[2]7つの仕事を転々としてきました  【機関誌第7号】   Top


                 大 里 晃 弘(おおさと あきひろ)(茨城県)


 今年で67歳を迎えました。最近思うことは、この先、何年ぐらい生きていけるのだろうか、ということです。そう考えると、今まで生きてきたさまざまなことを振り返ることが多くなります。そして、今まで経験してきた仕事や職場の数を数えてみたら、7ヵ所を超えていました。中には、2、3ヵ月で退職したものもあるので、今回は1年以上働いた仕事を紹介することにしました。

 大学医学部在学中に、硝子体の変性症があること、網膜剥離のリスクがあることを指摘されたのですが、結局、左眼が剥離になり入院、手術。しかし左眼の視力は戻らず、右眼の視力も低下してきました。そして、ルーペでは文字が読めなくなりました。更に進行し、自分の書く文字も見えなくなってしまい、大学の卒業試験は拡大読書器を使って解答しました。

 卒業後の進路が決まらず、職安に行ったりいろいろな所で相談してもサッパリ! 拡大読書器を使って1回だけ国試を受けてみましたが、文字を追うのにとても時間がかかり、問題の半分も終わらないうちに時間となってしまいました。「これでは、とても国試に受からない」と実感し、医師への道を諦めました。

 埼玉県所沢市にできたばかりの国立身体障害者リハビリテーションセンター(現 国立障害者リハビリテーションセンター)に入所し、日常生活訓練を3ヵ月間受けました。そこで点字や歩行訓練を受けたのが、仕事でも日常生活でも、大いに役に立っています。その訓練の後、国立職業リハビリテーションセンターに入所し、コンピュータ・プログラマーの訓練を受けていました。そして、ある方の紹介で横浜市にある神奈川県ライトセンターに就職することになりました。


 1.神奈川県ライトセンター

 入職したのは1983年、既に28歳になっていました。所属は管理課で、仕事の内容は文書作成や、視覚障害に関する普及啓発です。当時は、文書作成といっても今のように音声パソコンはなく、カナタイプで墨字の書類を書いていました。日常的な文書は、点字で点字タイプライターを使っていました。普及啓発活動としては、自分が主催する講習会で話をするだけでなく、当時はいろいろなイベントに呼ばれて話をすることがたくさんありました。

 働いているうちに、AOKの最初のソフトが発売され、それを使って書類を作るようになりました。最初のパソコンはPC8801で、しばらくしてからPC9801になりパワーアップ。この頃になると、MS-DOSが主流になり、パソコンがとても楽しくなってきたことを覚えています。
 結局、この職場で働いたのは約6年間でした。

 2.外資系のベンチャー企業

 1989年、34歳。とある知り合いの紹介でこの2番目の職場に転職しました。働く職員が7人程度の小さなオフィスで、「フュエル・テック・ジャパン」という会社です。外資系のベンチャー企業で、大気汚染の物質であるNOx(ノックス、窒素酸化物)を除去するシステムを開発していました。東京の九段坂近くにあり、神奈川県のアパートから通勤していましたが、片道2時間程度かかっていたので、いつも電車の中で居眠りをしていました。

 仕事は、このNOxについて調査や研究をすることでしたが、まだインターネットがない時代で、何かを調べるとしたらパソコン通信を使って日経テレコムというデータベースで調べたり、中央省庁や関係企業に電話をかけまくり、あれこれと情報を集めることでした。

 小さな会社でしたが、トヨタと密接な関係があり、トヨタの本社工場(愛知県)には何度も出張しました。当時、トヨタは環境問題に強い関心があると聞いていたのですが、その数年後にプリウスが初めて発売され(1997年)、この車を開発していたことを後から知った次第です。
 この会社では、自分の存在が畑ちがいだったことに気がつき、1年半で退職しました。

 3.あはきの資格取得、水戸市で開業

 久しぶりに故郷の茨城県に戻りました。しばらくはハローワークの障害者枠で一般就労を目指していたのですが見つからず、1992年(37歳)で茨城県立盲学校に入り、「あはき」(あんまマッサージ指圧、はり、きゅう)の資格を取るために、3年間通いました。点字で入学試験を受け、また「あはき」の国家試験も点字で受験しました。点字受験では、時間に十分余裕がありました。

 卒業後、1年間は筑波技術短大(現 筑波技術大学)の診療所で研修を受け、その後水戸市内で鍼灸院を開業しました。41歳になっていました。
 少ないながらも、それなりに患者さんが来てくれました。しかし、視覚障害者団体の役員をしたり活動に出かけるために休診すると、とたんに患者さんが減ってきました。「開業したら休んじゃいけないよ」と言われていたのですが、それを頑として守ることができず、そのためにどんどん収入が減っていきました。独身だったから何とかなったのかもしれません。

 4.横浜の鍼灸院に勤める

 収入を何とかしなければと思い、横浜の友人が経営している診療所に勤めることにしました。代わりに、水戸の鍼灸院の診療日を週2日に縮小し、固定の患者さんだけを施術することにしました。43歳になっていました。
 横浜では、4人の視覚障害者が働いていました。鍼にしてもマッサージにしても、それぞれの技術や考え方があり、とても勉強になりました。東洋医学としての鍼の考え方が、いかに幅広いかということや、盲学校での教え方も全然違っていて、自分の技術の低さを痛感する毎日でした。

 5.実家に戻って開業を続ける

 2000年、実家に一人で住んでいた母が交通事故で亡くなりました。僕は45歳になっていました。実家に戻り一人で生活を送りながら、「あはき」の仕事を続けました。鍼よりもマッサージの方が多かったと思います。昔からの知り合いに頼まれ、毎週、お宅を訪問してマッサージをすることもありました。
 この頃から法律上の欠格条項の見直しが始まり、皆さんご存知のように医師法も改正されて、種々の障害に対する受験の配慮が決まりました。2002年秋の官報にその配慮について告示され、僕にも医師への道が開かれることがわかり、興奮しました。

 6.国家試験、そして精神科病院の勤務へ

 僕が学生時代だった頃の国試と全く違い、どんな勉強をしたらよいのか全くわかりませんでした。勉強法について相談する人もいません。
 東京に出かけて問題集を買ったのは国試の5ヵ月前。何十年もご無沙汰をしていた医学の勉強を始めましたが、時間がないので対面朗読でその問題集を読んでもらいました。そして2003年春、視覚障害を考慮した出題形式で初めての受験でした。臨床問題はチンプンカンプン。医師への道が、いかにハードルが高く遠いものか、実感しました。

 とにかく問題集を読んでもらわなければ一歩も前に進むことができない。試験が終わった直後から、対面朗読に通いました。
 1年後に再受験しましたが、勉強も十分にできず、まだまだ朗読も全体をカバーできていませんでした。更に1年間朗読を受けて、だいぶ手応えを感じてきました。3回目の受験は2005年2月下旬、ようやく合格できました。

 免許をいただいたのがこの年の9月。新しい研修制度がスタートしていたのですが、厚労省に相談しても、なかなか研修先の病院が見つかりません。結局、同じ年の12月から筑波大学附属病院の精神科で研修を受けることになり、そこの教授の紹介で、茨城県内の精神科病院(大原神経科病院)に非常勤で入職することになりました。2006年1月、50歳も終わる頃でした。
 大学での研修も平行して進めていましたが、2006年6月から大学の研修を週1回にし、病院勤務を常勤に変更しました。以後、この病院では約10年間、お世話になりました。

 7.現在は、総合病院の心療内科

 2016年8月末で大原神経科病院を退職。そして、同年12月から県内にある総合病院の心療内科に入職しました。61歳です。この病院で採用された最大の理由は、新しく認知症疾患医療センターを立ち上げるために精神科医を探していたということです。精神科病棟がない病院には、なかなか精神科医は来てくれません。そうした事情が僕には幸運だったようです。
 以後、現在までこの病院に勤務しています。この仕事がいつまでできるのか、5年ないし10年ぐらい続けられればいいなあと思います。