【塙保己一賞のお蔭で】【機関誌第6号】     Top



                  生 駒 芳 久(いこま よしひさ)(和歌山県)


 授賞式当日、和歌山駅から5時14分発の特急「くろしお」に乗った。新大阪駅で長女と合流、東京駅で次女とも合流、3人で上越新幹線に乗った。10時31分、埼玉県本庄早稲田駅に到着した。

 授賞式にはまだ時間があるので、塙保己一記念館を見学することになった。江戸時代後期に検校となった塙保己一は、国学者として群書類従(ぐんしょるいじゅう)を編纂した。全国から収集した膨大な記録や資料を木版で印刷出版している。私が使った高校の教科書にも塙保己一の名は出ていた。検校という言葉も覚えている。それが盲人の役職であることも習った。そのころ私は視力低下に悩んでいたが、自分と塙保己一が重なることなど思いもつかなかった。

 記念館では、画像や音声での説明はそこそこにして、私は手で触れるものを探した。展示物には点字の説明文が添えられている。まずそれを読む。次に出版に使った木版のレプリカに触れる。木版に刻まれた文字は左右反対であるが、盛り上がっているのでなんとなく元の文字がわかる。それを版画のように刷ったものを二つに折り、糸で綴じて本にしている。それにも触れることができた。

 塙保己一のブロンズ像がある。触ってみた。ほぼ等身大で着物を着て座っている。手には扇子を持ち、頭には帽子のような冠を付けている。鼻筋は通って高い。いかにも賢そうな顔つきである。失礼ながら時間をかけて触らせてもらった。こじんまりとした記念館であったが、塙保己一の偉業に触れることができた。

 表彰式は、そこからほど近い本庄市 児玉文化会館で行われた。会場にはたくさんの方々が来られている。受賞者は4人、大賞の私と奨励賞の石田由香理さん、片岡亮太さんと貢献賞の株式会社 名取製作所である。
 主催者の埼玉県知事、本庄市長のほかたくさんの来賓が来られている。私を推薦してくれた和歌浦病院の理事長も駆けつけてくれた。

 石田由香理さんは中学卒業までは和歌山県立盲学校で学んだ方である。表彰式のあいさつで私のことを「和歌山盲学校の大先輩」と言ってくれたのが嬉しかった。私は40年前に和歌山盲学校理療部専攻科で鍼灸あん摩を学んだ。在学中の30歳の時に和歌山県立医科大学に合格したので中途退学している。今でもその頃の恩師や同窓生とお酒を飲んだりカラオケを歌う。私のこころの原点である。

 表彰式でいただいた塙保己一のブロンズ像やゆかりの文箱、額入りの表彰状など、持ちきれない荷物なので病院まで送ってもらった。今回の推薦文を書いてくれたのが1年前に亡くなったO元事務長だった。この方には再就職する時にもお世話になっている。視覚障害者が病院で働く場合、リスク管理が必要だ。医療秘書の配置も必要だ。環境整備にもお骨折りをいただいた。今回の受賞も職場のご支援のお蔭であることは言うまでもない。そんなわけでまず病院で見ていただこうと思ったのだ。

 帰りは2階建の上越新幹線に乗る。3人並んで座った。東京駅では娘らは牛タン弁当、私は大阪寿司を買った。そこで次女と別れた。新大阪で長女と別れた。22時23分、和歌山に着くと妻が待っていてくれた。

 せわしない旅のように聞こえるかもしれないが、娘らと一日中一緒に過ごせたのは初めてのことのように思えた。一緒にいる間にどんなことを話したのだろう。長い時間であったがあっという間のことだった。それは穏やかな一日であった。塙保己一賞のお蔭で、そんな一日をいただいたことに感謝した。