大里 晃弘(おおさと あきひろ)
1. 人生の転機
転機は、ふいにやって来るものである。
私自身は、40歳代の半ばを過ぎて、自分の後半生をどのように生きていくか考えたものである。少なくとも、医者になるとは全く考えられなかった。法律で、盲人が医者になることが禁じられていたからだ。自分としては、あはき師(鍼灸マッサージ)で生計を立てるべく、治療院など勤め先を考えていた。その上で、余暇の時間を使いながらカウンセリングや心理療法の勉強をしたいと思っていた。
自分に残された人生は、せいぜい20年ないし30年。その限られた時間で、生活の糧を得ながら自分なりに満足のいく生き方としては、それが分相応と考えていた。
ところが、である。2000年が近づく頃、多くの分野で国家資格を取るための欠格条項の見直しが始まったことを聞いた。医師法の改正も視野に入っているという。これが、私の人生にどうかかわってくるのか、その時は思いもよらなかった。
2. 医師への道、再び
医師法が改正され、欠格条項が緩和された。「見えないもの」「聞こえないもの」も資格を取ることができるようになった。そして「特例受験」という形で、2003年3月から全盲でも医師国家試験を受験できるようになった。
私はその特例受験を受け、3回目にしてようやく合格できた。大学を卒業して4半世紀近くが経っていた。国試 合格は私にとって条件なしの喜びであったが、その一方で具体的にどこで研修を受け、どこで仕事ができるか。一つのハードルを越えると、さらに大きく高いハードルが私を待っている。果たして、そうしたハードルを越え続けることができるのか、喜びと不安が同居する日々が続いた。
3. 臨床の現場からのスタート
縁あって、筑波大学の精神科医局にて、臨床医としての基本的な研修を受けることができた。しかし、フレッシュマンが受けているスーパーローテーションの臨床研修とは違う。今の若い研修医の先生は、一般身体医学の経験を積み、ある程度救急救命の技術や知識をもつことができる。私にはそれがない。4年前から民間の精神病院(単科)に仕事を持つことができた。臨床医としての基本的な知識や技術、経験は、そこで培われた。
勤務を始めた頃は、開放病棟を担当するだけだった。今から振り返っても、賢明な対応だったと思う。そこでは、患者さんの診察、処方薬の調整などをベテランのスタッフから教わりながら、そして自分でも文献を調べたり考えながら、仕事を進めた。カルテや処方をたくさん読んでもらった。診察を通しながら精神科医として少しずつ歩み始めたと思う。
最初は、彼ら彼女らスタッフは「目が見えない」医師に戸惑ったであろうが、お互いに模索しながら、何とか病棟としての仕事をこなすことができたように思う。そして、年月を積み重ねながら、外来の仕事も少しずつ始まった。
やがて担当病棟も変わり、外来も新患を診るようになり、自分の仕事は大きく変わっていく。そして、新患を診察しながら自分なりに感じることや考えることが多くなってきた。
4. そして、今
現在の私は、ひどく忙しい。一般の精神科医であれば普通にこなせる患者さんの質と量であろうが、目の見えない医師にとって、一日分の患者さんの書類を、その日のうちに片づけることができない。外来と病棟のカルテだけでなく、他の施設への紹介状、自分が入院させたり退院させる場合の書類、作業療法を依頼する書類。色々な書類があることを、この仕事に就いてから知った。そして、障害年金や介護保険の意見書、自立支援法の手帳。患者さんを診察するより、書類に割くべき時間の方がはるかに多い。
自分の力量の限界だと思いながら、一日一日を、ただただ追われながら過ごしている。「このままでいいのか?」「これで、良い医療ができるのか?」「それでも、これが自分の限界なのか?」などと、毎日同じようなことを自問自答している。
私は国試合格した時が50歳だった。合格した時に心に決めたのは、どんな条件になっても、60歳になるまでは医師としての仕事をしていこうということだった。現在は、その道 半ばである。