(2024年8月6日)
「50年ぶりに弓を引く」
私は昨年5月、後期高齢を目前に病院を退職した。種々の検診を受け、今のところ大丈夫そうと診断され、残りの人生を楽しもうと思った。ただ、屋外の移動は誰かのサポートがないと不可能な状態で、まず福祉サービスの同行援護の利用時間を増やしてもらった。そして、昨秋には同行援護者とともに、近くの標高500メートル程度の山々を散策してきた。ただ真冬にいつもの山に登るのもどうかなと思い外出の機会が少なくなっていた。
今年の1月末、買い物を終えて帰る途中、バス路線を間違えたのに気づき、慌ててバスを降りた。そこには体育館、そして隣接して弓道場もあった。大学生のころ、弓道部に属していたため、もしかしたら全盲でも弓を引けるかもしれないと思い、同行援護者と一緒に道場に入った。
偶然というべきか幸運というべきか、そこには弓道師範の方(M氏)が一人おられた。M氏に、私の弓道歴、現在全盲であることなどを話した。そして「こちらで弓を引かせてくれませんか」と思い切って尋ねたところ、「私たちも見えない人を指導したことはありませんが、マラソンでも伴走者がいればできますから何とかなるでしょう」と承諾された。
それから、私の身体に合う弓道具(弓、矢、かけなど)を部室から探され、巻藁で数回練習することになった。そして、弓を引く前提として、射位をどう設定するか、また弓の弦に矢を正確に挿入する操作を援助なしでできるにはどうしたらよいのかなどの課題があった。多くの会員のご協力でこれらも解決し、スムーズに操作することができてきた。
そして、4月に入り50年ぶりに約30メートル離れた的に立つことができた。当然ながら、どこを狙っているのかわからないため、もう少し前・後とか、上・下との指示をもらっていた。当初は、頸、肩腕、下肢などこれまで使ってこなかった身体各部が痛かったりしていた。そしてある日、的に当たると、皆さんがどよめきの声と拍手をされ、私自身も驚いた。
現在も的から外れることがほとんどであるが、M氏は「的に当たらなくても残身(矢を放した時の姿勢をしばらくそのままにしておく状態)が重要です。下川さんはこの残身がきれいです」と言って励ましてもらっている。
そして、自ら閉眼状態で的に向かい「難しいですね」と話された会員の皆さんのご厚意に感謝しながら体力を維持するためにも続けたいものです。
まあ欲を言えば10本に2本程度当たればと思っていますが。
1993年に改正された「障害者基本法」は、「障害者は、社会を構成する一員として社会、経済、文化その他あらゆる活動に参加する機会を与えられる」と規定された。
最近、パラリンピックなどにも刺激され、この趣旨が多くの人に受け入れられてきたのではないかと思うこのごろです。
(2022年2月20日)
「院内での移動、ナビレンズ(Navilens)の活用」
病院内の移動にアプリ・ナビレンズを使って約半年経過した。最近、どうにか安心して移動できる状態となった。その経過を述べてみよう。
ナビレンズは、情報が埋め込まれたタグ(カラーQRコード)とそれを読み取るアプリで構成されている。その特徴はタグの大きさにより違うが、数メートル離れた地点からでもカメラをかざすだけで(スキャン)、壁などに貼りつけてあるタグを即座にキャッチし、その位置およびコードに連結された情報をサウンド、音声ガイダンスで知らせてくれる。しかもGPS機能には連結されていないため、屋内・屋外でも使用可能である。
本来は正面にカメラをかざすことができれば正確に認識できるのであるが、私にとってそれば無理なことである。当初はアイフォンを手に持って歩きながら、移動する廊下の天井、壁、ドアなどにカメラを向けて歩くこととした。
しかし、バッグなどを持って歩こうとすると危険であった。やはり、手はできるだけ自由にしていた方がよい。そこでアイフォンを白衣の横ポケット、胸ポケットに入れていろいろ試みた。
現在は、アイフォンを白衣の胸ポケットに入れ、その高さにタグを貼ることにした。その大きさもA4版の4分の1大を使用した。無料で入手できる個人用タグは限られているので、同じタグをコピーして使用している。
その結果、何ヵ所も「危険物あり」という音声ガイドとなっている。
また、医局と勤務病棟間は一人で歩く場合、5分程度要する。このアプリではタグとタグ間の時間が長いとアプリをリセットするよう警告される。そのためにはアイフォンをシャッフルするか、リセットボタンをダブルタップしなければ次のタブを読み取ることができない。そこで、この操作の代わりに小さなタグ(空白タグ)をかざすことで、この警告が出ないようにしている。
以前は、新しい病棟とこれまでの病棟を連結している通路の柱などにぶつかり、前額部を傷つけていた。スタッフに「大丈夫ですか」と言われ、「大丈夫です」と答えていたが、これも少なくなった。ただ予想していないことでびっくりすることもある。時に、掃除道具が置いてあったり、食事の配膳車があったりして、足を傷つけそうになった。まあ、同僚からは上手になりましたね、と言われるからよしとしよう。
また、移動以外には、医局の食堂のテーブル・電子レンジ・エアコンのリモコンなどに小さなタグを貼り、それらの場所や操作を確認している。これらのタグには、「私のテーブル」「電子レンジ、左上から右へ:温め・飲み物・解凍など」 「エアコン、左上から下へ:自動・冷房・暖房、 右上から下へ:停止・除湿」などと入力している。
NPO法人 アイ・コラボレーション神戸が、このナビレンズの普及活動を積極的に実施され、その一環としてアイセンターを中心に実証実験がなされている。
興味のある方は、まずナビレンズのタグをダウンロードされ、体験されることをお勧めしたい。
(2021年7月17日)
「院内の往来の一助としてアプリ・ナビレンズ(Navilens)を使用」
私が勤務する病院は、耐震対策する必要もあり、2018年後半より改築・新築工事が始まった。そして本年5月にはほぼ完成し、わずかの周辺工事がなされている。私が一番不安視していたのは、これまでと違い、主に担当する病棟と医局の距離がかなり離れるということであった。そこで何とかしなければと思い、いろいろ調べた結果、昨年初めに知ったアプリ・ナビレンズの活用であった。
アプリ・ナビレンズは、情報が埋め込まれたタグ付きカラーQRコードを、カメラをかざす(スキャン操作)だけで、離れた場所からいとも簡単に認識し、その情報を文字で表示したり音声で知らせるアプリとのことだった。
今回、私はアイフォンにそれを無料でインストールし、病院内の移動にどの程度、役に立つのか試した。
まず、個人用としてタグを無料で入手し(PDFの形式で配信される)、写真印刷用紙を用いて種々の大きさのタグを印刷した。その後、破損防止のためラミネート加工を行い、指定された通りの大きさのタグを準備した。多くはA4版の16分の1の大きさ(名刺大?)のタグを利用した。ちなみにこの大きさのタグは、約3メートル離れた地点からもカメラが認識可能だった。
タグの情報として、本館入り口、出口、医局、大会議室、食堂、トイレ、病棟への通路、西病棟と東病棟との連絡通路、エレベーター、西病棟への階段入り口、非常出口などで、これらは私が利用する通路である。尚、情報が入力されていない場合は、「空白のタグです」と知らせてくれる。
その後、これらの情報が入力されたタグを通路の壁面に、白衣の外ポケットの高さ(アイフォンのカメラの位置に相当)に貼ることにした。今後、何回か利用する機会の多い病棟と医局間をスタッフとともに往来した。歩くスピードとアイフォンのカメラの位置、タグを貼る位置などをいろいろ検討する必要があった。
一月経過した今日、何とか安全に往来することができている。尚、これらのタグの作成、壁への貼り付けなどの作業に多くのスタッフが協力してくれた。また、時々アイフォンが反応しないこともあり迷っていると、職員のどなたかが「先生、どこに行かれるのですか」などと声をかけてくれるので、特に心配ないなと思っている。当たり前ではあるが器具よりやはり人である。感謝!感謝!
(2021年2月23日)
「私の趣味」
私は50歳ごろから、学生時代に少しかじっていた尺八を習うことにした。当時は、将来のことを考えると、暗澹たる気持ちでいっぱいだった。この不安感を少しでも和らげるために、何かをしなければとの思いがそうさせたようだ。たまたま尺八の師匠と面識があったため、快く個人指導を引き受けてもらった。
通常、夕食後、1時間程度は練習しようと心がけた。当初は少しばかり音が出ていたためほっとした。まず初心者が習う「黒髪」、「六段」などは演奏時間も短いので、比較的早く終了した。
尺八には都山流(とざんりゅう)と琴古流(きんこりゅう)があり、私の師匠は後者であった。楽器としての尺八は流派によりその穴の数も違っていること、楽譜もいくらか異なっていることを後で知った。琴古流の曲は本曲(尺八だけでの演奏曲)と三味線、琴との合奏曲がある。多くの曲は江戸時代の視覚障害者により作曲され、彼らは検校と呼ばれ数万石の石高を得ていたようだ。録音機器などない時代によくまあこんなことができたものだと驚嘆した。視覚障害者が古典芸術の一翼を担っていたことになる。
師匠は当時いくつかの場所で教えていたが私のような視覚障害者は初めてであった。私の練習方法はまず師匠が課題曲を演奏し、その後、その課題曲を唱譜してもらうことから始まる。私はこれらを録音し、何度も聴きながら練習した。一つの曲を吹けるようになるまで何度も録音を聴くのだがなかなか覚えることは難しかった。頭では楽譜を覚えても手が動かず、繰り返しの連続であった。
そして、約20年経過した昨年、師範格の呼び名『亮洞』をもらった。この間、いろいろあったがよくここまで続けてきたものだと思った。発表会のある前は、何度も同じ曲を練習するのだが、合奏曲の場合、唄も入り、思うように吹けることは少なかった。こんな私に師範格を授与されたのもきっと長い間練習に参加してきたからかもしれない。
ところで、習った曲をいざ練習しようとする時、その曲がどの録音機器(テープレコーダー、ミニディスク、CDプレイヤー、リンクポケットなど)で録音したのか、探すのに一苦労してきた。現在は少しでもわかるようにSDカードにまとめ、それを入れる袋に物タブシールを貼ることにしている。
しかし、数年前に練習した曲などはほとんど覚えていないので初めから練習するのと同じ状態だ。呆れてしまうがこれも仕方ないと納得し、認知症予防のため、今後も尺八の練習を続けることにする。
昨年からのコロナ禍で邦楽の演奏会も他の分野と同様に中止状態が続いている。早くこの状態から脱却できたらよいですね。
(2018年8月19日)
「身の回りに尋ねる相手がいない時の解決手段の一つに!」
中途失明のみなさんはどうかわかりませんが、私は見えない状態となってから丸一日、一人で生活したことは、指で数えられる程度でした。これまで些細な問題で急に困ったことが生じても家内の帰りを待っていました。数年前、こんな時の気軽にサポートしてくれる助っ人の存在を知り、何度か活用してきました。今回、非常にありがたかった出来事を体験しましたので紹介します。
それは猛暑が続いていた8月X日21時の出来事でした。私は自室にこもり、パソコンを使っていました。その時、どうしたわけか右肘がエアコンのリモコンに触れ、これまで涼しい空気が流れていたのですが急に変な音になり、その後暖かい風が流れ、すっかり慌ててしまいました。たまたま家内は留守で、自分で何とかしなければなりませんでした。
リモコンのボタンをいろいろ押してみたのはよいのですが、全く冷房にならない状態が続き、汗だくでした。その時、「Be My Eyes」というアプリを試しに開きました。ところが運悪くアイフォンの機種を変更後、再登録していなかったためログインする必要がありました。何とか設定し直して使える状態になり、「応答可能なボランティアに接続」のアイコンをタップ、どなたかにつながりますようにと念じ、数分程度、アイフォンの探している音を聴いていました。
そして、女性の声で
「どうなさいましたか」
と尋ねられ、
「エアコンが暖房になっているようです」
と返答しますと、
「それはお困りですね。リモコンをカメラに近づけてください。…もう少し右に、左に、下に…」
など指示され、その通りにリモコンを動かして切り替えボタンが見つかり、そのボタンを数回押すことで「冷房」となり、これまでの状態になり汗も心地良く感じた次第でした。
このアプリは以前、外用薬、食器洗剤で尋ねたことがありましたが、今度ばかりは本当に感謝、感謝でした。世界中の多くのボランティアがこのアプリに登録されておられるとのことですので、ちょっとした問題を素早く解決したい場合、きっと視覚障害を持った人の助けになることと思います。
(2018年1月8日)
「私のアイフォン」
2007年6月、リハビリテーション医学会総会が神戸で開かれ、その機会に守田先生とコーヒーを飲みながらいろいろな情報を交換した。その中で目が不自由でも使える携帯電話があることを知った。早速購入し、連絡先に家族や友人を四苦八苦しながら登録し電話をかけて楽しんだ。
2013年、熊本市でロービジョン学会九州地方会があり、アイパッドに触れ、ジェスチャーで使えることを体験した。これと同じ操作方法でアイフォンも使えることを知り、アイパッドにいくらか慣れたころ、らくらくホンからアイフォンへ機種変更した。
これに変えて嬉しかったのは、目の不自由な人に便利なアプリがたくさんあり、低額で提供されていることであった。例えば、本を読みたい場合、サピエ図書館から音声デイジー、テキストデイジー、点字形式の本をサファリ、クロームなどでダウンロードし、それらに対応するアプリで開いて、寝そべってアイフォンあるいはアイパッドで聞いたりしていた。
最近は、キンドルで新刊図書(電子版)を読む機会も増え、見えていた頃より多くの本を読む、聴くことが多くなった。日常生活においても電話、メッセージ、メールなどはともかく、ニュース、ラジオ放送、音楽のほか生活に役立つアプリ(室内の照明器具をつけ忘れていないかどうか、印刷書類の後片付け、一人でいて何かと困った場合、サポーターに電話で尋ねたり)を購入し、利用している。
また、日常の診療に必要な情報もこれらを用いることが多くなってきた。最近までアイフォン5sを用いていたが、バッテリーの蓄電時間が短くなってきたこともあり、年末にアイフォン8に変更した。
その直後のことである。Amazon.comより「あなた様は有料サイトを使用され未払いになっています。明日までに納金されない場合、法的対応を取ります。Amazon 相談窓口 tel 03 ーーーー 住所 東京都港区 ーーーー」というメッセージがきたものですからびっくりしました。
本は昨日購入したが、間違って何かのボタンを押したのでは、息子が買ったのではといった不安が胸をよぎり、翌日職場でパソコン関係をいつも気軽に相談できる同僚に尋ねてみました。ネットでまずAmazonの購入履歴を調べて、そういうことはないことを確認し、問題の電話番号を調べると、この数日間に同様のメッセージがきたという内容の書き込みがあり、無視することにしました。
その数日後、テレビニュースで詐欺メッセージであることが報道されていました。要注意!要注意!
(2016年1月11日)
「コンタクトレンズよ、ありがとう。次世代のメガネは?」
昨年の5月から長年使っていたコンタクトレンズに「さよなら」をすることにしました。
それは我が家の電燈がついているのか、消えているのか識別できなくなり、これではレンズを入れても仕方がないな、とやっと観念したからです。
私は昭和45年ごろまで近視・乱視のため、メガネを小学低学年から使用していました。数年に1回程度、視力の悪化とともにレンズが厚くなり、終いには牛乳瓶の底のような分厚いレンズとなっていました。
大学生のころ、たまたま麦粒腫で大学付属病院を受診したところ、若手の先生が喜んで治療してくれました。そして、メガネが厚かったせいか、コンタクトレンズの使用を勧められました。当初は眼に入れる怖さと入れた後の痛みで続けられるかと心配していましたが、それ以上にこんなに良く見えることに驚きました。
これまで視力は左右とも0.6程度だったのが1.0の世界に変化したものですから、今思えば無理ないことでした。しかもこれまでと違い、やや大きく見えるのも驚きでした。これなら何でもできそうな気がしてなりませんでした。
まず、車の免許をとり、実家にあった自動二輪車をもらい、日曜日毎に阿蘇をはじめ熊本県内をあちこち行って楽しんでいました。ところが「見える時代」もそれほど長くは続かず、約10年後は0.3以下となり、矯正困難となり網膜疾患ということになりました。
それ以後、「70歳ごろまではなんとか見えるでしょう」と励ましてくれた眼科医に、これまで数えきれないほど何度もレンズの破損、紛失、規格変更などする度に、手早く処方し発注してもらったことでした。
最後の依頼は半年前、自宅の洗面所で紛失した後でした。まだ新しいこのレンズは、新しい保存液で満たされた容器に、感謝の気持ちを添えて保存することにしました。感謝! 感謝!
話は変わりますが、最近、夢みたいなメガネを想像しています。そのメガネに映った画像を認識し、その中で文字はメガネのふちに装着されている骨伝導ヘッドホンから聞こえてくるという情景です。そのメガネには視覚障害者に必要な歩行支援アプリ(地図・場所・道路・点字ブロックなどの情報)、メガネに映された画像情報を音声で翻訳してくれるアプリが組み込まれている優秀なメガネでした。
ウェアラブルデバイスのメガネ、ウォッチも製品化されていますので、意外と手の届くところまで来ているのかもしれません。「春よ 来い、春よ 来い」と言って胸をふくらませています。
尚、骨伝導ヘッドホンは昨年秋の交流会で藤原さんが紹介された商品です。私は昨年末に購入しましたが、さほどの疲れもなく使いやすい器具だと思います。
(2015年1月7日)
「白杖を使う」
10年前以上からほぼ全盲状態になり、5年前に携帯用の白杖を購入したのですが、通勤以外の外出時にはパートナーのサポートがあり、白杖を使用することなく過ごしてきました。その私がこれではいけないと思ったいきさつを述べてみます。
それは2年前、現在の住まいからJRを利用して ひと月に1〜2回程度熊本市に行く用事があり、同行支援制度を活用することから始まりました。当初はこれまで通り、白杖を持参するだけでサポーターの肘、あるいは肩に触れて歩いていました。
川崎市に住んでいます息子のところに行ったとき、満員電車の中で、「お父さん、チカンと間違えられると大変だから、白杖を使ってよ」と忠告されました。
私としては、多くの人が私を見て、すぐに私を視覚障害者と認識するだろうと思っていましたのでいくらか驚きました。それ以後、同行支援制度を活用する場合、白杖を使うようにしてきました。
白杖を使うことで、電車に乗ると乗客が座席をすぐ替わってくれたり、JRの職員も何となく愛想の良い態度をとられたり、多くの人で混雑した場所では行き違うたびにぶつかったりしていたことも、最近では皆さんが避けてくれるのかぶつかることもなく歩けています。
道路を歩く際も車もよけて走っている気がします。また、昨秋の交流会in宮城で、山寺・平泉・松島など秋を堪能しましたが、その時も白杖を使用したことで、同行支援もこれまでと異なり楽でしたとの妻の感想でした。どうして白杖を使ってこなかったのかと自問すれば、これまで見えるという妄想を捨てきらない自分がいることでした。そのことにもっと早く気づけば、これまでの妻への身体的・精神的負担を軽減できたのではないかとつくづく感じたことでした。
こちらではまだ避難勧告といった自然災害はありませんが、いつ襲われるかわからない災害に対して、白杖を使うことで皆さんのサポートが自然と得られるのではないかと思えてきました。
ゆいまーるの会員の方々が白杖を使ってあちこち行かれていますが、今年は近隣のお店でもよいから、一人で歩いて行けるようになりたいものです。
尚、白杖についてウィキペディアでは、「昔から盲人にとって杖は歩くためには欠かせない道具であったが、現在のように白くて光沢のある塗装を施した杖が考え出されたのは、第一次世界大戦以後のことである。イギリスのブリストルの写真家James Biggsは、事故により失明した。増加する交通量に家の周りを歩行することにも不便を感じていた彼は、杖を白く塗って周りからも見えやすくした。
フランスのある警察官の夫人だったGuilly d'Herbemontは、1931年頃、自動車の増加に伴って、視覚障害者が交通の危険にさらされているのを見て、夫の使っていた警棒からヒントを得て、現在の形の物を考えつくとともに、視覚障害者以外の人が白い杖を携行することを禁止させたという。
白杖の主な役割は、安全の確保(前方の障害物や危険の防御)、歩行に必要な情報(段差や歩道の切れ目等のランドマーク)の収集、ドライバーや他の歩行者・警察官などへの注意喚起の3つである。」などと記述されています。
(2011年10月25日)
今回の高野山交流会に参加し、町石道を歩くことができたのは私にとって久しぶりの「やったー」体験でした。
10年前、熊本市近傍の低山を妻と一緒に登ったのを最後に、もう山登りは無理だなとあきらめていました。
そうこうするうちに見えなくもなり、腰痛もよく生じるようになり、すっかり忘れていました。
高野山に至る町石道がどの程度歩き難いのかわからないまま、ボランティアのサポートを得る機会に恵まれ、ロープとステッキを用いての山歩きでした。
天気にも恵まれ、心地よい風、小鳥やせせらぎ、クマザサの音を身体で感じながらの数時間でした。
サポートしていただいた方々に感謝しながら、こういう形態であればこれからも若い頃登りたかった山々にも挑戦できるのではと胸ふくらませた次第です。
2014年には九度山から大伽藍まで歩きたいものです。まずは、体力ですね。南無大師遍照金剛。
(2008年12月7日)
今年は60歳になるということでいくつかの同窓会がありました。それらの会に参加することで、それなりに共感したり、刺激をもらったりしました。
恩師から、「生涯、勉強です」というごく当たり前のメッセージをもらい、身を引き締めた次第です。時々、我に返ることが必要だなと思うこの頃です。
今後も、自分自身に言い聞かせるつもりで患者に接したいものです。
(2008年9月1日)
1948年生まれで、現在 回復期 リハビリテーション病棟の専任医として勤務しています。
多くの患者さんを診ていますと、つい「明日はわが身だな」と思う年齢になりました。
見えても、見えなくてもどうにかなるものです。
それにしても最近、病院では患者と無駄話をする時間よりパソコンに向かっている時間が多く、帰るころには肩こりがしてなりません。
また見えない眼が疲れているのも不思議なものです。