守田 稔
1.はじめに
ここにおられる‘ゆいまーる’会員のみなさん全員に、それぞれの歩んでこられた話があり、その中には不安や悩み、ときには喜びがあったことと思います。そのようなたくさんの話の一つとして、今日はお時間をいただき、私、守田稔の話をさせていただければと思います。
2.一度目の発病
私は小学4年の冬にギランバレー症候群という病気に罹りました。これは末梢神経の病気で、手や足が動かなくなったり、ひどいときには息ができなくなる病気でした。入院して2週間程のあいだに手足が動かなくなりましたが、幸い病気の進行はそこで止まり、4ヶ月の入院期間の後に、車椅子のままでしたが退院することができました。
退院後もリハビリを続け、中学に進学するころには、見た目には人並みに動けているようなくらいまで回復しました。そのころは、健康であることの大切さとかけがえのなさを強く感じていました。しかし時が過ぎ、そのような意識が徐々に薄れていました。そんなある日のことでした。
3.二度目の発病から退院まで
私は医師を目指し、医学部の5年生となっていました。臨床実習が始まり、5月の連休が明けたその日は、午前から体に違和感がありました。平衡感覚が取りづらく、まっすぐに歩けず、視野の周囲が眩しい感じがしました。そこで昼から内科と神経内科を受診しました。明確な筋力低下が認められなかったため、何かあればすぐに入院できることとして、その日はそのまま帰宅しました。
翌日、朝 目が覚めると、恐れていたことが現実となりました。足に力が入りませんでした。卓球部の先輩や同級生に電話をして、左右から支えられ、何とか病院までたどり着きました。病棟に入ったころには手足の力が入らないだけでなく、視野が明らかに狭窄していることを自覚しました。
病気の進行はとても早く、入院したその日の夜、息が苦しくて目が覚めました。ナースコールを鳴らし、ベッドを起こした状態でまずは様子を見ることになりました。再び息が苦しくて目が覚め、ナースコールを鳴らしましたが、そのまま意識を失いました。
次に意識が戻ったのは、気管内挿管をされているときでした。その瞬間から、声を出してコミュニケーションを取ることができなくなりました。やがてまばたきと眼球運動を残し、顔を含めてすべての筋肉が動かなくなりました。
入院3日目に、救命救急科のICUに転科しました。意識はあるものの一切のコミュニケーションが取れず、また呼吸器に繋がれているものの倦怠感と息苦しさは厳しいものがありました。そして眼の見えにくさはありましたが、それどころではない状態でした。
私は全く動かないため、一見意識のないような状態でしたが、周囲の声からすぐ近くで命のやり取りがされていることがわかりました。子供の名前を涙声で叫び、何時間も励まし続ける若い父親の声。おそらくは 長い闘病生活をしてこられた若い女性に対して、夜を通して語り続ける母や兄の声。そして臨終を伝える医師の声。
動かない私の顔の上に、涙の池ができました。自分自身にも無気肺が生じたことが判明し、ますます息苦しさは増し、死は近いのではないかと思いました。またこのままの苦しさでは、親やみんなには悪いが死んだほうが楽だとも感じるような日が続きました。
助かる命と助からない命の間に、現実とは隔離された状態で、1ヶ月間、私はいました。
その後症状はやや安定し、再び神経内科に転科することになりました。動けないことには変わりありませんでしたが、徐々にまばたきで会話ができるようになってきました。そのころに、自分の視野がとても狭くなっていることに、改めて気がつきました。まばたきで「お願いです。眼を治してください。一生がかかってます」と、母の通訳を通して主治医に伝えました。左眼だけの針穴のような視野が、そのときからの私の頼みの綱になりました。
しばらく気持ちは沈んでいましたが、やがて舌が動くようになり、その舌が前歯を触るようになりました。それから少しずつ身体の動くところが出てきはじめ、まずは体を治すことに気持ちと努力を向けました。首が少し動くようになれば、何度も同じ動きを繰り返して練習しました。そして徐々に肩、腕へと動くところが伸びていきました。10月ころには自発呼吸も少し現れ、翌年には呼吸器をほぼ離すことができました。
その間にもいろいろな出来事がありましたが、家族や卓球部の仲間に支えられ、そして励まされて、4月の末に退院することができました。
4.復学
退院はしましたが、首はまだ安定せず、足もほとんど動かず、一年ぶりの社会に出ていくことは、この上なく不安なことでした。そして何より、眼がほとんど見えていないことが、将来への陰として重く存在していました。
本を見ても、縦に1行、横に6文字しか見えませんでした。毎日のリハビリと、見えにくい目での自主勉強を続けていました。9月になり大学側の配慮で、4年生の授業に自由に参加することができるようになりました。常に卓球部の後輩が、これは後の同級生ですが、横に付いてくれて、黒板やスライドを言葉で説明してくれました。
そのころリハビリ室で、いつも話をするおじさんが、新聞の切り抜きを持ってきてくれました。それは、欠格条項が今後改正されるかもしれないという記事でした。
2001年4月、5年生への復学が許可されました。教室での授業とは異なり、毎日あちこちを移動して、すべての診療科を回る臨床実習への復学でした。私の知らないうちに卓球部の同級生達が、私と同じグループで実習を回ることを、大学側に提言してくれていました。そのお陰で、毎日彼らを中心に朝から晩まで車椅子を押してもらい、すべての臨床実習を回ることができました。
そんな7月のある日。かすかに見えていたはずの左眼の視野が、ぼやけて見えなくなってきました。ほどなく全く眼が見えなくなり、夏休みに入りました。
気分は沈み、昼も起き上がれず、食事と睡眠を取り続けるだけの8月が過ぎていきました。9月になるのが怖く、不安でいっぱいでしたが、なんとか休み明けの実習に参加しました。そして勇気を出して、同じグループの仲間に、眼が見えなくなった事実を伝えました。
それを聞いた彼らは、「僕たちが読みますから、大丈夫ですよ」と言ってくれました。本当にうれしく、そしてまた実習を続けていく勇気がもてました。
5年生の実習を無事に終え、6年生になりました。選択制の臨床実習や、国家試験に向けた授業が始まりました。また授業が終わった夕方からは、仲間で一緒にする勉強会にも参加させてもらいました。
教科書は、両親、兄、姉が自分の時間をさいて、カセットテープに吹き込んでくれました。全部で90分テープ、400本は軽く超したと思います。そのうちの9割のカセットには、父と母の声が入っていました。そして、国家試験という大きな壁が、だんだんと目前に近づいてきていました。
5.医師国家試験
6年生の夏。すなわち2002年の夏から、私は医師国家試験に向けて種々の準備をしていくこととなりました。国家試験という壁が必ず先にあることはわかっていましたが、ずっとぼやけたものでした。試験の準備を進めていくにつれて、霧が晴れるかのように、その壁の形が徐々に見えてきました。そしてそれが、とても大きなものだということにようやく私は気がつきました。
入院中からずっとお世話になっていたソーシャルワーカーの方から、特例受験の申込み方法と、試験を受けるに当たって 会ってアドバイスを受けておくべき方のご紹介をいただきました。
それが、全盲で初めて司法試験に合格された竹下義樹先生と、障害者職業総合センターの指田忠司さんでした。おかしな話ですが、自分が全盲であるにもかかわらず、同じ視覚障害をもつ人の話を聞かせていただいたのは、このときが初めてでした。
お二人からは、試験について多くのアドバイスをいただいただけでなく、視覚障害をもちながらも新しいことに挑み、そして道を切り開かれている姿を示していただきました。そして、とても大きな勇気と元気をいただきました。同時に竹下先生からは、ここにおられる戸田さんをご紹介いただき、そしてここにおられる下川さんとも知り合うことができました。二人の先生からは常々たくさんのエールをいただき、ますます試験への気力をつけることができました。
また同じワーカーの方の助言で、教授陣への手紙作戦を開始しました。
・模擬試験ではこのくらいの点数を取れています。
・こうすれば私も試験に答えることができます。
・このような方々と会って、私はアドバイスを受けています。
そして最後に、欠格条項が撤廃されたことを報じる新聞記事を添えました。道や廊下で出会った教授に、次々と手紙を渡していきました。
何日か続けたころ、学年担任の教授から「もう せんでええ」と言われ、学務課の方から「今後の厚労省とのやり取りは、すべて学校がしますから。どうぞ安心して勉強してください」との言葉をいただきました。
やがて、2ヶ月におよぶ卒業試験の時期となりました。
・対面で問題を読み上げてもらい、それを録音して聞き直す。
・口頭で答案し、それを代筆していただく。
以上のような方法ができていきました。そしてこの方法が、後の国家試験の受験方法へとなっていきました。また教授や准教授の先生方の計らいで、各先生と1 対 1での画像問題の模擬試験をしていただきました。
たくさんの方々に、たくさんの支援を受けて、2003年3月中旬、1日10時間、3日間に渡る、第97回医師国家試験を受験できることになりました。
別室受験で、時間は通常の1.5倍、問題はすべて通常と同じものでした。画像問題に対しては、3つの方法が取られました。私一人に対して、5人の方が付いて試験をしてくださりました。
無事に試験が終わり、4月末に合格の発表をいただきました。この上ない喜びを、家族や周囲のみんな、病院や学校の方々、すべての方と共有することができました。
しかし、免許はすぐには下りませんでした。すでに精神科に入局していましたが、身分は一人だけ実習生というものでした。不安な時間を過ごしていましたが、7月に厚労省から連絡があり、8月4日に霞ヶ関で面接を受けることになりました。その面接の結果、8月7日に医籍への登録が許可され、晴れて正式に医師免許をいただくことができました。
6.精神科入局から現在まで
私は、2003年に関西医科大学附属病院の精神神経科に入局しました。2年間の研修期間を経て、今、6年目に入りました。何ができ、何ができないか。またできなかったことでも、何か新たなできる方法があるかを探す毎日に変わりはありません。
車椅子での移動は、看護助手の方や同僚の先生方、みんなに手伝ってもらっています。また外来のある日は、診療補助の人に一日ついてもらいます。
現在私は、性同一性障害の外来を担当しています。
性同一性障害外来を、ごく簡単に説明します。まずその診断がつくかを判断します。次に、体に対する治療を希望される場合には、それに合わせた診察を行います。具体的には、身体治療を行う各科との橋渡しを行いつつ、家族や職場内の環境調節を行ないます。中には種々の身体治療を行い、戸籍の性別変更を実施する方もおられます。そのときには、そのための特殊な診断書を作成します。
7.終わりに
終わりになりましたが、これまでお話してきたように、私は家族や多くの方々の助けをいただき、励まされ、そして支えられてきました。今後、私のできることは、身体的な限界もあり限られているかもしれませんが、少しずつでも積み重ね、また少しずつでも広げていければと思っています。
ここにおられる「ゆいまーる」の皆さんは、私と同様に先のよく見えない道を歩いてこられ、また私と同様に今もなお歩いておられるかもしれません。けれども歩いた後には、必ず道が残ります。それぞれの道と道とが触れ合っていけば、きっと何かが見えてくるのではないかと信じています。
以上で、私の体験談を終わらせていただきます。