼女は泣きに泣いて3日間ほど目を腫らしたそうだ。そして彼女は「あなたの苦労と努力が目に浮かび、どれだけの時間を費やしたのだろうかと思うと、胸が熱くなって涙が自然と溢れ出した」と言った。私はこのことを聞いてこの人なら大丈夫かもしれないと感じた。

 そして、数日後に盲導犬オニキスと共に会った。借金については最初は話せなかったが、間もなく彼女に伝えた。彼女はせいぜい200〜300万円ぐらいだろうと思っていたようだ。後から本当のことを話したら、すごく怒られたが、間もなく許してもらい、一緒に頑張ろうと言ってくれた。

 そうして、彼女と結婚することになり、預けていたお金を返してもらおうと連絡したところ、全額使われてしまったことを知った。それを知った時、妻の動きは速かった。すぐに弁護士と相談し、返済を迫り、代物弁済として、その人が住んでいた700坪もある広大な家と土地を譲り受けた。

 しかし、家は荒れ放題で、草は至る所に生え、ゴミ屋敷のようであった。妻は家中にバルサンを焚いたり、ゴミを処理したりして大奮闘した。そして、オニキスが芝生が大好きであったため、短期間で庭に2000枚の芝生を一人で植えた。そのすごさにはとにかく舌を巻いた。

 また、わが家の庭の真ん中には大きなシュロの木があり、邪魔だったので二人でノコギリで切り倒したことがあった。10メートルもある大きな木であったため、4分割にして運ぼうとしたが、枝があるために転がすことができず、そのままにしていた。しかし、妻はその枝を両手で握って引っ張り始めた。そして、とうとう庭の隅まで運んでしまった。妻は中学の頃、ソフトボールをしていたので足腰が強かった。引っ張られるのが木でよかった。もし私ならと思うと…背中に少し冷たい汗が流れた。そしてこの人にヘタに逆らわない方がいいと思った。
 その後も妻は大活躍。田畑を売り、そのお金を弁済として回収している。

 先日、二人でやっとの思いで2階に勉強机を上げた。しかし、2階は寒く私が震えているのを見た妻は、私が仕事に行っている間に一人で勉強机を1階に下ろし、私が勉強しやすいように模様替えをして、タンスや本棚などを一人で運んでくれた。私が自宅に帰った時、そのすごさに驚き、それとともに妻の優しさに思わず涙がこぼれそうになった。タンスは相当重いはずだが、それを一人で運ぶなんて、人間のなす技ではない。怪力無双、この細い体のどこにそんな力があるのか。

 結婚して1年間はよく口げんかをした。よく話し合い、お互いの意見をぶつけ合い、お互いの膿を出し合った。最近では少しずつ夫婦としての形ができつつあり、静かな生活になってきている。
 私は、毎食ほとんどを家で食事をする。オニキスが私たちの食べているのをじっと傍で見ていて、口の両側からヨダレを垂らして床に水溜まりができるほど、妻の料理は美味しい。毎日、「ありがとう」と言って食事をしている。

 妻は言う。
 「お仕事、頑張ってね、自分でできることはしてくださいね、それが長くお付き合いできる秘訣だから。」
 この言葉は、私が今まで忘れていた言葉、そして、私にとってとても大切な言葉だ。妻よ、ありがとう。

 最後に「木偶の坊」を、もう一度考え直したい。木偶の坊は、木彫りの操り人形のことをいう。平安時代は、操り人形のことを「くぐつ」、あるいは「でくるぼう」と言っていた。このくぐつに手をつけた「手くぐつ」がなまって「てぐる」となり、最終的には木の人形のことを「木偶」というようになり、最後に「坊」をつけて木偶の坊になったという説がある。

 木偶の坊が役立たずの意味となった由来は、木の人形を無能な人に喩えたことによるものか、人形が手足のない木の棒のようなものであったことからとされる。しかし、最後の「坊」は親しみを込めて名付けられており、罵りの言葉ではなく、馬鹿だけど何となく放っておけない、可愛い存在という意味ではなかろうか。

 木製の人形はそもそも古代中国の戦国時代から始まり、元代、明代までの王の墓の副葬品として出土しており、彩色を施した人形や着衣をつけた男女人形などが発見されている。このように木偶の坊は、大切な人を敬い、そっと寄り添い、その人を際立たせるためにあったのではないだろうか。
 私もこのような存在になりたい。