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                    田中 康文(たなか やすふみ)(1949年9月24日生まれ)

 「ゆめ」は昔、寝目、すなわち「いめ」と呼ばれ、睡眠中に見えるものを意味していた。
 一方、漢字の「夢」は、その上部は羊の赤くただれた目、よく見えないことを表し、それと覆いを意味するワカンムリ、及び夕の原型である月を合わせた字で、夜の闇に覆われて物が見えないことを意味する。
 平安時代頃より「ゆめ」に転じ、儚さなど比喩的にも用いられるようになり、実現は不可能だが実現させたい願い、あるいは将来の希望といった意味で「夢」が使われ始めたのは、近代以降であると言われている。

 それでは闇に覆われたようにほとんど物が見えない私にとって、将来 実現させたい願いとは、夢のように形のないものを残したい、という願いである。見えにくくなってから一番きつかったことは孤独ではなく孤立であった。現在、一人で生活しているが、一人で生活することに慣れてしまうと孤独はそれほど寂しくはない。

 しかし、私の周囲にたくさん 人がいるのに私とその周囲の空間だけが取り残されて、周囲の人たちと交流できない孤立ほど寂しく感じたことはなかった。一人暮らしの高齢者より家族がいるのに孤立した高齢者の方が自殺が多いと聞いたことがある。
 また、まだ目が見えていた時の神経内科の外来で、「早くお迎えが来て主人の所に行きたい、いつも家族に世話にばかりになって生きるのがつらい」と言っていた高齢者がいた。

 また、私は見えにくくなって精神的に参っていた時、元妻に「都内の眼科外来へ一緒に行ってくれないか」と頼んだ時、「行けない」と言われたことがあった。その理由は「他人じゃないから」と言われた。この意味がずっとわからなかったが、その後、他人は1回の親切で終わるが身内の者は1回では終わらないので、それが負担になる時があるということがわかった。
 そのため、自分でやれることは可能な限り自分でし、難しいかもしれないと思っても一度は自分でやってみることにしている。どうしてもやれないこと、あるいは時間がかかることは誰かにお願いすることにしている。

 このような経験を活かし私の儚い夢を少しでも実現するために、私財のほとんどを投入し、3年前から介護施設を運営し、少しばかりの医療を行なっている。なぜ介護施設かというと、孤立した高齢者に手を差し伸べ、残りの人生を有意義に送っていただきたい、人生の先輩たちから多くのものを教わりたいと願っているからである。
 そして長年、大学で記憶などの高次脳機能を研究してきた経験を活かし、認知症対策を本格的に行いたいと思っている。認知症の人を人間として扱い、そしてその家族にも手を差し伸べる必要があるから。

 現在、12人ほどの訪問診療と介護施設利用者とスタッフの診療、それに数人の漢方外来をしている。訪問診療の時、白杖を突いてるのを親戚の人が見て、マッサージ師と間違われマッサージを依頼されたり、また患者が急変して急遽往診した時、少しうろたえる時がある。訪問診療の患者さんの数がなかなか増えないことも併せて、今後乗り越えなければならない多くの課題が残っている。

 私はまた、例えば血圧にはなぜ収縮期圧と拡張期圧が存在するのか、心臓が拡張した時、なぜ動脈は逆流しないで絶えず押し出されるのかなど、大学で勉強してきた医学とは視点を変えて、よりわかりやすく西洋医学を説明するために、NHKの『今日の健康』の録音を聞きながら勉強している。
 しかしながら、このような西洋医学は西洋の狩猟民族から派生した学問であり、獲物を効率よく狩猟するために、その行動パターンを調べるなど、分析を得意としている。一方、東洋医学は稲作農業や魚介類など、自然環境の中で自然と調和して生きてきた東洋民族から派生してきた学問である。

 人間の脳は分析脳と言われる左脳と、調和・ハーモニー脳と言われる右脳の両方があって脳と言われるように、医学も西洋医学と東洋医学の両方があって初めて医学・医療と言えるのではないかと思っている。
 このような東洋医学の中でも、私は約10年前から鍼灸治療を、約3年前から漢方薬治療を勉強している。鍼灸治療は、最近ほとんど鍼灸師たちにお願いしているが、漢方薬に関しては東京で月1回講義を受け、毎日数時間の勉強を続け、主に女性の冷え・のぼせの人を診察している。

 鍼灸治療は昨年11月から鍼灸師たちの応援を得て、長野式鍼灸をベースにして、保険を使って訪問鍼灸を約30人ほどしている。先駆者の長野潔は、網膜色素変性症で眼に障害がありながら猛勉強し、今では晴眼者の鍼灸師たちがその独自の鍼灸治療を勉強しているところに惹かれたのである。

 今後は、長年お世話になった自治医科大学の学生と若手医師たちが、鍼灸と漢方薬など東洋医学を学べるセンターをつくりたいと思っている。
 医学は西洋医学、医療は東洋医学であることを最近、実感しつつある。多くの友人たちに支えられて、居心地のよい安心と、信頼でき、皆で生き甲斐を共有できる施設ができることを願っている。また、苦労を共にし、この世に 生(せい)を受けた喜びを皆で分かち合える日が来ることを願っている。