【追悼】戸田 陽先生に感謝の意を込めて  【機関誌第8号】  Top


     「二人の亡き大先輩のこと 〜戸田先生と守屋先生〜」

               生 駒 芳 久(いこま よしひさ)(和歌山県)

 2008年10月、ゆいまーるの臨時総会が東京都障害者総合スポーツセンターで開かれました。その時の概要は、ゆいまーるホームページの「これまでの活動」に掲載されています。
 私は岡山での精神科関連の学会に参加したその足でこの臨時総会に出席しました。視覚障害をもつ医療従事者の会が発足したことを和歌山の湯川さんから聞き、早速入会したばかりでした。

 白杖を持って一人で最寄りの駅に着くと、事務局の正田さんが会場まで案内してくれました。参加者は15名、会議の後は和室で交流会がありました。岡山で買ったお酒を取り出すと、世話役の人が紙コップを用意し、皆さんに少しずつ分けて味わってもらうことができました。

 確かこの時の会話だったと思うのですが、別の機会だったかもしれません。
 「あなたが参加した精神科の学会はどうでしたか?」と戸田先生は優しく尋ねてくださいました。
 実は翌年、その学会は和歌山で開催することになっており、「ほっとけやん!! 〜このままでいいのか、私たちの地域とくらしと精神医療〜」という関西風の大げさな大会テーマを掲げていました。「ほっとけやん」とは、放っておくことができない、見過ごすわけにはいかないという関西の言葉ですが、なんとお節介な人たちだろうと思われそうなタイトルでした。

 その時、戸田先生から「精神科医はとっつきにくい人が多いのに、あなたは違いますね」と、褒められたのかけなされたのかわからないような評価をいただきました。「きっと先生には精神科医に手こずった経験があるにちがいない」と思いました。そして、戸田先生が三重県の衛生部長の時、県立高茶屋病院(現在の三重県立こころの医療センター)の院長を兼務された頃のお話を伺いました。

 その後、戸田先生には「秋の交流会in高野山」には奥様の佳代さんと一緒に和歌山に来ていただきました。宿坊の部屋でその豊富な知識の一端に触れることができたことは、忘れ難い思い出です。
 戸田先生は、ゆいまーるの機関誌発刊を提唱され、3号まで担当されました。その後は私が受け継ぐ形となったのですが、この8号からは福場医師が担当してくれています。機関誌発行には、守田代表と事務局が陰でしっかり支えてくれていることは言うまでもありません。

 前述の学会のことですが、和歌山の次が東京の成増厚生病院が担当でした。副院長をされていたのが守屋裕文先生です。その病院にも1度伺いましたが、先生とは直接の面識はありませんでした。
 守屋先生とゆいまーるが出会ったのは、2011年10月、東京・お台場での第107回日本精神神経学会学術総会の時でした。先生の奥様から守田代表に声をかけていただいたのがきっかけです。私も一緒にいましたが脇役でした。その時の様子は機関誌第3号に守田代表が書いた「トイレの出会いが生んだ学会誌テキスト化」に詳しく出ています。

 守屋先生は、埼玉県立精神保健総合センター長と埼玉県立精神医療センター病院長を兼務されていた総長のような方で、日本精神神経学会の重鎮でした。後に視覚障害者となり、ゆいまーるの会員として日本精神神経学会とのパイプ役を果たしていただきました。
 学会誌のテキストデータをいただけるようになったこともそうですが、第110回日本精神神経学会でゆいまーるとしてシンポジウムに応募、採択されて3名の医師がシンポジストとして発表できたことは、視覚障害をもつ精神科医の存在を認知してもらえる絶好の機会でした。

 失礼とは思いつつ、大先輩のお二人を私自身と結び付けて書かせていただきました。
 ゆいまーるを支えてくださったお二人のご冥福をお祈りいたします。