有光 勲(ありみつ いさお)
私は、昭和43年(1968年)4月に理療科教員として高知県立盲学校に赴任し、平成15年(2003年)3月末で定年退職しました。永年にわたる教員生活の中でいろいろなことがありましたが、今回は、今でもはっきりと記憶に残っている就職当時の一つの思い出を書いてみたいと思います。
盲学校の卒業生で、唯一 安定した給与所得者となれるのはマッサージ師として病院に就職することです。昔は理学療法士といった身分制度もなく、専ら盲学校の卒業生が整形外科を中心としたいわゆる物療といわれる部門で重要な役を果たしておりました。マッサージだけでなく電気・温熱療法や機能訓練なども行なっていたわけです。
病院からの求人も多く、国公立病院へも容易に就職できておりました。現在のような非正規雇用などは全くなく、まさに売り手市場、本来なら雇用主に給付されるはずの助成金までも給料に上乗せしてもらうというようなケースもありました。
ところが、昭和40年8月の「理学療法士及び作業療法士法」施行により理学療法士が配置されるようになってからは病院マッサージ師の地位は一変してしまいました。国公立病院への就職はPT(理学療法士)以外の者は認められず、また保険点数でも10倍ほどの差が付けられておりましたから個人病院でもマッサージ師を敬遠するようになっていきました。意図的に医師がマッサージの指示を出さず仕事をどんどん減らし、職場に居づらくさせられたため退職せざるを得なかったといった事例もあったようです。
晴眼者のあはき師(あんま・マッサージ指圧師、はり師、きゅう師)養成施設が新設されるような場合には必ずといっていいほど反対運動が起こりますが、この理学療法士制度の導入についてはそのような動きはほとんど見られませんでした。時代の流れとしてPT法の成立を阻止することは不可能であったでしょう。しかし今となっては所詮結果論に過ぎませんが、病院マッサージ師としての既得権を保障し、将来的にも身分を安定させるための運動は必要であったのではないかと思われます。
それではなぜこのような運動が起こらなかったのでしょうか。それは病院マッサージ師の間に大きな誤算があったこと、というよりは反対運動を阻止するために意図的に誤解させられていたようです。
ではその大きな誤算とは何か?「PT法施行に際しては経過措置が設けられており、おそらく現在マッサージ師として働いている者には既得権もあるはずなので、簡単な講習や形式的な試験程度でほぼ全員にPTの資格が与えられるであろう」というものだったようです。
そして昭和41年から6年間の期限付きで特例試験が始まりました。ところが、いざ蓋を開けてみると、「これは大変」受験した者はもちろん、関係者の間に大きな動揺と衝撃が走りました。怒りの声すら聞かれました。ほとんどの者が不合格、というよりは意図的に落とされたといった方が正確かもしれません。おそらく合格率は数%ではなかったでしょうか。
特例試験を受けるためには、まず240時間の講習を受ける必要がありました。そして、その後の筆記試験と実技試験に合格した者にPT免許が与えられました。
先ほども書きましたように、この特例試験は既得権者を救うという意図は全くなく、まさに落とすための試験であったとしか言いようがありません。問題なのは実技試験です。
試験官は全て医師で3つの関門がありました。
(1) 測定や評価について
(2) 義肢や装具、電気、温熱などの物理療法について
(3) 機能訓練の実際について
です。台の上に山積みされた義肢や装具の中から指定された物を取り出せとか、よほど視力がなければできないようなテストをされたようです。そして問題なのは、受験者によっては第4関門の面接に回されたということです。西日本の場合、実技試験は大阪で行われましたが、この第4関門の面接官はその当時整形外科の分野では有名であったM先生でした。
残念ながらこのM先生は視覚障害者が医療に携わることについては、かなり否定的なお考えを持っておられたようです。彼の面接を受けた者はほとんど不合格にされたと聞いております。
あまりに合格者が少なかったため、もう3年間(昭和49年まで)特例試験を延長させることはできましたが、この9年間で果たして何人が救われたでしょうか。念のためにと思い、厚労省に電話して聞いてみました。不思議なことに特例試験についての資料は見当たらないということでした。
それでもしつこく、あれやこれやと聞いているうちに特例試験最後の2回分の資料が出てきたようです。それによると8回目の特例受験者は874人で合格率4.9%、最後の9回目は849人で10.8%ということでした。10%を超えたのはおそらくこの最後の試験だけではなかったのではないかと思われます。おそらく毎回数%の合格率ではなかったでしょうか。医療関連の資格試験でこのように低い合格率の例が他にあるでしょうか。全く冷酷な話です。
ちなみにこのPT法施行と同時に、高知でもいち早く既存の学校にPT養成課程が設けられました。そのため幾つかの関係団体が県に陳情を行い、特例試験のための講習会が開催されることになりました。昭和44年の7月から12月までで、土曜は午後の3時間、日・祝祭日は6時間という結構ハードなものでした。開講時には100名ほどの受講者がいたと思います。私もこの講習会に参加しましたが、義肢や装具、ファシリテーションに関する理論と実技など、それまであまり見聞きしたことのないものも多く、大変勉強になりました。
そして翌昭和45年、四国では1次試験が高松で、その合格者には大阪で2次の実技試験が行われました。
私の受けた実技試験では、第1関門は前脛骨筋の筋力テストと試験官の足部を触れながら足根骨の位置的関係を説明するもの。第2は、KBM下腿義足とクレンザック式の短下肢装具を見せられて、それについての特徴などについて説明したり、ホットパックやパラフィンバスの使い方について説明したりするもの。第3は脊髄損傷(対麻痺)の平行棒内での歩行訓練や車椅子・ベッド間の移動を、試験官を患者に見立てて訓練するというものでした。
決して自慢するわけではありませんが、たまたま理解していたところが出題されたため合格することができました。私もM先生の面接に回されていたら、おそらく合格することはなかったと思います。その年の高知県でPT試験に合格したのは、私と養護施設に勤務していた女性の方(晴眼者)の2名でした。このことからも、いかにひどい試験であったかということがおわかりいただけるのではないでしょうか。これは全く根拠のない数字ですが、筆記試験だけであればおそらく60から70%の合格率ではなかったでしょうか。特例期間が終わって間もなく実技試験は廃止されました。
現在、視覚障害者を対象としたPT養成施設は3箇所ありますが、重度の視覚障害者は実習の受け入れ先や就職に大変苦労していると聞いております。月並みなことを言いますが、晴眼者のシステムに視覚障害者がいくら努力して対応しようとしても、そこにはおのずと限界があるのは当然です。障害者雇用の促進という観点から障害者に応じたシステム作りが必要なのは当然です。障害者の能力が充分に発揮できるよう、政治的な解決が望まれます。そういう意味においても、この「ゆいまーる」の発足の意義は大変大きなものではないでしょうか。