【自分の原点に戻るということ】   【機関誌第5号】     Top


                         大 里 晃 弘(おおさと あきひろ)(茨 城)


 先日、久しぶりに京都を訪れた。会議で出かけるのは時々あるものの、観光で来たのは30年以上の月日が経っただろうか。
 まず驚いたのは、京都駅が変貌したことである。私の記憶は30歳の頃のものであり京都駅の形も2階建てのシンプルなもので、たしか、北口と南口をつなぐ自由通路がなかったような気もする(記憶違いがあったら、お許しいただきたい)。

 その頃の僕の旅行は、宿泊をユースホステル中心として、何日もかけて歩き回った。東山や宇多野のユースホステルを多く利用した。今でもそうした建物は残っているのだろうか?
 京都のユースホステルは、当時から外国人が多かった。そのほとんどは、今と違って、欧米から来た人が多く、飛び交う言語も、英語か、せいぜいフランス語、ドイツ語、スペイン語だった。たいていは英語が通じるので、彼等・彼女達と話をするのも京都に泊まる楽しみの一つではあった。

 当時、京都や奈良に、時間を作っては随分とかよったものである。なぜ、そうした行動をとったのか、当時はあまり意識していなかった。その時に考えていたのは、記憶を辿ってみれば、「日本人の原点とは何か」という問題である。
 「日本人の原点とは何か」、それを求めて、京都と奈良を何日も何日も歩き回った。視力が残っていたので、何種類ものガイドブックを買っては、それらを調べながら歩いた。また旅行から戻っては、京都や奈良の歴史の本を多く読んでは、自分の旅行の目的や意味を考え直し、そして次の旅行の目的地を練り直した。

 なぜ日本人の原点を求めていたのか。それは、自分自身の原点(=アイデンティティ)につながると感じていたからであろうと、今でこそ確信できるのだが、当時はそんなことは考えていなかった。
 ただ、中学や高校の授業で歴史はとても大好きだったし、高校時代の日本史の先生のデスクによく遊びに行っては「今、どんな本を読んでいるの?」などといった一般的なおしゃべりをしたり、また「さっきの授業の中で、日本人の起源として、水軍説のことを話していたけど、あれは誰の説なんですか?」などと、時間を見つけては社会科の教員室に出入りしたものだった。

 あの時の日本史の先生は、今 どうしているのだろうかと時々思い返すことはあるのだが、現時点で彼のことを確認できていない。ひょっとしたら、既に他界しているかもしれない。たぶん20歳前後の年齢差はあったからだ。

 今回、京都を訪れたのは、純粋な旅行ではなかった。僕自身の今年 一年間の目標の一つとして、仕事上の自己研修を充実させること、関連学会や研修会に可能な範囲内で参加すること、そして、そうした収穫を現場の仕事に反映すること。これが僕の目標である。

 ゆいまーるの会員にはお知らせしてあるが、現在の仕事の中心は、精神科医として認知症の患者さんを診察すること、また現在の職場で一年前に発足した認知症疾患医療センターの責任者として活動すること。これが、現在の僕の仕事であり、役割であり、大げさに言えば、僕の使命である。

 そうした気持で京都に出かけた。家族4人での移動である。一番下の娘は3歳半であり、一日中 街の中を歩き回る体力はまだない。それでも、みんなが行動できる可能性を考えながら計画を立てた。
 4月14日土曜日の朝、自宅を出発。7時41分発の湊線(みなとせん)に乗り、JR勝田(かつた)駅から特急「ひたち」に乗り、東京駅にて「のぞみ」10時12分発の電車に何とか間に合った。そして京都には12時半頃に到着した。

 僕の京都での計画の一つは、僕自身がまだ訪れたことのない名跡に行くこと。妻と話し合い、彼女も行ったことのない場所として、大原の『三千院』を選んだ。京都駅の観光案内所にて最も早く目的地に到着する方法を相談した。地下鉄烏丸線の最終駅である国際会議場駅まで行き、そこからタクシーで三千院に向かうことを勧められた。そのアドバイスに従って何とか目的地まで辿り着いた。

 しかし子供達は、そのまま歩くには疲れが見えていたので、近くのカフェに入り一休み。そこで甘い物を食した。僕自身は、抹茶善哉を頼んだ。手元に届いた物を食べてみて驚いた。そして、嬉しかった。それは、善哉の上に普通の抹茶をザブザブと振りかけたものだったから「京都に来たんだなあ」としみじみと感じた。子供達はソフトクリームを食して体力を取り戻したようだった。
 4人そろって三千院に入り、その中をゆっくり、ゆっくりと歩いた。時間の経過がとてもゆったりとしているのを実感した。

 三千院から京都市の中心に向かうために、いくつかのタクシー会社に電話をかけてみたが、何れも「すぐには行けない。1時間後に行けるという保障もできない」と言われた。
 三千院に来る時のタクシー運転手の言葉を思い返した。門前から10数分歩いた所にバス停とタクシー乗り場がある、と彼は我々に教えてくれていた。その言葉に従って、下り坂を4人で歩き始めた。天候は悪く、小雨が降ったり止んだりしていた。その道筋には、お土産屋さんが散在し、我々夫婦の関心と興味を誘った。なぜか、「紫花漬け(しばづけ)」という看板が多かった。

 幸いにも最後のタクシーに乗り込むことができた運転手から、その紫花漬けの由来を詳しく聞くことができた。その運転手は個人タクシーだったのだが、観光タクシーの仕事も多く、ガイドの知識が豊富だった。
 例えば、この地の大原では、あの歌謡曲でたまたま三千院が有名にはなったものの、本来であれば、寂光院が歴史的な意義が大きいこと、そこでは平清盛の娘であった建礼門院が後半生を送った寺院であることを教わった。
 その運転手と会話しながら目的地である国際会議場駅までの10数分間、僕の内部で大きく心が揺れ動くのを感じた。その動きが、この原稿を書くきっかけとなった。

 実を言うと、今回の京都旅行の本来の目的は、日本認知症予防学会の教育セミナーに参加することであった。職場でもその目的を説明し、職場からの出張を認められた。そのセミナーは翌日開かれ、それに参加し、最後に小テストを受験した。受験方法は、受付におられた学会役員と話し合い、妻に問題文を読んでもらいながら解答用紙への代筆記入も含めて、サポートを受けることになった。

 問題の内容は、「バラつきがあるなあ」というのが実感。認知症予防に関する一般的な質問に混り、現在開発中の薬剤やその開発研究の現状と課題についての問題も入っていた。小テストの前に行なわれた講習会の中で、そうした研究開発の現状について詳細なレポートがあったものの、僕自身はあまり理解できていなかった。結局、小テストの中のそれらの問題に正解できたとは思えなかった。
 それでも、このセミナーをなんとか終了し、一家4人で予定の新幹線に飛び乗り、21時過ぎには帰宅した。この時間帯に帰宅することを予測していたとはいえ、子供達には厳しい時間を過ごさせたと思う。

 今回の最大の収穫は、京都の歴史を実感できたこと、そのことによって自分の若い頃の気持を思い返すことができたこと、そして、当時の自分が求めていたアイデンティティが何であったかをおぼろげながらも感じることができたこと。
 この収穫を帰路の電車の中で、何度も繰り返し振り返っては実感できたこと。自分の気持の中で、仕事で蓄積したストレスが解放される感覚と同時に「やはり京都や奈良は、自分の残された人生の中でなるべく多く訪れたい」と考えたこと。これこそが、今まで30年あまりの間、求めていたものだったことを改めて確認した。

 別な言い方をすれば、これら求めていたものこそが、まるで音楽の通奏低音の如く自分の心の奥底で流れ続け、そして今回の旅行で、自分の心の表に現れてきたこと。自分のアイデンティティが何であるかを改めて確信できた。その意味で、出張を認めてくれた職場に感謝したい。