【宮内木箱】   【会員のつぶやき】  Top


(2024年8月3日)

     「鳥 居」

  千本の朱塗りの鳥居くぐり終え視力回復切に祈れり

  雪舟の作りし庭を眺めおりわが網膜に映る景色で

  早朝の西本願寺に吾は来て僧らの読経にしばし唱和す

  開門を雨に濡れつつ待ちており飛雲閣(ひうんかく)を一目見むとて

  平安の御代の気配を漂わせ朱く塗られし鳥居は立てり


  灰色の噴煙上げる桜島 汝(な)に会いたくて吾は帰郷す

  「活発に動き回れ」と勧めおり「こころ」と「からだ」共鳴させて

  声掛けは大事ですよと説きておりメンタルヘルス研修会場

  なつかしき札幌の街想う時「虹と雪のバラード」響く


     「硬 貨」

  眼を病みて硬貨の区別わからねば一つ一つを触り確かむ

  弱き目に硬貨の準備適わねば千円札を出すを常とす

  釣銭の貯まりて重き財布より妻が硬貨の回収なせり

  薄暗き建物内で転倒す低き机に気づかざりにき

  人混みを左右に分けて道開く白き杖には魔力宿るか

  手探りで夜の空気をかき分けてトイレさがして吾は歩めり


(2024年2月1日)

     「レーザー」

  アフリカで学びしことも多からむ君の賜(た)びたるコーヒー苦し

  「あくまき」はきな粉まぶして食ふ(くう)べしと老いたる祖母が吾に語りき

  教育が吾に残りてあることを幸いとして弱視を生きる

  父逝きて三十年(みそとせ)を経た仏前に初の曾孫(ひまご)の誕生を告ぐ

  盆の夜弱視の吾は凝視せりペルセウス座の流星たちを


  日本語の単語ゆっくり選びつつウクライナからの避難を語る

  「究極の医療」は「戦争をせぬこと」と川原医師は即答なせり

  カチカチと射し来る赤きレーザーがわが眼の中の水晶体(レンズ)を穿つ(うがつ)

  ワインレッドの手術着(スクラブ)纏い(まとい)レーザーを操る女医の声甲高し

  これ以上視力の低下せぬことを切に祈りて眼(まなこ)を閉じる


(2023年8月1日)

     「クリスマスイブ」

  味噌汁を啜りておれば想い出す母の作りし味噌濃き味を

  仏前にバナナヨーグルト供えるを午前六時の日課となせり

  吾知らぬ異国の言葉話さねば見分けのつかぬベトナムの女(ひと)

  ぼたん雪積もり始めたクリスマスイブキャロル聴きつつ いつしか眠る

  看護師をめざす弱視の学生を励ます言葉探しあぐねる

  鉛筆を走らす音と「咳」、「くしゃみ」混じりて響く試験会場

  シャンパンの細かき泡が生まれては消えゆくさま凝視しており


     「焼 酎」

  幸運を呼び寄せてくれ胡蝶蘭乏しき視力で花弁見つめる

  今日もまた看取りの続く病棟で若きナースの笑顔が消える

  父母(ちちはは)の遺影に向けて初曾孫 皐(はつひまご さつき)ちゃんの笑顔を見せる

  父母(ちちはは)の遺影にお茶を供えし後 父には湯割りの焼酎添える

  今日もまたマスクで口鼻覆いたる医師らを前にマスクで講義す

  今日やれることを吾はなすのみと自(し)らを励まし聴診器持つ


     「桜 餅」
                   
  桜餅ほおばる吾は幼くて母の憂いに思い至らず

  繁盛の商店街の健診は高血圧の店主ら多し

  ワクチンの有効期間尋ねられ即答できずうろたえている

  名も知らぬ薬剤あまた世に出でて薬理作用を一から学ぶ

  臨床医辞したる吾に必要か自問しつつも新薬学ぶ

  健診もパソコン入力必須にて弱視のわれはカーソル探す


(2023年2月1日)

     「トリアージ」

  敵の矢の届かぬ距離を隔てつつ佐賀城の堀水をたたえる

  若き日の吾が率いしトリアージ班ビデオの中で躍動しおり

  若きらに異国の医療教えおり生き抜く術(すべ)も付け加えつつ

  七人の教え子のこと想いつつ名誉教授の称号受ける

  目の見えぬ朝来ることを恐れつつ吾は白杖寝室に置く

  リハビリを学ぶ少女に助けられ弱視の吾は無人駅出る

  二センチの段差に躓きよろめきて体勢戻せりポーカーフェースで

  健診医引き受け吾はベトナム人労働者らを聴診しおり


     「サングラス」

  手探りで書類かき分け探しおり弱視の吾は遮光眼鏡を

  十八年教壇に立ち教えおりわが母親のしたる如くに

  父母を看取ることさえ出来ざりき医学者吾は頭を垂れる

  午前二時 鋭き光に目覚めれば電(いなづま)走るまだ眼は見える

  弱き目にサングラスかけ眺めおり閃光飛び散る打ち上げ花火

  消防士九名を前に講じおり気道の確保、心肺蘇生

  救命士めざす少女はAED操作教えるわが手凝視す

  盆の夜 弱視の医師らが集まりて悩み語らう画面隔てて

  結婚式延期となりしチャペルには人影もなく海風わたる


     「かるかん」

  仏前に供えし「かるかん」いただきて法要終えたり母三年忌

  乳児(ちのみご)の一人がむずがり泣き出せばしばらく後に他の児が続く

  眼のくらき医師らが集いて語り合う視覚障害リハビリ学会

  ウクレレを奏でる妻の指先が四本の弦弾(はじ)いて踊る

  五回目のワクチン打つか逡巡し答えを出せぬ老医師吾は


(2022年8月1日)

     「遺 影」

  幻視ある母との会話続けおり「悪者はいない」と繰り返しつつ

  母の死を告ぐる主治医の言葉など遠くに聞こえ 時が過ぎゆく

  白骨になりたる母は熱すぎて 箸もて拾うもろき骨をば

  母と吾を繋ぎし臍の緒出で来たり納骨終えて箪笥開ければ

  遺影には若き母を選びたり若死にをせし父に合わせて

  母の居ぬ日々始まりて仏前に陰膳備えるを日課となせり

  目を開けてまだ見えること確かめて胸なでおろし今日も始動す

  眼を病みてまぶしき吾はサングラスかけて歩行す 日陰選びて

  わが声を文章にして書き記す音声ソフトにお礼を告げる

  パソコンの音読機能に助けられ両目つむりて音声を聞く

  弾むような旋律響き 動き出すラジオ体操今朝も始めむ

  若き日の母に連れられ体操の広場に行きにき幼き吾は

  ロシアとの戦に征きし祖父なりき遺影の両眼がわれを直視す

  重傷の隊長背負い銃弾の下をくぐりて祖父生還す

  金メダル持たざる吾は金色のジャンパー はおりてグランドに立つ


(2022年2月5日)

     「最終講義」

  若き日に吾が勤めし病院の閉院の日がついに来たれり

  コロナ患者受け入れたりし病棟に人影はなくベッドが並ぶ

  眼を病みていること話すこともなく背筋を伸ばす元副院長

  院内の温泉プールに湯水なく清掃済みの床面光る

  七人の教え子母校に帰り来て最終講義の吾を支える

  アフリカの任地で果たす役割を語りくれたり身振り交えて

  教授職辞する最後に伝えたり Think Globally and act Locally!

  還暦を迎える日には父母はなく遺影の前で頭を垂れる


     「DPATは災害支援精神科チーム」

  被災せし人らのこころに寄り添わむDPATナース出動を待つ


     「故郷(ふるさと)」

  故郷の天候今朝も確かめる朝刊一面右下を見て

  父母の建てたる家を売却す庭の井戸にも別れを告げて

  所有権移転を決めるその日にも桜島より朝日は昇る

  城山の宿より見えるご来光 礼拝終えて故郷を去る

  午前二時眠れぬわれは起き出して父母の遺影の前に佇む

  黒帯を締めて空手の演舞する若きナースの眼差し鋭し


(2022年2月1日)

     「Seven Fair Ladies」

 私は、還暦を迎えたのを機に、17年余り勤務した佐賀大学を3月末に退職することにした。難病の網膜症による弱視の進行により、仕事がやりにくくなったのが原因の1つであるが、後進に道を譲りたいという気持ちもあった。通常、退任する教授の場合は、年度末の3月にセレモニーとして、教職員を対象とした最終講義が行われるが、私はそれを丁重に辞退して、11月22日の4年生の対面での最終講義の日に、学生と関係教職員のみを対象に、最後の講義をさせていただくことにした。

 私は、国際保健看護学領域の担当であるため、私が指導した卒業生で、海外で活躍中、あるいは過去に活躍した経験のある看護師7名を招聘して、15分ずつ講義をしてもらい、最後に私が1時間の総括講義をする計画を立てた。
 当日は、アフリカのザンビアやベトナムなどから卒業生が駆けつけてくれた。海外で活躍する人材を育成するという目的で創設された分野の担当教員である私は、彼らの講義を聴きながら任務が達成できた安堵感と感動を覚えていた。

 私にとって、Seven fair ladies と言うべき存在である、彼女らを下記に紹介する。

 1)Mさんは、現在大学教員をしている。学生時代は、私が顧問を務める国際医療研究会の部長をするとともに、海外での医療支援活動に参加していた。講演のタイトルは、「海外での医療支援活動および学生時代の海外研修からの学び」である。

 2)Nさんは、大学病院の高度救命救急センターに勤務する看護師である。新型コロナウイルス感染症の患者さんの看護などの多忙な勤務の中から駆けつけてくれた。タイトルは、「スリランカにおける官民合同の医療支援活動」であった。

 3)Yさんは、ベトナムの看護師養成教育機関から駆けつけてくれた。タイトルは、「ベトナムの病院における老人ケアプログラムの定着と人材育成」であった。

 4)Sさんは、大学教員で私と同じ講座に勤務している。タイトルは、「米国での看護留学および海外医療支援活動について」である。

 5)Iさんは、総合病院の手術室に勤務しながら、客員研究員として、私の研究や教育のサポートをしてくれている。タイトルは、「ブラジルの総合病院における看護師としての2年間の勤務から」である。

 6)Tさんは、アフリカのJICAザンビア事務所に勤務している助産師である。今回は、新型コロナウイルスによる感染防止のための国内での2週間の隔離期間を含めると約3週間かけて、佐賀まで駆けつけてくれた。タイトルは、「ODA(政府開発援助)の保健セクターで働くということ」である。

 7)Mさんは、大学の研究所勤務で、放射線被ばく医療の研究や実務のため、長崎と福島を頻回に往復して仕事をしている看護師である。タイトルは、「海外における放射線被ばく医療の研修と災害看護について」であった。

 彼らの講義を聴講しながら、大学に勤務した17年間のことを思い出していた。
 彼らの人材育成が私の任務であったが、仕事のやりがいでもあり、楽しみでもあった。そして、私が弱視になった後は、様々な形で私の仕事をサポートしてくれた。そのおかげで還暦まで無事に大学教員を務めることができた。ありがたいことである。少し余力を残して退職し、その後、自由な立場から後進をサポートしたいと考えた。

 大学を退職した後は、しばらくの間、非常勤講師として国際保健や災害医療、および保健医療福祉行政論、看護英語などを教え続ける予定である。

 今後は、マイペースで教育と研究を続けて、余生を送りたいと考えている。


(2021年6月26日)

     「木箱のつぶやき」(私と短歌)

 令和3年度から、「ゆいまーる」の正会員に加えていただいた新地浩一です。佐賀大学医学部の教員として、勤務しております。どうぞよろしくお願いいたします。今回は、趣味についてお話ししたいと思います。気楽にお読みください。

 私が難病の網膜症に罹患していることが判明してから、10年近くになります。現在、弱視の状態ですが、何とかまだ見えているという状態です。

 私は、20年ほど前から、短歌を趣味とするようになり、熊本在住の歌人であった石田比呂志に師事しました。まだ、網膜症に罹患する前のことです。10年ほど前に、第一歌集『戦(いくさ)なき国』を出版したころに、宮内木箱(みやうちきばこ)という雅号を使うようになりました。
 宮内は、母の旧姓で、木箱は、以前に参加していた短歌結社「牙(きば)」の弟子という意味の牙子と同音の文字から取りました。私のささやかなこだわりです。石田氏の死後は、「牙」が解散したため、短歌結社「八雁(やかり)」に参加して、短歌を詠み続けています。

 石川啄木は、短歌を「悲しみの器」と表現しました。人間は、悲しみや苦悩を何らかの趣味や芸術に昇華させることにより、乗り越えることができるのかもしれません。
 私も短歌を詠むことにより、救われているような気がしてなりません。以下に、以前に詠んだ短歌や最近の作品を少し紹介します。いずれも歌集『戦なき国』や『八雁(やかり)』令和3年1-3月号に発表したものです。

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  戦なき国に生まれて軍用のヘリコプターで急患運ぶ

  内視鏡 手に取ることもなくなりて光源ひとつわが胸におく

  若きらに国際保健を教えむと四十路のわれは肥前に向かう

  届きたる白杖組み立て伸ばしおり使い勝手のよき長さへと

  夜が来てもの見ることの難(かた)ければ午後八時には就寝とする

  見えねども声と気配で見分けおり相手の声を引き出しながら

  心眼で見るとう言葉かみしめて見えざる顔を想像しおり

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 自分の病状や日常生活、季節のうつろい、仕事のことなど、短歌の対象となることには事欠きません。また、奥が深く、同好の人たちと歌会に参加しながら、批評を受けて交流するというメリットもあります。年齢、性別、職業、来歴などまったく異なる短歌会の方々との交流は、楽しいものです。皆さんにも、同好の友人を持つことをお勧めします。