【二人三脚の日々】  【これまでの活動】  Top


             守田 喜久子

 皆様、本日は「ゆいまーるの会」発足、おめでとうございます。今まで、専業主婦で過ごしてまいりましたので、このような晴れがましいところでのお話は自信がありません。お聞き苦しい点があるかと思いますがどうかお許しください。

 稔が医学部五年生の1999年5月の連休明け。病院から一本の電話がかかってきました。思えばこれが稔と私の二人三脚の日々のスタートでした。なにが起きているのかわからないまま、あれよあれよという間に状態が悪化し、次の日には呼吸器のお世話になり、三日目にはICUへ転科となりました。

 その頃には、四肢はおろか 頭部も動かすことができず、唯一動かすことのできる眼球で、意志の疎通をはかっていました。血漿交換、ステロイドパルス療法、あらゆる治療がなされましたが、状態は安定せず、神仏に祈る毎日でした。

 やっと、「命だけは救われた。」と思う頃から、視野の狭窄を訴えるようになりました。眼科の診察をうけたのですが、有効な治療はなかったようです。視力以外にも心拍の乱れ、血糖値の異常など様々な身体的トラブルが続き、残念ながら視力に関しては後回しの状態になってしまいました。今となってはもう少し視力に関して、できることがあったのではと後悔の念もありますが、とりあえず命が救われたことに感謝することにしました。

 秋になって、やっと呼吸器から離脱することができました。リハビリも軌道にのり、命を救ってくださった先生方に感謝しつつ翌年の四月には退院することができました。稔の下宿に住みこんで、車椅子を押しての二人三脚が本格的になりました。

 その頃のわたしの心情は「なるようにしかならない。毎日を一生懸命すごそう。」という達観したものでありました。

 2000年の秋。学校の特別な計らいで四年生の授業を聴講することができました。ちょうどその頃、医師国家資格の欠格条項撤廃に関係するニュースが耳にはいり、視力に不安のあった稔にとっては、明るい知らせだったと思います。卓球部の後輩の助けをうけながら、二度目の四年生を終え、五年生に復学することができました。前例のないため、なにもかも特例づくし、学校に多大なご苦労をおかけしたことでしょう。ポリクリも試行錯誤の毎日であったと思います。

 その年の夏休みのことです。いつも前向きにふるまっていた稔がやる気をなくし、だらだらと過ごすようになったのです。とうとうおそれていたことが起こってしまったようです。失明です。この頃の稔の心中は いかほどであったかと思いますが、家族にはどうしてやることもできず、落ち込む毎日でありました。このまま、医学の勉強を続けるべきか、中途失明者として、新しい道を模索すべきか、本人はもとより家族も悩みました。しかし、欠格条項撤廃の可能性にかけて、とりあえず前に進むことにしました。可能かどうかわからないけど、子供のころより思い描いていた「医者になる」という夢を実現するため、できるかぎりのサポートをすると心に決めました。

 ともすれば、悲観的になってしまう私たちでしたが、小さな小さな希望をいだき がんばることにしました。勉強方法は試行錯誤のうえ、聴覚にたよることにしました。家族で分担して教科書をテープに吹き込みました。専門用語、英語の発音などで戸惑うことはありましたが、なんとかこなしました。画像や心電図は五年生までの記憶をもとに、医師である父親が解説し、稔なりにイメージすることができたと思います。身近に医療従事者がいたことは、稔にとっては幸運であったと思います。

 六年生に進級してからは、いったい卒試や国試は、受けられるのだろうか?という不安をいだきつつも、学校への送り迎えやテープの録音などで、あわただしい毎日が続きました。ちょうどその頃、病院のソーシャルワーカーの方から、視覚障害者で初めて司法試験に合格されて、弁護士になられた竹下義樹先生をご紹介いただきました。それを始めに戸田先生、下川先生とご紹介いただき、人の輪のひろがりをありがたく思いました。私たち家族は、稔のことだけしか見えていませんでしたが、本人が医学の勉強を続け 医師になる希望を捨てずにこられたのは、これらの諸先生方や多くの視覚障害者の方の活動の賜物であることを知りました。

 八月の官報で、国試を受けるめどがたちましたが、なにぶん初めてのことで、受験方法などのすりあわせが大変でした。特に稔の場合は視覚のみでなく四肢の障害もあるので、こと細かく要望をだし 検討していただきました。厚労省の方のご親切には大変感謝しております。

 まわりの方のご協力のおかげで、卒試、国試は受けられることになりましたが、問題は学力です。初めての視覚障害者の受験生なので、本人もそのことを自覚してか、友人や家族に助けてもらい、よく勉強していたと思います。きっと、彼の人生の中で一番真剣に勉強に取り組んだ時期であったでしょう。漠然とした希望が少し形になってきたように感じました。

 あっという間に、卒試が終わり、国試を迎えました。二人三脚の生活を始めてから、私は、何事もシュミレーションしてから行動する癖がつきました。健常なときは気づきませんでしたが、世の中は大変障壁が多くて、エレベーター、スロープはもとよりトイレの位置まで事前確認が必要です。もちろん国試会場までの道のりはしっかり確認し、準備万端で臨みました。稔の受験は、稔個人のものであるとともに、いままで支えてきてくださった方々のものであると、認識しておりました。稔が受験中、控え室で主人と二人で待機しておりましたが、自分がかつて経験したどの試験より緊張しました。

 無事、国試も終わり、努力が報われて合格をいただくことができましたが、なかなか医師免許証を手にすることができず、精神神経科への入局は決まっておりましたが、落ち着かない日々がありました。結局、医師免許が発行されたのは、合格から四ヵ月後の八月のことでした。

 晴れて念願の医師になれた稔ですが、前途多難の状況に変わりはありません。精神神経科とはいえ、患者様の顔つきを観察することができず、カルテも読めないので、本人はかなり苦労していたようです。私は素人ですので、医局の方々にお任せするしかなく、微力ながら、専門書の音読で協力するのみでした。同期の医師はどんどん知識や技能を身につけて立派になっていくのに、思うようにいかず、ふたたび不安な日々を過ごしているようでした。それでも、少しずつ医師としてのキャリアを積んでそれなりの自信をつけていってくれているのではと信じております。

 駆け足で、発病から十年たらずの日々を綴らせていただきましたが、当時の看護ノートを読み返していると涙を禁じえません。平凡な五人家族の上に降りかかってきた思いもかけない困難。末っ子の稔が医学生になり、ひとり立ちまで後一歩。あとは夫と穏やかな老い支度と思っていた私には青天の霹靂でした。もう少し、稔が自立するまでは、呆けるわけにはいかないとがんばっております。

 目が見えないのも、肢体が不自由なのも個性。と思えるほどには いたりませんが、一時は命をも危ぶまれていた稔がこうして生かされ、このような場にたつことができたのは なにかの運命だと思います。当初、不可能と思えた医師免許を取得し、医師になる夢がかなえられたのは、ひとえにご尽力くださった方々のおかげと感謝しております。

 人と人とのつながりの大切さ、そしてそのパワーをいただいて ここまでくることができました。私たちの二人三脚はまだしばらく続くでしょう。しかし いつまでもというわけにはいきません。いずれ一人でやっていかなくてはならないであろう稔にとって「ゆいまーるの会」は大きな支えとなるでしょう。また、後に続くであろう医療に携わる視覚障害者にとってもよりどころとなることは間違いがありません。「ゆいまーるの会」の発展を心よりお祈りしております。

 最後になりましたが、お世話になった方々への感謝の意を表して、私のつたない話を締めくくりたいと思います。

 ありがとうございました。