福 場 将 太(ふくば しょうた)(北 海 道)
浦島太郎の玉手箱しかり、鶴の恩返しの機織りしかり、神話や昔話には「見てはいけない」という禁忌が度々登場する。幸いにしてか不幸にしてか、視力障害者はその禁忌を犯す心配はないわけだが、「見てはいけない」の話で特に有名なのがギリシャ神話におけるオルフェウスの物語だろう。
オルフェウスは音楽の才に恵まれ、その歌声と琴の音色は人々だけでなく動物や植物に対してまでも癒しを与えるものであった。彼はエウリュディケという女性と出会い結婚するが、彼女は毒蛇に噛まれ若くして落命してしまう。絶望したオルフェウスは地の底の冥界に赴き死者の国の王ハデスに妻を返してほしいと懇願する。
最初王は難色を示したが、オルフェウスの必死の演奏に心を打たれエウリュディケを連れ帰ることに許しを出した。ただし条件として地上に着くまではけして妻を振り返ってはいけないと申し添えて。
かくしてオルフェウスは暗闇の長い道のりを地上に向かって歩き出し、エウリュディケもその後ろをついて行く。しかし振り返ることができないため本当に彼女がついて来てくれているのかオルフェウスにはわからない。やがて地上への出口が近付き明るくなってきた。その気の緩みと不安にかられてオルフェウスはつい後ろを振り返る。確かにそこには愛する妻がいたが、次の瞬間に彼女は冥界に引き戻され、もう二度と蘇りの機会は与えられなかった。
このギリシャ神話は、オルフェウスの想いや行動を通して人間というものの業や弱さを感じさせてくれる。しかし私は初めてこの物語を読んだ時、オルフェウスよりもエウリュディケの気持ちに興味を抱いた。何故だろう? それはきっと誘導してもらいながら暗闇の中を歩く姿が視力障害者と介助者の関係に重なったからだと思う。
毒蛇に噛まれ闇の世界に落とされた彼女は光を失った視力障害者の暗喩。もう健常者と同じ生活はできない彼女を夫は光の世界に連れ戻そうとする。王の出した条件は両者の信頼を確かめようとしたのではないか。エウリュディケは全幅の信頼を置いてオルフェウスの後ろをついて歩く。勝手に姿を消すなんてするはずがない。だってそれは相手を悲しませることだから。そしてついて行く以外に光の世界で生きる方法はないのだから。なのにオルフェウスは振り返ってしまう。彼女を心配してしまう。そして禁忌を犯してしまうのだ。
愛とは見つめ合うことではなく同じ方向を見つめること。それが信頼であり対等の証明。それができなかったからこの二人は引き離されたのかな…なんて、私は勝手な解釈でこの物語が気に入っている。
私もよく背中に手を添えさせてもらって歩いている。その時にいつも思う、とてもあたたかい背中だと。それがたとえ苦手な相手の背中でも、負けたくないライバルの背中でも、どこの誰かも知らない通りすがりの人の背中でも、たくさんの人を泣かせている悪党の背中でも、私にとってその背中は全てを預けられるほどあたたかい。
だから思う、振り返らなくていいと。私のために足を止めなくていいと。障害物にぶつからないように、あなたはあなたのスピードで、自分のために気をつけて歩いてくれればいいと。私は間違いなく後ろをついて行くのだから。
暗闇の中で自分の前を歩くあたたかい背中を感じながら、エウリュディケは何を考えていたのだろう。そしてオルフェウスが自分を振り返った時、どんな気持ちになったのだろう。心配してもらえる嬉しさ、そしてもう対等ではないのだという悲しさ。でもけして彼女は不幸ではない。
添えさせてもらった手に感じるぬくもり。あなたが誰であっても、例えどんな気持ちであっても、その背中は間違いなくあたたかい。あたたかい背中に私はついて行ける。
だって視力障害者はそれだけの理屈で人を信じられるのだから。