【会員より】    【機関誌第8号】   Top


      「私の二刀流」

               新 地 浩 一(しんち こういち) (佐賀県)

 野球の世界では、大リーグの大谷翔平選手が投手と打者の二刀流で大活躍している。私自身も2つの仕事を同時にこなさなければならない人生を歩んできたような気がする。以前は「二足の草鞋(わらじ)」と言ったものだが、現在は二刀流という言葉が流行語なので、私の二刀流について書き留めておくことにした。

1.医師と幹部自衛官(25歳〜42歳)

 大学卒業後、自衛隊医官に任官した。18年間の勤務のうちで、自衛隊病院に勤務したのは11年、学校勤務が5年、部隊勤務が2年だった。病院以外での勤務の際も、医師としての技量維持のため、毎週1、2日は近傍の自衛隊病院での外来診療などは続けていたが、臨床医としての知識や技術が時代についていけないのではないかという焦りは常に感じていた。

 また、幹部自衛官としての勤務は、師団司令部の医務官を経験したが、その領域の専門知識も少なく、どちらも中途半端になるのではないかと危惧する日々であった。そのような時に、阪神淡路大震災が起こり、同じ年に地下鉄サリン事件という 前代未聞のテロ事案が発生した。いずれも1995年(33歳)の時である。2つの事案を経験して、災害時の医療の重要性を痛感した。その後、米国に留学して災害医療を学び、国際緊急援助隊などに参加し、この領域で社会貢献していこうと心に決めた。

2.大学教員(教育者・研究者)と医師(43歳〜60歳)

 佐賀大学に教員として着任して、国際保健や災害医療の領域を担当することとなった。大学教員の場合、教育・研究はもちろん、医師としての臨床活動も求められる。視覚障害を自覚する50歳ごろまでは、大学の保健管理センターの校医や大学の産業医の役割も果たしていた。平日はなかなか受診できない教職員や学生のために、隔週土曜日に心療内科の外来診療を学外のクリニックで担当した。
 これらの仕事はやりがいもあり、充実していたが、視覚障害の進行とともに縮小せざるを得なくなった。特に患者さんの顔の表情が読み取れなくなったとき、このあたりが臨床医を退く潮時かと思い、50歳ぐらいから教育と研究に専念することにした。

3.教育者と視覚障碍者(60歳〜現在)

 還暦を過ぎたころから視力低下が進行し、日常生活も不便になってきた。余力を残して大学の常勤の教員を辞した。このまま無理して毎日仕事をしていると失明までの時間が短くなるという危惧もあった。本格的な研究活動は、62歳でおおむね終了し、3つの大学と2つの看護学校で非常勤講師や客員教授として、公衆衛生学や医療概論、国際保健、災害医療などの講義を続けている。

 一見、二刀流をやめたようにも思えるが、私にとっては視覚障碍者というのは重要な仕事にも似た課題である。晴眼者に比べて仕事の効率は低下するし、講義をするにもいろいろな機材を駆使してサポートを受ける必要がある。それらの機器を使いこなすためにも勉強が必要だ。これだけでも二刀流で対処する必要がある。

 また、視覚障碍者(私の場合は難病の網膜症)である医師が、医療概論の講義の中で「患者さんの心理」や「障碍者への配慮」を教育することにより、より説得力が増す。原因や治療方法の不明な病気の患者さんへの対応をどうすればよいかということについて、当事者の立場からアドバイスができる。医師と患者の両方を経験したことにより、教育内容により深みが増したような気がする。残りの人生も二刀流を続けていきたいと考えている。