【会員より】     【機関誌第3号】     Top


      両刃の剣士たち

                        福 場 将 太 (北海道)

 視覚に問題を抱えた者が医療者として患者に関わる…例え国家資格が与えられたとしても、例え患者が自分を受け入れてくれたとしても、その不安は尽きない。
 ただでさえ医療というものはその過程において、医療者の小さな判断ミスが患者の人生を大きく狂わせるリスクを秘めている。視覚情報は聴覚や触覚同様に患者をアセスメントする上で極めて重要なデータだ。それが当てにならないということは、「自分は大切な症状を見落としているのではないか?」という恐怖を常に抱えなければならないということだ。

 こんな自分が白衣を着るなどおこがましいのではないか、視力も問題ない他の先生が診た方が患者にとってもよいのではないか…『ゆいまーる』に所属されている方の多くが、この葛藤と戦っておられることと思う。医療の専門が細分化されていく一方で、「広く浅くでも一通りのことができるドクター」が世間から求められる時代。私のようにできないことだらけのドクターはやはり肩身の狭い思いをする場面も多い。

 視力は筋力と違ってリハビリで回復させることもできず、だからこそ便利な道具や優しいスタッフの力を借りて何とか補おうとするのだけれど、まあそんなことは患者からすれば関係ない話。例えどれだけ努力していようが、力及ばずの医療者などお呼びでない…とまあそんなモヤモヤに負けそうになっていた時期が私にもあった。

 今回は有難くも寄稿の機会を頂いたので、そのモヤモヤが少しだけ晴れた時の話をさせてもらいたいと思う。
 それは以前に参加したケアに関する勉強会でのこと。患者にとって最高のケアとは何か、というテーマで講演がなされた。スタッフの卓越した知識と技術、優しさや笑顔、満たされた環境…それらは確かによいケアの条件ではあるけれど、そこにはもう1つ重要な点が見落とされているという話だった。

 とある病院に身体が不自由になりベッドの上で過ごしているおじいさんがいた。適切な治療と十分な介護が行なわれ、何不自由なく暮らせているはずだった。しかし彼はいつも不機嫌な顔をし、スタッフがどれだけ微笑みかけても話しかけてもそれは変わらなかった。ある時ドジでいつもミスばかりのへっぽこナースが彼の身体を拭いてあげていたのだが、そこはやっぱりへっぽこナース、その作業中に居眠りしてしまった。それを見つけた上司はまたこいつかと怒鳴ろうとしたのだが、その瞬間驚きの光景を目にする…おじいさんが笑っていたのだ。彼に寄りかかって寝息を立てるナースを見ながら、優しく微笑んでいたのだ。

 … 何が起こったかみなさんはおわかりだろうか。彼が求めていたものは、最高の治療でも介護でもなく、「誰かの役に立つこと」だったのだ。人間というものは他の動物や植物と異なり、「ただ生きる」ということができない。自分の存在意義を求めずにはいられない生き物だ。おじいさんは身体が不自由になってからずっと「世話をしてもらうだけで誰の役にも立てない自分」に苦しんでいたのだろう。それが「眠るへっぽこナースに肩を貸す」という役割によって満たされたのだった。役に立ちたい…その気持ちは、『ゆいまーる』におられるみなさんならきっと誰よりも共感できるものだろう。

 不完全な医療者だからこそ救える心がある。医療者のドジを患者に指摘されたり、医療者の方が患者に心配されたり…一見情けない姿であるが、そこに最高のケアの鍵があるのかもしれないということを、私はその勉強会で学びモヤモヤが晴れたのだった。

 精神科病棟を歩けば、私の現状を知っている患者が私の手を取り「先生こっちだよ」と出口まで案内してくれることがある。最初は医者としてそれはあってはならない姿だと思っていたが、「あえて患者の厄介になるケア」を知ってからはそれを受け入れるようにしている。ずっと退院できずいつも暗い表情でいるこの患者が手を引いてくれるのは、「役に立ちたい」という気持ちの表れなのかもしれない。医療者が患者に助けられることは迷惑ではなく、癒しになるのかもしれないと。

 もちろんそこに甘んじてはいけないのもわかっている。視力障害という克服できない弱点ならば、いっそそれを武器にしようと思う反面、それは患者に不安を与えかねない両刃の剣である。それでも『ゆいまーる』を知って、同じ剣で戦っている諸先輩方がたくさんいることがわかった。何度自分の心に問いかけても「誰かの役に立ちたい」という気持ちだけは間違いないようだ。鞘の中で剣を錆び付かせてしまわぬよう、もう少し戦ってみようか。そんなことを考えているへっぽこドクターです。