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(2024年8月18日)

     「帰宅の途上で」

 高知には、今年2024年でちょうど創業120年になる我が国で最古の路面電車が走っている。私は、それをよく通勤に利用していた。ある電停から自宅までは、徒歩15分ぐらいである。

 ある日のこと、いつものように電車を降りて、自宅に向かって歩き始めた。少し行ったところで、誰かにぶつかりそうになったので足を止めた。
 その時小さな女の子の声がした。小学1年か2年生であろうか。私が手にしている白杖を見て、
 「おじさん、それ目の見えない人がつくがでしょう」と言う。「おじいさん」と言われなかったのでよかった(笑)。
 「そうよ、おんちゃんも目がわるいき、これをついちゅうがよ。どうしてそんなこと、知っちゅうが?」
 「学校でなろうたき」と言う。
 「そう、それは嬉しいねえ、ありがとう。これからも一生懸命頑張って勉強してよ。」
 「はい」という元気な返事。

 それからまた、自宅に向かって歩き始めた。私は、なんとなく嬉しい気持ちになった。そして昔のことを思い出した。
 もう70年以上も前になるが、私が子供の頃には、視覚障害者に声をかけてくれる人などいなかった。それどころか、誰もが障害者に対して差別的な意識を持っていた。学校でも障害者について正しく理解し、見かけたらサポートしてやるように、などといったような教育はなされていなかったのである。

 高知市内にあった私の家は、空襲で焼かれてしまったので、山に囲まれた田舎の村に移り住んでいた。
 私は、昭和17年7月、まさに戦時中の生まれである。眼科医から栄養失調による視力障害であると言われたらしい。白杖をつかなくてもいいぐらいの視力はあった。しかし、文字の読み書きができなかったので、学齢になっても就学免除で小学校には行かせてもらえなかった。

 私は、よく「あきめくら」と言ってからかわれたが、そのような差別的な言い方にも特に腹を立てることもなかった。「そう言われても仕方ないかな」と子供ながらにもあきらめていたのである。
 私の兄弟は多かったし、毎日貧困生活にあえいでいた。ろくに食べるものもなく、毎日空腹を抱えているのが本当につらかった。
 田舎のことなので、役場の人も高知市内に盲学校があることを知らなかったらしい。

 ある日のこと、盲学校の先生が勧誘に来てくれた。昭和27年のことである。
 その翌年28年の4月、盲学校に入学した。私は小学4年生の年齢であった。寄宿舎に入った私は、救われたような気がした。そこでは、朝・昼・晩ときちんと食事を出してくれたからである。
 戦後 間もない頃で、誰もが食糧難で苦しい生活をしていた。だから、ボランティア活動などといったような他人を手助けする余裕など全くなかったのである。

 そういう昔を知っているだけに、今頃のありがたさが身にしみる。道を歩いていてもよく声をかけてくれる。
 「どちらに行かれるのですか? わかりますか?」などと…。

 私は、路面電車を降りて信号が変わるのを待っていた。
 すると、「信号が青になりましたよ。一緒に渡りましょう。」と声をかけてくれた。
 ピヨピヨ・カッコー、という音響式信号機のことを知らない人らしい。しかし、私は手を引かれながら、「ありがとうございます。おかげで助かりました。」とはっきりした声で礼を言った。

 ところが中には、「信号の音がしていますから、そんなこと言われなくてもわかりますよ。」などと言って不機嫌になる人がいるらしい。それは、絶対にいけない。その人は、もう2度と再び声をかける気がしなくなってしまうだろう。何も卑屈になって こびへつらえと言っているのではない。どんな場合にも感謝の気持ちを伝えるべきであると言っているのだ。


(2024年2月3日)

     「新入社員の若者にエール」

 もうかなり以前のことになるが、私は点字印刷所で仕事をしていた。そこへ「こんにちは」と言って、若い男の人が入ってきた。どうせまたセールスマンか何かだろうと思った。
 私は「何でしょうか?」とちょっと不機嫌に答えた。
 「はい、S用紙店の者ですが」と言う。

  S用紙店といえばもう何10年も昔から点字用紙や封筒などを納めてもらっている会社である。
 「ああそうですか。でも、まだ何も注文はしていなかったと思いますが」
 「はい、今日は納品に来たのではありません。私たちが納めている上質紙が点字に使われていると聞いて大変驚きました。私は点字を知りませんし、点字とはどのようなものか、どのようにそれが打ち出されているかを知りたくて見せてもらいに来ました」と言う。

 私は大変驚いたし大いに感動した。
 「そうですか。それは嬉しいですね! あなたの会社とはもう随分長い間取引させてもらっていますが、あなたのように点字について知りたいなどと言ってきた方は1人もいませんよ。最近入社されたんですか?」
 「はい。この4月に入りました。Nと言います。どうぞよろしく」と言って名刺をくれた。
 それから私は点字印刷について実際に行いながら説明をした。自動製版機(ブレイルシャトル)で点字の原版を作るところ、そしてそれに点字用紙を挟んでローラー(点字印刷機)に通すこと、製本の仕方などについて一通り見てもらった。

 「ありがとうございました。大変勉強になりました。この点字印刷したものを参考のためにもらっていっていいですか」
 「はい、どうぞどうぞ。あなたのような意欲的な方なら、将来きっと会社にとってかけがえのない人になると思いますよ。どうか頑張ってください」
 「いろいろとありがとうございました」と言って、その青年は帰って行った。

 最近ではこのような意欲的な若者は少なくなっているのではないだろうか。それは彼らが悪いのではない。若者を使い捨てにする今の社会がまちがっている。もっと若者が大事にされなければならない。彼らを使い捨てにするような社会に明日はないと思う。

 いわゆる「ブラック企業」なるものが問題になっている。そのような会社は金儲けだけを追求し社員のことは全く考えない。名ばかり管理職にして、残業代はつけない。正規雇用はしない。辞めれば取っ替え引っ替え社員を替える。このような雇用形態では意欲的な若者が出てくるはずがないのは当然である。何とかならないものだろうか……。


(2023年8月3日)

      「命が助かるか助からないか、運の善し悪しは紙一重」

 7月4日とは、何の日でしょうか。それは、アメリカにとっては、めでたい日、独立記念の祝日です。しかし、高知に住んでいた私たちにとりましては、そのアメリカによってもたらされた、まさに「生き地獄の日」だったのです。B29による「高知大空襲」です。

 1945年(昭和20年)7月4日未明のことです。400人以上の方が亡くなりました。高知市内にありました私の家もすっかり焼かれてしまいました。
 私は、1942年(昭和17年)7月の生まれですから、ちょうど3歳でした。ですから、その時の記憶がわずかに残っております。私は、母の背中に負ぶさっていました。母は、特に怯えて逃げている様子でもなく、両手に女の子の手を引いて普通に話しながら歩いていました。私の姉たちです。姉は4人いました。父は、戦争にとられておりましたので私たちのところにはいませんでした。

 空で、パーン・パーンという大きな音がしておりましたが、私にはそれが何の音だかわかりませんでしたので、別に恐ろしいとも思いませんでした。私の記憶はそこまでです。それからどこへどのように落ち延びていったかなどにつきましては全く思い出すことができません。

 その時、いくつかの防空壕に行って入らせてくれるようにと頼んだのですが、なにしろ母と子6人もなので断られました。ですから仕方なく歩いて逃げていたということです。
 その後、母から大変恐ろしい話を聴きました。私たちが入らせてもらおうとして頼んで断られた防空壕の中にいた人たちは全員が亡くなられたとのことです。

 それはなぜか? 防空壕ですから、爆弾の直撃はありませんが、その入り口に爆弾が投下されて、その破片や炎が壕内に飛び込んできたからです。もし私たちがそれらどこかの防空壕に入らせてもらっていたとしたら、私たち親子も死んでいたに違いありません。その話を聴いてぞっとしたことでした。

 前述のように7月は、私の誕生月です。その7月になりますと、ついつい母の背中に負ぶさって逃げていたときのことが思い出されるのです。危ういところをよくもまあ助かったものだなと!


(2023年2月2日)

     「若いお母さん」

  その1

 若いお母さんが、小さな女の子の手を引いてレストランに入ってきた。テーブルについて間もなく、注文したお子様ランチが運ばれてきた。その子は、喜んで「いただきまーす」と大きな声で言った。そのとき、お母さんがその子の脇腹を突っついて「そんなこと言わなくてもいいの、後でお金を払うのだから」と言った。

 このお母さん、「いただきます」とは、ただでものをもらうときにだけ言う言葉だと思っているようだ。確かに「もらう」の謙譲語でもあるが「食べる」の謙譲語でもある。しかし、このような場合の「いただきます」は、感謝の気持ちを表すものである。

 それでは、何に感謝するのか。それは、私たちに命を捧げてくれた動植物たち、それらの食材の生産に携わってくれた人たち、さらに心を込めて調理してくれた人たちに対してである。
 ところが、ある本にはこのように書かれていた。
 「いただきますとは、煮炊きをさせてくれるかまどの神様に向かっていう言葉である」と。
 しかし、私は無神論者なので、神にではなく、やはり先ほど言ったものたち、人たちに対して感謝の気持ちを込めて「いただきます、ごちそうさま、ありがとう」と言いたいのである。

  その2

 筑波研究学園都市ができたばかりのことなので、もうずいぶん昔になるが、これは文藝春秋に書かれていたように思う。
 若いお母さんが、男の子の手を引いて田んぼ道を歩いていた。そのとき、畑で作業をしている農夫をお母さんが指さして「あんたも一生懸命勉強しないと、あんなになるよ」と言ったという。
 農業に従事している人でも高学歴、ハイレベルな人たちがいることをこのお母さん 知らないらしい。

 その具体的な例を一つ挙げよう。皆さんもよくご存じの高知システム開発でプログラマーのトップであったTさんが親の後を継ぐために退社して農業に従事している。ふるさと納税の返礼品であるショウガやミョウガなどを作っているという。畑で作業しているTさんが特別に優れたコンピュータプログラマーであるということを知ったら、あのお母さん、なんと思うだろう? なんと言うだろう?

  その3

 若いお母さんが男の子と並んで電車の椅子に腰掛けていた。そのとき、その子が突然靴をはいたまま座席に立ち上がった。
 「そんなことしてはいけません。お席が汚れるでしょう」と言うかと思いきや、なんと「そんなことしてはいけません。あのおじさんが怒るから」と言ったという。
 かといって、私は若いお母さんたちをことごとく批判するつもりは毛頭ない。少子高齢化で年寄りの私は肩身の狭い思いをしている。若いお母さんはどんどん増えてもらいたいものだ。国としても少子化対策については頭を痛めているようであるが、早急に具体的な方策を講じていただきたいと思っている次第である。


(2022年8月4日)

     「とっさの返答は意外に難しい」

 私は、目上とか目下とかいう言い方はあまり好きではないが、ここでは便宜上、あえてその言葉を使わせていただくことにする。
 もう、ずいぶん昔のことになるが、NHKラジオで言葉の使い方についての座談会が行われていた。私は、それを聴いていて思わず吹き出してしまった。その話というのはこうである。

 パネラーの一人である大学教授が、廊下ですれ違った学生に向かって「今、私は○○についての論文を書いているよ」と話しかけたら、「そうですか、期待しています」と言ったのでカチンときた、というのである。
 なるほど、「期待している」という言い方は、学生が教授に対しての返答としてはふさわしくないだろう。そこで司会者がすかさず
 「じゃあ、その学生はなんと言えばよかったのですか?」
 「そのようなとき、適切に返答できる言葉が日本語にはないので、黙っているしかない」
と言ったのである。

 私が吹き出してしまったというのは、この「黙っているしかない」と言ったことである。人から話しかけられて黙っていることなどできないではないか、それは、相手を無視したことになり失礼ではないか、と私は言いたかった。
 もし、そこで学生が返事に困って黙っていたとしたら
 「おい、君、なんとか言えよ」
 「は、はい、期待しています」
となるのではないのか。この教授から話しかけられた学生こそいい迷惑である。

 そんなとき、どのように返答すればいいのか私もちょっと考えてみた。なるほど、なかなか適切な言葉が思い浮かばない。そこで、こうとでも言うしかないのではないかと思ったのが「さようでございますか、それはお疲れさまです」である。
 このとき、決して「ご苦労さま」と言ってはいけない。これは、目下の者が目上の人に向かっていう言葉ではないからである。

 私は、誰に対しても「ご苦労さま」と言いたいときには、意識的に「お疲れさま」と言うことにしている。これは、誰に対しても失礼にはならないからだ。いろいろと考えてみたが、これ以外の返答はどうも見つかりそうもない。

 ところで話は変わるが、返答に困るといえば、道を歩いていて誰かに話しかけられたときである。この人の声には確かに聞き覚えはあるが、どうにも名前が思い浮かばない。相手が誰だかわからないので、立ち入った話はできない。
 「ずいぶん暖かくなりましたね。今日は大変いいお天気ですね」などとありきたりの話しかできない。そして、この人早く立ち去ってくれないかな、と思うのである。

 一方、こんなありがたい場合もある。
 「こんにちは、福祉専門学校で点字を教えていただいた○○です」
 「こんにちは、どこへ就職されましたか? 仕事はどうですか?」
などと話のやりとりがスムーズにできるのでうれしい。

 話しかけられたとき、相手が誰だかわからないときはどうすればいいのだろうか? まさか「どなたでしたっけ?」などと聞くこともできない。
 話は戻るが、皆さんがあの教授から話しかけられた学生だったとしたらどのように返答されますか…?


(2022年2月3日)

     「糖質制限はよし、糖質ゼロは命取り!」

 炊きたてのほかほかのご飯にちょっと塩辛いおかず、それを食べているとき、なんともいえない幸せな気分になりますよね。しかし、そんなことしていたのでは長生きできない、今すぐにでもやめるべきだと言います。
 いやいや、そんなことは ありませんよね。ただ、その食べ方には気をつける必要があります。決して食べ過ぎないようにすることです。

 相変わらず、糖質制限食がちょっとしたブームになっています。「糖質ゼロの食事術」「断糖のすすめ」、さらには「炭水化物が人類を滅ぼす」などといった極端な著書も出てきました。私に言わせれば、それはむしろ逆で、炭水化物がなくなれば人類が滅びるのではないでしょうか。

 これらの著者はみな医師です。糖質さえ摂らなければ、血糖は上がらないから糖尿病は治るし、糖尿病になることもない。メタボにもならない。糖質は人間にとって全く必要のないものだ。タンパク質と脂質さえ摂っていればいい。さらに「メック食」(MEC食、肉・卵・チーズ)さえ摂っていればいい、などという著書もあります。糖質さえ摂らなければ、それらをいくら食べてもいい、と言います。本当でしょうか?

 糖質を摂れば膵臓からインスリンが分泌される。このインスリン分泌が諸悪の根源で、血液中の余分なぶどう糖を脂肪に変えて皮下や内臓周辺に蓄積させる。この脂肪からはインスリンの働きを抑制するホルモンが分泌されるので、インスリンの働きが悪くなる。そうなるとますますインスリンの分泌が増える。それによってまた脂肪が増える。
 その結果、メタボにも動脈硬化にもなる。糖質さえ摂らなければこのような現象は起こらないのである。というのが糖質制限論者の言っている理由です。

 我が国で糖質制限食が話題になり出して、まだそれほど経っていませんので、それによって長生きしたという事例を私は知りません。それどころか「糖質抜きダイエット」で若死にされた方を2人知っています。

 そのうちの1人、ノンフィクション作家の桐山秀樹氏が2016年2月、宿泊していたホテルで亡くなっているのが発見されました。心筋梗塞だったそうです。まだ62才でした。
 彼は、重度の糖尿病にかかり、糖質抜きダイエットを実践するようになりました。体重は何10キロも減るし、血糖も正常になったので、糖尿病は完治したものと思い込んだのです。
 そして、糖質制限食に関する数多くの著書を世に送り出しました。中には、ベストセラーになったものもあります。健康で長生きするためのものではなかったのか? 何という皮肉な話ではありませんか。

 これに関して、牧田善二糖尿病専門医は、彼の著書の中で次のように言っています。
 糖尿病は血糖を下げたぐらいで治るようなそんな単純なものではない。血糖コントロールは、糖尿病治療の1、2割にしか過ぎない。完治は難しいのできちんと合併症の検査を受け、治療を続けなければならない。

 桐山氏が糖質制限食に関して私のところに取材に来た。別れるとき、大変顔色が悪かったので、「血糖を下げるだけでなく、いろいろな検査を受けてくださいね」と言ったのだが、その願いはかなわなかった。いい仕事をしていただけに大変残念である。
 心筋梗塞になると、耐えがたい痛みが起こるのだが、彼は合併症の神経障害があったため、その痛みが起こらなかったのだろう。心臓の検査を受けていれば、そのようなことにはならなかったはず。糖質抜きダイエットで糖尿病が克服できたと思い込み、合併症などの検診を全く受けなかったところに落とし穴があった。

 さらに牧田医師によると、糖尿病そのものよりも、腎障害、神経障害、血管障害などが怖い。がんにもなりやすい。最近ではいい薬もできたし、きちんと検査や治療を受けていれば、決して糖尿病だからといって若死にすることはないと言っています。

 もう1人は、同じく2016年6月に亡くなられた鳩山邦夫元衆議院議員です。まだ67才でした。詳しいことはわかりませんが、ホームページによると、彼も糖質抜きダイエットをやっていて激やせしていたといいます。糖質抜きはある程度やせた段階では中止しなければいけないのですが…。

 糖質がそんなに体に悪いのなら、なぜそれを食べたくなるのでしょうか? 食べたいということは、体がそれを必要なものとして欲しているからです。だから糖質を全く摂らないという主張については、私は間違っていると思います。
 しかし、困ったことに甘いものを食べ出すとなかなかブレーキがかかりませんよね。つい食べ過ぎてしまうということです。体に悪いのなら、もうそれ以上食べたくなくなってもいいはずですが、なぜでしょうか。

 それは遺伝子がそのようになっているからだそうです。人類の歴史の中では、長い間、飢餓に苦しんできました。そこで食べ物にありついたとき、できるだけ多く食べて、それを効率のいい脂肪に変えて蓄えるようになったのです。そのような遺伝子は簡単に変わることはありません。

 糖質をゼロにして、その代わりにタンパク質や脂質を多く摂っていたのでは、腎臓や肝臓に負担がかかりすぎるようになります。糖質は体にとって必要なものですから、外から補充しなければ、糖新生のため肝臓で他の物質からぶどう糖を作るようになります。その材料として筋肉のタンパク質が使われて動けなくなったという人もいるようですよ。

 糖質ゼロはいけませんが、できるだけそれを控えるようにするというのは正しいことだと思います。私もそのように心がけています。


(2021年7月7日)

     「ちょっとほのぼの、バスの中で」

 私は所用があって、自宅から数キロメートル離れた町に出かけることになった。家のすぐ近くのバス停でバスに乗った。通勤時間帯ではなかったので、バスはかなりすいていた。乗客はせいぜい10人ぐらいだったと思う。高知のような地方都市では、このように乗客が10人ぐらいのバスは決してめずらしいことではない。

 私が乗った次のバス停で、初老と思われる女性のAさんが乗り込んできた。タッチカードを探しているのだが、なかなか見つからないらしい。運転手が、「後でかまいませんので」と言ってバスをスタートさせた。
 そのときである。若い女性Bさんの声がした。
 「ちょっと待ってください。あなた、今のバス停でハンドバッグを開けたとき、カードを落とされたのではないですか? 私はそれを見たような気がするのですが」

 バスが止まってドアが開いた。
 「私が見てきましょう」と言って、Bさんが後ろの方に走って行った。しばらくして息をはずませながら帰ってきた。

 Bさんは、「やっぱり落ちていました」と言って、そのカードをAさんに渡した。
 「私ならあんなに速く走って行くことはできなかったのに、ありがとうございました」と、Aさんは何度も礼を言っていた。
 そのとき、乗客たちが一斉に拍手した。皆、異口同音に「よかった! よかった!」と言っていた。

 あるバス停に着いたとき、Bさんが下車しようとして立ち上がった。
 Aさんは、また「ありがとうございました」と、何度も礼を言っていた。乗客たちもまた一斉に拍手した。
 Bさんは、何事もなかったかのように降りていった。

 このことがあって、私はその日一日中、気分がよかった。
 私は考えた。もし私がBさんの立場だったとしたら、とっさにあのような勇気ある行動に出ていただろうか? いや、それはなかったに違いない。
 「もし間違っていたら恥をかくことになる。だんまりを決め込むに限る」と、知らぬ顔をしていただろう。しかし間違っていたとしても決して恥になることではない。
 「すみません、やっぱり私の見間違えでした」と言って、Bさんが帰ってきたとしても、やはり乗客たちは一斉に拍手したに違いない。そのBさんの勇気ある行動を讃えるのである。

 最近では、とにかく他人のことには関わりたくない。どんなトラブルに巻き込まれないとも限らない。「知らぬが仏」という人が増えてきたように思う。近所付き合いの多い田舎なら別としても、例えば、大阪や東京のような大都会では何があろうとも、とにかく「だんまり」を決め込むのも仕方のないことかもしれない。

 もう私は年なので、いろいろな場面に出くわすことはないだろう。しかし、いざというとき、あのBさんのような勇気ある行動に出ることのできる人間になりたいものだ、と思った次第である。


(2021年2月2日)

     「がんもどき理論」をどう考えるか

 「がん検診は百害あって一利無し。早期発見、早期治療は早期死亡につながる。」
 「えっ! そりゃ何じゃ?」と言う人が多いかもしれない。これは、元 慶應義塾大医学部専任講師で、現「近藤誠がん研究所」所長の近藤誠医師の著書に書かれていることである。

 そのタイトルは「医者に殺されない47の心得 医療と薬を遠ざけて元気に長生きする方法」というものである。この本は2013年に高知でもブックスランキングでしばらく上位を占めていた。1位になったこともあるからご存知の方も多いのではないだろうか。

 これは第60回菊池寛賞受賞作でもある。受賞の理由は私にはよくわからないが、近藤医師は自らの昇進をも投げ打って、現在の医療界の問題点を徹底的にえぐり出しているところにあるのではないかと思われる。それはひたすら患者のためを思ってのことであろう。治らないことがわかっていても無駄な手術をしている。全く効きもしない抗がん剤を平気で投与し続けている。全く意味のない、しかも有害な検査ばかりやっている…。

 では、なぜそのようなことが平気で行われているのか? それは医者や病院の利益のため、製薬会社や薬の認可にかかわる医師や官僚たちの思惑によるものである。江戸時代、武士が刀の試し切りをやって捕まれば磔刑獄門(はりつけごくもん)になったが、現在の外科医たちはどんなにメスの試し切りをしても金になることはあっても決して罰せられることはない。

 またこのようなことも書かれている。ある患者についてのカンファレンスで近藤医師が「もはやこの患者は手術の適応ではないので放射線治療にすべきだ」と言ったのに対し、外科教授が「そんなこと言っていたら外科医が育たないではないか」と言ったという。医大ではそんなこと、日常茶飯事ということか?

 この本を読んでいると胸がスカッとするところもあり、またなるほどそういうこともあるのか、用心しなければいけないんだなと考えさせられることも多い。しかしながら、これは近藤医師の造語らしいが「がんもどき理論」にはどうしてもついて行く気がしない。その「がんもどき理論」というのはこうである。

 がんには、本物のがんとがんもどき(偽のがん、すなわちがんのように見えてもがんでない)ものの2つがある。内視鏡検査や顕微鏡で見てがんのように見えてもがんもどきなら転移もしないし命を奪われることはない。だから放置するのが一番よい。下手に手術したりすればその傷が元で命を落としたりすることにもなりかねない。

 一方、本物のがんであれば、それはもはや助からないのだから、「こう言えば身も蓋もないが、がんと闘わず何もせず静かに死を受け入れるべきである」などと書かれている。本物のがんであれば、肉眼的にあるいは顕微鏡で見て「早期がん」と言われるものでも、それは人間が勝手にそう言っているだけであって、がんにしてみればもはや熟年に差し掛かっている。だから全身に転移しているのだから、見つかった所を切り取っても助からない。その手術による弊害が残りQOLが低下するだけだ。すなわち「早期発見・早期治療・早期死亡」ということになるのである、と言っている。

 私は、かなり以前に早期の食道がんが見つかり、内視鏡手術を受けた。食道がんは、がんの中でも最も恐ろしいものの一つである。私はおかげで命拾いをしたと思っている。
 しかし近藤医師ならおそらくこのように言うに違いない。
 「それは手術を受けて食道を傷つけただけ損をしたことになる。それが本物のがんならとっくに死んでいる。今、生きているということは、それががんもどきであったからだ」と。

 「しかし、近藤先生、それだけは私は信じませんよ。だから毎年食道や胃の内視鏡検査を受けています。」
 「まあ、それはあなたの勝手だ…」ということになるに違いない。

 一方、この近藤医師の「がんもどき理論」に真っ向から反論している著書がある。それは、兵庫県尼崎市の開業医 長尾和宏医師の「医療否定本に殺されないための48の真実」である。
 それによると本物のがんとがんもどきに分けられるようなそんな単純なものでは決してない。グレーゾーンと言われるものもいくらでもある。そして早期治療で多くの患者を助けてきた。
 近藤医師は放射線科医であり、早期がんに遭遇することはあまりなかったのではないか。それより「がんもどき理論」に惑わされて犠牲になった患者が何人もいる。しかし著者は何の責任もとらないだろう。

 さらに、高知出身で神戸市在住の勤務医、村田幸生医師の「医療否定は患者にとって幸せか」もぜひ読んでほしい。あまり露骨に反論はせずかなり客観的に書かれている。

 これらの著書はサピエ図書館にあるのでぜひお読みいただきたい。要するに特定の著書のみにこだわるのでなく、検査を受けるにしても、治療を受けるにしても多様な情報を得て自分なりの判断をすることが最も大切なことではなかろうか。


(2020年8月9日)

     「初めてのステージでパニック状態に」

 私の通っているピアノ教室では、毎年秋に、レッスンを受けている生徒による発表会が行われています。その発表会に私も出るようにと何度となく言われていたのですが、「いえいえ、そんなこととんでもない」と辞退してきました。

 しかし、「こんなに上達したのだから、皆さんに聴いてもらわないのはもったいない」などとうまく口車に乗せられて、断り切れなくなり、仕方なくしぶしぶその発表会に出ることにしました。
 「きちんと弾けているので、これにしなさい」と先生から指定されたのが、スメタナ作曲の『モルダウ』というクラシックでした。

 それから私は毎日その曲を練習しました。録音して、それを自分でも聴いてみました。
 「よし、これなら大丈夫」と内心そう思ったものです。私は、40年以上も教壇に立ってきた人間です。まさか人前に出てあがるなどということは絶対にないはずだと、高を括っておりました。しかし実はそれは大変な思い違いだったのです…。

 やがてその日がやってきました。発表者は20人、私が最年長です。会場には60人ぐらいの人がいたと思います。いよいよ私の番です。
 「次は11番、有光勲さんです。お願いします」という女性の司会者。私は、ピアノの先生に手を引かれてステージに上がり、グランドピアノの前に座りました。そして練習に練習を重ねてきた『モルダウ』を弾き始めました。出だしはよかったのですが、これはどうしたことか、その曲調と弾き方が変わったところから突然、指使いが乱れだし、いつものようには弾けなくなってしまいました。

 私は、焦りました。何度か弾き直したのですが、やればやるほどそれはだめでした。完全にパニック状態に陥ってしまったのです。仕方ありません。会場に向かって
 「すみません、もうこの曲はやめておきます」と言わざるを得ませんでした。
 しかし、私はそのままステージを降りるようなことはしませんでした。このままステージを降りたのでは、あまりにも情けない、惨めだ。こんなことでは死んでも死にきれないと思いました。

 「落ち着け、落ち着け、他にも弾ける曲はあるだろう。それをやればいいではないか」
と私は自分自身に言い聞かせました。そこで大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐いて気持ちを落ち着かせました。そして気を取り直して『禁じられた遊び』を弾き始めました。それはなんとか間違えずに最後まで弾くことができました。それを弾き終わったとき、会場から盛大な拍手をいただきました。

 しかしそれは、私の演奏がよかったからということではなく、パニック状態から立ち直り、プログラムに記載されていない別の曲とはいえ、それを弾くことができてよかったという私に対する温かいねぎらいの拍手であったのではないかと思います。もし、あのままステージを降りていたとしたら、会場の方々にも後味の悪い思いをさせてしまったかもしれません。

 このように私の初ステージはみごとに失敗したのですが、それでも図太く何度となくステージに上がっていれば、だんだん場慣れしてきてうまくいくようになるのではないでしょうか。しかし、私はもう年です。残念ながらこれを最初で最後ということにしたいと思います。

 私は、この『モルダウ』という曲は好きだったのですが、このことがあってからはなんとなくいやになってしまいました。
 「今回のステージでは失敗体験と、それにも勝る成功体験がある。そのプラス面に目を向けることによって、気持ちは楽になるし、また失敗したこの曲にも新たな思い入れがわいてくるはず」という大変貴重なアドバイスもいただきました。

 私の残りの人生はもうそんなに長くはありませんが、これからは、ネガティブ思考に陥るのではなく、常にポジティプパーツに目を向けて前向きに生きていきたいと考えております。そうした意味において、今回の初ステージでの出来事は、私にとりまして大変すばらしい教訓を得ることができたのではないかと思っております。


『モルダウ』 

(2020年1月6日)

     「まさかこの私までもが高齢者の自動車事故に出くわそうとは!」

 高齢者による自動車事故は、なんと多いことか。このところ毎日のように報道されている。先日も、女子高校生が85才の男の車にはねられて亡くなった。余命いくばくもない人間に、事故とはいえ、人生これからという若者が命を奪われようとは、なんというつらいことか。遺族ではない私にしてもどうしようもない怒りを禁じ得ない。

 しかし、こうした悲惨な事故も所詮は人ごと、私には無縁のものと思っていた。ところが さにあらず、私もその例外ではなかったのである。
 ある日曜の午後、私は用があって息子の車に乗せてもらって出かけた。しばらく走って交差点を通り抜けようとした時である。私たちの乗っている車の後ろにドスンという大きな衝撃が起こった。私は車の後ろが道路上の何かにぶつかったのではないかと思った。

 「おい、止まれ。後ろを見てこい」
 息子が路肩に車を止めて降りていった。
 「いかん、車にぶつけられた。バンパーが壊れている。しかし、その車はもういない」という。

 辺りを見回していると、それとおぼしき車が赤信号にひっかかって止まっていた。息子がそこに駆け寄り、
 「あなた今、私の車にぶつかりましたね」と言うと、
 「いや、知らない。私は気がつかなかった」と言った。
 「そんなことないでしょう。あなたの車の前のバンパーにこんな傷がついているじゃありませんか。とにかくこちらに来てください」

 仕方なさそうにその男は現場に引き返してきた。そこに着くなり、その男は
 「ここには一時停止のラインがある。そこで止まらなかったそっちが悪いではないか」と言う。
 私は頭にきた。
 「何を言うか、おまえが人の車にぶつかってきておいて、先に謝れ」と言った。
 そのとたん、息子が私の耳元に口を寄せてきて
 「こりゃあ いかん、かなりの年寄りだ。もうそんなこと言ってもいかんぞ」
 とささやくように言った。歯も抜けてみすぼらしい服装をしているという。

 「とにかく、ここで言い争っていても仕方ないので、警察に来てもらいましょう」
 と私が言うと、その男はかなり不服そうであったが、ついには渋々承諾した。

 こんな時にも携帯電話は便利である。やがて警察がやって来た。その警察官は、車の破損状況や衝突した場所をチェックし、記録していた。事故の様子を話しても、どちらがいいとか悪いとかについては何も言わない。我々の住所、氏名、生年月日、電話番号などをただ聞くだけである。

 「事故証明はできますので、保険会社に連絡して事後処理をしてもらってください」と言って警察官はさっさと帰っていった。
 例の男は、何も言わずに逃げるようにして立ち去って行った。

 車は左側からぶつかってきたので、もう一瞬速ければ助手席の私が怪我していたかもしれない。そう思うとぞっとした。
 直ちに保険会社に連絡し、経過報告した。
 「それでは、先方の加入している保険会社と相談の上、事後処理をするようにします」とのこと。

 あくる日、その保険会社から電話がかかってきて、
 「逃げようとしたはずです。なんと先方は、保険に入っていませんでしたよ。『俺は悪くない。一切保証はしないぞ』と息巻いていましたよ。実は、このケースだけでなく、年寄りの加害者にはこういう人間が多いので困りますよ。全く罪の意識がないですから」と、こぼしていた。

 息子はこれまで事故を起こしていないので、保険の掛け金は当初の半額以下になっている。バンパーの修理代はたいした額ではなかったので、自費で直した。保険の世話になるかどうかは保険料のことも念頭に置いたうえで判断する必要がある。もし保険を使えば掛け金が元に戻ってしまうからである。

 人間だれしも過ちは犯す。しかしそんな時、対処の仕方でその人物の人間性が知れるというものであろう。この車をぶつけてきた老人、残念ながら決して褒められた人格ではなさそうである。
 車をぶつけた相手が私たちだったから よかった。これが、もし厄介な難しい人間だったとしたらどうなっていたか。
 「新車にしてくれ。当て逃げしようとしたそんな卑怯なおまえは絶対にゆるさん。むち打ち症になった。入院するからな。医療費はもちろん、その間の休業補償もしてもらうぞ。このままですむと思うなよ」などと脅迫されだしたらどうするのか。

 今回の事故を教訓に、この老人には、取り返しのつかないような大事にならないうちに免許を返上してもらいたいものである。


(2019年8月2日)

     「それからの蜘蛛(くも)の糸」

 芥川龍之介の短編『蜘蛛(くも)の糸』はほとんどの方がご存じだと思う。しかし、まだ読まれていない人には、この話の皮肉、おかしさがわからないと思うので、まずそのあらすじを書いておきたい。

 ある日、釈迦が天国(小説では極楽)の蓮池のほとりを散歩していて、ふと地獄の方を見下ろした。底の血の池地獄では、多くの罪人たちがもだえ苦しんでいた。その中にカンダタという大泥棒がいた。カンダタは悪いことばかりしていたが、たった一つだけいいことをした。

 ある日のこと、カンダタが討手に追われて林の中を逃げていたとき、足下に1匹のクモが這い出してきた。一気に踏みつぶしてやろうと思ったが、「いや待て、一寸の虫にも五分の魂ということもある。ここであえて殺すこともないだろう」と思い、そのクモを助けてやった。

 釈迦はそのことを思い出したのである。そこでクモの糸を地獄に向かって下ろしてやった。真っ先にそれを見つけたカンダタは、大喜びでそれにかきついて天国に向かって上り始めた。このようなことには慣れているカンダタも、さすがに疲れて一休み、何気なく下を見て驚いた。大勢の罪人たちがぞろぞろと上がってくるではないか。
 「こら、これは俺のものだ。みんな降りろ」
と大声で叫んだ。そのとたんクモの糸が切れて再びカンダタは地獄へ落ちていったのである。

 これは、自分本位の考えをしていたのでは、せっかくのチャンスも逃してしまう。他人を思いやる心がなければ、結局は自分までもが不幸になってしまうという教訓を説いた、イソップ物語のような寓話である。

 もう60年以上も昔になるが、この話には続きがあるという。NHKラジオの朗読の時間に放送されていた。それが、「それからの蜘蛛(くも)の糸」である。大変おかしかったので、今でもその内容は、はっきり覚えている。しかし、その作者については思い出せない。だれでも知っているような有名な作家ではなかった。その話というのはこうである。

 カンダタがクモの糸をよじ登っていて疲れたので一休み、下を見ると大勢の罪人たちが上がってくるのを見て驚いた。そこまでは同じであるが、それから先が違う。カンダタは考えた。
 「とにかく俺が先頭を行っている。真っ先に天国に着くのはこの俺だ。ここで大声を出したりして、この糸が切れてしまったのでは元も子もない」と思い、ゆっくりとますます慎重に上り始めた。

 一方、天国の釈迦は、どうなっていることかと思い、地獄の方をのぞき込んだ。そのときである。ちょうどそこにたどり着いたカンダタは、片方の手を天国のへりにかけ、もう片方の手で釈迦の首にかきついたからたまらない。釈迦はもんどりを打って地獄へ落ちていった。カンダタは、そのはずみでまんまと天国に上がることができたのである。

 天国は大変環境のいいところである。大泥棒のカンダタもいつしか慈悲深い人間になっていた。
 ある日、カンダタが蓮池のほとりを散歩していて、ふと地獄の方を見下ろした。底の血の池地獄でもだえ苦しんでいる罪人たちの中に釈迦がいた。
 「あ、これはいけない。一刻も早く引き上げてやらなければ」と思い、地獄に向かってクモの糸を下ろしてやった。

 それを真っ先に見つけた釈迦は、大喜びでそのクモの糸にかきついて上り始めた。途中で疲れて一休み、何気なく下を見た釈迦は驚いた。大勢の罪人たちがぞろぞろと上がってくるではないか。そこで釈迦は思わず
 「これこれ、者ども上がってきてはならん」
と言った。そのとたん、ぷつんと大きな音を立てて釈迦のすぐ上でクモの糸が切れて、釈迦は再びまっしぐらに地獄へ落ちていったのである。

 私は、無神論者であるが、釈迦についてどうこう言うつもりはない。平穏無事なときには、人間だれしも口先だけでなんとでもきれい事は言える。しかし、いざ自分の命が助かるか助からないかというような極限状態に立たされたとき、その人間の醜い本性が現れるものだということであろう。

 しかし、中にはあの悪魔のなせる生き地獄のアウシュビッツで命乞いをする若者の身代わりになって、自らの命を差し出したコルベ神父のような立派な人がいるのも確かである。
 「そういうおまえは、どうなのだ」
 残念ながら私は、人格者でないので、いざというとき、おそらく大変にひどい醜態をさらすに違いない。果たして皆さんはいかが? …


(2018年8月1日)

      夢の中で 〜 同じ人生は繰り返したくない 〜

 「ああ、この俺もすっかり年老いてしまったものだ。若い時は良かった。もう一度あの頃に帰りたいものだ。」
とつぶやいた時です。突然、私の前に神様が現れました。

 「おい、おまえ、そんなに昔に帰りたいのか?」
 「あ、神様、そりゃ そうですよ。私だけでなく、誰だってそう思っていますよ。」
 「そうか、よしよし、そんならおまえを若い頃に帰してやろうじゃないか。」
と言うのです。

 「え! ほんとですか。ぜひお願いしますよ。」
 「しかしな、ひとつだけ条件があるぞ。おまえを昔に帰すのはたやすいことだ。だが、おまえの過去まで変えることはできない。全く同じ人生の繰り返しだ。しかも、その時点ではおまえが今のような境遇になるとはわからない。録音テープを初めて聞くのとまったく同じだ。どうだ、それでも良かったら昔に帰してやろうじゃないか。」

 私は考えました。楽しいこともいろいろとありましたが、大変につらい思いをしたこともあります。

 「いや、それは困ります。全てでなくてもいいのです。ほんのちょっとだけやり直したいのですが。」
 「だめだ。そうしてやりたいのはやまやまだがな、おまえの過去を変えることはこの神の俺にもできないのだ。さあ、どうする? それでも良かったら昔に帰してやろうじゃないか。」

 私は即座に答えました。

 「いえ、それなら結構です。もう昔に帰りたくありません。」
 「そうか、これまでおまえもいろいろとつらいことがあったみたいだな。そんならおまえはこれからどうする?」
 「はい、若い時に帰りたいなどといったばかげたことは考えないで、残された人生を大切に生きていきたいと思います。そして少しは人様のお役にも立ちたい…。」

 「そうか、よしよし、幸いおまえはいいところに気がついたようだな。もう俺は二度とおまえの前に姿を現さないからな。今、言ったことを忘れず、まあ、しっかりやれ。」
と言ったかと思うと、ふうっと煙のように消えてしまいました。

 「あ! あの小説にでてくる話だな。」
と思い出された方も多いのではないでしょうか。そう、芥川龍之介の短編『杜子春(とししゅん)』です。あの小説の最後で、杜子春と仙人がやりとりする場面です。その内容については触れることができませんので、まだの方はぜひ一度お読みになってみてください。

 現在、地位と名声を得ている人でも、そこにまでたどり着くには薄氷を踏むような、時には寿命の縮むような思いをしたかもしれません。私も神様に言ったようにずいぶん楽しい思いもしましたが、大変につらいこともいろいろとありました。今から思い出してみても、顔から火の出るような恥ずかしい思いをしたこともあります。もう絶対に同じ人生は繰り返したくありません。同じ人生を繰り返すぐらいならこのまま終焉(しゅうえん)を迎えた方がはるかにましです。

 これは、決して負け惜しみではありません。私は長い人生の中で今が一番幸せだと思っています。ただ残りの時間が少ないのが残念ですが、これは年をとれば誰しも同じですから、仕方ないですね。
 仕事から解放されていますので、夜通し読書にふけることもできますし、また、この年になっても趣味の習い事をすることもできます。息子夫婦も親切にいろいろとサポートしてくれますし、日常生活で困ることは何もありません。贅沢をいえばきりがありません。
 人間「足るを知る」ということが大切なことではないでしょうか。

 ところで、皆さんはこれまでの同じ人生を二度でも三度でも繰り返したいと思われますか。


(2008年9月8日)

 今回入会させていただきました高知の有光です。私は長年 高知県立盲学校に理療科教員として勤務し5年前に定年退職となりました。しかし、その後も後任が見つからないため引き続き期限付講師として在職させて貰っております。私の歳相応に40年ほど昔のことを書かせていただきたいと思います。

 盲学校の卒業生で唯一安定した給与所得者となれるのはマッサージ師として病院に就職することでした。40年ほど前までは理学療法士といった身分制度もなく、専ら盲学校の卒業生が整形外科を中心とした いわゆる物療といわれる部門で重要な役を果たしておりました。マッサージだけでなく電気・温熱療法や機能訓練なども行なっていたわけです。

 病院からの求人も多く、国公立病院へも容易に就職できておりました。現在のような非正規雇用などは全くなく、まさに売り手市場、本来なら雇用主に給付されるはずの助成金までも給料に上乗せして貰うというようなケースもありました。

 ところが、昭和40年8月の「理学療法士及び作業療法士法」施行により理学療法士が配置されるようになってからは病院マッサージ師の地位は一変してしまいました。国公立病院への就職はPT以外の者は認められず、また保険点数でも10倍ほどの差が付けられておりましたから個人病院でもマッサージ師を敬遠するようになっていきました。

 意図的に医師がマッサージの指示を出さず仕事をどんどん減らし、職場にいづらくさせられたため退職せざるを得なかったといった事例もあったようです。

 晴眼者のあはき師養成施設が新設されるような場合には必ずといっていいほど反対運動が起こりますが、この理学療法士制度の導入についてはそのような動きはほとんど見られませんでした。時代の流れとしてPT法の成立を阻止することは不可能であったでしょう。しかし今となっては所詮結果論に過ぎませんが、病院マッサージ師としての既得権を保障し、将来的にも身分を安定させるための運動は必要であったのではないかと思われます。

 それではなぜこのような運動が起こらなかったのでしょうか。それは病院マッサージ師の間に大きな誤算があったこと、というよりは反対運動を阻止するために意図的に誤解させられていたようです。

 ではその大きな誤算とは何か?「PT法施行に際しては経過措置が設けられており、おそらく現在、マッサージ師として働いている者には既得権もあるはずなので、簡単な講習や形式的な試験程度でほぼ全員にPTの資格が与えられるであろう」というものだったようです。

 そして昭和41年から6年間の期限付きで特例試験が始まりました。ところが、いざ蓋を開けてみると、「これは大変」受験した者はもちろん、関係者の間に大きな動揺と衝撃が走りました。怒りの声すら聞かれました。ほとんどの者が不合格、というよりは意図的に落とされたといったほうが正確かもしれません。おそらく合格率は数%ではなかったでしょうか。

 特例試験を受けるためには、まず240時間の講習を受ける必要がありました。そして、その後の筆記試験と実技試験に合格した者にPT免許が与えられました。
 先ほども書きましたように、この特例試験は既得権者を救うという意図は全くなく、まさに落とすための試験であったとしか言いようがありません。問題なのは実技試験です。

 試験官は全て医師で3つの関門がありました。
(1)測定や評価について
(2)義肢や装具、電気、温熱などの物理療法について
(3)機能訓練の実際について
です。台の上に山積みされた義肢や装具の中から指定された物を取り出せとか、よほど視力がなければできないようなテストをされたようです。そして問題なのは受験者によっては第4関門の面接に回されたということです。西日本の場合、実技試験は大阪で行われましたが、この第4関門の面接官はその当時整形外科の分野では有名であったM先生でした。

 残念ながらこのM先生は視覚障害者が医療に携わることについては、かなり否定的なお考えを持っておられたようです。彼の面接を受けた者はほとんど不合格にされたと聞いております。

 あまりに合格者が少なかったため、もう3年間(昭和49年まで)特例試験を延長させることはできましたが、この9年間で果たして何人が救われたでしょうか。念のためにと思い、厚労省に電話して訊いてみました。不思議なことに特例試験についての資料は見当たらないということでした。

 それでもしつこく、あれやこれやと訊いているうちに特例試験最後の2回分の資料が出てきたようです。それによると8回目の特例受験者は874人で合格率4.9%、最後の9回目は849人で10.8%ということでした。10%を超えたのはおそらくこの最後の試験だけではなかったのではないかと思われます。おそらく毎回数%の合格率ではなかったでしょうか。医療関連の資格試験でこのように低い合格率の例が他にあるでしょうか。全く冷酷な話です。

 ちなみにこのPT法施行と同時に、高知でもいち早く既存の学校にPT養成課程が設けられました。そのため幾つかの関係団体が県に陳情を行い、特例試験のための講習会が開催されることになりました。昭和44年の7月から12月までで、土曜は午後の3時間、日・祝祭日は6時間という結構ハードなものでした。開講時には100名ほどの受講者がいたと思います。私もこの講習会に参加しましたが、義肢や装具、ファシリテーションに関する理論と実技など、それまであまり見聞きしたことのないものも多く、大変勉強になりました。

 そして翌昭和45年、四国では1次試験が高松で、その合格者には大阪で2次の実技試験が行われました。
 私の受けた実技試験では第1関門は前脛骨筋の筋力テストと試験官の足部を触れながら足根骨の位置的関係を説明するもの。第2はKBM下腿義足とクレンザック式の短下肢装具を見せられて、それについての特徴などについて説明したり、ホットパックやパラフィンバスの使い方について説明したりするもの。第3は脊髄損傷(対麻痺)の平行棒内での歩行訓練や車椅子←→ベッド間の移動を、試験官を患者に見立てて訓練するというものでした。

 決して自慢するわけではありませんが、たまたま理解していた所が出題されたため合格することができました。私もM先生の面接に回されていたら、おそらく合格することはなかったと思います。その年の高知県でPT試験に合格したのは、私と養護施設に勤務していた女性の方(晴眼者)の2名でした。このことからも、いかにひどい試験であったかということがおわかりいただけるのではないでしょうか。これは全く根拠のない数字ですが、筆記試験だけであればおそらく6、70%の合格率ではなかったでしょうか。特例期間が終わって間もなく実技試験は廃止されました。

 現在、視覚障害者を対象としたPT養成施設は3箇所ありますが、重度の視覚障害者は実習の受け入れ先や就職に大変苦労していると聞いております。月並みなことを言いますが、晴眼者のシステムに視覚障害者がいくら努力して対応しようとしても、そこにはおのずと限界があるのは当然です。障害者雇用の促進という観点から障害者に応じたシステム作りが必要なのは当然です。障害者の能力が充分に発揮できるよう、政治的な解決が望まれます。そういう意味においても、この「ゆいまーる」の発足の意義は大変大きなものではないでしょうか。