藤原 義朗(ふじはら よしろう)
60年安保の年、私は鳥取県で生まれた。5歳で弱視の矯正訓練なるものを受けたが、疲れ果てて続かなかった。小学生時代は『ゲゲゲの鬼太郎』の境港で過ごした。山陰地方は、冬は曇りの日が多く 教室が暗い日は黒板がしんどかった。
少年サッカーチームのキャプテンをしていた。『サインはV』のように「ファイト、ファイト」とかけ声を上げながら走った。憧れのお姉さんを見ると声に力が入った。
夜盲の私は日没になるとウルトラマンのようにサッカーボールを持って帰って行く。日没後、25分くらいまでが勝負である。鳥取の一番早い日没は4時49分であった。
さて、中学3年になって高校はどうしようかと悩んだ。エンジニアをめざしていた私は、地元の工専の文化祭へは毎年行っていたが、工業分野は視力が要るだろうということでやめた。大学へ行くよりは、早く仕事に就かねばという思いから鳥取商業高校へ進んだ。
いかにも甲子園へ出そうな名前だが、1回しか出ていない。吹奏楽部へ入りトランペットを吹いていた。楽譜に集中していると、タクトが視野に入らずリズムを乱すことがあった。
3年になると、さすがに職業選択に迷った。当時、リハビリ学院は全国で10校しかなかった。その6年後であるが、妻になる人に会った時、「リハビリの仕事をしています」と言ったら、「それは、何かボランティア活動のことですか?」と言われたくらい世間の認知度は低かった。リハビリの道は、鳥取の山奥で畑をしながら短歌を詠んでいた亡き祖母がヒントをくれたものだ。
高知リハビリテーション学院理学療法学科へ進んだ。当時、全力投球の考え方をしていた私は、神経的に参ってしまい、半年休学して鳥取に帰ったこともある。実習は、小児は高知、県外へは愛媛大学と山梨のリハビリ病院に行った。慣れない地での弱視者の生活・実習は、勉強以外に覚えることがたくさんある。夜遅くなることもあるので下宿までの歩数も覚えた。
さて、当時 希少価値といわれた理学療法士は、廊下の壁にずっしり求人票が貼られていた。読売巨人軍からトレーナー募集というのもあった。鳥取に帰ると決め、友人と祝いのサントリーレッドを飲んでいたところに、今の勤務先である高知生協病院準備室の人がやってきた。「99パーセント鳥取に」と言ったが、「1パーセントにかける」と言って帰って行った。何度も訪ねて来られた。
高知生協病院に入ることを決め、病院開設まで、大阪の西淀病院で1年間研修することになった。そこは理学療法士もいるが、鍼灸マッサージ師もたくさんいる。運動療法と手技両方を兼ね備えた総合的理学療法の必要性を学んだ。
27歳の時、拡大読書器がコンパクト化され値段も30万円台に下がったものが、ミカミから発売され、高知県第1号で購入した。どんどん本を読みまくった。それと共に読書器から目を離すと視力は落ちていった。最近、視覚障害者の就労支援活動をしている中途弱視の方にあったが、「視力が落ちた時は本当に苦しかった。死のうと思った」と言った。
それに引き換え 幸運にも、私は見えるうちから点訳ボランティアをしており、点字メニューなど作っていた。その頃は目で点字を読んでいた。また、「高知県視力障害者の生活と権利を守る会」の青年部長や事務局長をしており、それほどショックは大きくなかった。
38歳で父親になり、子どもの存在が私を後押ししてくれる。私の仕事の武器は、障害者福祉制度や社会保障についての知識であろう。これは、リハビリの現場では非常に役に立つ。患者さんの悩みを察知し、MSW(医療ソーシャルワーカー)につなげていく。身障手帳はもちろんのこと障害年金の対象者も見つけることができる。このスタンスは続けていきたいと思っている。
しかし、この間 医療情勢の変化は著しい。小泉構造改革、骨太方針のもと、病院の中に嵐が吹いてきている。後、定年まで10年、どんなに時代が変わることか。
私は、12年前に真面目に生きることを捨てた。自分も苦しいし、周りもしんどい。「晴眼者に負けずにやりぬく、と考えずに自分のスタンスで」と思うようになり楽になった。
私は、広島カープの高知応援団長としてラッパを吹いている。視覚障害登山の会では、四国山地の頂上でビールを飲んでいる。
人生 背伸びが必要な時もあるが、いつまでも背伸びは続かない。自分のスタンスを持って生き続けたいと思う。