【特別寄稿】      【機関誌第8号】   Top

     「伴走 光なきわが子を医師に 〜 共に生きた家族たちの軌跡 〜」

               守 田 由 雄(もりた よしお)(大阪府)

 「守田さん。欠格条項が取れたよ」。
 新聞の記事を手に知らせてくれたのは、次男と同じ部屋でリハビリに励む老人であった。難病のため、致命的な「視覚」を喪失した次男にも一条の「光」が射した瞬間である。それまで、この条件により、如何に優秀でも視覚障害者の医師への門は堅く閉ざされていた。
 困難ではあろうが、途(みち)は開かれたのである。

 それからが大変であった。確かに受験の途は開かれたが、どうしてこの「光なきわが子」を医師まで到達させるのか。広い日本でも初めての挑戦である。先ず、何はさて置き「医学部を卒業」せねばならず、卒業試験の通過が大前提となる。次男は親切な同級生の勉強グループに参加していたが、細部はやはり自身で補う必要があった。ここは医師である自分が勉強相手となる。毎週木曜日の午後から夜にかけて、試験が迫ると、土曜日曜にも下宿に足を運んだ。とは言え、卒後50年、専門の内科系は良いとして、診療上縁がない外科、整形外科、産科などは、自分が先ず再学習せねばならず大変であった。

 次男はある教授から、「手加減はしない」と言われていたから、試験は「読み上げ・代筆」に便宜して頂いたが、内容は一般学生と同じレベルである。これは、手加減して卒業させてもその程度では国試は無理、という親心であった。幸いにして、無事全科目合格した。ある程度の好成績を得た感があり、それが、大学を挙げての後援にも繋がった可能性もある。
 実際、全盲の医師国家試験受験生は史上初めてであるので、試験方法を巡っての厚労省との交渉は非常に複雑で個人の手には負えず、これは全て母校に引き受けて頂く。感謝のほかはない。

 そして、国試の準備、前記の同級生との共学のほか、個人の領域は、参考書に拠らねばならず、視力のない次男には自読は不可能である。これは、家族全員が手分けして、ウォークマンに録音し、本人が繰り返し聞いて覚える、という方法を択ぶ。録音した90分テープは400巻を超えた。
 録音の一番手はワンルームマンションに同居する母親で、彼女が声を出して録音作業を始めると、息子はトイレにこもって録音されたテープを聴き勉強するという奇妙な日常が続く。不足分は、私や兄弟が手分けして仕事の合間に補い、私が下宿に届けた。このテープは一家の記念品であるから、永く保存されていたが、劣化のため惜しくも転宅時に処分された。

 更に、国試当日。試験は土日月の3曜日に亘るので、家内はこの日に備えて下宿と試験場の間を曜日、時間を変えて数回往復し、当日に備える。私は月曜日を臨時休診にして、下宿近くのホテルに宿り、2人で付き添うこととした。
 試験場は大阪郊外、長瀬の近畿大学。視覚障害者は2人で、一人ずつ別室で4人の試験官が付く。一人が問題を読み上げ、一人がマークシートに代筆、一人が監督、もう一人は交代要員といったところか。家族の入室は禁止された。試験時間は1.5倍取られた。その間、私と妻は控え室で待機、昼食の準備や、不時の呼び出しに備える。予備の録音機と電池を持参し、万一の準備もした。2人待機したのは、一人が買い物やトイレで不在になっても、もう一人が在室するためである。

 3日目の午後5時、漸く国試修了。春とはいえ、薄暗くなり始めた校舎の玄関を後にした時、3人とも「これで終った」という何とも言えない開放感を味わった。
 本人は勿論、家族の総力を挙げた戦いはここに終わったのである。後は結果を待つばかり。

 1カ月後、合格の朗報。戦後初めてであるので、実名は本人の希望で伏せられたが、全国紙の一面で大々的に報じられた。唯、その後の審査が大変であり、亡くなられた戸田先生などの強力なご支援により、漸く8月初旬に晴れて医師の免状を下付される。

 あれから、20年の歳月が流れた。伴走した家族はそれぞれの人生を歩み、本人は精神科医として、心の闇に悩む患者さんの声を聴き続けている。また、本会の皆様と共に、障害者が少しでも過ごしやすい社会、働き場を模索する日々でもある。
 私は91歳。もはや、余命は限られている。しかし、次男を囲み家族全員が一致して伴走したあの日々は永遠の記憶としてあの世まで続く。