緩和ケアの道へ
村 瀬 樹 太 郎 (東京)
医師になってから、早6年が経過した。大学病院での初期研修、後期研修を終え、自分で歩む道を見つけ進む時期となった。今までとこれからの自分について考えてみたい。
医学生のころの目指す医師像の中で進みたい分野としては、「なんでも全般的に診ることのできる医師」という少し曖昧なものであった。これは、自分の身近な親族に医療関係者がほとんどいないことから、いわゆる町医者のように一般的な事ならなんでも応えられる医師を思い描いていたと思う。つまり、総合内科医だ。その思いがあってか、初期研修での研修病院は高度先進医療を中心とする病院ではなく、一般的な病気(common disease)を中心に幅広く診ることができる市中病院に近い形態である大学病院の分院だった。
初期研修時代は、スーパーローテーション方式で内科・外科・小児科・救急・精神科など多くの科をまわり自分の想像していた通りの研修が受けられた。そこで、総合診療部に出会い入局することとなった。「病気を臓器別に分けて診るのではなく、臓器を統合し、患者さんの背景因子も含めて一人の‘病める人’として診断・治療する全人的医療の実践を目指す」という理念に共感し、それを実践していることにひかれた。総合診療部は病院によってその役割・立場が異なるが、慈恵医大第三病院では高齢者医療・感染症・膠原病を中心に幅広く経験できた。そのうち、「全般的に診ることができるように」という思いは変わらないが、特に自分の興味のある分野・強みになる分野があった方がいいと思うようになった。大学病院で周りはみな専門分野を極めるものが多いからかもしれない。
そこで出会った患者がいた。寝たきりで意思表示なく、食事も認識できない90代女性だった。ご家族は自分から口を開けない彼女にペースト状の食事を一生懸命入れていた。嚥下機能は徐々に落ち、飲み込むことができなくなっていった。そこで、栄養の投与方法をどうするかご家族と相談した結果、積極的な栄養(胃ろうや中心静脈栄養)はせず末梢点滴のみで看取る方針となった。数週間後に眠るように亡くなった。本人には大きな苦痛はないように見えたが、このご家族の本人に対する思い、栄養、延命に対する思いを聞く中で、人生の最期をどのように迎えるのが幸せなのだろうかということを考えるようになり、緩和ケア(緩和医療)に興味を持ちだした。
緩和ケアというと、一般に癌の末期を想像するかもしれない。世界保健機構(WHO)では、「緩和ケアとは、生命をおびやかす疾患による問題に直面している患者とその家族に対して、痛みやその他の身体的問題、心理社会的問題、スピリチュアルな問題を早期に発見し、的確なアセスメントと対処(治療・処置)を行うことによって、 苦しみを予防し、和らげることで、クオリティ・オブ・ライフを改善するアプローチである」と定義している。つまり、癌とは限らず、痛みだけでなく様々な苦痛を、患者だけでなく家族も含めてケアをすることであり、まさに全人的な医療である。
医師5年目からは川崎市立井田病院の緩和ケア内科で、緩和ケア病棟を中心とした緩和医療、在宅医療に携わっている。ここでは、様々な苦痛を目の当たりにする。癌による痛み、呼吸困難感、吐き気などの身体的苦痛はもちろんのこと、病気を患ってしまうことによる落ち込みなどの精神的苦痛は想像に難くない。この他に、癌による合併症や衰弱に伴い日常生活動作の低下していくことへの苦痛、特に歩けなくなること、トイレに行けなくなること、食べられなくなることに対する苦痛は計り知れない。
また、なぜ私がこんな病気になってしまったのだろうというようなスピリチュアルな苦痛は誰しもが持っている。その様子を見守ったり支えたりする家族の苦痛も大きい。介護や金銭的な問題に対する苦痛も決して少なくない。
このような様々な苦痛を持った患者とその家族を少しでも和らげる緩和ケアの大切さを改めて実感した。このケアは決して医師ひとりで解決できるものではなく、看護師・薬剤師・リハビリ訓練士から家や施設と連携をとるソーシャルワーカーなど多種多様な職種のチームワークが欠かせない。
日常生活をできるだけ苦痛なく過ごし、その人らしく人生をまっとうできるよう人生の散りぎわを支える。これからもこのやりがいのある緩和ケアを中心に社会貢献をしていきたい。