【産業医の役割】     【機関誌第2号】     Top


 『日本医師会雑誌』第138巻・第11号〔特集 働く人のうつ病〕平成22(2010)年2月より転載

   本 多 伸 芳(ほんだ のぶよし)

   東芝横浜事業所参事
   Role of Medical Adviser at Workplace for Better Mental Health Nobuyoshi Honda:
   Toshiba Corporation Yokohama Complex

    [キーワード]  筆者の信条  従業員ニーズ  組織マネジメント


  はじめに

 「働く人のうつ病」をめぐる産業医の役割は、一言でいえば安全配慮のリスクマネジメントである。1990年代半ばから、弊社の職場メンタルヘルス教育はとりわけ大うつ病に焦点を当ててきた。しかし変容する産業現場では、うつ病はメンタルヘルスの象徴的な呼称となって、現実は多様化している。産業医には本来のうつ病リスクを見逃さない感性が望まれる。
 本稿では、うつ病を含めた職場メンタルヘルス全体における筆者の信条、従業員ニーズとその対応、職場メンタルヘルス確保のために打つべき先手は何かなどを中心に、産業医の役割の可能性について論ずる。


  T.筆者の信条と従業員ニーズ

 1.産業医としての信条

 職場メンタルヘルスで多く遭遇する適応障害、不安障害、人格障害などは、他者との関係におけるトラブルで露見する外向きの病であるが、うつ病は個の内にあって、内向きに肥大する病である 1)。変容する労働環境や対人関係のなかで、メンタル不調者は多様化する一方であるが、うつ病対策の重要性は決して色褪せることはない。
 筆者は、「(あなたが)この会社で働きたい、役立ちたいと思う限り、私はあなたを守る」という機軸を信条とし、迷ったときはいつもここに立ち返るようにしている。

 2.従業員ニーズ

 メンタルヘルスにおける従業員ニーズは、筆者が把握しうる限り、次のようである。

 (1) 相談窓口の敷居の低さ― Accessibility

 社内専用電話窓口など、あれば良いに違いないが、 「本当につらいときは受話器さえ重い」という意見も聞く。このことは、社外電話相談システム(弊社2000年導入)でさえ、救いきれていない苦しむ人たちの存在を示唆している。現場の、敷居の低い、顔の見える産業医の存在はその意味で重要である。

 (2) 親しみやすさ(接遇力)― Hospitality

 産業医も傾聴、あいづち、言い換えなどのカウンセリング技法、共感へのプロセスに習熟しておきたい。カルテに顔を埋め、アイコンタクトなしの質問攻めでは、相談者の相談意欲を削ぐだけである。

 (3) 職場への仲介役― Collaboration

 共感や精神的支援を得るだけで一応の解決をみる場合もあるが、関係職場への介入が望まれる場合も多い。当該職場の人的、環境的対応力はおのおの異なるので、ゴールをどう設計するか、産業医の腕の見せ所となる。

 (4) 治療行為は望まれていない

 産業医が同時に(精神科)治療者となった場合、必ず産業医としての迷いが生ずる。産業医は治療者ではない。組織がこの認識を好意的に理解してくれていることは、産業医活動を進めるうえで非常にありがたい。これも日ごろの活動やメンタル教育の成果である。

 (5) 一般の声を拾うと

 「先生には一般の従業員にも管理職にとっても、仕事だけでなく、日常瑣末なことから人生の悩みまで、何でも相談できる存在でいてほしい」とは、入社以来よく聞かされた言葉である。産業医の役割とは、案外こうした素朴な声に真摯に向き合うことではないかと思う。


  U.メンタルヘルスにおける産業医の役割

 1.二次予防(早期発見、早期介入)

 ニーズの声から連想すると、産業医には高い人格的成熟度が要求されているものの、日常は「待ち」の仕事だと思われているようである。しかし、産業医は待っているだけではなく、日々二次予防に前足を置いて余念がない。
 健康診断の問診票や各種の面談機会を利用し、メンタル不調者の早期発見に注力している。二次予防の主眼はいうまでもなく、うつ病対策にある。弊社は電子化した問診票を活用し、健診後の全員個別対面式健康支援では、産業医および保健スタッフ全員が精神疾患簡易構造化面接法(Mini-International Neuropsychiatric Interview; M.I.N.I.)2)を習得し、とりわけ大うつ病の早期発見に努めている(上記いずれも弊社2000年導入)。

 セルフケアや管理者教育でも「うつ病への気付き」を中心に据えてはいるが、安全健康配慮義務のリアリティは簡単には伝わらない。個々の事例に直面し、優先順位の道標として語られてこそ安全健康配慮義務は、臨場感をもって認識されるのである。

 2.敷居をいかに低くするか

 産業医は個々の相談者と長く付き合う仕事(環境)であるので、時間を味方にしたい。
 各種委員会や公私の集まりには多く参加し、その場におけるただ1人の医療のプロフェッショナルとして、発言を楽しむとよい。講演を頼まれる機会も多いので、気張らず、話術やユーモアを楽しみ、皆の反響を味わうとよい。笑いは信頼への触媒である。

 筆者は幸運にも、 1996年当時まだ珍しかった社内個人ホームページの運営を任され、健康医療に限らず社会観、人生観などを自由に記述して評判を得た。産業医としての宣伝効果は大きかった。時代のニーズは変わっても、その各時代に即したアイデアや工夫があると思う。

 3.共感力は想像力

 個人の人生に関わるとき、マニュアルはないものと心得たい。いかなる問題に直面しても動じず穏やかに対処できるよう、虚心坦懐で臨みたい。
 労働は人生そのものである。性、年齢、家族、経済力、学歴、専門性、職歴、変えがたい人格、拭い去れぬ過去、当面の相談事にはそうした背景が漠としてある。因果関係を決め付けてはいけないが、背景要因として耳を傾け、思いを馳せる。決して聴き急がず、沈黙を恐れず、結論を急がない、想像力は共感への糸口である。
 ただし、産業医は共感だけでは終われない。労働現場の健全化と生産性確保という使命があるからである。共感しつつ、その職場に何ができて、何ができないのか、どうすれば、全体が救われるのか考えなくてはならない。
 うつ病に関して言うと、大抵の相談者は、自分の否定感情傾向や対人関係不調に自責的感情を抱いている。しかし、そうした否定的感情こそが、人類の安全や「今」に安穏しない発展への動機となった基本的創造的感情であることを「頑張れ」の代わりに送りたい。

 4.産業医は雑識学派である

 相談者の問題が明らかにうつ病ベースであるならば、 「休業への勇気」を促す場に遭遇する。そういう意味で、産業医も精神科知識や初期対処能力が必要である。治療のためではなく、相談者が良い主治医と出会い、良い関係を築き、不安なく治療に専念できるよう支援するために必須である。
 また、産業医は職場メンタルヘルスに関わる国の方針(法、指針)、社内ルールすなわち労働契約、就業規則、休業・職場復帰のルール(弊社2003年導入)3)、傷病手当金制度、休職発令と人事ルール等にも深く精通し、常に引き出しから出せるようにしておくべきである。それが説得力や信頼度の元となるからである。

 5.組織マネジメントに一家言

 前項で「休業への勇気」について書いたが、同時に「職場復帰時の支援確約」にも触れておかなくてはならない。三次予防(復職支援・再発予防)は二次予防の担保である。
 復職支援では、職場上司や同僚の協力の下、仕事の与え方、見守り方、言葉の掛け方、評価の伝え方などを提案していく。こうしたメッセージは同時に、職場から新たなメンタル不調者を出さない一次予防(未然の防止)施策そのものに転化してゆく。これが産業医の後足である。

 (1) メンタル不調者を出さない組織風土

 長時間残業健診の面談時、 「少しきつくてもあの上司のためなら」、あるいは「この仲間とならまだ頑張れる」という言葉を聞くことがある。人はどんなとき、同じつらさでも頑張りぬけるのか、職場メンタルヘルスの命題である。
 仕事量ストレスの1つは、想定外の仕事トラブルのことが多い。それでも、それらがおおむね予想の範囲内に感じられるとき、また、それがいつまでに一段落するのか見通せるとき、ストレスは軽減する(将来葛藤のマネジメント)。関わっている仕事が社内で、または社外や世界で価値がある(有意味)と思えるとき、人は頑張れる(役割葛藤のマネジメント)。そして、困難に面しても、同僚間で苦労を分け合える、またそれを上司が見守り、ねぎらい、賞賛し、感謝の声掛けをし、健康を気遣ってくれる、そんなとき、人は必ず奮起する。むろん、仕事には失敗もあり、上司からの叱責も経験するが、個の尊厳が守られ、教え育てるプロセスにあると感じられるならば、部下は忠誠を誓い成長する(対人葛藤のマネジメント)。
 とりわけ上司による家族への配慮、感謝の言葉は、メンタルヘルスの向上に欠かせない。
 以上のような良質な組織風土への見識も産業医には必要である4)。

 (2) フェアマネジメントを浸透させる

 三次予防から一次予防へ、これをもう少し単純化したものが organizational justice [組織公正(公平)]理論である5)。フェアマネジメントはこの理論の応用で、フェアは公平・公正の両意である。
 組織としての一体感を堅持できるような有用な情報を共有する。たとえ部下が遠隔に配置されていても、上司からの情報伝達は出張先の孤軍感情を緩和し、奮起させる(情報公平マネジメント)。また、異動、報酬などの処遇変化について、おのおのに時間を公平に割いて説明する。公平に意見の発言機会を与える(手続き公正のマネジメント)。部下の人格を尊重し、真摯に向き合う(対人関係公平のマネジメント)。

 以上がフェアマネジメントの概要であるが、よく整理されていて分かりやすく、管理者教育でも受講者の反応が良い。
 かつて上司と部下の葛藤を吸収してくれたのは、製造現場に自然発生したメンター(Mentor、ホメロス叙事詩『オデュッセイア』より)、つまり職場の兄貴的存在であった。バブル崩壊後は希少化し、その価値もかすんでしまった。健康社会学者アントノフスキーは、ストレス抵抗性研究の著書で6)、メンターのような頼れる存在に注目している。メンターの育成は組織メンタルヘルスの重要な一翼であることは間違いないであろう。
 ところで、うつ病の不幸な転帰(自殺)に限らず、メンタル不調者の顛末は全体に訴訟リスクをはらんでいる。CSR(corporate social responsibility;企業の社会的責任)に恥じない企業見識(良質な組織風土やフェアマネジメント)を示せるかどうかは日ごろの組織の努力にかかっており、産業医の役割は大きい。

 6.産業保健のプロとして冷静な目で

 精神医学の新知識や新定義は魅力的である。しかし、産業医の役割は職場がこうした新概念に振り回されないよう、冷静な警鐘を鳴らすことである。たとえば現代型うつ病対策やリワークプログラムを例に挙げるなら、個々の事例は、原因も環境も個々の能力も皆違う。病名は変わっても不幸な転帰のリスクは変わらない。産業保健の本道は、長い時間軸のなかで、排他ではなく、皆が良い労働人生を送れるよう歴史を紡ぐことである。

 7.その他、セルフケア

 個々のストレス抵抗性を高めるセルフケアとして、認知療法、自己肯定観の勧め、アサーション行動、睡眠の科学など、テーマは多彩にあるが、ここでは項目紹介にとどめる。


  おわりに

 産業医として16年、筆者医師人生の半分という寡少な経験であるが、筆者の信条、従業員ニーズなどについて述べるとともに、日本経済を支える一員として働く人の精神風土の安寧を目指し、産業医の役割の可能性について探った。
 産業医は裏方である。二師三兄五友、従業員のだれかが、筆者をその1人として挙げてくれるなら、私の人生は十分に幸いである。

 フランクルは著書『夜と霧』(邦題)7)で、絶望の淵にありながら人間性を失わなかった人たちのことを書いている。彼らは、収容所生活のなかでも人生の価値を信じ、いつかは救われる希望を捨てなかった。むろん、その希望が決して叶わないだろうということをだれもが知っていた。これを有意味感と将来希望と読み換えるならば、筆者などが賢しらに語ったマネジメント理論が有する本当の重みに気付き、戦慄せずにはいられない。
 うつ病という病名が意味するところは、本人、主治医、職場、そしてメディアの間で微妙に異なっている。しかし「働く人のうつ病」という総称こそが、現代人の心と社会基盤の危うさを表しており、産業医はそのなかで冷静に行動する使命を担っていると思う。


【文 献】

 1) 笠原 嘉:精神科における予診・初診・初期治療.星和書店, 東京,2007;67-92.
 2) Sheehan DV, Lecrubier Y 著,大坪天平,宮岡 等,上島国利訳:
   M.I.N.I. 精神疾患簡易構造化面接法.星和書店,東京,2000;23-25.
 3) 中央労働災害防止協会編:心の健康職場復帰支援手引き.中央労働災害防止協会,東京,2005:62-69.
 4) 高木修監修,田尾雅夫編:組織行動の社会心理学.北大路書房, 京都,2001.
 5) Inoue A, Kawakami N, Tsutsumi A, et al:
   Reliability and validity of the Japanese version of the Organizational Justice Questionnaire.
   J Occup Health 2009; 51:74-83.
 6) アーロン・アントノフスキー著.山崎喜比古,吉井清子監訳:
   健康の謎を解く―ストレス対処と健康保持のメカニズム.有信堂高文社,東京,2001.
 7)ヴィクトール・E・フランクル著,池田香代子訳:夜と霧.新版, みすず書房,東京,2002,117-129.