【震災・その後】     【機関誌第3号】     Top


     心の中の防波堤

                        八 巻 真 哉(宮城)

 2013年3月、岩手県盛岡市から広島県広島市まで旅をした。青森から仙台まで国道45号線が全面繋がり、今を知ろうと思った。そして仙台から広島まで全て鈍行列車で向かった。東北、神戸、広島を巡ったのは、特別な思いがあった。

 盛岡から宮古へ車を走らせる。まだ雪が残る峠をぬけると、仮設テントが見えてきた。ここは食堂で、美味しそうなラーメンの香り。息子と母が切り盛りする店のオススメは、磯ラーメン。400円でたくさんのワカメ、エビ、カニ、貝、そして天然塩ベースのスープ。あまりの旨さに2杯食べた。帰り際、おつりを渡してくれた手は、冷たくも両手で握られる。この手の感触が震災を生き抜いたのだと感じた。

 私は知りたかった。友達の思いだけでなく、東日本、更にはこの国で起きたことを。なぜなら知らなければ、寄り添うこともできない。今も多くの方が当時の記憶と闘っている。心の復興はまだだ。前例のない災害、治療方針すら極めて少ない。元気そうな高校生、水たまりを見ただけでパニックを起こす。

 宮古は有名な港町だ。「あまちゃん」で有名な久慈の南に位置する。今でも思い出す大学3年、サークルの仲間を乗せ仙台から海岸線を北上した。終着は、看護学科の女の子の実家である。7人で押しかけ大迷惑だっただろう。漁師を父に持つ家庭の食事は圧巻だった。朝からウニが出てくる。

 12年後の同じ道、半島の海岸ギリギリの道は砂利が敷きつめられただけで、砂利の音とほこりが巻き上がる。波の音は以前と変わらず穏やかで、鳥の鳴き声がまっすぐ伝わる。危険で友人宅まで行けなかった。ただ、忘れないと強く思った。小さな学校の体育館、古びた小さな商店、そこで生きた人々が浮かんでくる光景。
 夕方、浄土ヶ浜に移った。極楽浄土のようなきれいな浜辺。白い丸い石が一面に、水は透き通りお魚が泳いでいる。親子が浜辺で遊んでいる。丸石を子どもが水面に投げる。より遠くに投げようとする姿、親子が笑いながら遊ぶ光景に、心が温かくなった。

 夜が明け、朝日が昇る。今日は宮城県南三陸を目指す。友人に車からの風景を教えてもらいながら南下する。正直、あまりの風景の違いに信じられなかった。見渡す限り同じ風景が数時間。報道で流れた奇跡の一本松は霧の中に立っていた。夕方になり雨がひどくなる。宮城県気仙沼市に入ったのは、日が落ちたころ。道が繋がっていても鉄板の上を走るようだった。

 南三陸に着いたのは、夕飯時間を随分過ぎていた。南三陸ホテル観洋が今日の宿だ。震災時、必ず復活させると強く語った社長が思い出される。以前来た時より、食事が素晴らしかった。魚介類がふんだんに使われ、最後は南三陸キラキラどんだ。キラキラどんは、季節により変わる 海鮮どん。溶けそうなお刺身、アワビ、キラキラ光るイクラ。ホテルのかたがこう言った。たくさんのかたにお越しいただき、召し上がってくださるだけで嬉しいと。

 カモメの声で朝を迎えた。海の目の前に建つ、まるで豪華客船にいるようだ。客室からは太平洋が目の前で、朝日が熱く感じた。穏やかな波の音、鳥の鳴き声、抜けるような青空。あの日にはなかった。
 朝食後にホテルから語り部バスが出た。ホテルの周囲は荒野だった。多くの方が上った山は、えぐられて直径20メートル程度しかない。崖のような山には、必死に上った手の跡が残っていた。どんな気持ちで、この子は上ったんだろうかと考えたら、胸が締めつけられた。

 次に防災対策庁舎に移った。最後まで避難を呼びかけた女性の話が残る。三階建の庁舎は、非常階段が飴のように曲がり、触ると冷たさが伝わってきた。周囲は高い山すらない。走っても間に合わなかったであろうと感じた。当時、庁舎からホテル側を見ると、湾の底が見えたらしい。

 3日目の朝、仙台駅から始発に乗り込む。東北本線 福島 郡山行き。宇都宮線、東海道線と乗り継ぎ、「青春18きっぷ」で広島まで5日かけて旅をした。東日本大震災は、遠く離れた九州まで揺れ、被害が少なくも津波は全国を襲った。そんな中、助けてくれた方々の故郷を見たかった。そして、復興した神戸の姿、廃墟から立ち上がった広島、どうしても知りたかった。神戸のきれいな街並み、原爆ドームのすぐ近くのカフェから甘いパンの香り。忘れない。電車での長い時間の中で、こんなに日本は広かったのか、あの時みんなが助けてくれたんだと、思い起こされた。皆さんありがとう。

 最後に福島への車窓で考えさせられたことを書き、結びとしたい。車窓から広大な果樹園が広がる。多くの方は、放射性物質汚染があっても農家や漁師が奮起する話を知っているだろう。しかし、もう一つの話はほとんど知られていない。それは、例え汚染がなくても、全国の方に届けられない。心から安心して美味しいと言われたいと誇りを持つ方もいる。木の下に山のように果物が捨てられていた。

 2014年3月、仙台平野はガレキがほとんどなくなった。津波襲来の看板だけが残り、震災遺構が少なくなってきた。じきに防波堤が再建され、何があったのかすら分からなくなってしまうかもしれない。しかし、心の中の防波堤は、いつできるのだろうか。少しでも寄り添える人間になるため、私は歩いていきたい。