【会員より】     【機関誌第3号】     Top


      病気と私と仕事

                       鎌 田 久 美 子 (東京)

 「理学療法士の学校に行ってみたらどうだ?」

 高校1年生の時の進路相談で担任が私に言った言葉。
 「理学療法士?」「どんな仕事?」「看護師と似てる仕事?」「病院で働ける?」。様々な疑問が頭を駆け巡る。当時の私の将来の夢「看護師になりたい」。

 学校の授業の一環で職業体験があり、私は迷わず看護体験を選択していたくらい、将来は看護師になりたいと強く思っていた。でも、生まれつきの弱視の私では、学校側としても看護学校への進学に前例はないし、看護協会へ問い合わせても、「患者さんの顔が、病室入口から全員見渡せないとだめ」と。そんな時だったから、担任が言った「理学療法士」という職業に進むこととなった。

 私の病名は、網膜脈絡膜変性、視神経萎縮で先天性。遺伝ではなく原因不明。高校までは地元の普通学校にて、ルーペや単眼鏡を利用しての勉強。体育、音楽、部活、すべて健常の友達と一緒に過ごす毎日。自分の進みたい道や、なりたい職業に就ける友達がうらやましかった。高校卒業後は、視覚に障害のある学生対象の短大へ入学し、「理学療法学」を専攻。

 病気は、緩徐ながらも進行する病気。短大進学とともに上京してから生活の変化もあり、見え方も変わってきた。ルーペの倍率が6倍くらいから10倍となった。携帯の文字サイズも大きくした。でも20歳前後の私は、後先考えず学校を卒業し、理学療法士として働くことだけ考えていた。理学療法学科の入学の条件としては、ある程度「視覚機能が確保されているもの」とされていたから、進行は怖かったけど、あまり考えないようにしていたのかも。

 国家試験に合格し、今の職場に就職したのは、今から11年前。当時は、12ポイント程度の文字も近づければ裸眼で見えていたし、それ以上小さければルーペで読めていた。医療機器や物品などの目盛や文字もなんとか裸眼で対応していた。パソコンも白黒反転と若干フォントやコントラストを高めていたけど、音声やズーム機能のソフトは使わずに操作していた。若かったからか体力もあり、パワーで眼精疲労も乗り越えていたのかな。患者さまの顔も見分けられていたから、自分から声をかけていたなあ。

 理学療法の適応は整形外科や脳外科だけではなく、内科や神経内科などさまざまな患者さまを対象としている。医師の指示のもと、もちろん、関節可動域運動、筋力強化運動も行う。しかし、それ以上にバランス練習や歩行、階段昇降、起き上がり動作、乗り移り動作、屋外歩行、公共交通機関利用練習などの基本的に日常行う動作練習をする。

 また、歩行補助具として杖や歩行器の選定や調整、車椅子の調整、車椅子駆動練習などもある。床ずれができないようクッションなどを用いたシーティング検討も行う。在宅退院に向けて、家屋改修のアドバイスなども行なっていく。
 介助方法の指導や自主トレ指導も理学療法士の仕事である。書類も多いし、私はリハビリ専門の病院に勤めているからリハビリ中心のチームアプローチとなる。臨床実習に来た学生の指導もしていたなあ。

 25歳を過ぎた頃から、明らかに進行してるなーって感じ始めた。文字がルーペを使わないと完全に読めないし、パソコンもかなり近づかないと見えなくなった。文字の読み書きに時間がかかるようになり、帰宅時間もかなり遅くなった。休みの日も疲れて何もしたくない、寝ていたいと感じるようになり、勉強会や研修会への参加も億劫になっていった。本や参考文献も読めなくなりルーペで読むのも疲労困憊。「どうしよう」と思いながらも、日々の生活に追われ悪循環。負のサイクル。

 日中、患者さまとのリハビリが朝から夕方まで続き、その後、間接業務で書類作成などをする。バルンカテーテルを使用している患者さまや点滴、気管支カニューレをしている患者さまへの介入時は細心の注意を要す。
 このような生活が数年続いた頃、上司から「これじゃ介護職と同じだぞ」や、「どんどん後輩に追い越されてしまうぞ」などなど。業務後、1時間以上、説教みたいな話を延々と聞く日々。その中で、頭ではわかっているけど、どうしたらよいかわからないし、病気は進むし。本当に退職の道しかないのかなと考え始めていた。

 「勉強会に行っていないのなら、どのようにして勉強しているんだ?」
 「持っている本を読んでいます。」

 「同じ本しか読んでいないのか?」
 「自分の本なら、何がどこに書いてあるかわかるので、参考にしやすいです。」

 「それじゃあ、一字一句覚えているということなのか?」
 「そこまでは…」

 これが延々1時間繰り返される。挙句の果てには「点字で読めないのか?」「もっと前から、進行した時のために準備や知識を得るなどしなかったのか?」など。これが決め手となり、退職を申し出た。


 なぜか、私の退職は見送られ、傷病休暇として半年間休むこととなった。そこで、音声でパソコンを操作する講習を受けたり、視覚障害者の就労に関しての勉強会への参加や生活支援の相談など、今まで学んだことのないことを知ることができた。しかし、その半面、関東で1人暮らしをしていた私は、半年間、貯金を崩しながらの生活となり、また、孤独感、不安感との闘いともなった。

 1人でいる時間が多くなり、経済的不安と病気の進行の不安が押し寄せて繰り返し悩まされた。パソコン教室や、日常生活訓練など受けつつも、1人で生きていくには、医療現場へ何としてでも復帰しなくてはならないと思うことがしんどくて、苦しい。しかし、お金も稼がねば生きていけない。

 何とか、この半年の休暇で音声ソフトを使用してパソコンの検定試験も合格した。身体障害者手帳も1種4級から1種2級となり、それも申請して交付となった。あらゆる福祉用具を、助成金の助けもあり購入した。
 職場復帰へ向けては、就労支援機構のサポートと職場の協力の下、音声ソフトとズーム機能ソフトを職場のパソコンにインストールできるよう購入してもらうことができた。拡大読書器も同様に購入が許可された。

 もうすぐ、あれから3年が経とうとしている。現在は、ほとんど自分では患者さまを探せず、どこにいるかは職員に聞いている。私は、中心の視野狭窄があり遠くや文字は見えなくても、周辺視野は残存しており移動は自立している。

 見えない部分はサポートを依頼し、できることとできないことを明確にしよう、また、相手に伝えていこうと目標を立てながら仕事復帰し、現在も継続している。上司にも、自分の意見はきちんと伝えるようにし、横のつながりや後輩などとも関わり、私という視覚に障害のある医療従事者をそばで感じてもらおうと心がけ、これからもこの仕事を私の生活のため、人生のために続けていこうと考えている。