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(2024年8月1日)

     「雑草の話」

 草は生えてくる。刈っても刈っても、10日もすれば元の木阿弥。春から夏にかけての畑の風景だ。
 私は刈り続ける。朝と夕方の2回、涼しいうちにやる。少しずつどの辺にどんな草が生えるかわかってくる。
 その草の根が私の興味を惹く。一つ一つに個性がある。浅く広がるものから、真直ぐゴボウのように地中深く刺さっているものまで。生命力は逞しい。

 私の育てる野菜たちは弱々しい。水をやり忘れると枯れてしまう。肥料をやらないと成長しない。放っておくと、野菜は草の陰に埋もれてしまう。
 畑仕事は、「雑草」との闘いである。

 NHKの朝ドラ「らんまん」の主人公のモデルとなった植物学者・牧野富太郎は「雑草という草はない」と言った。わたしは畑仕事をする立場から、そんなことがあるものか、と思った。
 ところが、草の根や葉の形に興味がわいてくると、触ってわかる範囲でも一つ一つの違いに気づく。触る植物学者があってもいいとまで思ってくる。きっと面白い学名をつけるだろう。
 そこまでいくと、やはり「雑草」と呼ばずに、「雑草という草はない」と言える高みに立てるかもしれない。


(2024年2月2日)

     居酒屋「kiri」

 ここのカウンターに座ると今日一日の疲れも悩みもどこかに飛んでしまう。壁際が私の指定席。
 今日は枝豆のゆでたてが突きだしに出た。とても小さい豆の粒が薄い塩味にぴったりだ。
 「草を抜いたら枝が一緒に採れたのでゆでてみました」と店のおかみさんが言う。仕事帰りは馴染みの店で一杯やるのが一番だ。

 私は毎日アルコールを飲む。高齢になり宿直をしなくなってからは週1回の休肝日もない。まずビールを飲み、次は焼酎となる。麦がいいとか芋がいいとか言わず、ましてや銘柄など問わない。

 ここまで書くと、どれ程の酒飲みかと心配されそうだが、心配ご無用。アルコール分解酵素が少ないのか、すぐに真っ赤になるので量は飲めないのだ。
 とはいえ、酒飲みが何を言っても言い訳にしか過ぎないことは知っている。
 アルコールの問題を抱えている人が「毎晩2合くらい飲みます」と言えば、
「この人はその倍は飲んでいるはずだ」と、他人事ならそう思う。
 同じことが自分にも当てはまるはずなのに、「私は違う」と思うのが悪い癖。

 そんなことを考えながら、今日もキッチンのカウンターの片隅、家内の料理の音を聴きながら手酌で晩酌しているのが舞台裏でした。


(2023年8月3日)

     「敬称の使い方雑感」

 これは2年ほど前、Eメールやズームなどネットを使うことが増えてきた頃の私の個人的な話です。
 ネットでのやり取りが多くなり、敬称の使い方に悩むことがありました。普段宛名には「様」を使いますが、音声ソフトを使ってこれを読むと、私にはなんとなく堅苦しく聞こえてくるのです。かといって「さん」を使うと耳には優しいのですが、失礼になるのではないかと悩みました。
 さらに、「先生」の使い方となると、ますます難しくなります。

 私は視覚障害者向けの九路盤囲碁を下手の横好きでやっていますが、初めてズーム対局のグループに参加させてもらった時のことです。
 そこは学校の教師や医師など「先生」と呼ばれがちな人たちの集まりだったのですが、お互いを愛称で呼び合う雰囲気もありました。私は最初「先生」と呼ばれたので、慌てて「さん付けに」とお願いしました。
 その後、2、3回は「先生」が出ることはありましたが、すぐに「さん付け」で呼んでもらえるようになりました。

 ある自治体で「議員を先生と呼ぶのはやめよう」という提案があったというニュースがありました。国会でも女性議長が議員を「さん付け」で呼んだ時代がありました。
 敬称は個人の気持ちを表すものであり、迷うこともそれなりの意味があります。ましてや誰かが決めて押し付けるものでないのは言うまでもありませんが、皆さんはいかがですか。


(2023年2月1日)

     「歯の話」

 年を取ると歯は弱ってくる。歯医者さんに行く回数も増えた。もう20年以上通っているところだ。
 これまでは年に1、2回くらいだったが、月に1、2回のこともある。
 私がこの歯医者さんを気に入っている理由はただひとつ、1回ですべてを終えてくれるからだ。仕事帰りに行けば、その日のうちにすっかり治してくれる。夕食は何事もなかったように食べられるのでありがたい。

 いつも何の予約もなしに行くが、待たなくても診てもらえる。
 先生は「さて、どうするかな」と思案しながら治療していく。
 私は70歳を過ぎ、歯はいよいよ弱ってきた。若いころ詰めていたところが外れ、歯ももろくなって治しても治しても欠けていく。
 それでも治療は1回1日だけで終わり、「これでしばらくやってみてください」と歯医者さんは言う。

 先日、つい 油断してまた硬いものを噛み詰め物が外れた。
 歯のトラブルにすっかり慣れてしまった私は、「慌てて治さなくてもいいのでは」と思いついた。欠けた歯でどこまでやれるか試すのも面白い。
 コロナ禍で、仕事や外出時にはマスクを付ける。お陰で歯が欠けてもそれを隠してくれる。詰め物が取れても治療は急がなくてもいいのだ。
 それやこれやで歯の治療は手を抜いたままになっていた。

 ところが、新型コロナ感染症の扱いもいよいよインフルエンザ並みになっていくとのことだ。マスクもなしに外出する日も来るだろう。
 今日、新しい歯医者さんに予約を入れ、本格的に治療する決心をした。
 この先どうなるのだろうか? 実は、今 少し不安になっている。


(2022年8月1日)

      「返ってきたツバクロ」

 「ツバクロ」とは、ツバメのことである。
 私が子供のころ、春になるとツバクロが土間に巣を作った。当時、ひい爺さんや爺さん、ばあさん、叔母さんたちもいて10人の大家族。にぎやかで、昼間は玄関も開けたままだった。ツバクロは自由に家の中に出入りした。

 玄関は、外側が雨戸、内側は障子戸だった。ツバクロが家に出入りするようになると、障子の1マスを切り取って穴を開ける。障子が閉まっていてもツバクロはその穴から飛び込んで来た。土間に30センチ四方くらいの板を吊るすとそこに巣を作る。夜、巣に帰ったのを確かめてから雨戸を閉め、朝、戸を開けると外へ飛び出して行く。
 卵がかえりヒナの鳴き声が聞こえるようになると間もなく近くを飛び回る。やがて南の島に帰って行く。子供のころに繰り返された風景だった。

 20年前、私たち一家は当時、母が住んでいたこの家に引っ越してきた。街並みは昔とはすっかり変わっていたけれども、春にはツバクロがやってきた。玄関はガラス戸に変わり、家の中には飛び込んで来ないが表札の上やガレージに巣を作った。
 ところが、何年か前からツバクロは来なくなった。私の母親もすでに亡くなり、子供たちも家を出ていたので、「人の気配があまりしなくなったためだろうか」とあきらめた。

 そのツバクロがまたやって来たのだ。今年の5月中旬、我が家のガレージに巣を作った。
 「ヒナが4匹くらいいるらしい」と家内が気づいた。巣の下にフンが落ちてきたので、早速新聞紙を敷いた。やがてヒナたちは、飛ぶ練習を始め、7月に入ると、あっという間に姿を消した。

 畑仕事をしている時など、飛び回るツバクロの声を聞くと、「ガレージにいたツバクロではないだろうか?」と、つい耳を澄ませてしまう。もちろんそんなことがわかるわけはなかった。
 今は人の出入りも少ない我が家であるが、ツバクロには来年も来てほしいと願っている。


(2022年2月2日)

      「小麦と粉ひき」

 私が住む和歌山市では、米作りは続いているが小麦を作る農家はなくなった。ところが、全盲の私が独力で米の水田を作るとなると相当難しい。農機具もそれなりに必要だ。私は鎌と鍬だけでやっているのだからなおさらだ。そこで小麦なら何とかなるかもしれないと思い、一昨年の秋、小麦をまいた。麦踏みをする以外にはそれほど何もしなくても小麦は育ってくれた。

 私は、梅雨の合間を縫って小麦を鎌で刈り、束ね、手すり代わりに張った針金に干した。次に自作の脱穀装置(太い針金を組み合わせた大型の櫛のようなもの)で脱穀すると藁やごみの混じった小麦の粒ができた。これを古い扇風機や段ボールで手作りした道具を使って小麦の粒だけにすることができた。

 粉ひき用の石臼がほしいところだがないので、身近にあるものを使って小麦の製粉に取り掛かることにした。まず、庭に放置されていた餅つき用の石臼を使って、小麦をつぶす方法をあれこれ試した。小麦の粒というのはとても硬く、竹や木では歯が立たなかった。

 次に石を使ってすり潰そうとしたがなかなか進まない。粉にするには石で叩き潰すしかなかった。それを、ふるいを使って粉とふすまに分けると小麦の粉らしきものが掌一杯くらいできた。
 ネットで検索すると、それはエジプト時代に人々がやっていた方法と同じだと知り嬉しくなった。しかし家内には、そんな不衛生なものでは食べ物にはできないと断られてしまった。

 最終的に自作の製粉機はあきらめて、新潟の燕三条市で作られたという手回しの小さな鉄製の製粉機を買った。ところが、それは手で回しているだけでは1時間かけても100グラムぐらいしかひけなかった。そこで電動ドリルで回せるような仕組みを作ったが、昔ホームセンターで買った小さいドリルは焼き切れてしまった。仕方なくプロが使うという大型のドリルを買うことにした。

 それでやっと毎朝、自家製のパンが食べられるようになった。家内が焼いてくれるのは、小型の食パンのようなものだ。外側が硬いので年寄りの歯にこたえるが、中にチーズなどを挟めば味は良い。パンの他にクッキー、ピザ、お好み焼きもできた。

 昨年は小麦の収穫量が少なかったので、秋には多目に小麦の種をまいた。まく時期も1カ月早かった。小麦はもう30cmほどになった。昨年よりかなり速いペースである。
 何事にも旬というものがある。早いからいいというものではない。今はそのことが心配である。


(2021年6月26日)

      「草取り その後」

 麦わら帽子や鎌を買って、畑の草取りを始めたのは1年前の春のことだった。やがて三又トンガを使って土を耕すようになった。仕事が休みの日はほとんど畑に出た。

 畑には目立った目印がないので作業中に自分の位置がわからなくなってしまう。それで要所要所にパイプを打って、白杖で探れば位置がわかるようにした。ところがその白杖を置いた場所をすぐ忘れてしまうのだ。万事休すである。そこで紐をつけて腰に結ぶことにした。これが私の基本スタイルとなった。

 まず畝を立て、きゅうりやトマト、なすといった夏野菜を少しずつ植えていった。ホウレン草や大根、丹波の黒豆なども植えた。夏には毎日、新鮮な野菜を味わうことができた。

 秋になって、何か世話のないものはないかと思いついたのは小麦だった。子供の頃、この地域でも大麦を作っていたのを覚えている。稲の裏作として麦を作った。いわゆる二毛作である。我が家でも麦飯を時々炊いた。牛にも食べさせた。しかし今では麦を作る農家はなくなった。

 11月、農林61号という小麦の種を取り寄せ畝に蒔いた。冬には何度も麦踏みをした。
 春になると大きく育ってきた。5月には穂を垂れたので、鎌で刈り天日に干した。手製の脱穀道具を使って穂を落とした後、古い扇風機でごみや麦わらを飛ばすと最後に20kgくらいの小麦が手元に残った。

 今、悪戦苦闘しているのがこの小麦を粉にする方法である。あれこれ道具を手作りするがうまくいかない。インターネットで調べると、家庭用の小型製粉機がいくつか販売されているが、我が家では装置を購入するほどの収穫量は見込めない。とすれば、これまで同様、手作りの道具でやるしかない。いつになったら、うどんやパンができるのだろうか。


(2021年2月3日)

      「草取りの話 2021」

 一昨年の夏のこと、畑を自分で作るかどうか悩んでいた。子供の頃には父親に連れられて農業の手伝いはした。その苦労も知っている。でも全盲となった私にとってどんな方法があるのだろうか。作付けして、手入れをして、収穫することを考えると行き詰まってしまう。
 その頃の私は困ったことがあると近郊の温泉へ行って、何もかも忘れて湯に浸かった。ところがそれでも解決策が見つからない。

 そんなある日、車のラジオからトマト農家の話が聞こえてきた。
 「24歳の時、父が倒れて、これまで農業の経験もないのに後を継ぐことになった。作業用の軽トラックを買ってもらって、いよいよ農業をするのだなあという気持ちになりました」
と、アナウンサーが手紙を読んでいた。

 「そうか、何か始めるときは先のことなどわからない。始めるということは、わからないことに取り組むことなんだ。初めから何か作物を作ろうとすること自体が無理だ。まず最初にすべきことは草取りだ。誰が見ても、荒れた畑と思われないように草を引こう」
 そう考えると肩の力が抜けた。

 それから半年以上も経って、世界中で新型コロナの流行が始まった。会合がことごとくなくなり、家で過ごす時間が長くなった。ちょうどその頃、いよいよ畑の管理を自分でしなければならなくなった。

 早速、草取りから始めた。麦わら帽子と鎌を買って、草ぼうぼうの斜面から始めた。これがよかった。目印のない畑の中で、幅が2メートルほどの斜面は体で傾きを感じることができるので何よりも目印になる。その斜面から外れなければ位置を間違うことはない。雑草を手で抜いたり鎌で刈ったりと黙々と続ける。汗びっしょりになる。あっという間に時間は経っていった。


(2020年8月5日)

      「点字で投票」

 昨年4月のある日、地方選挙の期日前投票に行った。私は6年ほど前から点字での投票にチャレンジしている。しかし失敗ばかりだ。
 投票所ではいつも係員が付き添って、手引きしてくれたり用紙を挟んでくれたり候補者名簿を手渡してくれる。ありがたいことだ。
 ところが、係員は片時も離れずずっとついているのだ。じっと手元を見つめられている気さえする。

 その日、思い切って言ってみた。
 「普通、投票では係りの人は投票用紙を覗き込んだりしませんよね」
 きょとんとしているようだ。もう一度言ってみた。
 「点字を打っているときは、離れてくれた方がありがたいのですが」
 やっと離れてくれた。

 ところが、点字を打ち始めて一瞬考えごとをしたら、どこを打っているか分からなくなった。恥ずかしいけれど係員を呼んだ。あっちへ行けと言ったり、こっちへ来いと言ったり、変な老人だと思われたに違いない。大失敗だ。

 点字での投票は失敗ばかりしてきた。これまでスムーズにいったことはない。
 初めての時など、打った後確認していると、1ヵ所間違いに気づいた。
 「正しく書けてますか?」
と言うので、正直に
 「1ヵ所、打ち間違えました」というと、
 「書き直してください」
と新しい用紙を渡された。もう一度やり直しだ。
 「今度は合ってますか?」
 ところがまた別の場所を打ち間違えた。3度目は確かめないで投票箱に入れた。さんざんだった。

 こんなこともあった。地元の視覚障害者協会の役員選挙の時、自分では確かに打てたと思っていたのに、私が書いた人の名前が読み上げられない。無効票が1票という。私の大切な1票だったのに、そのことを言い出せないで終わった。
 私は点字はブレイルメモで打つ。書くのも読むのも同じだから分かりやすい。ところが投票は点筆を使う。読むときと左右が反対になるので混乱してしまう。普段から練習すればいいものを、選挙の時と、持ち物に貼る点字テープを作る時だけ点筆を使う。だから全然上達しないのだ。
 そんな、あんなで、いい思い出が一つもない。それでもめげずに選挙の時は点筆にチャレンジしている。
 いつになったら間違いなく打てるのだろうか。


(2019年12月31日)

      「私たちにもできた東京見物 ー ある同行援護の話 ー」

 何年か前のこと。和歌山の点字図書館から送られてきたメールで「レッツゴー事業所」のことを知った。それは、地方から東京へ出て行く時にとても便利な制度のお知らせだった。私の友人夫婦は、この制度を利用して結婚記念日にディズニーランドへ行ったと聞いた。

 利用する時は事前にその事業所と同行援護の契約を結ぶ。これで東京でのガイドヘルパーを頼むことができたのだ。私は早速これを利用して、精神科専門医指導医の更新のための研修に行くことにした。

 1日目は東京見物をお願いした。浅草寺など浅草周辺を案内してもらい、美味しい昼食もいただいた。
 2日目は研修会。私たち視覚障害者が慣れない土地の研修会に出て苦労するのは、研修そのものではない。そこへの行き帰りやお手洗い、休憩、昼食などが大変なのだ。この時はガイドヘルパーのおかげで無事研修を終えることができた。

 それから2年ほどして、レッツゴー事業所から一通の手紙がきた。精一杯頑張ったけれども経営面から苦境に立ち、事業から撤退しなければならなくなったという内容だった。
 たった1度利用しただけなのに、時々そのことを思い出す。

 私は普段は地元の事業所と契約している。しかしひとりで動きたいほうなので、また家族にも助けてもらえるのでガイドヘルパーを依頼する頻度は低い。不定期な利用は事業所の経営を圧迫する要因ではないかと余計な心配までしてしまう。

 ところが初めての場所や頼れる人のいないところへひとりで行くのは大変だ。交通機関を使う間は駅員さんにお願いできるとしても改札口を出たとたんに途方に暮れてしまう。そんな時、やっぱりガイドヘルパーほど頼りになる人はいない。

 私は70歳となり、すでに介護保険の対象者であるが、同行援護は介護保険のサービスにはない。障害者の特性に合わせたこのような制度は高齢障害者にも必要なことはいうまでもない。


(2019年8月3日)

      「JRで一筆書きを楽しむ」

 和歌山〜天王寺〜王寺〜岩出

 2019年3月のある日、私と家内は和歌山駅から阪和線の紀州路快速に乗り込んだ。電車は北に向かう。でも買った切符は和歌山線を東に向かう岩出駅。乗る電車を間違ったのでは??
 実はその日、天王寺駅ホームのきつねうどんが食べたくて家内を誘った。それだけでは物足りないので一筆書き乗車をして、運が良ければ和歌山線の新しい車両に乗れればと期待したのだ。

 一筆書き乗車は重複しなければ経路を変えて乗車できるというもので、近くの駅まで行くのに、大回りしてもいいことになっている。例えば環状線で大阪駅から天満に行くのに外回りでも内回りでも同じ料金だ。但し往復したり途中下車することはできない。

 天王寺のきつねうどんは絶品だった。340円とホームのうどんにしては少し高いが、鉢からはみ出さんばかりの大きくて厚い油揚げは、甘いいい味がついている。細く刻んだネギがたっぷりかかって、かまぼこまでのっている。これだけのきつねうどんは他にはなかなかない。

 天王寺駅には15分ほど滞在、高田行き快速に乗った。電車は東に向かう。奈良の王寺駅で下車、ここから先は和歌山線に入る。残念ながら、まだ新しい車両ではなさそうだ。待ち時間が30分あるが、ホームには小さな売店が一つあるだけだ。早速ビールを買い、暖かいガラスの待合室でゆっくり味わった。

 和歌山線に入ると急に車両はガタガタ、ギーギー 音を立て、やがて南に向かう。各駅ごとに停まり、車窓には住宅や田圃が広がる。

 橋本でしばらく停車、
 「ここで駅の外へ出てみたいなあ、お金払うといくらかかるかな?」
と家内が悩み始めた。
 「駅の近くには何もないよ」
と私。そのまま西に向かう。

 岩出駅は和歌山線では数少ない駅員のいる有人駅、ここで電車は行き違いをする。反対の電車からも降りてくるので「和歌山〜岩出」の切符はごく自然に駅員さんに手渡せる。もちろん私たちはルール違反ではないので余計な心配だ。

 次の電車まで30分ある。駅前に出るとたこ焼きの臭いがしてくる。
 「6個200円です。中で食べられますよ」
と、言ってくれた。そこはお年寄りの交流サロンになっていて、ボランティアが作った人形などの作品が飾られている。毎日、ヨガ、絵手紙、手話などしているという。

 ひとりのお年寄りがやってきて、「久しぶりに家を出てきた。デイサービスには行っている」など、自分のことやら知人の近況を報告している。
 短い時間であったが、良いところを見せていただいた。

 岩出駅から20分ほどで和歌山駅に着いた。朝、家を出てから6時間、その日の費用はふたりで1800円だった。


(2018年12月26日)

      「グラウンド・ゴルフの話」

 8月のこと、地元のメーリングリストに、「第12回 和歌山県障害者グラウンド・ゴルフ大会参加募集」の記事が載った。どんなものなのだろうか? 興味がわいた。早速、盲学校時代の同級生に電話をかけた。

 「ボクらは昨日申し込んだよ」と言う。
 「やったことないけどできるかな?」と聞くと、「できる できる」と言う。
 私も申し込むことにした。

 この大会には、県内の身体障害者や高齢者が100名以上参加するという。ところが視覚障害者の参加は少ないらしい。ボールを打ったり、ホールに入れたりするのだから、私たちにとっては大変なことだ。しかもガイドヘルパーが付く以外、同じルールでやる。

 今年、参加を申し込んだ視覚障害者は7名、内6名が全盲だ。私以外は皆経験がある。背中に6つの星が点字のように印刷されたTシャツまであつらえている。
 いくらなんでも全く初めてのまま参加するのは無茶だということで、練習の機会をつくってくれた。9月に1回、10月に1回、夕方に2時間ほど、ガイドヘルパーの助けを借りながら、借りたスティックを手にしてボールを打った。

 高齢者用に考案されたゲームなので、障害者で高齢者の私にはうってつけだ。
 少し大きめのボールを木製のスティックで打つ。ホールは太目の針金で造った直径30cmくらいの円形だ。ガイドヘルパーが、ボールの位置、ホールの方向と距離を教えてくれる。

 私なりの工夫として、スティックの向きを知るために握り部分に印を付けた。ホールの位置を知るために、打つときに白杖を置いてもらう。足で踏むと方向が解る。それらを頼りにボールを打つ。

 「脚と腰、肩を動かさないようにして、脇を締めて打ち下ろすように」
と、ゴルフ経験のあるガイドヘルパーがアドバイスをくれる。

 10月、大会当日、少し肌寒いが絶好のスポーツ日和だ。
 空には色とりどりのパラグライダーが飛んでいるという。仲間のひとりが「小さくなったので」と、ユニフォームの半袖のTシャツとウインドブレーカーをくれた。
 私は早速、長袖のシャツの上にそのTシャツを重ね着した。

 50メートル、30メートル、25メートル、15メートルの距離のホールが1ラウンド8カ所ある。試合ではこれを3ラウンド回るという。大体3打から5打でホールできればいいのだが、なかなか思うようにはいかない。
 試合は5人一組で回った。私のグループは年上の人たちだ。もう20年もグランド・ゴルフをやっている人もいた。視覚障害者は私だけだ。

 「ホールまで10歩です」と、歩いて距離を測ってくれる人がいる。
 打つと「なかなかセンスがある」と褒めてくれる人がいる。
 つい嬉しくなる。
 最後まで楽しむことができた。でも、結果だけは聞かないでください。


(2018年8月1日)

      「続・メガネの話」

 前回のつぶやき欄で、「私はメガネをやめた」と報告した。その3ヵ月後のこと、外来で、「メガネがないと貫録がないですね」と、ぽつりと言う患者さんがいた。私の耳は、その声を聞き逃さなかった。
 その翌日から、私はまたメガネをかけはじめた。

 このメガネは、昨年11月末の関西ゆいまーる勉強会の帰り道、プチ忘年会のほろ酔い気分で買ったものだ。純粋の伊達メガネで、かつて愛用していた100円ショップの老眼鏡とは違う。
 「いいメガネですね」と言ってくれる人がひとりいたが、他の人は知らぬ顔だ。

 さて、私はこの2ヵ月の間に、2種類の特殊な電子メガネを試す機会に恵まれた。
 ひとつは、「オトングラス」だ。
 これは、目の前にある文章を読み上げてくれる。それが日本語だけでなく、英語でもフランス語でも読んでくれる。また、日本語にでも英語にでも翻訳してくれる。
 ゆいまーる神戸総会、アイセンター見学の時である。その時の様子は、NHKラジオ第2「視覚障害ナビ」で紹介された。

 もうひとつは、「暗所視支援メガネ」だ。
 メガネに付けた小型ハイビジョンカメラの映像がメガネのレンズに映し出される。暗いところでも明るく見えるというのだ。
 残念ながら、私のような全盲者には使うすべがない。しかし、その仕組みには興味があった。

 7月初め、三重県松阪市での講演会の時のことである。
 松阪からの帰途、私はこのメガネの開発者Uさんと近鉄特急で同席することになった。自分には使えない装置であるが、その仕組みについていろいろ立ち入った質問をした。Uさんは、丁寧に説明してくれた。

 私は小学生のころから、暗いところは見えなかった。明るいところで前を歩いていても、夕方になると、後から必死になってついていくのだ。その頃、これがあったらなあ。
 このメガネが、暗いところが見えにくい人たちの仕事や遊びの幅を広げる貴重な手段となってほしい。


(2017年12月20日)

      「メガネの話」

 2017年12月の初め、私はやっとメガネから解放された。68歳であった。
 私は中学1年生の時、近視のメガネをかけ始めた。視力低下は小学高学年の頃から始まってはいたが、メガネなしに何とか乗り切っていた。

 若い頃の近視は進行が早い。毎年のようにメガネの新調が必要だ。当時のレンズは今のようなプラスチックではなく、ガラスであった。近視が進むにつれてレンズの厚みは増し、メガネはどんどん重たくなっていった。いわゆる瓶の底のようなメガネになるには、何年もかからなかった。

 私には近視の他にもう一つ眼の障害があった。小学生の頃、夕方になると急に見えにくくなることに気がついた。暗いところは、他の人には見えていても私には見えないという現象である。いわゆる夜盲であった。
 中学生の頃になると、動くものが見えにくい、落としたものが見つけられないという現象が目立ってきた。見える範囲が極端に狭くなってきたのだ。視野の狭窄である。

 高校生になると、それらに加えて、メガネを新しく作っても視力が出ないということがわかってきた。当時、高校生になると軽自動車の免許が取れたので、16歳になるのを待って免許を取りに行く。その時、視力検査を受けるのだが、必要な視力が出ない。学校では、メガネをかけても黒板の字が読みにくいのだ。視力の低下である。

 大学に入学した年の初夏、19歳の時にそれらの眼の症状は、進行する眼の病気の結果であることを知った。その後いろいろあって、仕事や生活は次々と変わってきたが、乱視混じりの近視のメガネはずっとかけ続けていた。
 重たいガラスのレンズはプラスチックに変わり、時にはふちなしのしゃれたメガネに変えたこともあるが、どちらにしても重たくて、そのため、汗をかくとすぐにずり落ちてくるという結果は同じであった。メガネだけのせいではなくて、私の鼻の低さも関係していることはわかっている。

 60歳の時、重たいけれどもなじんでいるメガネと決別する時がきた。役に立たなくなったメガネなら、薄くて軽いメガネに変えようと思いついた。軽くて安価なメガネなら100円ショップのメガネがいい。私は早速購入し、それをかけ始めた。私たちはよくぶつかる。特に顔や頭をぶつけることが多い。メガネはすぐに曲がってしまう。
 しかし、顔や眼を守ってくれる。私はこの100円メガネを「ゴーグル」と呼んで愛用した。安いので、これはいいと思うものを次々とかけ替えてきた。

 今では私の眼は明るさも見えない本物の全盲になっている。それでも100円メガネはかけ続けていた。
 ある時、メガネをかけ忘れていたが、私は気づかない。家内も気づかない。一日一緒にいてくれる医療秘書も気づかない、という状況が生じた。
 家内は「顔なんか誰も見ていない」と言うし、医療秘書もこちらがそのことを話した時に初めて気づき「そういえばメガネがないですね」と全く関心がない。

 私は、その日をもって100円メガネをかけることをやめた。その後、まだ顔や眼をぶつけたり傷つけたりはしていない。
 「ゴーグル」は必要だったのか。私のこころの「バリア」ではなかったか。


(2017年7月4日)

      「同窓会の話」

 先日、工学部の同級生からメールが届いた。
 「同窓会の連絡が来たか?」という内容だ。
 そんなもの、来ていません。
 そこには案内状のコピーも貼り付けられていた。

 読み終えた後しばらく、
 「もう 半世紀が経ったか」と感慨に浸った。
 私は、その大学1年生の時、自分の眼の病気のことを知った。
 そのためというと言い訳になるが、落第もした。
 だから入学した時の同級生と、卒業した時の同級生が違う。

 こういう場合の同窓会は複雑だ。
 どちらに行けばいいのだろうか。
 悩んでしまう。
 結局、どちらからも連絡が来ない、来ても、なかなか腰が重い。

 今回の幹事は、何を思ったか、
 「入学年度か卒業年度が同じ者、8月に集まれ」と、声をかけてくれたのだ。
 お陰で私も申し込みがしやすくなった。

 早速、申し込むことにした。
 2人目だったようだ。
 名前を聞いても、なにもイメージが浮かんでこない人もいる。
 予習しようにも方法がない。

 全く会っていなかった人たち、どんな生活を送っていたのだろうか。
 複雑な気持ちでその日を待っている。



(2016年12月28日)

      「温泉の話」

 今日、和歌山市のマリーナシティにある「黒潮温泉」に行ってきました。
 泉質は少し塩っぽいですが、肌がすべすべして何か得をした気分になれる温泉です。人も多くなくて、ゆっくり楽しめます。特に今日のように、気温が低く風のある日は露天風呂が最高です。打ち寄せる波の音が何とも心地よく響きます。

 私が近郊の温泉を楽しむようになったのは、つい 2、3カ月前からです。
 温泉に行く時は、原則私一人で行きます。バスに乗ったり、稀にタクシーを利用します。それで、浴室に入る時には必ず白杖を持って行きます。初めてのところは、あらかじめ電話でその旨を伝えておきます。少し渋ったような返事をするところもありますが、それで断られたことはありません。

 入浴前に、白杖もしっかり洗っておきます。もちろん湯の中には浸けず、湯殿のふちの邪魔にならないところに置いておき、湯殿を移動する時に使用します。

 白杖の使い方ですが、普段とは少し異なります。
 他の人の体に当たらないように、鉛筆持ちをしてそっと動かすようにします。
 私は正式な歩行訓練を受けたことがありません。その我流の使い方は、相当荒っぽいらしく、
 「杖を振り回して大きな音を立てて歩いているね」
と、やんわり注意されることさえあります。

 私としては、白杖が立てる音が反射して返ってくる音で、周囲の様子が解るので、今のところそれを改める気にはなれません。

 温泉を出て、いつものバス停で帰りのバスを待つのですが、いつまで待ってもやって来ません。
 予定の時刻を10分も過ぎたころ、人の足音がしました。その足音に向かって
 「すみません。バスの時刻表を見ていただけますか?」
と、声をかけました。

 その人は親切に時刻表を眺めているらしいのですが、なかなか返事がありません。
 やっと「今日は臨時停留所にバス停が変わっているらしいですよ」と。
 その後、いろいろあったのですが、家に帰りついたのは予定より1時間遅れて午後の6時半でした。
 無事に帰れただけでもありがたいと思うようにしました。



(2016年7月25日)

      「キーボードパソコンの話」

 2015年12月、あるメーリングリストで「キーボードパソコン」が発売されるとの投稿を見つけた。妙に気になって関連ホームページを見ると、キーボードの中にパソコン本体が組み込まれているという。ディスプレイ画面を外部接続すれば普通のパソコンのように使えるらしい。価格は2万円くらいだとのこと。

 「これこそ、私がほしかったパソコンだ」と思った。

 音声でパソコンを使う私にとって、ディスプレイ画面は「重たくて、電力を消費するだけのもの」なので、キーボードと本体だけが一体化した軽いものがほしかった。仕様を見ると、重さは300g以下である。何とか手に入れたいものだと思った。

 職場でその話をすると、ある人が「予約販売をしているネット通販がある」と教えてくれた。私は代金引換で購入を予約した。2月中旬、待ちに待ったそのパソコンが送られてきた。
 早速、スクリーンリーダー(パソコン画面を音声で読み上げてくれるソフト)をインストールすることにした。画面がないので、ファミコンのようにテレビをつなぐ。家族の目を借りながら、なんとか音声が出るところまで設定できた。後はテレビを外し、キーボードだけのパソコンに戻した。

 Windows10である。安価な製品なので、動きはゆっくりとしている。それでも、私たちが使う範囲ではそれなりに動いてくれる。何よりも軽くて持ち運びに便利だ。最近、このパソコンを使う機会が増えた。

 ところが職場で使おうとすると不便なことに気が付いた。私が職場でパソコンを使うときは、自分で打ち込んだ文章を医療秘書の方に校正してもらう。会議のときなども私が打ち込む文章や変換がおかしい時、画面を見ながらその場で訂正や加筆を行なってもらう。そのためには、どうしても見てもらうための画面が必要となってくる。

 結局、職場では今までのWindows7の10インチレッツノートを使っている。これは3年前買った中古品である。故障することもなく毎日鞄に入れて職場に持っていく。電源アダプターを含めて1.2kgくらいはあり、キーボードパソコンよりはるかに重たい。

 私自身にとって画面は一見必要のないものだが、仕事や作業は一人でするものではない。特に私たち視覚障害者にとって介助者は必須の存在である。一緒に仕事をしてもらうためには、私と介助者をつなぐインターフェイス(双方をつなぐもの)が必要となる。それがディスプレイ画面なのだ。

 キーボードパソコンは、私の趣味の範囲にとどめておくのがいいと思った。



(2015年12月26日)

      「ウクレレを始めました」

 2015年夏、ある日曜日、私はいつものようにバスに乗ってふれ愛センターに出かけました。窓口で、会場の部屋を尋ねると「その会は来週ですよ」と言われました。
 「あっ! また、やってしまった」
 1週間、間違えていたのです。
 ふれ愛センターは、和歌山市にある市民学習センターのようなところです。障害者は無料で利用できるため、いろいろな研修会に利用されます。

 50年前、この建物と同じ場所に和歌山東警察署がありました。私は16歳で軽自動車の免許を取ったのですが、ここで申込みや視力検査がありました。暗い建物で、窓際に視力検査表が掛けてあったのですが、なかなか必要な視力が出ません。今から思えば、自分の視力障害を思い知らされた一瞬です。

 私は眼科に相談に行ったのですが、はっきりと病名を告げられることなく、メガネの調整でなんとか視力だけはパスすることができ、免許も取れました。しかし、その後、実質的に運転することはほとんどありませんでした。

 さて、研修会が来週だと知った私は、このまま自宅に戻るのも悔しいのでどうしようかなあと思案した揚句、「ウクレレを買いに行ってみよう」と思いつきました。
 実は半年ほど前、学生時代に買ったギターを落として壊してしまっていました。この年ですから、今度は何か手軽なものをやってみたいと思っていたところでした。
 バスと電車を乗り継ぎ、いろんな人に助けられながら、あるショッピングモールの楽器売り場にたどり着き、手ごろなウクレレを手に入れることができました。

 今、ポロンポロンとやっているのは「北帰行」です。とにかく昔の記憶をたどりながら適当なコードをつけて歌っています。そのほか、2、3曲やっています。なぜか3拍子の曲が多いようです。
 ありがたいことに、ウクレレは小さい音で弾けます。家内から苦情も出ることなく地味にポロンポロンとやれるのが一番です。
 同じ曲を毎日弾くのですが、飽きがこないのが不思議なことです。



(2015年7月3日)

      「タイムカード」

 65歳で定年退職した後、この4月から新しい職場で働き始めました。
 出勤すると、まずタイムカードを押します。私は早速、自分でカードが押せるようにと、カードの片隅を切り落としてもらいました。
 これなら、他人のカードと間違えずに押せそうです。

 これに気を良くした私は、次に病院内の配置を覚えるために、線が盛り上がるペンを使って、各階の配置図を作ってもらいました。これで病院の全体像が、なんとなくわかってきました。
 一番の難題は、患者さんや職員の名前を覚えることです。何度名前を聞いてもすぐに忘れて、なんだか初めて聞く名前のように思えることがあるのです。
 これをどう克服するか、大問題です。

 私は若いころから、固有名詞を覚えることが大の苦手で、学生時代は地理や歴史には悩まされました。ところが、何がどうしたとかは、覚えなくてもいいものまで覚えているのです。この傾向が、年をとってさらに加速されているのです。
 これは、認知症によくみられる症状です。

 そんなことを考えている時、42年前のことを思い出しました。大学を出て、はじめて就職した電機会社のタイムカードのことです。その会社では、入り口の門を入るとタイムカード専用の小屋のような建物がありました。毎日、出社と退社の時にそこを通るのですが、私には関所のように感じられ、なんとなく重たい気分になりました。
 当時、視覚障害で何かと悩むことが多かったからかもしれません。

 私は今、同じように毎朝毎夕、タイムカードを押すのですが、とてもリラックスした気分で押すことができます。当時、一番悩んでいた「目が見えなくなった」にもかかわらずです。
 こんな日々が、1日でも長く続いてほしいものです。



(2014年12月29日)

      「高校演劇をライブ音声解説付で観る」

 平成26年11月のある日曜日、私は大阪へ出かけ、京阪古川橋駅を下車、ひとりで門真市民文化会館に向かって歩き始めた。点字ブロックが切れたところで迷っていると、そばを歩いていた高校生が会場までサポートしてくれた。

 そこでは大阪府高校演劇研究大会が開催されていた。予選を勝ち上がった10数校が2日間にわたり上演する。そのすべてに、高校生による音声解説が付く。私は2日目の午前中の3つの劇を鑑賞させてもらった。会場では、5年前から音声解説の御世話をしてくれているというKさん夫婦のほか視覚障害者数名が来られていた。

 1つ目は、K高校「クロムウェルの涙」。
 学校内カーストをテーマに、ディベイト、学内裁判など、むずかしい話が進んでいく。
 音声解説は、役者の舞台への出入りを説明するくらいでシンプル、作品はセリフ中心であるのでそれくらいがいいと思った。

 2つ目は、S高校「約束」。
 戦争末期を舞台にした映画の出演者が、2014年の現代から69年前の当時にタイムスリップ、今は老女となった原作者の当時の出来事と重ね合わせられる。
 音声解説は演者の動き、照明の変化、舞台道具など、十分に説明されていると感じた。

 3つ目は、Y工科高校「風に吹かれて」。
 出演者が男子生徒ばかりの迫力ある舞台。笑いあり、涙あり、ギターの背景音楽と、はじめとおわりの、オリジナル「風に吹かれて」のコーラスもすばらしい。1か所だけ、ボブ・ディランの「風に吹かれて」が挿入されていた。
 音声解説は、出演者たちの動きを伝える、目線の動きを伝える、照明の微妙な色合いや変化を伝える、その場の雰囲気まで伝える。
 舞台を見つめる解説者のこころの光景が、言葉に変わって私たちの耳に届けられてくる。

 帰りは、2つ目の演劇の音声解説をしてくれていたという高校生のHさんが駅まで送ってくれた。彼女によれば、劇そのものは本番まで見ていないのだという。おそらく事前に台本を十分読みこなしての音声解説であったのだろう。

 この日は本当に貴重な体験をさせていただいた。


(2014年1月)

      「盲人囲碁を始めました」

 囲碁って知っていますか?縦横19本の線が、文字通り「碁盤の目のように」刻まれた盤上の交点に白と黒の石を並べていきます。これを「19路盤」といい、標準のタイプです。ところが私たち視覚障害者は、「9路盤」というオセロゲームのような小さな盤上でこのゲームを楽しんでいます。

 月に一度、和歌山市のふれあいセンターで「盲人囲碁の会」が開かれます。世話人のT先生が指導してくれます。4、5人の視覚障害をもつ愛好者が集まります。
 平成25年の11月、大阪市で日本視覚障害囲碁普及会主催の囲碁大会が開かれました。私は初めての参加です。100人くらいが来られていました。私は5級という初心者クラスで参加しました。和歌山からは今年は私一人の参加ということで寂しかったですが、2勝2敗の結果でした。

 私は20歳代のころ囲碁が好きでよく打っていました。それほど強くはありませんでした。強くなれない理由を自分なりに「眼が悪いから」とばかり思っていました。しかし、盲人囲碁を始めて、視力より「センスの問題」ということがわかりました。
 これから先も、強くはなれそうにはありません。せめて楽しんで打っていきたいと思います。


(2013年6月)

      「点字を始めました」

 今年の6月のある日、ふと3年前に買った点字板のことを思い出しました。大阪の日本ライトハウス情報文化センターで、点字板と点字用紙、点字の打てるテープなどを買っていたのです。
 その時は、切符やジュースの自動販売機の点字を読めるようになりたいなあとか、持ち物に点字のテープを貼っておくと便利だなあとか思っていました。が、そのままになっていました。 それを思い出したのです。

 私は28歳の時、自分の視力がいずれはなくなるだろうと思って、盲学校で鍼灸あん摩を習い始めました。その時は、視力は残っていましたので、いわゆる墨字で勉強しました。私たちのクラスは、全盲で点字使用者が2人、弱視で墨字の使用者が2人という4人の構成でした。

 あれから35年、私も全盲になりました。今は音声パソコンがあるので、日常的な情報交換はこれで十分なのかもしれません。でも、ふと思いついて点字を始めてみると、これがなかなか楽しいものなのです。
 朝夕の通勤電車の中でたどたどしく点字を読んでいると、スムーズに読めた時など、なんとも言えない満足感に浸ったりしています。いつになれば実用の域に達するのでしょうか?

 点字の超初心者、生駒からの報告でした。


(2013年1月)

 私たちの病院では、20年ほど前から「ふれあい新聞」と称して、年に数回新聞を発行しています。私はこれまで何回か投稿しているのですが、一番評判が良かったのは「ムカデが5匹」という文章でした。それは、病院の宿舎で暮らしていた頃、春になると桜公園のそばにある宿舎にはムカデが日常茶飯事のように現れるのです。それを退治するのが私の家内の仕事でした。そのことを書いたらなぜか皆さんがとても喜んでくれました。その後、何回か投稿したのですが、どれもこれもそれほど評判はよくなかったと思います。

 この度、久しぶりに「ふれあい新聞」に書く機会を与えてもらいました。内容から考えて、相当硬い文章ですが、この機会に皆さまにもご紹介いたします。

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    ◆ふれあい原稿 2012年
                       生駒 芳久

     『精神とこころ』

 私の仕事先は、和歌山県立こころの医療センターです。当センターは、平成15年4月、改築を契機に県立五稜病院から現在の名称に改められました。実は10数年前から全国の都道府県立の精神科病院は次々と改築されていますが、その際にほとんどの病院は名称を改称しています。大まかに分けて「〜精神医療センター」派と「〜こころの医療センター」派に分かれます。

 例えば、宮城県立精神医療センターとか三重県立こころの医療センターなどです。これにはおもしろい傾向があって、東日本では「精神」、西日本では「こころ」という言葉を使う傾向にあるのです。もちろん例外はあります。例えば、大阪精神科医療センターや茨城県立こころの医療センターなどですが、どうやら都会は「精神」、地方は「こころ」という、もうひとつの傾向もあるようです。我が和歌山県立こころの医療センターは、この2つの傾向のどちらにも当てはまりそうです。

 さて、「精神」という言葉と「こころ」という言葉は、同じような意味を表しながら、精神は「精神分析」や「精神鑑定」など西洋的な理性や思考といった硬い響きがあり、「こころ」は「思いやりのこころ」や「温かいこころ」など、東洋的な情緒や感情といった柔らかいニュアンスがあります。そんなこともあって精神疾患を「こころの病」と呼ぶことがあります。私もつい使ってしまう表現です。

 しかし、果してそうすることで表現が柔らかくなったり、偏見が少しでも避けられるのだろうか?と心配になることがあります。
 と言いますのは、「あなたはこころの病です」と言われたとしますと、私なら納得できず「何もこころ疚しいことをしていないし、人間のこころを失ったわけではありません」と主張するのではないか?と感じるからです。私たちにとっては、こころは精神よりも大切なものかもしれません。

 私たちの仕事のことを、「精神科医」と呼ぶことは多いのですが、ある本のなかで「こころ医者」という表現を見つけました。なんと人間味あふれる呼び方だろうかと驚きました。そこに至る道のりは、はるかに遠く、山の向こうのそのまた向こうにあるとしても「こころの医療センター」の名前にふさわしい仕事をしていきたいものです。

 尚、この中に書かせていただいた「三重県立こころの医療センター」は、今から30数年前に『ゆいまーる』の戸田先生が院長をされたことがあるのです。当時、戸田先生は三重県の衛生部長をされていましたが、当時は「高茶屋病院」と言われていた県立病院の院長を兼務されていたのでした。

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(2011年10月24日)

      「音声解説付き映画のこと」

 先日、和歌山市のふれあいセンターで音声解説付き映画「春との旅」を観ました。音声解説付き映画については、これまで神戸で1回、大阪で2回観に行ったことがあるだけでした。
 そのとき知人が、「今はほとんどの日本のDVDには音声解説が付いているよ」といって「武士の一分」を貸してくれました。

 早速その夜、音声解説付きDVDの上映会を自宅で行いました。観客は、最初は子供2人、大人2人の4人でした。
 子供らは、「キムタクは、顔はハンサムやし声までハンサムや」とか「お父さんは、この声で様子がわかるんやな」とか言っていましたが、そのうち別のテレビを観にどこかへ行ってしまい、最後は大人2人が残されました。
 実は、私は藤沢周平の時代小説が好きなので「原作 藤沢周平、監督 山田洋次」と聞いただけでうずうずしてきました。解説の音声は、情景を想像するのにちょうどよい程度でした。

 自宅での映画の上映会が終わったあと、永い間忘れていたことを思い出しました。
 私は43年前、19歳のとき自分の目の障害を知りました。大学1年生のときでしたので、大変なショックでした。
 鬱々としていたころ、テレビから長谷川きよしの「別れのサンバ」が聞こえてきました。彼は19歳の全盲の歌うギタリストでした。その年の夏休みに、東京のシンコーミュージックの会社に彼を訪ねて行きました。
 ちょうど雑誌のインタビューの席に同席させてもらったのですが、私がびっくりしたのは「映画を観に行くし、海水浴にも行くんだ」ということでした。 本当にびっくりしました。「目が見えなくても映画を観る」というのです。

 私は数年前まで、目はわずかにせよ見えていたのに、暗いところは見えないので映画とはまったく無縁でした。 それが目がまったく見えなくなってはじめて、映画を観るようになったのは不思議なことです。音声解説付き映画を観る機会ができたからでした。


(2011年6月27日)

      「これはつぶやきというより、お誘いです」

 今年(平成23年)10月9日(日)、10日(祝日)の秋の連休に『ゆいまーる交流会 in 高野山&華岡青洲の里』を準備中です。すでに16人の申込みを受けています。参加人数を20名以上で計画していますので、まだの方はぜひお早めに申込みをお願いいたします。

 1日目(10月9日)は、世界遺産となっている高野山の現地集合です。到着時刻に合わせて、午後1時からのコースと、その後合流して、午後3時からのコースを計画しています。尚、午前中に「町石道」に挑戦する方のためには、現地では登山サポートの専門ボランティアに依頼する予定です。  宿泊は宿坊といってお寺の宿泊施設に泊まります。ここでは高野山の生き字引・永坂先生によるミニ講演会や懇親会を予定しています。

 2日目(10月10日)、住職のお話を聴いたり、大伽藍(当時の大学のキャンパスみたいな場所)を散策した後、バスで紀ノ川に沿って下り、紀ノ川市にある「華岡青洲の里」の見学に向かいます。ここでも職員の平井先生によるミニ講演会が予定されています。

 最後は関西空港で午後3時頃解散の予定です。費用は現地までの往復の交通費は別として、17,000円程度です。  遠方の方々には、こんな機会でもないと和歌山に来ていただくことはまずないでしょう。重ねて、ご参加のお誘いを申し上げます。


(2010年12月18日)

      「忘年会シーズン」

 たしか去年の今頃のことでした。和歌山での忘年会と大阪でのそれとがかちあってしまいました。幸いというかお昼と夜の時間差があったため、宴会好きの私は和歌山から大阪へと忘年会をはしごしてしまいました。

 実は今年も和歌山での忘年会と大阪での勉強会が12月19日に重なってしまったのです。それも少しの時間差しかありません。電車で移動している間に終わってしまいそうです。

 そこで、大阪の勉強会には「スカイプで参加」することにしました。先日、大阪会場担当のゆいまーる協力会員の湯川さんとゆいまーる事務局の正田さん、私の3人で無事試験会議通話を終えました。

 さて、明日12月19日(日)午前10時から12時の本番は成功するのでしょうか? 私は和歌山市の国民休暇村のロビーのソファーに座って、「フリースポット」という無料無線LANを使ってスカイプから会議に参加します。結果は神のみぞ知るです。


(2010年6月6日)

      「私が買った代々のパソコン」

 ゆいまーる第3回総会in大阪が終わって家に帰宅すると、娘が「パソコンが壊れたから買ってほしい」という。
 話を聞くと、「電源が突然切れたり、画面に何本もの筋が入っている」と訴える。
 どんなパソコンがいいのだろうか?と考えつつ受信メールをあけていると、事務局からの「つぶやき募集」というメールが入ってきた。

 「これだ」と思い、これまで自分が使ってきたものを思い出してみた。
 15、6年前、初めて買ったパソコンは30万くらいのデスクトップだった。
 10年前の2台目もデスクトップで15万円だった。
 5年前の3台目はノートで10万円だった。
 3年前の4台目はミニノートで6万円だった。
 1年前の5台目はウェブノートで3万円だった。これは今日の大阪総会にも持って行って、セッション進行のためのカンニングペーパー代わりに使ったり、メモ用紙がわりに使った。

 さて、娘に買ってやるパソコンはいくらくらい出せるのだろうか、と思わず考えこんだ。
 ここらあたりで、そろそろまともなパソコンを買った方がいいのではないだろうか?


(2009年12月17日)

      「遅くてもええんやで」

 今年の9月和歌山で開催した勉強会の残務整理が終わりました。
 12月にはいってやっと、後援や協賛をいただいた各種団体へのお礼のあいさつ回りをすることができました。

 3ヶ月もたって、いまさら伺うのはばつがわるいなあ〜と感じていると、「お礼や報告はいくら遅くなってもかまわない。お願いするときだけ頭を下げて、後はしらんふりが一番悪い。」という年配の世話役の言葉に勇気付けられました。


(2009年6月24日)

 この9月に、和歌山である会を開催することになっています。
 私は、世話人の一人としてこんなことを勉強させてもらっています。
 それは、ものごとをお願いするときの心得です。

 私のおばあちゃんは、頼みごとをするときは、「なにはともあれ、あしをもっていけ」と言ったのです。
 はじめは なんのことやらわかりませんでした。
 「出向いていけ」という意味でした。今、その意味がやっとわかりかけています。


(2009年3月6日)

 今日、私たちの県立こころの医療センターに「ふれあいバス」がやってきました。
 1年に何回か、婦人会とか町内会の30人程の団体さんがバスに乗って施設見学に来てくれるのです。

 このときの私の役割は、「こころの健康ミニ講座」と称して15分くらいのお話をさせていただくことです。
 いつも「ストレスと上手におつきあい」と題して、ストレス度チェックなどを行います。

 つい、笑いをとりにいってしまうのが情けない…と思う今日この頃です。


(2008年11月23日)

 私の通勤時間は1時間30分ほどです。電車、バス、妻の車を乗り継ぎます。
 先日 夜中に、病院から呼び出されて 妻の車で高速道路を使って駆けつけたところ30分でつきました。交通手段を使っていくと遠回りをしていくことになるからです。

 でも、この毎日の遠回りはさほど苦になりません。電車やバスは結構楽しいものです。田舎ですので、バスの運転手さんと話をしたり、電車でラジオを聞いたり、たまには駅でビールを一杯飲めるからです。
 これからも、このパターンで通勤します。


(2008年8月27日)

 昭和24年生まれの59歳です。現在、県立こころの医療センターで精神科医をしています。
 ラジオや無線機作りが好きで、工学部電気科に入学しました。そのころに進行性の目の病気だということを知りました。といっても、自転車にも乗れるし黒板の字も読みにくいけれども見えないわけではありませんでした。

 しかし、ショックは大きく 今から思えばうつ状態になったと思います。半年間ほど、昼夜逆転の引きこもりの生活を送りました。おかげで1年留年しました。
 卒業後は、電気会社に勤めたのですが、使い物にならず、また市役所職員もしたのですが、行き詰まり、28歳で盲学校の専攻科ではり灸を学び始めました。このとき障害者手帳は4級でした。しかしこれも中退しました。
 30歳の時に、県立医科大学に入学し、36歳(昭和61年)卒業、2年間精神科で研修しました。

 その後、こころの医療センターで20年が経ちました。この間に、障害者手帳は2級になり、そして現在1級になりました。
 診察にはサポーターがつき、書類作成は口述筆記ですが、病気の性質上、進行は実にゆっくりとしていたので、いよいよここまで来たかという感じです。
 日常業務では、実にいろいろと問題に突き当たりますので、ぜひ皆様と情報を交換しながら道を切り開いていきたいと思います。
 どうかよろしくお願いいたします。