【視覚障害と理学療法】 【機関誌第2号】
吉 金 英 二(よしかね えいじ)
私は理学療法士という職業に就いて約30年になる。東京での学生時代は現在と違い、臨床実習を4期履修しなくてはならず、尚それぞれの実習のテーマが「脊髄損傷」「小児疾患」「脳血管障害」「切断と義足」と決められていた。
卒後は、まず500床を超える中部地方の地域の基幹病院(24時間の3次救急)で多くの症例とリスクベビーとその超早期訓練を学ばせていただいた。その後地元の個人の救急指定病院に移り、ここでも多くの症例と、社会的入院や保険について学んだ。そして希望していた小児の施設に移ることができ、肢体不自由の症例だけでなく知的障害を含めた症例を学びながら、自分の研究テーマも決めることができた。
残念なことに、この時に私は事故で失明した。この失明で大きな方向転換を迎えることとなった。自分自身の失明に対するリハビリとして盲学校に鍼・灸を学びに行きながら、今後の方向性をいろいろと考えた。
失明してできないこととして、基本的なバイタルサインの確認、患者さんの目の動き・表情の確認、カルテなどの書類の記録などが挙げられ、一時期は理学療法士としての復帰は無理ではないかとあきらめかけた。しかし在学中に、できる範囲の治療と看護師に対する指導をするというアルバイトの話があり、どこまでできるか挑戦というつもりでこの話を受けた。
患者さんの詳細なデータやレントゲンは医師から直接情報を得て、バイタルなどの視力を必要とするチェックや記録などは、看護師にお願いしての変則的な理学療法となった。このアルバイトを通して、今までの多くの経験のお蔭で、何とか理学療法士としての復帰も可能ではないかと思うようになった。
そして復帰するには、自分で更衣室・トイレ・リハ室・病室などの移動ができる程度の小さめの施設であること、患者さんが動いて来てくれる整形外科のような診療科であること、どうしても読み書きのできない書類などを代行してくれる理解あるスタッフが必要、の3つのことが条件と感じた。
盲学校で鍼・灸を学びながら、急速に発達してきたパソコンにも多くの時間をかけて技術を学んだ。中途失明なので点字の読み書きができなかったこともあり、パソコンの音声化に始まり、教科書をテキストデータにするためのOCR、インターネット・メールなどの情報収集、趣味の読書のための点字データのテキスト化など、いろいろなことに挑戦をした。これらのことが今の仕事にも大いに役立ち、必要な書類の管理・作成などが独力でできるだけでなく、他のスタッフの書類まで管理することができている。
盲学校を卒業、鍼・灸の免許取得の後、理学療法士としての復帰を目指して、救急指定病院・デイケア施設などを体験した。患者さんとぶつからない動線の確保、必要なサポートの説明など他のスタッフと話し合いをしながらの手探りで、施設の経営者さんやスタッフの理解の温度差などを感じながら、相談相手もなく一人で悩みながらの復帰となった。
そして現在、私が勤めている個人の整形外科での仕事を簡単に紹介する。当院は地域のかかりつけ医として、慢性期の関節疾患の通院患者さん、救急病院での手術後のリハビリ目的での入院患者さんなどを受け入れている。病院の大きさは3階建てで1階に外来用の訓練室兼物療室、2階は病室、3階には更衣室や入院用の訓練室などがあり、私一人でも訓練室への移動や病室廻りが可能である。
私が担当するのは、主に外来患者さんや、移動が可能な入院患者さんなので、私自身の動線は少ないように配慮されている。指示箋やカルテなどは、リハスタッフが読んでくれるのをパソコンに打ち込んで、カルテへの記入はパソコンでプリントしたものを貼ってもらっている。計画書などの書類はパソコンで管理・編集するようにしてもらっているのでこれらについては音声パソコンを使って独力で操作・記録している。いろいろと理解あるスタッフに協力してもらいながら、若いスタッフには私の体験・手技などを伝えながら、私としてはほぼ理想的な職場として充実した毎日を過ごしている。
患者さんからは「目が不自由なのにがんばっているのを見ていると、自分もしっかりリハビリをしなくてはと思う」と、声をかけていただくことが多い。これが更に仕事へのモチベーションとなり、不自由さなどで苛ついた時の慰みや支えになっている。
今後も私のような中途で障害を受ける人もあると思うが、私の体験や工夫などが何かの助けになればと思い、体験を書かせていただいた。そして一人で悩んでいたあの頃に「ゆいまーる」があったならと思うと同時に、今後は「ゆいまーる」の存在意義が視覚障害者にとって大きなものになってほしいと思う。