【高原芳美さんに こころからの‘ありがとう’】 【機関誌第6号】 Top
守 田 稔(もりた みのる)(大阪府)
2020年1月22日、ゆいまーる事務局を長年支えてくださっていた高原芳美さんが永眠されました。5年以上にわたる乳がんとの闘病がありました。高原さんは、ゆいまーるの総会、秋の懇親会、関西勉強会のほぼ全てにご参加くださり、そして会員のお一人お一人との繋がりをとても大事にしてくださっていました。
高原さんに出会った方は誰もが、気さくな言葉かけの中に温かなお人柄を感じ、たくさんいただいた心配りにとても感謝していました。私、守田稔がゆいまーるを代表して、高原さんとの思い出を綴らせていただきたいと思います。
初めての出会いは?
私は1999年5月、関西医科大学5回生のとき、ギランバレー症候群に罹患。2年の休学の後、2001年4月に復学していました。全盲、上下肢障害で国家試験をどう受験すればいいか。2001年に欠格条項が改正されてはいましたが、具体的にどう準備を進めていけばいいのか五里霧中の状態でした。
2002年夏、病院ソーシャルワーカーの宮ア惠子さんの助言とサポートを受けて、全盲での医師国家試験のための情報を集め、それをまとめたものを教授室のある建物の前で通りかかる教授に片っ端から渡していました。そのとき、クラスアドバイザーの教授から「もう、そんなことせんでええ」と言われ、直接面談をしてくださったのが当時学務課にいらした高原さんでした。
高原さんは、「厚労省とのやりとりは大学がします。守田さんはしっかり勉強に集中してください」とはっきり言ってくださいました。それまで重くのしかかっていた肩の荷が下り、どれだけほっとしたかを今でもよく覚えています。それが私と高原さんとの初めての出会いで2002年9月のことでした。
その後、高原さんは厚労省との窓口をすべて引き受けてくださり、私が受けた卒業試験の受験方法をまとめたり、国家試験の受験室に持ち込む物品の写真を撮ったり、私に負担がかからないようあらゆる配慮をしてくださいました。
大学病院時代
多くの方の助けを得て国家試験に合格した私は、母校の精神科に入局しました。時を同じくして、高原さんも大学病院内の卒後臨床研修センターに主任として職場移動されていました。高原さんの「何かあったらいつでも相談してくださいね」とのお声掛けが、全盲で医師として第一歩を踏み出した不安だらけの私にとって、心強いエールとなっていました。
障害者職業総合センターの指田忠司さんが、私の仕事のインタビュー目的に大学病院にいらしたのもその頃で、その面談のサポートや場所の調整をしてくださったのも高原さんでした。
その後、高原さんは立命館大学で勉学の道に進まれました。
また研修医時代、私は大阪府盲人福祉センターで岩本紀子さんから音声パソコンを指導していただいていました。岩本さん、一緒に習っていた石倉正徳さん、もう一人同世代の方、私の母と私の5人でお茶をすることがあり、そこに高原さんにもお声掛けさせていただいて、6人でときどきランチやお出かけをするようになりました。
ゆいまーるとの出会い
「私、大学生になったから時間はあるの。何か手伝うことがあったらいつでも言ってくださいね」と高原さんが言ってくださっていたちょうどその頃、2008年6月、視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)が発足しました。発足当初、関西の会員は私と母の2人。半年後に入会してくださった和歌山の生駒芳久先生を加えても3人。誰か関西でゆいまーるをサポートしてくれる人がほしいとの思いが募ったとき、高原さんの言葉を思い出しました。
ちょうど守口市のイオンモール大日にある丸福コーヒー店で高原さんとお茶をする機会があり、「ゆいまーるに入ってくれませんか? 事務局をしてくれたらもっと嬉しいんですけど」と、ちょっとビクビク、でも勇気を出してお願いしてみました。すると、「いいですよ」と快諾いただき、そこから高原さんとゆいまーるの繋がりができました。
ゆいまーるでの大活躍
ゆいまーるに事務局として参加くださるようになった高原さんは、事務局のお仕事だけでなく、本当にあらゆる面で私たちをサポートし、応援をしてくださいました。
翌2009年5月に京都で開催した第2回総会では、「大学が近所で近いから」と言って、事前の下見から当日のサポートまで、関西を代表して大活躍してくださいました。そしてその後もすべての総会に参加されて、細やかな心配りをしてくださっていました。
秋の交流会も初回の高知からご参加、いつも会員間の繋がりが深まるようご支援くださっていました。思い出の一つに、新幹線の話があります。関西と四国の会員さんはお酒の強い方が多く、またよくしゃべります。東京総会からの帰りの新幹線で座席を向かい合わせにして、ビールとつまみでわいわいしゃべっていると、他のお客さんから車掌さんに苦情の訴えがありました。私たちの引率者だった高原さんのところに「あの方たちを静かにさせてください」と車掌さんが何度も来られました。私たちを落ち着かせるのと、周囲のお客さんに謝るのとで、高原さんに大変ご迷惑をかけたのを覚えています。高原さんは、「もう、みんな周りが見えてないんだから!」と思っていたかもしれませんね(笑)。
関西でも大活躍
総会や交流会では全国の方々とお会いでき、貴重な繋がりが持てます。しかしそう頻繁には開催できません。そこで地方での繋がりを深めることと、新たに繋がりができた方とお会いしやすくなることを目的として、2010年1月から関西での勉強会を始めました。
最初は人数も少なく、また何を題材にすればいいかもわからなかったので、眼科の先生が眼科診療に役立つ精神療法として提唱されていた「カウンセリング」「認知療法」「森田療法」の3つをすることになりました。その中の森田療法を高原さんが担当され、5回シリーズで1冊の本を事前にテキスト化して私たちに解説してくださいました。私も森田療法は概念しか知らなかったのでとても勉強になり、そのとき知った‘気分本位’と‘行動本位’の話は今も診察でよく使わせていただいています。
高原さんのおかげで関西でのゆいまーる参加者がだんだんと増え、また勉強会もより幅広い内容で行われるようになりました。そして2020年1月時点で第43回まで回を重ねることができました。
闘 病
高原さんにおんぶにだっこでお世話になりっぱなしだった2014年10月、大阪府盲人福祉センターのメンバー6人で高野山に行きました。帰りにみんなと別れて難波の喫茶店で高原さんと母親と3人でお茶をしている時、乳がんが見つかったことを打ち明けられました。そして近々手術を予定していること、手術では取り切れないリンパ節転移があることもお話しくださいました。
そこから高原さんの闘病が始まりました。手術をした後には抗がん剤での治療が開始され、また放射線治療も行われました。それでも残る病巣に対して新たな抗がん剤治療、また短期入院をして血管内治療もされていました。
治療で体への負担があり、ときに副作用でしんどい症状があることも伺っていましたが、できる限りゆいまーるの総会や関西勉強会にご参加くださり、いつも元気にゆいまーるのみんなを引っぱってくれていました。会ではいつもと同じ元気なお声でしたので、高原さんが病気と気付かなかった方も多かったと思います。
2018年6月の神戸で行われた第11回総会も、準備係の1人として駅や会場、見学場所の下見にご参加くださり、当日も運営やみんなの手引きに大きな力をお貸しくださいました。しかし見えないところで病気は着々と進行していました。体調に自信がなく、当日みんなに迷惑をかけてしまうかもしれないとの理由で勉強会をお休みすることがあり、治療もどこかの時点から緩和ケア外来への通院に移行していました。
そんな中、2019年6月に東京で行われた第12回総会に病を押してご参加くださいました。これが高原さんがご参加くださった最後のゆいまーる行事になりました。
同じ年の12月初め、緩和ケア病棟に入院されました。その後、少し症状が落ち着いたとのことで12月末、退院しましたとのメールをいただきました。きっとご家族でお正月をゆっくり過ごされたのではと、私は想像しています。
そして2020年1月23日、悲しいお知らせのお電話をいただきました。同日、大阪府守口市大日町にある会館でお通夜があり、和歌山の生駒先生、大阪の田中智子さん、母親との4人で参列させていただきました。悲しくて、悲しくて涙が流れ、言葉では言い切れないたくさんの感謝を、参列できなかった皆さんの分も含めてお伝えしてきました。
お通夜の会場を出た時、目の前の大きな道の向かいにイオンモール大日がありました。そのとき初めて、ここがまさに高原さんとゆいまーるの始まりの場所だったことに気が付いたのでした。
高原さんの優しさと真心
2020年3月、ゆいまーるに高原さんから10万円のご寄付が届きました。妹さんから伺った話では「亡くなってからでないと受け取ってもらえないから」と、高原さんから頼まれていたとのことでした。MLでのこのご寄付の報告に対して、栃木の田中康文先生からは「このような奇特な心を、果たして私は持っているのだろうか、と自分に問いかけると、思わず胸が熱くなり涙が出て止まりませんでした」とのコメントをお寄せくださいました。
もう1つ、高原さんのお人柄を感じさせるエピソードを最後にご紹介したいと思います。
亡くなる2週間前の2020年1月8日、「病気のために短期間で片目を失明され、とても不安になっている看護師さんがいるのですがご支援いただけないでしょうか?」と、視覚障害者をサポートするお仕事をされている方から高原さんに協力依頼の連絡がありました。
高原さんが以前「最初のゆいまーるの窓口は私がします」と、その協力依頼の連絡をくださった方にお話してくださっていました。高原さんはすぐにその看護師さんにお電話をされ、いろいろお話を伺ったり、ご助言してくださいました。そして私に報告と引継ぎの電話をくださいました。
そのときの高原さんの声は少し小さめでしたがはっきりしていて、「私、その看護師さんにね、今何もしていないから時間はいっぱいあるのよ。ゆっくりお話もできるから何かあったらいつでも言ってね、って伝えたの」とお話しされていました。
私は高原さんの病気が深刻なことを知っていましたが、高原さんの真心をそこに感じました。私もすぐにその看護師さんと連絡を取り、できる範囲での情報提供と、何かあればいつでもご相談いただけることをお伝えしました。2日後、協力依頼の方から、‘高原さんとお話しできてとてもよかった’とその看護師さんから電話報告があった、とのメールが届きました。
高原さんは困っている人、悩んでいる人の傍で、いつも同じ目線で考え、行動してくださっていたように思います。以前、高原さんは「私ね、支援とかサポートをしているんじゃないのよ。友達として一緒にいるの。だからね、あれは言ってはいけないとか、これは言ってはいけないとかはなしで、友達として必要なことはなんでもズバズバ言うの」と話されていました。それが高原さんの優しさであり、真心と感じました。
私たちゆいまーるのみんなは、高原さんからいっぱいの優しさと真心をいただきました。そして高原さんと繋がりをもったみんなが高原さんに伝えたい言葉があります。
高原芳美さん、こころから‘ありがとう’。