【東京新聞 2024年1月3日 活字版・ウェブ版】 【機関誌第8号】   Top

       こちら特報部 連載〈その先へ 解なき時代に〉A

     難病の再発、失明を乗り越えて… 全盲の精神科医・守田 稔さん

       「社会で生きる誰もが失ってはいけない光」とは


 「その痛みは、何らかの気分を伝える役割を持って身体の外に表れてきているかもしれませんよ」
 痛みを専門にする「ペインクリニック」(奈良市)の診察室で、精神科医の守田稔(48)はいつもそう言って患者の心をほぐしていく。「ぼちぼちでいいんです」「一歩一歩」という言葉もよく使う。

 診察室に入る足音、患者のため息、服のこすれ、声のトーン…。患者がそこにいることで発生する全ての情報を積み上げ、自身の中に可視化していく。「精神科の診療は言葉の間合いや沈黙も大切なメッセージ。どれも見逃したくないんです」と守田がほほ笑んだ。

◆「多くの人の助けを借りて生かされています」

 ここは大阪市浪速区の自宅マンション。「診察時間は削れない。診療所は話をするのに十分な時間を取れないから」と、守田は取材場所に自宅を選んだ。守田の父、由雄(91)と母の喜久子(84)も出迎えてくれた。「ぼくの人生になくてはならない家族。紹介したくて」と笑った。

 守田は、身体の免疫異常で手足などの筋肉が動かなくなるギラン・バレー症候群を患い、車いす生活を送る。そして、全盲だ。自宅では両親の力を借り、診察室では、スタッフの女性が診療を支援する。「周囲の助けがなければ生きていけない。多くの人の助けを借りて生かされています」と守田。まさに、その言葉通りの人生を歩んできた医師だ。
 (写真)これまでの人生、これからの人生について語る全盲の精神科医、守田稔さん=大阪市の自宅マンションで

◆ 初めは風邪のような症状、ある朝急に鉛筆が…

 ギラン・バレー症候群を最初に発症したのは小学4年の時。1週間前から風邪のような症状が続き、ある朝、急に鉛筆が持てなくなった。家族は「学校に行きたくないのか」と意に介さなかったが、みるみる手足に力が入らなくなった。4カ月間入院。懸命にリハビリを続け、中学の頃には、日常生活は問題なく過ごせるまでに回復した。

 父親が開業医だったことで、わりと自然な形で、医学の道を志した。1995年に関西医科大に入学。医師を目指しながら大学の卓球部に入り、飲み会にも積極的に参加する充実した大学生活を送った。
 が、またも突然、奈落の底に突き落とされる。
 (写真)夏休みに京都市内の竹林でサイクリングを楽しむ大学2年生の頃の守田さん。充実した学生生活を送っていた=1996年9月(本人提供)

◆「こんなに苦しいなら死んだ方が楽」

 最初の発症から13年余がたっていた。医学部5年生の5月のある朝、下宿先の部屋で目が覚めると、再び手足に力が入らなくなっていた。大学病院に運ばれたが、その日の夜には呼吸困難で人工呼吸器につながれた。「こんなに苦しいなら死んだ方が楽」との思いがよぎる。守田に残されたのは、眼球とわずかなまぶたの動きだけになっていた。
 「こんな急展開…。夢なら覚めてほしい、お願いだから」。あふれ出る涙さえぬぐうこともできない。

 2カ月後、命の危機は脱したものの、身体はまだ動かないまま月日だけが過ぎ去っていた。右目の視力は戻らず、左目は視野が狭窄し、針穴ほどからわずかに見えるだけに。神経内科の主治医にすがりついた。まばたきと眼球運動で懸命に心の叫びを紡いだ。
 「お願いです。目を治してください。一生がかかっています」

◆「全ての道が閉ざされた」闇にともった一つの光

 入院から2年後の2001年、復学を果たす。卓球部の後輩が「卒業まで車いすを押します」と、支援を申し出てくれた。
 だが、それから3カ月後の夏、頼みの綱だった針穴のような視野が見えなくなり完全に失明する。「全ての道が閉ざされたようで本当に真っ暗でした」
 ただ、いちるの望みも同じ時期に生まれた。視覚や聴覚に障害がある人も医師国家試験が受験できるように医師法が改正されたのだ。これで、守田の医学への道がつながった。

◆ 日本初、全盲で国家試験に合格

 周囲は総動員で支援した。卓球部の仲間たちから勉強会で要点を教えてもらい、両親が教科書や国家試験の過去問、問題集を全て読み上げカセットテープに録音。下宿先で同居するようになった母親が録音し、守田はトイレに引きこもってひたすらテープを聴いた。その数、90分テープが400本。最愛の人たちの声を頭にたたき込んだ。

 試験時間は通常の1.5倍。1日約10時間で3日間にわたり全550問が読み上げられ、口頭で解答した。同音異義語は質問できた。多くの人の協力で守田は03年、日本で初めて全盲で医師国家試験に合格した。
 「足は動かなかったけれど、飛び上がりたいぐらいの気持ちでした。視力を失い、どこをどう歩いたらいいのかわからなくなった。でも、とにかく今できることを懸命にやり抜けば歩いた後ろに道はできていた。最高に幸せな瞬間だった」

 母校の精神科に勤務し、09年からは義兄が営む現在の診療所に勤務する。
 (写真)教科書などに書かれている内容が吹き込まれたテープの一部。多くの人の支えで全盲での初の医師国家試験に合格した=大阪市浪速区の自宅マンションで

◆ 目が見えないからこそ見えるものはない?

 「目が見えないからこそ見えるものがあるのでは、とよく聞かれる。だけど、見えないものはやっぱり見えないですよ」と苦笑いしつつ、「ただね」と続ける。「一つ言えることは、ぼくの目が見えないことで、患者さんは懸命に自身の症状を伝えようとしてくれる。そうやって見えてくるものはあるかもしれない」
 診察室で「先生、ここが痛いんです」と胸元に手を当てる患者がいても、守田には「ここ」がわからない。「しんどい、つらいという気持ちを言葉で伝えると、心の中が整理されますよ」と促すと、「痛みの正体」を必死に探り当てて説明してくれる。

◆「支え、支えられる幸せは全てつながりから」

 一方で、守田自身も診察の際は、スタッフの支援がなければ立ちゆかない。病院機関の医療情報はカルテを含めて電子化が進むが、視覚障害者に必要な音声読み上げソフトが、セキュリティーの観点から取り込めないケースや、十分に読み上げられないこともある。そのため、スタッフに電子カルテへの記載や読み込みなどを頼む。

 中途障害者の多くが心理的葛藤に苦しむ。08年には視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)を発足させた。ゆいまーるは、目が不自由でも医療関係職で働けるよう経験や情報の共有など活動の輪を広げている。障害の有無に関わりなく医療職の誰もが電子カルテにアクセスできるよう、国にも要望している。

「光を失った時、最も怖かったのはつながりがなくなることだった。学ぶ幸せ、仕事ができる幸せ。支え、支えられる幸せは全てつながりから得られる。この社会で生きる誰もが失ってはいけない光です」と守田は言う。その先へ、歩む未来はしっかり見えていた。
 (木原育子、文中敬称略)
 (写真)視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)で発行している会報。会員は年々増えている。


◆ デスクメモ
 一度は退けたはずの難病によって突然、何げない日常と視力を奪われた守田さん。本人のとてつもない意志を多くの人が支えて、医師となる希望がつながった。元日の震災で、やはり「何げない日常」を奪われた人々が多数いる。支えの輪を広げて、希望をつないでいくことが必要だ。(歩)

◇ 連載〈その先へ 解なき時代に〉
 政治不信で揺れる日本。中東やウクライナでは多くの民間人が犠牲になる。混沌とした世情の中、貧困や差別をはじめとした社会の病理は依然として残る。やすやすと答えが見つけられない今、何をなすべきか。「解なき時代」に歩みを進める人々から考える。

 *(株)中日新聞社東京本社より記事と写真の掲載許可を得ています。
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