「八方塞がり、でも人生、なんとかなるさ」
田 中 康 文(たなか やすふみ)(栃木県)
2024年1月3日、東京新聞ウェブ版と活字版に、ゆいまーるの守田稔代表が「難病の再発、失明を乗り越えて…全盲の精神科医」と題して紹介された。
守田代表が2度にわたり患った病気はギラン・バレー症候群である。この病気は何らかの先行感染に伴う自己免疫により末梢神経が障害され、通常は手足の麻痺と感覚障害が生じ、発症から4週間以内に症状はピークになり、その後約8割の人は元の状態にまで回復するという比較的経過のよい疾患である。
ただ重症例では呼吸筋や顔面神経などの脳神経や自律神経も障害されることがある。再発は稀で、数%と言われている。これらのことは比較的よく知られているが視神経も障害されることはほとんど知られていない。視神経は発生学的には脳の一部(間脳)が突出して出来上がり、中枢神経とみなされているのでギラン・バレー症候群では通常、障害されないと言われている。
しかし、私が自治医科大学神経内科に在職していた時に、ギラン・バレー症候群でやはり視神経が障害された小児を診察したことがある。その時に調べた論文に、病勢が大変強く、髄液中の蛋白質が高濃度になった時に浸透圧の影響で視神経も稀に障害されることがあると記載されていた。
守田代表の場合は、ギラン・バレー症候群が再発し、四肢麻痺や呼吸筋の麻痺だけでなく脳の末梢神経も障害され、さらに中枢神経である視神経も障害され、極めて稀で重篤であった。車椅子生活を余儀なくされた時は、恐らく八方塞がりの状態であったと思われる。
それにもかかわらず守田代表は復学を果たし、しかも医学部を卒業して医師国家試験にも見事1回の受験で合格した。これは守田代表の活力と生命力によるもので、本人は相当な努力をしたであろうが、その努力を支える周りの人、特にご両親の心労も計り知れないものがあったと思われる。
その後、戸田陽医師の呼びかけで、守田稔医師に加えて医師国家試験に2人目の合格者となった大里晃弘医師、
さらに失明して大学病院を退職した佐藤正純医師、それに私とのちに事務局となる2人他が東京で一堂に会し、視覚に障害をもつ医療従事者の会を立ち上げようと話し合った。
その時、名称はすぐ決まったが、長いので通称は何にするか、代表は誰にするのかを皆で話し合った。大里医師が幾つかの例を挙げ、その中で「ゆいまーる」は言葉の意味と響きがよかったので、私が「これがいいのではないか」と勧めた。そして、守田医師が一番若くてさわやかで、全盲で医師国家試験に初めて合格したことでもあり、私が副代表として支えるからと勧め、守田代表が生まれた。
ところが私は、その後副代表を辞め代表を支えることもしなかった。なぜ副代表を辞めたのか記憶が定かではないが、当時は家庭で相当悩んでいた時期でもあった。その罪滅ぼしのために、今回のテーマを思いつき、少しでもゆいまーるの会に貢献したいと思って筆を執った。だが、私の支えがなくてもその後の守田代表の素晴らしい活躍には目を見張るものがあり、心からよくがんばっているねと、褒め称えたい。
私は網膜色素変性症で視力が次第に低下しつつある時、その恐怖のため自暴自棄になった時期があった。そのため妻から離婚話が出て、大学の教職員住宅で一人で生活することになった。その時にルーペを使って読んだ本に「壺中有天(こちゅうてんあり)」という故事が記載されていた。この故事は中国の後漢書方術伝に書かれている。
費長房(ひ ちょうぼう)という人が2階から何気なく通りをながめていると、露天商の薬売りの老人が店をたたみ後ろのツボの中へ消えてしまった。不思議に思った費長房は、翌日待ち構えて「私は昨日、あなたがツボに入って消えてしまったところを見ました。私も連れて行ってください」とせがんだ。
老人は「見られてしまったか。仕方がない、ついて来なさい」と大きなツボの中に誘った。ツボの中に入ってみると、そこは花が咲き、鳥が鳴き、真っ青な青空が広がる別世界だった、という話である。
この故事に対して、戦前戦後に活躍した日本の哲学者、思想家の安岡正篤(やすおか まさひろ)氏は、「人間の基本は、活力、気迫、生命力であり、たとえ一日5分でもいいから、壺中天有りの生活をせよ。そうやって得られた精神で、関わる人全てに正しく接することが出来る」と説いている。
私たちは毎日の生活の中で意にそぐわないことが多いが、どんな苦難に遭ってもどんな立場になろうとも自分だけの世界を持ち、夢中になれる時間を持つことで心に余裕を持って生きることが大切だ、というのだ。
しかしながら私が読んだ本では上記のこととは違った解釈が記載されていた。壺中有天は「こちゅうゆうてん」と読み、人間がツボの中に入るとそこは暗闇で周りはすべて壁で閉ざされ、必死になって出口を探しても全く見つからない。疲れ果てて休んでいる時、ふと頭の上を見ると、今まで気がつかなかった一筋の光が差し込んでいた。その光を目指してツボの中をよじ登ると、その先は満天の世界が広がっていたという話である。
この解釈は、八方塞がりの状態で突破口を目指しても見つからない時は、心に少し余裕を持つと今まで気がつかなかったところに一筋の光があり、その先には大きな大きな世界が広がっている、というのである。
その後、私は事あるごとに壺中有天(こちゅうゆうてん)と口ずさみ、突破口がなかなか見つからない時は一旦その場から離れて全く関係のない本を読んだり、友人と話をしたりして少しでも心に余裕を持つように努力し、今できることだけして何とかなるさと思って、後は結果を待つことにした。
私は白杖を突いて歩くのが恥ずかしく、最初は傘や老人用ステッキを使用していた。なぜ自分は白杖が突けないのだろうかと一生懸命に考えた結果、ひょっとしたら障害者は人としても劣っていると勘違いしていたのかもしれない。それは違うだろう、と思い直して健康な人を上回るような人間になればいい、と少しずつ白杖を使い始めた。
そして毎週1回、鍼灸の勉強のため片道3時間かけて茨城県の筑波技術短大(当時)まで3年半通い続け、時々は日本大学の心療内科へ勉強に行く生活を続けた。
今、振り返ってみるとその後の10年間の私の人生はとにかく大変だった。2018年の機関誌第5号に「或る『木偶の坊』の反省記」と題して私の人生について記載しているが、離婚と横領・借金で何度も八方塞がりの状態に陥った。しかし、いつも壺中有天(こちゅうゆうてん)を口ずさみ、唇を噛みしめながらいつかは満天の世界があると信じて一歩一歩前進して行った。
最後に、私が読んだ本から見世物小屋の芸人として生きた中村久子について記したい。
久子は3歳の時、突発性脱疽により、両腕の肘から先、両足の膝から下を失う。不憫に思った母親が久子を背負って川に飛び込もうとした時、久子が寒いよと泣き続けたので母親は我に返った。
それから母親は久子が一人で生きていけるように、針と糸をくわえて布を縫うよう厳しく教え、久子は美しい人形を作れるまでに上達した。20歳の時、久子は自ら見世物小屋に行く決意をし、だるま娘の芸名で口と肘までの腕を使って、裁縫、編物、書道などの芸を披露する生活を続けた。
その後、縁談が持ち込まれ、久子は結婚し子供も授かった。
その他にも17歳の時に事件に巻き込まれて両腕を失ったが、その後、口で筆をくわえて書道家、宗教家として活躍した大石順教や、若い時に電車の事故で大きな障害を負った女性の話がある。こうした障害者の多くの人たちは必ずと言っていいぐらい、このような体になってかえって幸せだったと言っている。
それは、障害を持たない健康な人はしばしば目標もなく漫然と生きていることが多いが、障害者はどのような生き方をしたらいいのかを真剣に考えるからである。その中には、大いなる苦悩があるが、一方で大いなる福音がもたらされ、たとえ八方塞がりの時でも必ず一筋の光があり、その先には満天の世界がある。
障害者、頑張れ!! きっと大きな大きな 輝かしい世界が待っている。