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     こころの復元力 (レジリエンス) 4つのC 〜ある女子高生の留学体験から〜


                       本 多 伸 芳 (神奈川)

 プロローグ

 人生は、誰もストレスがいっぱい、その風圧に歩みを妨げられる人、しなやかに成長の糧にして前に進む人、それぞれです。後者の、人の「しなやかさ」を「レジリエンス(復元力)」と言います。レジリエンスとはなんだろう。今回、ある少女の留学体験を通じ、描いてみようと思います。ここでは、シカゴ大学のコバサ博士の「4つのC(Challenge, Control, Commitment, Connectedness)」を参考にします。


   ものがたり『ニュージーランド、満天の星空に気づくまで』

 1.きっかけ

 志望校に進んだものの、ユキは入学早々の顔湿疹のため、スタートからつまづいてしまった。中学で活躍した陸上部にも入りそびれ、単調な日々に流されていた。1年はすぐに過ぎ、そんな自分を変えたい、と思うようになっていた。ある日、友人が「交換留学」の話を持ちかけてきた。校長室へ行くのに付き合ってほしい、と。だから始めは「付き添い」だったのだ。だが校長先生の話を聞くうちに、ユキの胸もわくわくしてきた。

 高2の1年間をニュージーランドで学ぶ、なんて考えてもみなかった。早速母に相談したが、仕事が忙しくじっくり聞いてもらえない。締め切りは迫る。腹も立っていた。
 私なんて、いてもいなくてもいいの? じゃあ、行っちゃうよ、1年間も長いよ、寂しくなっても知らないよ…。ユキは半分はやけで決心した。

 交換留学生選抜は、学校の推薦、選抜試験、親子面接、グループワークなど、越えるべきハードルが数々あった。ユキは、これらを着々とクリアした。両親は、話が進んでいることに驚いたが、ユキの高校生活に覇気がないと感じていたので、ユキの決意をただ喜んだ。そこはユキの思いと多少のずれがあったのだが…。

 ユキは、友と揃って交換留学の最終審査をパス、留学が決まった。しかし、それはゴールではなく困難へのスタートだった。交換留学生は、小さな大使として日本を紹介し、理解を深める、そんなミッションがあった。
 また、留学ルールとして親が留学先に行くこと、急用以外の親からの電話、1年間の留学期間中の途中帰国、これらはすべてNGだった。初めて聞く厳しいルールには、彼らの小さな胸がドキドキとプレッシャーの脈を打った。この時代、携帯メールもインターネットも普及していない。留学は、孤独と自立を試される試練だったのだ。

 199X年、ユキは旅立った。ニュージーランドを選んだ仲間8人が箱崎TCATに集まった。
 まずオークランドまで皆で行く。そこで世界中から集まるNZ留学生と2日間のオリエンテーションキャンプを張る。そしてそのあと、それぞれが自分の目的地に向かう。
 親の見送りは成田でなくTCATまで。子供たちは必死に自分を奮い立たせ、ついにひとりも振り返ることなくゲートの向こうに消えていった。

 2.待っていた現実

 オークランドのキャンプは楽しいものだった。初めての本格的外国語体験、各国間の交流も盛り上がる。なんだ、楽しいじゃん。皆が思った。肌の色や文化の違い、それを互いにエンジョイできた。そして、涙の解散式。ついに、リュックとスーツケースを持って、ひとり自分の目的地へ移動するその時はきた。

 ぎこちなくホストファミリーに迎えられ、緊張の留学生活が始まった。ユキは、南島の最南端の農耕牧畜を生業とする町の高校に入学した。眠れぬ夜と不安を抱いて。
 学校に行った。聞いてきた話と違う現実が待っていた。かつて日本人留学生が来たことのない町、それはユキが望んだことだったが、甘かった。実際、方言(訛り)も強く、ホストファミリーや学友の英語がさっぱり聞き取れない。ショックだった。

 それでも、協会で教わったとおり、健気に「日本の紹介」を試みた。ところが、誰も日本に興味を持っていないどころか、誰も自分に興味を示さない。むしろ、短い黒髪(直毛)、化粧気のない素顔、黄色い肌、皆が引いているのがわかった。
 ランチでは、食べ方を不思議がられ、ひそひそと何かささやかれ笑われる。アグリー(醜い)の声も確かに聞いた。ユキは、ついにトイレに隠れてランチを食べるようになった。パンに涙で塩の味がした。

 だめだ。話が違う。親善大使どころか、いじめられっ子だ。ユキの変化はホストファミリーにも影響。笑顔と英語を失ったユキを見てホストマザーが心配し、気を遣う。それにジェラシーを持ったホストシスターとのぎくしゃく。ユキはこころの休まる場所がなくなってしまった。

 3.行き止まりの部屋

 まだ1ヵ月も経っていないのに、これで1年も我慢できるのか。無理だ、ユキは思った。それから、ユキの毎晩の電話が始まった。日本のお母さんに電話をかける。留学生が親に電話するのは許容されていた。しかし、毎晩はルール違反だ。でも、ユキにとってその日のお母さんとの電話(泣き言)が一日をやり過ごす目標となった。今日1日をがんばれば、お母さんと話せる、それを頼りに孤独を耐えられた。夕食後は、ホストファミリーの諦めた目を背に電話にかじりついた。すぐにでも帰りたい。ユキは毎晩訴えた。訴えることで安心できたのだった。

 お母さんは、そんなにつらいならいつでも帰ってきていいよ、ひとりでそんな遠いところまで行っただけでも立派なんだから、もう十分だと思ったらいつでも帰っておいで、と言ってくれるのだった。(→ 小さな希望でも、1日を越えてゆく勇気につなげられる、ユキはお母さんという支えをひとつ確保した →  Connectedness)

 このころ、ユキは日々の悲しさ、つらさを日記に書き始めた。電話で吐き出しきれない思いを書くことで同じ効果があることに気がついたからだ。日記は友達や母のような存在になった。電話も日記も「逃避」であることはわかっていたが、初期の困難からユキを守ってくれたことは確かだった。(→ 日記は自分を外から眺めるいい道具)

 ある夜、ユキは「日本に帰る夢」を見た。しかし、夢の中のお母さんは、いつもの電話とは違い、空港で会うなり、
 「こんなに早く帰って来ちゃったんだから、あとの1年間内緒にして、ずっと家で隠れてなさいよ」と冷たく言うのだった。

 ハッと目が覚めた。ほんとのお母さんじゃない、これは自分が思っていることだ。
 「ここで暮らすことはつらい、でも、今帰ったらもっとつらい」と思っているのは私自身だと気づくユキだった。進むも地獄、戻るも地獄、ならば進もうか、ふと浮かんだ言葉だった。すると、今まで思いもしなかった考えが生まれてきた。行くも地獄、戻るも地獄、ならば行くしかないか、ユキが脱皮した瞬間だった。後にこの日のことを「一夜の脱皮」と彼女は述懐する。(→ 恐怖の克服、認知の切り替え → Control)

 4.一夜の脱皮

 留学2ヵ月、まず、ユキは協会にホストチェンジを求めた。これは権利として認められていた。話は予想外に簡単に進んだ。また、この転機にユキは別の行動にも出た。学校の校長先生の部屋を訪ね、転校したいと訴えたのだ。

 そう、ユキの苦悩は本来、周囲の自分への無関心、日本に対する無知、そして悪意のない自然な人種的偏見だった。学校を変わりたい。勢いづいたユキは校長先生に一生懸命訴えた。(→ Challenge、アサーション行動)

 校長先生は、しっかりユキの話を受け止めてくれた。そして、ユキが落ち着くのを待って静かに言った。

 「あなたは『友達が誰もいない、誰に話しかけても聞いてくれない』と言いましたが、本当に誰ひとり、あなたの話を聞いてくれなかったのですか? 誰かひとりでも思い出せないのですか?」(→ 思い込みはないか? 認知のゆがみ、自動思考の誤りはないか?)

 ユキは校長先生の静かな言葉に促され、少し考え、やがて気づいた。
 「そうだ、両親の写真を見せた時、ひとりだけ写真を見てくれた少女がいました!」頬の赤い、栗毛がカールした女の子、ラディアの顔を思い出した。
 「ほら、いるじゃないですか」 校長先生は微笑み、「すべてがダメなのではなく、あなたが気づいていなかった、そうですね。あなたは本当は独りぼっちじゃなかった。チャンスを自分で隠していたんですよ。」

 校長先生は、学校を変えるのではなく、ラディアのいるクラスへの編入を提案してくれた。
 「ユキ、私に会いに来たこと、自分の状況を一生懸命話してくれたこと、そして友達を見つけ出したこと、転校ではなく、クラス替えを導いたこと、これらはすべてユキが自分で勝ち取ったことです。いつもそのように自信を持ちなさい」と言って肩を叩いてくれた。
 校長先生の目は、私の学校を信じなさい、と言っていた。ユキは大きな扉を開けたのだ。

 5.自分を紹介する

 日本を紹介する? もう やめた。自分が精一杯生きる。そう思うとユキはピアノが弾きたくなった。学校の中に、希望者だけの特別学級があり、ピアノもその1つだった。入ってみると、ラディアもいた。2人は喜んで手を握り合った。もう日本代表でも小さな大使でもない、ありのままの自分でいこう。

 いつしか、ユキは電話も日記にも頼らなくなっていた。留学も3ヵ月を越した。すると不思議なことが起きた。ランチの時、遠巻きにして離れていたクラスメートが近寄ってきて、「ピアノ、上手なんだってね。習ってたの? 日本人はピアノが得意なの?」などと話しかけてくるようになった。ひそひそ声も聞こえなくなった。(→ 一生懸命になる姿 → 自分も満足、自信がわく → Commitment)

 6.スターのひとりに

 4ヵ月が過ぎた頃、土地でも有名な高校の文化祭があった。人気のプログラムはミュージカルだ。ユキはそのバックバンドのピアニストに推された。バンドのメンバーは役者と同様、学園のスターだ。ピアニストの日本から来たユキだね、と村人からも声をかけられた。ある日、校長先生がバンドの練習を見に来て、ユキに、今の君は自信に溢れているね、おどけた目で笑った。

 7.終章

 3ヵ月目からお世話になった新しいホストとの生活は幸福だった。ホストペアレントはユキには祖父母のような年齢で、成人している年上の兄姉も皆で可愛がってくれた。羊の牧畜農家で、飼育作業も手伝わされたし、お客様扱いされず家族として接してくれた。水が貴重なこともここで学んだ。貯めた雨水がなくなればシャワーも浴びれなかった。家には傷ついた羊が家族のように出入りした。本当は半年を過ぎても英語がしっかり話せている自信はなかったが、こころは皆とつながっていた。

 留学生活も終わりを告げる頃には、家を行き来する友達もたくさんできた。高校のダンスパーティが開かれた時は、近所の鼻の赤い少年が誘ってくれたので、ホストマザーが大喜びで、背中のざっくり開いた緑のロングドレスを作ってくれた。髪もパーマをかけてハイヒールを借りた。素敵なレディーができあがった。あの、毎日泣いていた頃、どうしてこんな最終コーナーを想像しただろう。

 その頃、ニュージーランドの夜空は、素敵な星屑がびっしりとひしめいていた。苦しかった頃も同じ星空があったはずなのに、困難を乗り越えて、やっと見えた星空だった。


 エピローグ

 どうしたら困難を乗り越えられるか。「4つのC」をどうやって実現するか、自分のこころを見つめ直す間にきっと神様が降りてくる、手の中にあるCに気づかせてくれることでしょうね。諦めてもいい、そこから何か掴めれば。