【会員より】     【機関誌第3号】     Top


     視覚障害者が漢字を書けるようになったのはいつからか?

                       有 光 勲 (高知)

 それは、歴史的にははっきりしている。歴史というほどそんなに昔ではない。わずか30年前のことである。それまで視覚障害者は、全く漢字を書く手段を持たなかった。

 昭和50年代中頃から、いわゆる「パソコンブーム」が起こり始めた。しかし、その頃のパソコンは、アルファベットや記号、カタカナぐらいしか扱うことができなかった。昭和56年、富士通からFM-8という漢字やひらがなの扱えるパソコンが発売された。それをいち早く用いて視覚障害者が点字の六点入力によって漢字かな混じり文を書けるようにしたのが、元筑波大付属盲学校の 長谷川貞夫教諭であった。

 本来点字はかなであるが、長谷川氏は、点字(1マス6点)を3マス、または4マス組み合わせて漢字1文字を表す六点漢字を既に考案していた。そして、この漢字が扱えるパソコンが出ると直ちに研究を始め、視覚障害者が6点点字入力によって漢字かな混じり文が書ける点字ワープロを完成させたのである。

 昭和57年8月、岐阜で全国盲学校研究大会が開かれ、そこで長谷川氏が点字ワープロについての講演とデモンストレーションを行なった。たまたま私がその場にいたのである。このことがきっかけとなって、現在の「高知システム開発」のさまざまな視覚障害者用音声ソフトの開発へとつながっていく訳である。

 私も実際にその会場で点字ワープロなるものを触らせてもらった。長谷川氏の簡単な説明を聞いただけで私の名前が書けたのである。私は、先天性視覚障害であり、点字を常用していた。自分の名前を漢字で書いたのはまさに生まれて初めてのことであった。その時の驚きと感動は今でも忘れることができない。

 その点字ワープロ一式とは、前述のFM-8パソコン、ディスプレイ、漢字プリンタ、フロッピーディスク・ドライブなどであるが、さらに外付けの点字入力装置(キーボックス)が必要であった。1文字書くごとに、ピッという音が出るだけでその文字の確認は自分ではできない。

 編集機能としては、行や文字の挿入と削除ぐらいで、1度に書けるのは1ページだけ、文書の保存機能もなかったため、1ページ書くごとにそれを漢字プリンタで印刷する必要があった。かな漢字変換機能もなかったため、そのワープロを使うためには、六点漢字の習得が必要であった。しかし、視覚障害者が自らの手で漢字かな混じり文の作成を可能にした、この長谷川氏の業績はまさに革命的とも言えるものであった。

 それではその頃、一般晴眼者用ワープロはどうであったか? 昭和54年のことであると長谷川氏から聞いたが、東芝からワプロ専用機「JW-10」が発売された。それは、価格が600万円で、なんと重さが220sもあったという。この点字ワープロができた頃、まだパソコン用ワープロ・ソフトは発売されていなかったので、視覚障害者用ワープロが一歩先んじてスタートしたことになる。このようなケースは大変に珍しいのではないだろうか。

 私は、高知盲学校に帰り、職員会でこの点字ワープロについて詳しく報告した。それに対して特別に興味を示したのが中途失明の故北川紀幸教諭であった。彼は、点字には苦労していたが、普通の文字については国語の教師顔負けぐらいに詳しかった。
 それから、北川氏と私は早速六点漢字の資料を長谷川氏から取り寄せ、まるで競走するかのように2人で六点漢字を覚え始めた。六点漢字についての説明は省略するが、規則的に作られており、大変覚えやすいものである。2ヵ月も経たないうちに2人とも六点漢字のおおよそのところはマスターした。

 翌昭和58年2月に点字ワープロ一式を県費で購入してもらった。費用は70万円ほどであったが、それはハードだけで、ソフトについては長谷川氏から無償で提供してもらった。まだその頃は、ラジオやテレビを買えばそれがすぐに使えるというように、パソコンさえあれば何でもできるものと思われていた。形のないソフトウェア(プログラム)についてはほとんど理解されていなかったのである。言うまでもなく、ソフトがなければ、どんなに高価なパソコンもただの箱にすぎない。長谷川氏は、この点字ワープロ用プログラム開発のために多額の私費を投じておられたのである。

 その後、私と北川氏は、画面の文字を音声化する方法はないものかといつも話し合っていた。そんな時、長谷川氏から輸入品の音声装置があるということを教えてもらった。しかし、残念ながら私たちには、プログラミングの能力は全くない。そこで、点字ワープロを納めに来ていたパソコン・ショップの人に頼んでTさんというプログラマーを紹介してもらった。長谷川氏からその音声装置を送ってもらうとともに、ソフトのバージョンアップについての全面的な許可も得た。さて、そのための費用はどうするか?

 元県庁の職員であった北川氏の助力によって、ライオンズ・クラブから50万円の寄付を受けることができ、その範囲内でのプログラミングをTさんに委嘱した。2ヵ月ほどで一応音声の出るワープロはできたがそれはまだ画面の文字を読み上げるまでには至らなかった。例えば「セーブ」(書き込み)、「ロード」(読み込み)、画面のカーソル位置を「1の2の3」(1ページ2行3文字目)というぐらいのものであった。
 しかし、複数ページが書けるようになったことと、文書のディスクへの書き込みとその読み込みができるようになったのは大きな改良点であった。

 引き続き画面文字の音声化についてTさんに相談したが、その時、彼が紹介してくれたのが高知システム開発の大田博志社長である。

 昭和60年、大田社長の手によってついに音声ワープロが完成した。画面の文字は全て音声によって認識できる。ひらがなとカタカナ、アルファベットの大文字と小文字などは音声の高さを変えることで識別できるようにした。それでも、まだ六点漢字による入力は必要であった。バージョンアップを繰り返し、ついに かな漢字変換が可能となったのである。これは、全国的に大きな反響を呼んだ。しかし、この点字ワープロにはまだ名前がなかった。いろいろと話し合った結果、「AOKワープロ」ということにした。
 今では、この名のワープロはないが、「マイワード」の前身である。高知システム開発のプログラム選択メニューに「AOKメニューの選択」というのがあるが、これはその時の名残りである。

 ちなみに、AOKのAは有光、Oは大田、Kは北川の頭文字だと思われているが、それは少し違う。画面の文字が全て音声化されたので、音声「All OK」ということで「AOKワープロ」としたのであり、たまたまそれが3人の頭文字と一致しただけである。紙数が限られているので、高知システム開発が現在に至るまでの詳しい経緯については省略する。

 視覚障害者の中でも若い人たちは、音声化ソフト(スクリーンリーダー)によって、インターネットやワープロ、携帯電話などを自由自在に使いこなせるのが当たり前だと思っている。しかし、私のように昔の不自由さを知っている人間にとっては、今のコンピュータ技術の世界がちょっと信じられない。こんなにも便利になって!と、つくづく今のありがたさを実感している今日この頃である。