【チャレンジ賞受賞 ゆいまーる 守田 稔代表】     【機関誌第2号】     Top


  (月刊『視覚障害 ― その研究と情報 ―』2011年9月 No.280より転載)

      第9回 チャレンジ賞・サフラン賞決まる

 8月1日に開催した選考会において、第9回チャレンジ賞・サフラン賞の受賞者が決定しました。
 サフラン賞は、2003年に閉鎖された(財)東京サフランホームの残余財産を基金に、同ホームの伝統と実績と精神を継承し、若い視覚障害女性の活動を励ますために毎年1人を選び贈るものです。チャレンジ賞はその男性版として、ケージーエス株式会社の榑松武男社長より同社創立50周年の記念としてご協力いただき、創設したものです。

 チャレンジ賞の受賞者は、全盲の医師国家試験合格者第1号の守田稔さん(35歳)です。医大在学中に難病であるギラン・バレー症候群を発病し、視覚や肢体に障害を負いながらも夢を諦めず、2003(平成15)年に医師国家試験を突破。現在は奈良県にある「かわたペインクリニック」の心療内科で外来診療しています。
 また、「視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)」を主宰し、全国の視覚に障害のある医療関係者の情報交換や環境づくりのための活動をリードしています。視覚障害者の職域を開拓する先駆者としてのこれまでの実績と活動が受賞の理由です。

 サフラン賞に選ばれた柏木佳子さん(38歳)は、大阪府で電話交換手として勤務しています。生後間もなく失明した柏木さんは、1975(昭和50)年に公立保育所に進み、その後すべての段階を統合教育で学び、大学卒業後より現職。勤務の傍ら、自らも競技者としてタンデム自転車の普及に取り組むほか、映画・演劇の音声解説や盲ろう者の文化活動の支援にも携わるなど、障害者の自立と福祉・文化向上に熱心な姿勢が評価されての受賞となりました。

 両賞の贈呈式は9月10日(土)、都内セシオン杉並ホールを会場に、視覚障害者支援総合センターが開催する「競い合い、助け合うコンサート2011」の席上で行ないます。
 どうぞお2人に温かい声援をお送りください。


  ■ 諦めない気持ちと周囲の協力が叶えた夢
    全盲で医師国家試験を突破した第1号  守田 稔さん

 「まさかの受賞でしたので、お知らせをいただいた時は、キツネにつままれたような感じでした。しばらくして嬉しいという純粋な気持ちが生じ、そして今は受賞したことに対して身の引き締まるような思いでおります」

 第9回チャレンジ賞受賞の守田さんは、受賞にあたってのコメントの冒頭、まずそう述べられました。
 守田稔さん、35歳。肢体障害もあるため、車椅子を使用している全盲の精神科医です。


   病との闘い、そして挑戦(チャレンジ)へ

 守田さんは1975(昭和50)年12月、大阪市の開業医の家庭に、3人兄姉の末っ子として生まれました。将来の夢に、医学の道を思い描くことは日常の延長線上のことだったのでしょう。
 ギラン・バレー症候群とは、急性の運動麻痺をきたす末梢神経障害で、日本では難病(特定疾患)に指定されています。四肢に力が入らなくなり、重症の場合は呼吸もできなくなるといいます。発病率は10万人あたり年間1〜2人程度とされていて、割合から言えば決してめずらしいとは言えない病気です。

 守田さんが、この病に初めて冒されたのは小学4年の冬でした。入院から2週間で手足が動かなくなるまでになりましたが、幸いにもそれ以上は進行せず、4カ月後に退院することができました。とは言っても日々の生活は車椅子でしたから、リハビリを継続していくことになります。その結果、中学生になる頃には、ほぼ普通の生活を送れるまでに回復していきました。健康な身体を取り戻した守田さんは、幼い頃からの夢を実現させるべく、関西医科大学の医学部に進みました。

 1999(平成11)年、守田さんは5年生になっていました。5月の連休明けの日のことです。朝、目が覚めた守田さんは、平衡感覚や視覚に違和感を覚えました。内科と神経内科を受診しましたが、明確な症状が発見できなかったため、その日は帰宅しました。翌朝、守田さんが目を開いた時には、既に足に力が入りませんでした。部活動の先輩や同級生に支えられ、病棟に入った時には視野が狭窄しているのを自覚されていたそうです。その日、一気に病気は進行しました。手足に力が入らないことはもちろん、息苦しさを感じてナースコールをしたのを最後に記憶はなくなり、次に意識が戻った時には気管に管を通されていました。顔の筋肉も動かすことはできず、まばたきと眼球運動以外に外部とコミュニケーションを取る手段がなくなりました。入院3日目、救命救急科の集中治療室に移されます。そこで、守田さん自身、振り返って「死んだ方が楽だと感じる」ような、生と死の狭間の日々が過ぎていきました。

 それから1カ月が過ぎ、動けない、そしてしゃべれないことに変わりはないものの、守田さんの症状は安定の方向へ向かいました。しかし、視力は既に左眼だけ、針の穴を通すようなわずかな視野しか残されていませんでした。その後、ゆっくりとではありましたが舌が動き、首、肩、腕へと動かせる部位が増えていきました。翌年には呼吸器も外すことができるようになり、4月、退院の日を迎えます。

 退院後、リハビリと自主的な勉強の日々を送る守田さんに朗報がもたらされました。大学側の配慮によって4年生の授業に自由参加できるようになったのです。その中で、部活動の後輩が、黒板やスライドの内容などを説明してくれるなど、周囲の協力もたくさん得られました。守田さんが、医師国家試験における絶対的欠格事由が緩和される可能性があるかもしれないということを知ったのは、ちょうどこの頃でした。

 2001(平成13)年4月、守田さんは5年生への復学が許可されました。毎日同級生たちによる献身的な協力があり、不安だった臨床実習もすべてこなすことができました。

 そんな守田さんに2つの現実が待っていました。1つは、その年の7月、障害を理由に免許や資格を認めない絶対的欠格事由を見直すために、医師法等を改正する法律が施行されたことでした。これにより医師法に定める絶対的欠格事由であった「目が見えない者、耳が聞こえない者又は口がきけない者」という部分が削除され、相対的欠格事由と変わりました。もう1つは、同じく7月、左目に残されたかすかな視力を失ってしまったことでした。守田さんはその年の夏を「失意のどん底」の中で過ごしました。

 しかし、守田さんは家族による後押しと、欠格事由の撤廃にかけ、9月、大学へ戻ります。仲間たちはこれまでと同様に守田さんを支援してくれました。また、教科書は家族が協力して、カセットテープに吹き込んでくれました。
 6年生になると守田さんは、医師国家試験の特例受験に向けて、視覚に障害がありながらも各界で活躍されている先輩たちに会い、強力な助言を得ます。一方、8月の官報で試験を受けられる目途はたったものの、受験方法をめぐる厚生労働省当局との調整は微に入り細を穿ちました。

 そして迎えた2003年3月の第97回医師国家試験。問題は通常と同じもので、時間は1.5倍。1日10時間におよぶ試験が3日間続きました。その結果が発表されたのは4月末。守田さんは全盲にして初の医師国家試験合格者となりました。しかし、目の見えない人が医師になるなどという前例はありません。母校の精神神経科への入局は決まっていたものの、守田さんに医師免許が交付されたのは、厚労省での面接を経た8月でした。


  「ゆいまーる」の精神とともに

 本人の努力と周囲の協力を得て医師の資格を得た守田さんですが、その後もたくさんの方からアドバイスとサポートを受けながら、手探りでの前進が続きました。その中で、医療の仕事に従事しながら視覚障害となった人や、視覚に障害がありながら医療職に就いた人などと出会い、世界を広げていきます。

 その交流の中で1つの考えがまとまりました。
 「視覚に障害がありながら色々な医療関係職に従事する人たちが集まり、お互いに情報交換を行なったり、親睦を深めていけたら」
 そんな思いを託し、2008(平成20)年6月、「視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)」を立ち上げました。沖縄の言葉で「結びつき」「助け合い」を意味する「ゆいまーる」という名前が、会に込められた願いを表していると言えるでしょう。発足当初は10名程度だった会員も、現在では正会員21名、協力会員50名にのぼり、医学情報のテキスト化、診療の工夫などの情報交換を中心に活動しています。

 私生活では、病気以前も以後も大の鉄道好き。目が見えなくなってからは「音」や「匂い」での楽しみ方もわかってきたとか。そんな守田さんから受賞の感想をいただきました。

 「この度の受賞では私自身がとても励まされています。そしてそれを励みに、今まさに視覚障害をもちながら医療職で奮闘されている方々や、医療職を目指している方々と共に活躍できる場を広げていけるよう、今後も私ができることを一歩一歩積み重ねていければと思っています」

 慎重ながらも頼もしい言葉選びに、今後の守田さんの活躍が期待されてやみません。


     月 刊 「視覚障害 ― その研究と情報 ―」
     発 行 社会福祉法人 視覚障害者支援総合センター
         〒167-0043 東京都杉並区上荻2-37-10 Keiビル