[5]Seven Fair Ladies   【機関誌第7号】     Top


                 新 地 浩 一(しんち こういち)(佐賀県)

 私は、還暦を迎えたのを機に、17年余り勤務した佐賀大学を3月末に退職することにした。難病の網膜症による弱視の進行により、仕事がやりにくくなったのが原因の1つであるが、後進に道を譲りたいという気持ちもあった。通常、退任する教授の場合は、年度末の3月にセレモニーとして、教職員を対象とした最終講義が行われるが、私はそれを丁重に辞退して、11月22日の4年生の対面での最終講義の日に、学生と関係教職員のみを対象に、最後の講義をさせていただくことにした。

 私は、国際保健看護学領域の担当であるため、私が指導した卒業生で、海外で活躍中、あるいは過去に活躍した経験のある看護師7名を招聘して、15分ずつ講義をしてもらい、最後に私が1時間の総括講義をする計画を立てた。

 当日は、アフリカのザンビアやベトナムなどから卒業生が駆けつけてくれた。海外で活躍する人材を育成するという目的で創設された分野の担当教員である私は、彼らの講義を聴きながら任務が達成できた安堵感と感動を覚えていた。

 私にとって、Seven fair ladies と言うべき存在である、彼女らを下記に紹介する。


 1)Mさんは、現在 大学教員をしている。学生時代は、私が顧問を務める国際医療研究会の部長をするとともに、海外での医療支援活動に参加していた。講演のタイトルは、「海外での医療支援活動および学生時代の海外研修からの学び」である。

 2)Nさんは、大学病院の高度救命救急センターに勤務する看護師である。新型コロナウイルス感染症の患者さんの看護などの多忙な勤務の中から駆けつけてくれた。タイトルは、「スリランカにおける官民合同の医療支援活動」であった。

 3)Yさんは、ベトナムの看護師養成教育機関から駆けつけてくれた。タイトルは、「ベトナムの病院における老人ケアプログラムの定着と人材育成」であった。

 4)Sさんは、大学教員で私と同じ講座に勤務している。タイトルは、「米国での看護留学および海外医療支援活動について」である。

 5)Iさんは、総合病院の手術室に勤務しながら、客員研究員として、私の研究や教育のサポートをしてくれている。タイトルは、「ブラジルの総合病院における看護師としての2年間の勤務から」である。

 6)Tさんは、アフリカのJICAザンビア事務所に勤務している助産師である。今回は、新型コロナウイルスによる感染防止のための国内での2週間の隔離期間を含めると約3週間かけて、佐賀まで駆けつけてくれた。タイトルは、「ODA(政府開発援助)の保健セクターで働くということ」である。

 7)Mさんは、大学の研究所勤務で、放射線被ばく医療の研究や実務のため、長崎と福島を頻回に往復して仕事をしている看護師である。タイトルは、「海外における放射線被ばく医療の研修と災害看護について」であった。


 彼らの講義を聴講しながら、大学に勤務した17年間のことを思い出していた。
 彼らの人材育成が私の任務であったが、仕事のやりがいでもあり、楽しみでもあった。そして、私が弱視になった後は、さまざまな形で私の仕事をサポートしてくれた。そのおかげで還暦まで無事に大学教員を務めることができた。ありがたいことである。少し余力を残して退職し、その後、自由な立場から後進をサポートしたいと考えた。

 大学を退職した後は、しばらくの間、非常勤講師として国際保健や災害医療、および保健医療福祉行政論、看護英語などを教え続ける予定である。
 今後は、マイペースで教育と研究を続けて、余生を送りたいと考えている。