[4]七転び五起き    【機関誌第7号】     Top


                 佐 藤 正 純(さとう まさずみ)(東京都)


 来年には、WHO(世界保健機構)が定義する高齢者の65歳となる私が、今まで64年の転落の人生を振り返る時、七つの忘れられない転落経験から立ち上がれたものと、倒れたままで終わったものを包み隠さず書いてみます。

 まず最初の転落は、1977年3月に国立大学医学部の受験に失敗して1年の浪人生活を強いられたことです。でも翌年に北関東の国立大学に無事合格できたことと、この失敗によって、その後の私の人生で失敗から立ち直る能力を培われたと思われるので、無駄な経験ではなかったと思っています。

 2つ目は1981年、大学入学から3年目で22歳の時に、京都大学医学部昭和25年卒で石川島播磨重工の産業医だった父が56歳で早世して経済的・精神的基盤を失ったことです。これは、その後の学費の全額免除と日本育英会の特別奨学金の給付、それに2軒の家庭教師とジャズピアノのアルバイトで生活費を稼ぎながら無事に卒業、国家試験にも合格して乗り切ることができました。今では、その苦労も懐かしい青春の思い出となっています。

 卒業後、横浜市立大学付属病院 脳神経外科に入局し、5年目で結婚、翌年には専門医試験にも合格して、救命救急センターの医局長に就任するまでは順調な人生でした。しかし卒後12年目の1996年、37歳の時にスノーボードで脳挫傷を負って失明を含む重度障害者となって、脳神経外科医としての道が完全に閉ざされたのが3回目で最大の転落でした。
 その後の6年間は、毎日、歌謡曲では中島みゆきの「時代」、スタンダードジャズでは「オン ザ サニーサイド オブ ザ ストリート」を歌って復活の日を信じ、若き日に交際していたクリスチャンの女性から教えられた聖書の言葉も思い出しながら歩いた苦しい日々でした。

 自らのリハビリプログラムと多くの恩師のおかげで、欠格条項廃止後の2002年に横浜の医療専門学校の非常勤講師として社会復帰することができましたが、少子化の時代に学校の定員割れで左右される非常勤講師の立場では、5年後に戦力外通告を受けて4回目の転落を味わうことになりました。

 その後、縁あって2007年に横浜の有料老人ホームという福祉の分野に飛び込んで、医療相談員として11年ぶりに常勤職に復帰し、重ねてゆいまーるのご縁で大学の理学療法科の神経内科と、医療専門学校の救急救命科という専門分野の非常勤講師の職を得られましたが、2012年には自立のためにせいいっぱい保ってきたプライドが、逆に家族の信用を失うことになって、5回目の転落となりました。

 そして2017年、6回目の転落は8年間続けてきた救急救命科の講義も専門学校の経営悪化によるリストラでした。
 最終的には、12年間続けてきた有料老人ホームの相談員も、2019年に61歳の誕生日を過ぎたところで継続雇用を取り消されて7回目の転落となり、退職後にリベンジを夢見て取り組んだ就労支援も実際の結果に結びつきませんでした。

 今は、幸いにもアルバイト待遇で残った2つの大学の非常勤講師の仕事を続けることが自分の天職と言い聞かせて頑張っています。
 結局、私は7回の転落経験のうち2回はとうとう復権することができずに残ってしまっていますが、それらもすべて忘れることのできない教訓として心に刻まれていますので、人生には何一つとして無駄な経験はないというのが、天からの言葉と私は信じています。