「清水の舞台から飛び降りた前期高齢者と人生やり直し機」
佐 藤 正 純(さとう まさずみ)(東京都)
61歳で有料老人ホームの常勤職に思いを残しながら定年退職した後、再就職の機会にも恵まれず昨年65歳の前期高齢者への突入が間近になっていた私は、幸い2つの大学の非常勤講師というアルバイトの仕事は継続できていたものの、何かもう一つ新しい仕事に挑戦したい気持ちを胸に秘めていました。
そんな2022年の10月ごろ、ゆいまーるのごえんで大里晃弘医師にご紹介いただき14年前から神経内科の講義を続けてきた筑波大学附属視覚特別支援学校高等部専攻科理学療法科で、病理学の非常勤講師の先生が引退を表明されているので誰か後任の先生を探してほしいという話が私に飛び込んできました。
早速、母校群馬大学医学部で病理学の教授を務めている同級生に電話して、首都圏に住んでいるお弟子さんを探して紹介してもらうように頼んだのですが、国立大学の講師料と交通費の財源に限界があるうえに、盲学校の学生に配慮しながら教えるという特殊な環境から適当な先生は見つからず、それは長年盲学校で教えてきた佐藤君の仕事ではないかと言われてしまいました。
今まで前期は都内の筑波大付属の神経内科と、神奈川県茅ヶ崎市の大学の医療概論という2つの大学の二刀流で、後期は神経内科の通年講義の後半を週1回だけというスケジュールでやってきた私には、後期にまだ週1日空いている時間がありました。
テキスト化ボランティアの方が、病理学の教科書『分かりやすい病理学』(332頁)のテキスト化を後期が始まる9月までの約1年で引き受けてくださり、日程的・物理的には私が従来の神経内科に加えて病理学を兼任できる可能性があることがわかりました。しかし医学部卒後、専ら脳神経疾患専門の臨床医として働いていた私ですので、全く教育経験のない専門外の基礎医学の学科を、65歳を過ぎた視覚障碍者が一から挑戦するというのは、清水の舞台から飛び降りるような話だと思いました。
医学部3年終了時に父を亡くして、アルバイトしながら背水の陣で勉強していたので、再試験を受けることは一度もありませんでしたが、剣道やスキーなどのスポーツを楽しんだり、モダンジャズ研究会を設立して演奏活動に出かけたりして、決して優秀な成績で卒業したわけではなかった私が、40年前に習った難関科目を今更思い出して教えることには、正直なところ全く自信がありませんでした。
しかし、実は群馬大学在学中に病理学を教えていただいた助教授の先生の教室には、動脈硬化による脳血管障害の研究に憧れて出入りさせていただいたので、若いころに尊敬していた先生から今になって背中を押されているのかもしれないと感じました。そして、失明して教育の仕事に携わってからの20年の間には、東洋療法科の医学史から始まって、看護師や介護福祉士、社会福祉士の医学一般、救急救命の症候と病態、神経内科、医療概論など専門知識から少し離れた幅広い科目でも、依頼されれば可能な限り挑戦して担当してきました。
そのたびに、健常者と対等な勝負はできなくても、少し背伸びをすれば手が届くかもしれないと思った仕事は絶対にあきらめないというポリシーを貫いてきましたので、神経内科60コマの通年講義の後期に同じクラスで病理学30コマの講義を兼任するという二刀流を、正に清水の舞台から飛び降りるつもりで引き受けてしまいました。
その話が決まってから前期の講義が始まる2か月前になって、私が担当してきた医療概論の教科書が直前になって改訂されるという想定外の事態が起こり、本格的な病理学の講義準備は夏休み明けからという苦しい日程になったのですが、一旦引き受けたものはもう後には引けなくて1年で2冊の教科書を読破して学科としては三刀流を演じることになりました。
病理学の講義は、前任の先生が国家試験問題に準拠した試験問題を残してくださり、私の臨床経験だけでその3分の1は解答できることがわかったため、まず自分でその試験問題の解答解説集を作成してそれを同級生の病理学教授にチェックしてもらってから該当する教科書のページを当てはめて講義資料の作成を始めました。
方針は決まったのですが、いざ実際の講義を始めてみると、臨床と基礎医学をつなぐ架け橋として、消化器、循環器、神経、感染症、新生物、先天性疾患など、医療全体を俯瞰的に把握できるDoctor's doctorとも呼ばれる病理学を30コマにまとめて教えるためには、準備に大変な時間がかかり、毎週木曜日の午前中3時間の講義で学生への配布資料と自分の説明マニュアルが完成するのがどうしても講義当日の朝2時過ぎになってしまいます。
もともと講義当日は3時起床でその日の講義を視力に頼らずに3時間話す準備をして、5時の始発電車に乗らなければならないので、当日未明に出来上がったばかりの講義資料を大学に転送して徹夜のまま出勤して乗り切るという若い子ぶりっ子を演じた日が、後期10週間のうち4回ほどありました。
現役時代の若いころは、毎日セブンイレブンの16時間勤務で、週2回の当直日は36時間勤務という1カ月400時間の過剰労働でも働くのが楽しくて、警察・消防・自衛隊・脳外科医はブラック企業4兄弟と言われても疑問を感じていませんでした。さすがに前期高齢者になってからの徹夜は疲れが残って、帰りの電車で優先席に座ってしまうと、そのまま終点まで乗り過ごしてしまい、清水の舞台から飛び降りるつもりが、間違って駅のホームから飛び降りて、視覚障碍者がまた駅のホームから転落したなどとテレビのニュースに名前が出ることだけは避けるように気をつけていました。
そんな自転車操業の合間に、ゆいまーるのホームページ受付担当の私が受けたのが、サノフィ株式会社という外資系製薬会社の高島静さんからの講演依頼でした。高島さんは私と同じ横浜生まれで筑波大卒の助産師で、静(しずか)さんというお名前が私の大好きな「どらえもん」にも繋がる不思議なごえんを感じて、私が担当させていただくことになりました。
12月7日木曜日の講演当日も私は病理学終盤の講義に徹夜で出勤して、筑波大付属で午前中3時間の講義を終えてから、そのまま初台のサノフィ株式会社本社で90分の講演に臨んだのですが、筑波大付属まで迎えに来てくださる「しずかちゃん」を待つ間、筑波大付属の先生とドラエモンの道具でもしも手に入るなら何がほしいかという取りとめのない話になりました。
私はタイムマシンで過去の失敗をリセットできる「人生やり直し機」でニセコスキー場の医局旅行のスノーボードをキャンセルして人生をやり直したいと言ったところ、筑波の先生が急に強い口調で「先生、それはだめです。だって、そんなことが実現したらもう先生に会えなくなって、うちの大学で教えてもらえなくなってしまうじゃないですか」と言われてしまいました。
私は、改めてハッと気づかされました。若くして脳神経外科という目標を失って、不自由で
悔しい思いもしてきた私ですが、生かされて、次々と新しい仕事を与えていただき、今こんな体の前期高齢者でも必要とされて大切にしていただいているのは本当に幸せなことだということを。
ですから、来年度も継続講義を依頼されている現在の仕事に私は幸せを感じて全力で取り組みたいと思っています。