[7]人生は七転び八起きか、七転八倒か  【機関誌第7号】     Top


                 田 中 康 文(たなか やすふみ)(栃木県)


 「七転び八起き」は、何度失敗して転んでもそれを断ち切り、めげずに立ち上がることを意味することわざですが、「七転八倒」は激しい苦痛から、のた打ち回ることを意味する熟語です。
 それでは、なぜ「7回転んで7回起き上がる」ではないのか、語源は仏教にあると言われています。人は生まれた時は寝たきりの状態で、まだ立つことも歩くこともできません。やがて周囲の人たちに見守られながら初めて立ち上がります。それを「1回目」と数えているため、起き上がる回数が1つ多いのです。

 七の由来は、線を切ることを表した文字からきており、横棒を縦棒にできることを表しているそうです。八は末広がりで「幸福」という意味があります。また、七には「千(多い)」という意味があり、この七や八は「たくさん」や「何度も」という意味で使われることもあり、「七転八倒」はこの意味で使われているそうです。
 それでは私の人生はどうでしょうか?

 私は今まで何度も何度も転んでは起き上がってきました。そのため、体中キズだらけで、昨年12月には右手がしびれ頚椎の手術をしました。しかし、どちらかと言うと「七転び八起き」より「七転八倒」の方が多いような気がします。

 私は今年で72歳になりました。徳川家康が数えで75歳で死去した年齢に近づいています。家康は、江戸を万全の状態にして、その江戸を見守るために神として日光に祀られました。しかし、私はいまだに悩み、苦しむ人生を歩んでいます。中国の古書「論語」に「四十にして惑わず」の40歳にも満たないのです。実際の年齢よりまだまだ若いのかもしれません。

 私の『ふれあい漢方内科』では、他院で良くならない人がよく来院されます。全身脱毛の人、透析間近の人、ガン末期の人、匂いをまったく感じない人などです。その苦しみを理解しようと一生懸命に聴きます。
 そして、人が大きく太鼓を叩けばそれに応えようとして大きく叩き返そうとします。しかし問題は、人が小さく叩いても私は大きく返そうとしてしまうのです。家内からよく、人のことに頭を突っ込みすぎる、踏み込み過ぎると言われていますが、人から肩透かしを食わされ、いつも落ち込んでいる自分がいます。人を見て、その奥にある真意を読み取れないのです。

 それは、一般社会経験が少ないためか、あるいは人がいいのか、単なるバカなのかよくわからないのです。それを直したくて教会に行き、日曜礼拝と聖書を読み、数年前に洗礼を受けました。しかし、以前と全く変わらないのです。家内に「あなたが変われば私も教会に行ってもいい」と、以前言われたことがあります。しかし、いまだに実現していません。それどころか最近の私は疲れて日曜礼拝も行かないことが多くなり、眠りの中で祈りを捧げているのです。

 私には9歳上の兄がいます。小さい頃からいろいろと面倒をかけ、世話になっています。
 一昨年、家内と一緒に長野に旅行に行った時、今まで見たことのないびっくりするようなとても大きなリンゴ「シナノスイート」を初めて食べました。その美味しかったことが忘れられなかったので、ぜひ兄にも食べさせてあげたいと思い、先日、送りました。

 届いたのは中玉ぐらいの大きさでしたが、美味しいとお礼を言われました。その時の電話で「康文君、元気でいるかい?」と言われ、私はいつものように「何となく精一杯生きているが、患者さんによく肩透かしを食らうんだよね」というネガティブな話をしました。
 ちなみにこのようなネガティブな言葉や気持ち、さらに人の悪口は家内は大嫌いで、聞くのもイヤといつも言っており、よく叱られています。

 兄は「康文君、私の知り合いで弁当屋さんがいてね、先日、運動会の予定で何十人分の弁当を用意してください、という注文が入ったそうだが、その日は雨で運動会が中止になり、弁当はすべてキャンセルされたらしい。この場合、康文君ならどうする? きっと怒って注文した分の弁当を買ってください、と言うだろうな」

 しかし、弁当屋さんは腹立たしく思っていても、笑顔で「大丈夫ですよ、また別の時に利用してくださいね」と言ったそうです。
 兄は「これは商売していく上での鉄則だよ。こういう言葉をかけることによって今まで以上にお客さんが増えるかもしれないし、余った弁当は恵まれない人や施設に持って行ってあげればいいじゃないですか」と言いました。
 これが私にはなかなかできないのです。

 私は医師としての技術と知識もさることながら、一流ホテルでのフロントマンの言葉の使い方や接し方を勉強しようと思い、若い頃、帝国ホテルやホテル オークラに出向いて勉強しようとしたことがありました。しかしあっさりとホテル側から断られました。
 ただ電話を受けた時は、1オクターブ声を上げるようにしています。これは薬品会社のMRから学んだことです。

 私の友人で、宇都宮で和菓子を作ってお店を出している人がいますが、その人が「お前たちはいいよな、お金を払う患者が頭を下げて、お前たちはいばっているものな。普通の社会ではお金をもらう人が深々と頭を下げるもので、医者は反対だよな」と言われたことがあります。
 それ以来、患者さんには「遠い所からご苦労さんです。雨が降っていても大丈夫だった?」と、時々ねぎらうことがありますが、いつもそうしているわけではありません。

 私は最近まで30年間以上、1日最低3時間は勉強していました。新しい発見が喜びでもあり、それで患者が良くなることがあります。
 しかし、その時間は最近、カルテ書きと今後の治療について考える時間に充てることが多くなったようです。それはある人が亡くなったことと関係しています。

 私のところに9年間も毎月来られた患者がいました。最初は奥様だけが受診されていたのですが、奥様に「うちの主人は糖尿病からくる肛門周囲膿瘍があって、手術を何回してもまたすぐに再発するので漢方薬でいいのがありませんか?」と聞かれたので、奥様の処方に越婢加朮湯(エッピカジュツトウ)という漢方薬を加えて、これを飲ませたらと言ったところ、1、2週間で膿が減り始めたそうです。

 それで改めてご主人を診させていただき、3種類の漢方薬の処方で数か月後には完治してしまいました。それ以来、私を信用していただき、お互いの家を行き来したこともありました。
 しかし、その患者さんが79歳で、今年の8月末に膵臓ガンで余命いくばくもないことがわかり、私はすぐに自宅を訪れようとしましたが体調が悪いのでと、一旦断られました。
 11月7日に声を聴きたくて電話したところ、奥様が「今日は珍しくはっきりとした声が出ています」と言われ、しばらくして私はどうしても会いたくなり、家内に駅まで送ってもらって盲導犬のオニキスと一緒に電車に乗って自宅を訪問しました。

 ベッドに横たわっているその患者さんの腕をさすったり顔をなでたりしながら、涙が出てしかたがなく、泣きじゃくりながら「一生懸命に生きてね」と声をかけたところ、「ありがとう」とはっきりとした声で返され、約15分間の滞在で自宅をあとにしました。その患者さんが4日後の11月11日に亡くなられたことを奥様の電話で知りました。

 私は、あのように私を信じて通い続けてくれた人がいた、ということを心に刻み、今後、人から落胆させられても、それはよしとする医療を続けられたらいいなと思っています。しかし私のことですから、そのような時が来たらきっと「お迎え」が近いのではないかと思います。

 来年春にはタケノコを掘って、タケノコが大好きであったその患者さんの仏前に供えられたらいいなと思っています。